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先生と私、私と弟子

(※今回より、「版元ドットコム」にあるものについては、書影も掲載することにしました。本のイメージがもっと伝わりますように)

3月から、4月へ。

ちょうどあちこちから桜の便りが届いているこの時期は(東京は満開です)、卒業、そして入学のとき。またそうではなくても、進級にクラス替え等と、学校生活の環境が大きく変わるときですね。

学校という場においては、友人関係ももちろんですが、特に「先生」という存在がもたらす影響には非常に大きなものがあります。皆さんも、各段階の学校、学年において、それぞれに(良きにつけ、悪しきにつけ)印象に残る先生がいた、あるいは先生にまつわる印象に残るエピソードがあるのではないでしょうか。

そこで今回は、「先生と生徒」「師と弟子」というテーマで、いくつかの本を取り上げてみたいと思います。

まずは、夏目漱石『こゝろ』

それこそ、国語の授業で読んだという方も少なくないのではないでしょうか(私もその一人です)。「私」と、海水浴場にて偶然知り合った「先生」との交流が始まり、先生の家を訪れるようになって、さまざまな会話を交わす。どうにも謎めいたところのある先生の過去は、父親の病気による私の帰省の顛末を挟んで、先生からの遺書というかたちで明かされていきます。

「私はその人を常に先生と呼んでいた。」という一文から始まるように、「先生」と「私」の交流がこの物語のいちばん大きな軸なのですが、でもこの「先生」、特に教職員でもなければ、私塾などで何かを教えているわけでもない。おそらく本人も「私」を生徒、弟子とした意識はなかったでしょう。ただ「私はその人を常に先生と呼んでいた」のです。自分のうちだけの意識、あるいは「先生」と「私」の二人だけの間のことならば、まぁあり得ることかもしれない、とも思うのですが、「私」は、実家の家族にも「先生」のことを「先生」と紹介する。だから、家族は「どんな立派な先生なのか」と思い、卒業後の進路の紹介などにも期待を寄せる。この様子はなかなかおもしろいです。

実際に、「先生」と「私」は、どのように「先生と私」だったのだろうかと考えると、改めて不思議な関係ではあります。この作品では、人間の利己的な側面と倫理的な側面、そして他者および自分に対する「信」といったことが主題として、登場人物の言葉や心情を通して描かれています。でも全体としては「モノローグ」が中心です(第3部「先生の遺書」は、それこそ遺書として「私」に託されたもので、そもそも相互的な対話が成立しません)。「私」が宣言することで始まった二人の師弟関係の中にあるものについて、改めて読み直しながら考えてみたいものです。

夏目漱石自身にも、彼を慕う若い弟子たちが集いました(本人はいわゆる師弟関係ということは考えていなかったそうですが)。「木曜会」と呼ばれる集まりには、小宮豊隆や鈴木三重吉、内田百間、和辻哲郎、芥川龍之介等々、文学・文芸に携わる錚々たるメンバーが参加していました。

その一人、物理学者の寺田寅彦は、「我輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八のモデルと言われています。寺田寅彦のエッセイ集『科学と科学者のはなし』には、師としての漱石の思い出について綴った「夏目漱石先生の追憶」という文章が収められています。大学での授業の様子や、普段のファッションのことなど、作品の雰囲気とはまた一味違った、一人の人物としての漱石の姿が伺えます。

その寺田寅彦の文章、また彼の弟子であり、「雪は天から送られた手紙である」という文で知られる中谷宇吉郎の文章は、いずれも平凡社の「スタンダードブックス」シリーズで味わうことができます。

さて、師弟関係を描いた作品として思い浮かんだのは、中島敦「弟子」(以下、いずれも『李陵・山月記』所収)。

儒教の始祖・孔子とその愛すべき弟子・子路との遣り取りを描いた作品です。主に視点は弟子である子路の側にありつつ、三人称の語りによって巧みに立場の異なる視点を織り交ぜながら、師と弟子の交わりが語られます。

子路にとって、師・孔子とは、その思想や政治哲学を修めて自らを高めるための先達ではなく、その存在そのものが帰依すべき対象です。彼の人生の目的は、師の存在をこの混迷の世から全力で守ることだけに集約され、真に純粋な師への傾倒が伺われます。時に矛盾を感じ、その内面の理路が描写されつつも、「信じる」ことは揺らがない。孔子もまた、この不器用ながら実直な弟子を心から愛しています。末尾、子路の訃報に接した孔子の対応は非常に心に染みます。

中島敦の作品には、ほかにも師弟関係を描いたものがあります。その名も「名人伝」は、天下一の弓の名人になろうという野望を抱いた紀昌が、二人の師の下で修行を積み、やがて……技を極めるとはいったいどういうことなのか、を改めて考える物語です。

また、「西遊記」の主要登場人物ながら最も影が薄い(と言ってよいでしょう)、沙悟浄を主人公とした「悟浄出世」「悟浄歎異」の2つの短編も(特に前者は)、「師事」、教えを仰ぐことが作品のひとつの軸となっています。妖怪世界の他の者たちとは異なり、「我とは何か」という哲学的問いを抱えてしまった沙悟浄が、独自の見識を持つとされる高明な妖怪たちの下を訪ね歩きます。さながら古代ギリシャの哲学のように多様な思想が語られるものの、悟浄の心を納得させてくれるような論理は得られない。一方、予言のとおりにやってきた玄奘三蔵の一行たちは、彼ら自身は何も言語化しないけれど(そもそも自ら認識していない)、その存在・振る舞い自体が、その実存的な哲学を雄弁に語ります。悟浄の目を通して、教えを仰ぐ、学ぶということについて興味深い考察ができます。

師弟関係と親子関係、さらに男女の間での、いずれも非常に純粋な愛を描いた、倉田百三『出家とその弟子』。親鸞とその息子・善鸞、そして弟子の唯円の関係が物語の核となる枠組み。そして明らかに描かれる唯円とかえでの恋愛に加えて、善鸞の、また師の親鸞についても、その人生に大きな葛藤をもたらす恋愛の経験があったことが示唆されます。信頼、信仰、倫理、寛容、そして恋愛をめぐるいくつもの葛藤。浄土真宗の聖典の一つ「歎異抄」を土台としながら、どこかキリスト教的な信仰や愛の観念が感じられるユニークな作品です。ただ、迷える弟子に師が伝える教えは、超越的な仏の真理、普遍的な愛や救いに基づくものであり、師と弟子の対話は感動的ながらもやや淡白でしょうか。それよりも、やはりクライマックスの信仰を巡る父と子のやりとりにはヒリヒリするような緊張感がありますね。

先生と生徒に、男女の関係という軸を織り交ぜると……川上弘美『センセイの鞄』

実質的には「かつて先生と生徒だった、ある二人の物語」なわけですが、センセイの口からは折々に学校で教えていた古文や漢文などの文句が飛び出てきて、身についた先生らしさがいつも滲み出ています。また、「時間は誰にとっても同じように経過するわけではない」ということがこの作品のひとつの鍵概念になっていますが、20年以上経ったとしても、今なお、二人は「先生と生徒」であるのと同時に、恋愛を巡ってフラリフラリとする「いい大人どうし」でもあるのではないかと思います。一人の人のなかに、それは両方存在し得るものでしょう。

ちょっと話題を変えまして。「魔法使いの弟子」というモチーフをご存知でしょうか? 強大な魔法の力を操る魔法使いの下に弟子入りした見習いの若者が、魔法使いが出かけた隙に、こっそり秘密の魔法の書をのぞいて魔法をかけてみる。うまくいって、(一例として)水などがどんどん湧いてくるけれど、さて困った、止め方がわからない。止めどなく溢れる水は、魔法使いの家から、村から、すべてを飲み込んでいく……

このような未熟な弟子の失敗譚は、世界中の民話・昔話のなかに繰り返し現れる典型的なモチーフです。そして、これを題材とした作品もこれまでに数多く生み出されてきました。有名なところでは、ディズニーの映画「ファンタジア」にも、このモチーフが登場します。師の魔法使いが不在の間に、掃除を楽をしてこなそうとしたミッキーですが……


アーシュラ・K・ル=グウィン「ゲド戦記」第一作、『影との戦い』で、主人公ゲドは、若さゆえの自らの才能への過信のため、師・オジオンの忠告を聞くことができずに、災いを招いてしまいます。これもある意味で、伝統的な「魔法使いと弟子」モチーフの一つの現れと言えるのではないでしょうか。「ゲド戦記」シリーズでは、オジオンとゲドだけでなく、大賢人となったゲドとアレンなど、ほかにも師弟の関係の物語が見られます。

興味深いのは、特に物語の時代・世代が進むほどに、「師は先達、弟子は導かれるもの」という単純な、一方的な関係ばかりではないと感じられることです。師も時には不完全であり、また衰えいくものでもあり、若き者や弱いとされていた者に導かれることがある。このあたりはル=グウィンのメッセージが強く感じられる部分でもありますが、師弟関係とは何か、ということを考えるうえでも非常に示唆するものが多いと思います。

年季奉公やギルド的な親方ー弟子の関係という、同じくヨーロッパ社会における伝統的な制度・慣習を土台にして、仄暗い独特の世界観を描いた魔法物語が、オトフリート・プロイスラー『クラバート』です。ドイツ・チェコ・ポーランドの境にあるラウジッツ地方に伝わる伝承を下敷きとして、暦とともに毎年同じように回る円環的時間と、若者が内面的に成長を遂げる直線的な時間の両方からなる、どこか秘教のイニシエーションのような不思議な魅力をもった物語です。親方は、主人公を含む若者の自由な生を阻む存在であり、最終的に越える・克服すべき相手であるため、師弟関係の深さという面では、やや印象は弱いかもしれません。

そして最後に取り上げるのは、四方田犬彦『先生とわたし』。今回のテーマを考えるにあたって、最初に思い浮かんだのが、冒頭の『こゝろ』、そしてこの作品でした。

幻想文学やロマン主義文学の世界において、仏文の澁澤龍彦、独文の種村季弘と並び称されるべき、英文学研究者・由良君美。著者は大学進学以来、縁あって由良のゼミに参加することになり、以後、非常に濃密で、非常に幸福な師弟関係を築くことになります。本書は、著者が経験した1970年代中頃の東大教養学部および当時の幻想文学・ロマン主義文学の研究や出版活動の活況の記録であり、孤高の文学者・由良君美の評伝という多様な顔を持っています。さらに「師弟関係とは何か」について、由良君美と著者の関係、そして著者がいわゆる「師」側の立場になって改めて感じたこと、さらにジョージ・スタイナー『師の教え』と山折哲雄『教えること、裏切られること』という2つの本の考察から、このテーマについて思索を重ねていったものです。

「先生と生徒」「師と弟子」、その関係の間には、根底に深い深い愛がある。愛があるゆえに、どうにもならない歪みもまた生じる。先に紹介した作品のなかにも、その機微を感じられるものが少なくありませんが、この『先生とわたし』は、まさにその点にこそ主題がある作品だと言えるでしょう。同じ一人の人(著者)が、仰ぎ見る師との間に生じた本意ならぬ綻びの理由を、自らが教える立場になることで初めて、また師弟関係について丹念に考察した著作の読解を通じて、ようやく手繰り寄せるに至る。師弟関係の機微を考えようとするうえで、この本は実に多くの示唆を与えてくれる一冊だと思います。

心の通い合う幸福なものから、愛があるのに、いや愛があるゆえに複雑にならざるを得ないものまで……さまざまなタイプの師弟関係の機微を扱う本を取り上げてみました。誰もが当たり前のように過ごす学校という時間・空間のなかで、何気なく経験し、何気なく通りすぎていくことも少なくないと思いますが、「師弟関係って、そもそもどんなものなのだろう」という問いを、本を読むことを通じて改めて考えてみませんか?


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