絶望に慣れることは、絶望そのものより悪い

「人は悲しいくらい忘れていく生き物」とは、Mr.Childrenのかの有名な曲の中で言われていることですが、我々人間の持つ特性をよく言い表しています。

忘れていくということは、言い換えれば、今に適応していくということ。人間は良く出来ていて、どんなに過酷な環境でも、そこに適応して生きていけるようにプログラムされているようです。

たとえば、これまでの戦後の教育を受けてきた我々から考えれば、戦時下の様子は理解が難しいわけです。なぜ国のために命をかけて戦えるのか?自国の正義を振りかざして人を殺せるのか?想像力を使ってみても、どうしても理解できない。でもきっと、その人たちも誰かのために一生懸命に生きていた人たちなのです。

いま我々はコロナウィルスという目に見えない厄介な相手と対峙しています。恐らくこのウィルスとの戦いは、ワクチンが開発されて市場に出回るか、集団が免疫を獲得するまでと考えると数年単位でかかるものでしょう。そして、これを機に世界のさまざまな仕組みが変わらざるを得ない状況になると思われます。

一方で、今この瞬間も苦しんでいる患者さん、その方々を助けようと努力されている医療従事者の方々がいらっしゃいます。そして自分自身も、ただ病気にかからないようにしようということだけではなく、自分が大切な家族や周囲の人たちに病気を無自覚にうつしてしまうかもしれないというリスクと向き合うことが求められています。

これは社会的に我慢をしましょう、という話ではなく、自分と他者を同じように思いやる、自利利他の精神で目の前の暮らしと丁寧に向き合うことなんだと解釈しています。物質的、経済的なものに価値を置き過ぎていた暮らしを丁寧に見つめなおして、そばにあるものを大切にする。今この瞬間を味わうという感覚。いつしか忘れてしまっていた大事な気持ちを呼び起こされた気分です。

毎日のコロナウィルスの新規感染者数の発表。「ああ、また100人超えか。」どこかで慣れてしまい、感覚が麻痺してきている自分がいます。毎回衝撃を受けたり、その裏側で戦っている患者さんや医療従事者に思いを馳せ続けると、自分自身の精神が持たないから。物事を単純化したり、慣れるように我々の脳が調整してくれているのでしょう。

それでも、我々は悲観して立ち止まるのではなく、過度に楽観的になるでもなく、今ここに意識を集中して、結果として生まれてくるより良い未来を信じて生きていくことが必要なんだと思います。私自身も今の自分にできることを模索して動いていますが、国や世代を超えたさまざまな方との対話から、たくさんの気づきをいただいています。

タイトルの一節、「絶望に慣れることは、絶望そのものより悪い」は最近一番感銘を受けた、カミュの「ペスト」の中の言葉です。我々人間は、どのような環境下でも、どんな態度で向き合うかを選択できる力を持っています。情報に流されず、悲観的になり過ぎず、丁寧に日々の暮らしに、目の前の相手に、向き合っていきたいものです。

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