見出し画像

努力とか、考えたことのない人のほうが努力している

私は「努力」が好きである。
「努力」は美しくて、貴くて、大切で、人にとって必要なものだと思っている。自分もそれなりの「努力」をして50年ほど生きてきたつもりでいる。

だから自分以外の人もついそういう目で見てしまう。
イチロー選手だって大谷選手だってこんなに努力しているという話を聞けば「ほらやっぱり」「どんな天才も努力はしているんだ」と満足する。
あまり努力が好きでなさそうな夫や息子を見ると、「なんでもっと努力して成長しようとしないのか!?」とモヤモヤする。

私の場合、自分が嫌になる時はたいてい「努力していない自分」が嫌になる時だ。うまくいかないことがあるのに解決するために一生懸命やってないとか、何かで成長したいのにそのために必死に頑張っていないとか、そういう時。

好きなことならつらくないから、努力だとも思わない――
そういう言葉はよく聞くし、そうだろうなと頭ではわかるけれど、やはり心の底では努力=苦しいもの、我慢してやり抜くものと思っている。
でも最近、自分は「努力」という言葉にとらわれているのかも……と感じる出来事があった。

息子はMLBが好きで、熱心に観ている。もともと日本のプロ野球が好きだったが、この3年程で完全に興味がMLBへ移った。大好きだから色々と詳しく、複雑な移籍のルールやらFAの権利やらマイナーリーグの決まりやらも結構わかりやすく説明してくれる。
あるとき「よくゼロからそんなに詳しくなったね」と言ったら、わかりやすい動画解説をしてくれている人がいて、それを見て理解したのだと言う。
しかも「あの人の動画、全部3回ずつくらい見たもん」……

え~ だって動画は数百本とかあるんですよ!
私にとってそれは完全に「努力」である。知りたいこと、覚えたいこと、理解したいことのためにコツコツと何度も動画を見る……まさに努力の王道。成長のためのステップ。美しく貴い行為。

けれども息子にとっては努力でもなんでもない。知りたいから見ただけ。覚えたいから繰り返しただけ。努力だなんて思ったこともないだろう。
私が自分の思う「努力」という言葉にとらわれているだけだ。

「好き」や「面白い」が理由で、私には努力に見える行為をしている人はいっぱいいる。
そう思うとなんだか面白い。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?