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映画『トラペジウム』に思うこと 走り書き(続)

 映画に限らず何かしらのコンテンツを接種する姿勢だが、大雑把に、
・「私が観たいものを観せてくれ」
・「送り手の観せたいものが観たい」
とがあって、どちら寄りで接種するかでそりゃ評価は変わってくる。

 映画『トラペジウム』に、“歌を届ける、ダンスで魅せる”王道アイドル映画を、或いはギスギスのさらなる闇と修羅場増量で行き着く顛末までもを期待した層的には、肩透かしだったり不満の残る内容だったとの感想も少なからず拝見する。

 それらのなかで私個人が特に見解を異にする要素である、
・デビューステージシーンへの不満、不要論
・エピローグへの不満、不要論
・爺さん二人の声優への不満
について自論を述べたい。


<デビューステージのダンスシーン>


 トラペジウムのお披露目LIVEは、大切な見せ場だと思う。
 これまでのアイドル作品のフォーマットに則ったキレッキレで観応えのある歌唱&ダンスレビューを期待した層的には物足りないレベルだそうでこんなのなら要らないって感想を幾つも見かけるけど、例えば自分が思ったのは、ガールズバンドクライ第3話のステージでの仁菜の立ち振る舞いの堂の入り方がまず素人のそれではない、けれどそこは視聴者に楽しんでもらうための割り切った演出なのだと感じた。
 けどトラペジウムはそのスタイルにはせず、ダンスのキレや完成度などは本番舞台を重ねていく中で磨かれていくものであって、東西南北(仮)なら初披露時にキレッキレだと却って違和感あるだろうし、拙くて当然なのを畳み掛けるカット割りで映えさせて魅せるカメラワーク描写も込みだと解釈した。

 また、物語が東ゆうの奮闘にフォーカスしていくなかで、足掻き続けて伸ばした手がいっ時とはいえやっと届き夢が叶った、サチとの約束を果たした象徴であるところの、「なりたいじぶん」デビューステージシーンは映像作品ならばこその必要な魅せ場だろう。
 くるみちゃんにしてもここに至るまでにも葛藤はあっただろうけどそれでもこの時は楽しもうと臨んだ様子が伺えるシーンで、トラペジウムという物語の解像度が上がるほどに、アイドルグループ東西南北(仮)のこのシーンの拙さが故も相まってのかけがえのない煌きも、儚さも切なさも増して。


<エピローグ>

 アイドルとして大成した東さんのインタビュー以降のシーンは要らない、おかしい、見たくない、高台の4人で方位自身を歌うシーンで終劇が良かった、いやあそこで和解にまで至るのがおかしいよ!?等々との感想も多く見受けられるけど、人のそれぞれのそれらの感想を否定はしないし、私個人の感想が正しいなどと押し付ける気もない。

 観た人それぞれのリアリティの違いというものも本当に様々なのだと気付かされる。だけど、リアリティの有無の話で言うなら、一線級の現役アイドルグループで選抜メンバー当事者だった原作者御自身にホンマものの実話・実体験の多大な蓄積があることは疑うまでもなくて。
 トントン拍子でそんな事あるもんかとの否定も多い都合良すぎの抜擢&アイドル化にしても、和解&エピローグでの8年後の関係も、舐めんとんか?◯すぞ!?とまで言い切る人も居る合作作詞にしても、そんなん信じられるかという人は多いけれども実際現実の事例に基づいてるかもなリアリティを自分としては感じている。人によっては到底信じられないかもしれないけど、つらい思いはすることになったけどそもそも恨んでまではいないというリアルもあるんですよ。

 観客や読者がそこまでは目を向けたいとは思わない、現実にはあるであろうさらに踏み込んだものまで(業界の闇、水着仕事、ファントラブル等)は描かない演出の一貫した姿勢は、トラペジウムという作品自体が、エピローグのインタビューのゆうにも通ずる偶像に徹することを弁えたプロのアイドルとしての矜持に立脚してると感じている。それが故にこの作品は誰か特定の一観客が望む展開のオーダメイド的物語ではないのだろう。このエピローグのようなこういう関係性だってあるのだということを淡々と示して肯定しているように思う。


<爺さん二人の声優>

 爺さん二人の声があのお二人でも、婆さん達に変更せず爺さんのままでも、話の本筋に影響するキャラではないので私は特には気にならず、愛嬌のうちだと思ってる。これくらいの乃木坂ファンサービスは自分は有り派。
 容認できないノイズだと感じられてる声もよく見かけて、気になってしまうものは仕方がないとも思うものの、この作品に他にもノイズ的要素は有って(アルバム何故持ってる?、右手で箸持つ東っち?など)それらが気になるという人も居れば、気付いてても気にしないという人も。なので爺さん二人の声の違和感がノイズ級なのは観た人全員の総意という推察には全く同意しない。
 白か黒かアリかナシかの決着を付けようという気は全くなく、ただ、否定意見100%ではねぇよってことをあらためてはっきりと表明しておきたい。


 トラペジウムを観て、東さんや話そのものに嫌悪感しか感じられなかったという10代20代の方、“10年後”に改めて勝負というかまた鑑賞してみてほしい。感想が変わらなかったらあなたの勝ち。(それは負けなのかもしれないけど、どう捉えるかはその時の御自身で決めていい。)


追記
<南さん呼び>

 映画での「南さん」呼び。東さんが華鳥さんのことをついそう呼んでしまったときに経緯を説明して、それを聞いた華鳥さん自身が、初めて渾名をつけてもらったと喜んで本人が容認したからなので、流石に湯婆婆ムーブとはあきらかに違うでしょ。

<“東西南北”を揃える必然性の有無?>

 古賀さんが「東西南北っていうキャッチーさが必要なんや。」って言ってる。何かしらの“キャッチーさ”が必要なんであって、東さんが思いついたのがそれなだけで、必ずしも東西南北でなければならないわけではない。だけどもその東西南北というフックを揃えたことが夢実現を手繰り寄せた。

<他作品との差異>

 ガールズバンドクライ、夜のクラゲは泳げないと、トラペジウムとは一線を画してると思う。バンドとアイドル、手段と目的との違いも大きいが、

ガルクラ、夜クラは、
・主人公の意思で始めたことではなく誘われて巻き込まれる
・先達である導き手が居る(桃香/花音)
・志しを同じくする仲間がいる
・ライバルが居る(ダイヤモンドダスト/サンフラワードールズ)
・目指すスタイル、やりたいことがある

トラペジウムにはなく、話の構造的にも違う。

 また、よく比較される少女☆歌劇 レヴュースタァライトだが、これとガルクラにしても、仲間や同期皆が当人自らが望んで自分の意思でその目標を自覚して目指して行動している。主人公に巻き込まれてつき合ってくれてるわけではない。

 自分としてはこれらは明らかな大きな差異だと捉えていて、これら作品を同じとするカテゴライズには多少見解を異にする。

 



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