わたしが「こ」になった日


「ウーイィ!(もう!)」

職場のとなりの席で、ピーキアオが眉根にしわを寄せ、パソコンの画面と にらめっこしていました(タイでは年上を呼ぶときに「ピ(ー)」をつけるので、彼女のニックネームはキアオ)。

「ピーキアオ、どうしたの? 大丈夫?」
「タムイークレオラ!(またやっちゃったの!)どうしよう〜!」
ピーキアオの前の席に座っていた、一番年上のピエー(年上を表す「ピ」。彼女のニックネームは「エー」)がパソコンから顔を上げて、ふふふと笑いました。

「キアオ、ヤーキッナックナ(深刻にならないの)! さぁもうすぐお昼だし、みんなでごはんに行きましょう!」

ピーキアオは立ち上がり、
「賛成! また後で考える!」

こういう、長く気に留めずにとりあえず「ギンカーオ(ごはんを食べる)」というのが、タイ人の素敵だなと思うところ。笑

そのころ、わたしが働いていたのはバンコクの都心にある大学の構内。わたしたちはオフィスから一番近い学生食堂へ向かいました。外へ出ると、一気に熱気につつまれ、すごく気持ちがいい。大学内だけでなくショッピングモールも地下鉄も、タイでは室内はどこも「極寒」なのです。

なぜならエアコンは温度調節がなく、「ON と OFF のボタンだけ」だから。つまり、一度 ON にすると、ずっと冷気がゴウゴウと出っ放しなのです。

とにかくオフィスも寒くて寒くて、わたしは常夏タイでウールの上着を着て(!)仕事をしていました。

暖かい陽気のなか、わたしたちはそれぞれ食べ物を注文し、元気な学生たちの間を通り抜けて、ベンチに座りました。そのとき、男子学生がひとり、わたしたちの近くを通りかかりました。

「ピエー! サワッディクラップ!(エーさん、こんにちは)」
ピエーにワーイ(「尊敬」を示す、手を合わせる格好)をしながら、その学生は元気に挨拶をしました。

「ヌン! 元気にしていた?」
ピエーは立ち上がり、楽しそうに答えます。

「みんな、わたしの親戚のヌンだよ」
ピエーはわたしたちに その男子学生を紹介しました。

「ヌンは、一番目に生まれたからニックネームがヌン(タイ語で「1」)になったの! ヌンの弟はソン(タイ語で「2」)、一番下の弟がサーム(タイ語で「3」)。ふふふ、覚えやすいでしょ?」

頭にぱっと浮かぶ「一郎、二郎、三郎」! 国が違ってもそういうところは似ていて、なんだか親しみを覚えます。ただ、違うのは「一郎、二郎、三郎」は本名だけど、「ヌン、ソン、サーム」はニックネームだということ。

タイ人はニックネームで呼び合うので、ヌン君にも「ヌン」というニックネームの他に、「本名」を持っています。ピエーもピーキアオも同じ。「エー」や「キアオ」はニックネームで、本名は全然違います。例えばピーキアオの本名は「チョンティチャー」。

普段はニックネームしか使わないから、ニックネームは知っているけど本名は知らない(または覚えていない)というのもタイではよくあること。

そういえば、ピエーとピーキアオは、どういう意味なんだろう? ヌン君がきっかけになり、話題がニックネームの話になりました。

(ピエー)「わたしのニックネーム?『エー』はね、わたしが赤ちゃんの時にエーエー泣いてたからだよ」

えっ? そんなに簡単な理由なの…?!?! 

かなりのカルチャーショック。さらにピーキアオに至っては、

(ピーキアオ)「キアオはみんな知ってのとおり、緑色って意味だよ。わたしが生まれたとき、未熟児で体の色が緑色だったの。だからキアオになった」

ええー!! そんなニックネームの付け方でいいの?!?! ご両親、かなり適当すぎない??? ものすごい衝撃。

ピーキアオは続けて、
「わたしの友だちに『オイル』っていうニックネームの子がいるの。彼女が生まれたとき、お父さんがガソリンスタンドのビジネスを始めたの。それで『オイル』になったって」

もう言葉も出ないくらい衝撃…。

その他、タイ人ニックネームは身体的な特徴を表現するものも多くて、よくよく考えると日本では「悪口」と言われてもおかしくないものもあります。

例えば、「ウアン(デブ)」、「ダム(黒)」、「ノイ(ちび)」など。

知り合いにもこのニックネームの人たちが何人かいますが、「ウアン」のみんなは確かにちょっとぽっちゃり。「ダム」のみんなは確かに肌が黒っぽい色。

でも、全然嫌味がないのです。そこには特に否定的な感情というか、イメージがほとんどない。

なんというか、とても「普通の」響きなのです。

タイの学校には、いじめがほとんどないそうです。わたしはこのニックネームの付け方にも理由があるんじゃないかな、と感じています。タイではその子の特徴を個性として、堂々とニックネームにして呼び合うのです。

だから、「ウアン(デブ)」でも「キアオ(未熟児色)」でも全然嫌味がない。なんせ、両親が生まれたときから愛情を込めてそう呼んでいるから。「見た目」は事実としてそこにあり、それはそれでいい。

そして、それを聞きながらその子も、その子の周りの子どもたちも育っていくから。

そこにはゆるぎない肯定感というか、そのひとをそのまま受け入れるような感じがある気がします。

ヌン(1)、ソン(2)、サーム(3)、キアオ(未熟児色)、エー(エーエー泣く子)、オー(オーオー泣く子)、ジャップ(ひよこちゃん)、ダム(肌黒い)、ビア(ビール:「英語」をつける親も多いらしく、英語にすると、その意味はともかくちょっとかっこいいイメージらしい)、ウアン(デブ)、ゴルフ(ゴルフ:お金持ちのイメージらしい)、クン(えび)、プウ(カニ)、ゲオ(ガラス)、プロイ(宝石)、イン(女らしい)、オーゲン(オルガン)、デン(赤い)、いっきゅう(日本のアニメ『一休さん』が流行り、そこからとった名前)、などなど。

ユニークで親しみやすいタイのニックネームの数々。

そして、英語でパートナーを「honey (ハニー: はちみつ)」や「pumpkin (パンプキン: かぼちゃ)」と呼ぶように、タイではパートナー(特に相手女性に対して)を「ムー(ぶた)」をよびます(ニックネームで「ムー」もあります)。日本語で「ぶた」だとちょっとマイナスのイメージもあるかもしれませんが、タイだと「とっても可愛い子ちゃん」という感じです。

そして、親や年上(たとえば学校の先生や先輩なども)の立場のひとが、子どもや年下、後輩に対して親しみを込めて呼ぶ場合、「ヌー(ねずみ)」とよびます。英語の「sweetheart (スイートハート)」に似ているかもしれませんが、「ねずみ」をもってくるあたり、やっぱりタイは面白いなぁと感じます。私も先生や先輩から「ヌー」と呼ばれると、家族の一員になったような愛情を感じました。

ちなみに、タイ人が一番胸がキュンとときめく日本語は、
「キク、アノネ」
意味がよくわからない(笑)。でも「音」がすごく可愛いそうです。

そして、ある日のこと。私の本名は「○○子」なのですが、タイ人にとっては「長すぎる!」名前らしく、とうとう「こ」と呼ばれるようになりました。笑

「こ」って…、名前のなかでも一番意味がない部分なんですけど...... まぁ、いっか。笑

「こ」は呼びやすくて、音の響きもいいそうです。ニックネームになるには、呼びやすさや耳障りの「音」の良さもあるのかもしれません。

「ニックネーム」はタイ語では「チューレン」というのですが、日本語に直訳すると「遊びの名前」という意味。「チューレン」は「適当」な「遊び名」ですが、タイ人の本名は本気です。これについてはまた、次の機会に書いてみたいなと思います。


ハイビスカス

東北に住んでいたころ アパートのちいさなベランダで育てていたハイビスカス。常夏タイがなつかしくなって、お花屋さんで衝動買いしたお花でした。





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