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自己紹介

 福岡生まれで子供のころからとくに取柄もなく育ち、昆虫図鑑を見ること、漫画を描くことが好きだったが、小学3年か4年のころに始めた野球を結局はすごく好きだったのだと思う。最近、検索してみて閉校になったことを知ったが、和歌山市立雄湊(おのみなと)小学校にあった野球クラブチームは強力だった。和歌山市でナンバーワンのチームだった。年に7回あった大会で4回は優勝、2回は準優勝、1回はベスト4だった。和歌山城が見えるグラウンドだった。もう50年以上前のことだけど当時のことはよく覚えている。当時のひとつ上のキャプテンは超スーパースターで岩崎誠之(いわさきせいし)さんと言った。キャッチャーで4番でホームランをばかすか打って勝利に導く圧倒的なキャプテンだった。みんなから「せいちゃん」と親しみと尊敬をもって呼ばれていた。そんな強力な野球チームがあったのでまわりの少年はみんなその野球クラブに入っていて野球を始めないと友達も出来ない状態だったので名古屋からの転校生だった僕は仕方なく野球を始めたのだったが、グローブを使ったこともなかった。ひとつ上の兄も入っていた。
強烈だった「せいちゃん」は中学入学してもすぐにレギュラーになったことは聞いていたが、僕は6年になるときに大阪の千里第二小学校に転校したのでそのままになっていた。転校が多かった。和歌山の記憶がよみがえったのは、甲子園に「せいちゃん」が出場したときだった。なんと東海大相模のキャプテンになっていた。ふたつ下の1年生には原辰徳がサードのレギュラーでいた。定岡のいた鹿児島実業と激闘したときの。
 何故、自分がここまで野球を好きになったのか。正直、自分はそんな強力なチームで運動能力も低いことをすぐに気が付かされた。バッターボックスに立っても震えがとまらない超ビビり。当然三振ばかり。一軍ではなく二軍の試合で。三振しては泣いていた。そんな中で年に一回のビッグな大会が紀三井寺球場であることを知らされた。そこには登録選手枠がひとり増えて二軍から誰を入れるかということになり、当時の監督さん 丸山さん(一生、この方の名前は忘れない)がこのへたくそのビビりを推薦してくださったということを「せいちゃん」から聞かされた。結局、ひとつ下の野球センスの良い生徒が選ばれたけど、当然だなと思ったし、悔しさも何もなかった。ただ、丸山さんが何故僕を推薦してくださったのかを「せいちゃん」から聞かされたときは涙が止まらなかった。「二郎はまじめにこつこつ頑張っているから」と。それだけ?「せいちゃん」もその話を聞いたときは「何故、二郎?」って思ったと思う。圧倒的にヘタだったし。
今でも思うのは、あのときに丸山さんがそう思ってくださったことが原点だったなと。あのときに人生が始まったような気がする。
頑張ったつもりではあったけど、後悔ばかりの学生野球。未だにコンクリートの壁に硬球を投げている。
 社会に出てからは、音楽情報誌~レコード会社と転職。レコード会社時代に世界の音楽を日本に紹介するセクションに異動してから「世界が開いた」。セルジュ・ゲンズブール、パコ・デ・ルシア、アストル・ピアソラ、フェラ・クティ、サリフ・ケイタ、エルフィ・スカエシなどを知り、「ワールドミュージック」の世界にはまっていった。
 「ワールドミュージック」のレーベルを立ち上げ、面白い世界中の音楽を日本に紹介したいとまずは「マダガスカル」からスタートしたが、3枚目を出すころにはお金も無くなっていた。音楽Barを開いたこともあったけど借金は膨らむばかり。それからは「食べる」ためにhtmlのコーディングを覚えて下請け業務。最後は国(外務省)に奉公した。
 貴乃花の再婚じゃないけど、これからも「人生何があるかわからない」。
2005年にダブリンから始めた世界のマラソンを走ることも続けながら、大好きな空海や京都にも思いをはせつつ、お気に入りのスニーカーを履いてゆっくりと日々を歩んでいきたい。そして自分がこれまでに愛してきたもの、影響を受けてきたものについて綴っていきたい。

和歌山市立雄湊小学校 閉校
世界の音楽との「出会い」

『tunga/Mamadou Diabate』

父からの贈りもの|Jirorhythm (note.com)

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