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努力についてしつこく考察――あの人だって努力してるんだ、という謎の安心感

先日、私は「努力」というものにとらわれているのかも……と思うきっかけになった出来事があり、しつこく努力のことを考えつづけています。

その過程で、実のところ自分は怖いから努力にこだわっているのかもしれないと思い当たりました。
何が怖いのか?
「自分にその力がないこと」「自分は特別な人間でもなんでもないこと」をはっきり認めることがです。

身近でも、「この人すごいな」という人を見ると、自分はなんて能無しなんだろうとか、なんてダメなんだと落ち込みます。けれど彼らが実は訓練したり準備したり試行錯誤したりしていることを知ると、「あの人も〝努力〟してるんだ」と思って、安心するのです。

なぜか?
「そもそもが自分とは違うんだ」「あんな風にできっこない」=「自分にはあんな力はない」という思いが薄まるからだと思います。
自分も「努力」さえすればあんな風になれるのだ、あの人たちも「できなかったとき」はあるのだ、と思えるから。

でも問題は、安心したあとで、じゃあ自分も同じように努力するのか、ということですよね。安心して終わっている自分、ダサい。
MBさんがVoicyで以前「本当にすごい人は死ぬほどそれをやっているからすごくなっているだけだ」と言っていましたが、まさにそのとおり。

死ぬほどやることは「努力」とも言えるけど、人によってはそれが「好きなだけ」「面白いだけ」かもしれない。
このことは前回書いたことにつながるから、もう一回しつこく考えてみようと思います。







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