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おおきな「なにか」といつもそこにあるもの

それは11月の満月の翌朝のこと。

森を毎朝歩くようになって、半年が過ぎたころでした。

山吹色の朝日が雲を桃色に染め、原生林へ向かう小道は薄紅色のベールに覆われていました。私はその美しい薄紅色の純粋な空気のなかを、一歩一歩、かみしめながら歩いていました。

地面は色づいた葉っぱたちで埋め尽くされ、それらはひとつひとつ、色合いも形も異なっています。森の小道はふかふかで、歩くたびに新鮮な土のにおいが立ち上りました。上も下も右も左も、見渡す限りすべてが神々しい美しさのなかにありました。

原生林のなかへ入ると、ちょうど山吹色の朝日が後を追うように差し込んできました。

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まばゆい光は少しずつ移動し、やがて私のところにもやってきました。

それはたった2、3分のことでしたが、私はその山吹色のまばゆい光のなかに立ちました。その光は全身すっぽりわたしを覆い、わたしのとても深いところまで、ぎゅっとやさしく抱きしめていくようでした。過去も未来も考えられない。あるのはただ、この光のなかにいるという実感だけ。その美しさと純粋さに、すべての細胞は静かに震え、山吹色の光は私の隅々まで染み渡っていきました。

被災地で働いていたころ、たくさん耳にした言葉があります。
「神も仏もない」
「神さまなんかいない」
そのころ、私もよくわからなくなっていました。
ぐちゃぐちゃの家、見渡す限りのがれきの山、ことばにならない悼みの渦、何も前途に光が見出せない......
もともと何かの宗教を信じているわけではありませんし、こんなにひどいことが起こるのなら、神さまなんていないのかもしれない......と。

でもこの美しい秋の朝、山吹色の光のなかで確信したのです。何かとても宙きな(おおきな)存在、「愛」や「神」と表現されるものが、確かに在るということを。そして私はそれが在るということを信じずにはいられないと。

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その帰り道のことです。私は山吹色の光のなかにいた感動の余韻とともに、森の小道を下っていました。何かとてもおおきな存在、「愛」や「神」とよばれるものへの感謝に溢れ、その存在をとても近くに感じていました。
何かしたい、何か善きことをせずにはいられない。
そんなきもちであふれていました。
そして私は、唐突に!心のなかでこう叫んでいました。
「あぁかみさま! もしかみさまがいるのなら、どうぞわたしのこの身体をお使いください!」

そんな願いがほとばしった直後に、わかったのです。わかった、というより応え(こたえ)が自分のなかに置かれたのです。

「かみさま」という存在は、何か苦しみに耐えたり、歯を食いしばりながら何かに尽くすことを求めてなんかいない、ということ。

「かみさま」が私の身体を通して宇宙のために動くときは、それは私自身が純粋に、心から歓びを感じ、夢中になることを通して働かれる、ということを。

そしていろんなきもちがこみあげ、ひとしきり涙を流した後、わたしは自分が可笑しくなって、泣き笑いしながら森の小道をくだりました。なんだかとても嬉しくて、そしてとても心地よかったのだとおもいます。

「何かとてもおおきな存在」はきっと、朝の光のなかにもいつもいるのでしょう。日の出とともに毎日、私たちみんなを抱きしめてくれているのでしょう。だから私たちの多くは、おひさまに惹かれるのではないでしょうか。ふとした折に空を見上げたり、新しい1年の始まりを初日の出とともに迎えるように。

いつもそれは そこにある。
毎日毎日 そこにある。
わたしはいつも ひとりじゃない。

ひかり






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