大好きなウズベキスタンのこと。日本語クラブの思い出
昨日は言語のテーマで書いたので、今日はその繋がりで、ウズベキスタンの学校で日本語をちょっぴり教えていたときの思い出を書く(PCインストラクターとして派遣されてたけど)。
実際の学校の様子↑
生徒にことあるごとに「日本語を教えて!」と言われていた。PCインストラクターなのに日本語教えるのはおかしい気もするけど、たくさんの言語を話せることがステータスなウズベキスタンでは、PCスキルよりも日本語の方が断然人気だった。
日本語クラブが始まったのは活動が始まって2ヶ月くらい経ったときだった。午前中の授業が13時ごろに終わって、午後の授業が始まる15時くらいまでの間、クラブをしていた。アニメがきっかけで日本語を学びたいと、14歳前後の生徒5〜10人程度が、週に2回か3回程度集まるようになった。
実際に生徒たちが書いた練習ノート↑
クラブにきてくれる女子生徒は、日本人の私に優しくて、学校で会うと先生!と言って手を振るだけでなく、ハグまでしにきてくれる。毎回私は「やばい、これはキュン死に(古い)する…!!」と思っていた。
私はそれまで語学を教えた経験もまったくなかった。それでも「日本語が話せるなら日本語も教えられるでしょ」、と超軽い感じでクラブを始めてしまった。それは実際大間違いだったけど、生徒が可愛すぎたからもうどうしようもない。
まず生徒にひらがなとカタカナを覚えてもらわないと、何も進まない(と思っていた。音だけで教える方法もあるみたいだけど、当時は思いつかなかった)。
日本語ってそういえばすごく複雑で、ひらがな、カタカナ、漢字を組み合わせてできている。ひらがなとカタカナだけでも46×2で92文字あって、さらに濁音半濁音、きゃきゅきょとか小さい「つ」とか合わせると全部で106×2で212文字。漢字もカウントしたら最低でも3000文字くらい。
みんなまずは名前から書けるようになりたい、と思うのだけど、それがすでに大変。生徒の名前は女の子だったらフルシダ、フェルーザ、グルバホールとか、男の子はオタベック、ザファル、サイーダフマッドといった難しめのカタカナばっかり出てくる。
自分がもし中学生のときに日本語をやりたいかと聞かれたら絶対「いや、それは遠慮しとく」ってなったはずだ。文字を覚えるだけで1年くらいかかりそう。それでもやりたいと子供たちに思わせるほど、アニメが魅力的ということなのか。
生徒たちはとにかく飽きっぽくておしゃべり。すぐクラブの生徒同士で仲良くなって、日本語を学びたいといって集まっているはずなのに、「全然ロシア語でばっかり話してるじゃん!」ってなった(なぜか日本語クラブはロシア語話者がほとんどだった)。注意するのも私のロシア語じゃ通じないし、日本語クラブだし授業じゃないからいいか。と開き直っていたけど。
最初の頃はまじめにやろうとしてたけど、だんだんと「クラブなんだからもう楽しいことしよ!」ってなって、ゲームのようなことばかりしていた。ひらがなをかるたみたいにして二人一組で取り合ったり、アニソンを聞きながら歌詞にふりがなをふったり、円になって紙風船を叩きながら、数を日本語で数えてみたり。そうすると生徒たちも喜んで集まってくれた。今考えたらこういうアイディアを考えるのも、可愛い生徒たちが日本語クラブに飽きて来なくなってしまうことが怖かったのかもしれない。
クラブの生徒が習字で書いた↑
勉強も、楽しさがないと続かない。生徒たちに教えていて、散々そう思っていたのに、自分が勉強をしているときは、そういえば楽しさなんてどこかに行っていたな、と思う。もっと自分自身を楽しませる工夫をしてもいいのかもしれない。あの時毎回アイディアを練っていたように。
コロナで急に帰国することになって、学校も閉鎖されていたから、生徒たちには最後のお別れが直接言えなかった。ときどきオンラインでメッセージをやりとりしてるけど、詳しいことはわからないし、一体どうしているだろうか。
彼らがいなかったら、私の協力隊としての活動は、やりがいが圧倒的に欠けていたと思う。彼らにとって、私はただの先生にすぎないけど、私を通して日本という国にどんなイメージを持ったのか。少しは日本の良さを伝えられただろうか。教える立場のはずの私は、生徒たちから想像以上にいろんなことを教えてもらったのに。
日本語という難しい言語を、好きになってくれてありがとう。またいつか会えたら、いつものようにハグしに来てくれますように。そんな期待をしてしまう。
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