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反対されてもやりたいことをやるのが大切。もはや、半分意地でもいい。

研究を進めるにあたって通過儀礼がある。
もはや定型文だ。
「あなたの研究の意義は何ですか?」
私の研究を進めることで、何か貢献がなければ、意義が見出せない。
堂々と言えないと認められない。

(いやあ、どうかなあ、自信ないや。)
(聞いた皆さんが、それぞれ、意義を見出してよね〜)

心の中でそう思うけど、それを言ったらおしまいだ。

医療研究だったら、意義は、わかるなあ。
病気の治療とか、生存率を高めるとか。

でも、教育研究は違う。
千差万別な状態の千差万別な事例を取り扱って、
「再現可能だ!」なんて言い切ることも難しい。
場合分け無限の世界に、様々な思想が宇宙のように広がってみえてしまう。
色々なことを知りたい。
でも、それってただの「勉強好き」であって、
研究していることにはならない。

「いつ?」「どうやったらその世界がみえる?」
今はまだ、霧のかかった中を進むしかない。

そこで、自分がすがるものといえば、「やりたいこと」なのだ。
理屈ではなく「したいこと」なのだ。

「それをしたくてたまらないから!」
「そのことが、とにかく気になるから!」
「自分の分からないことが知りたいから!」
これを「意義」という大義名分で覆うのは、
もはやテクニックの領域な気がする。(斜めすぎ?)

もしくは、「この研究は人類・日本人・「ある人々」にとって有益だ!」
と自分で自分に言い聞かせる。信じ込む。

だから、周囲から「何それ?」
「意味あんの?」
「独自性ないじゃん」
と言われても進めるしかない。

言われてもなお、やりたいなら、意味づけを自分で探せばいい。

って、なったら、結局、
自分の経験の中に「研究」があるのだと思ってきた。
もう一回、自分の経験を見つめ直そう。

時間は刻々と過ぎ・・・焦ります。
でも、きっとできるんですよね。信じます。

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