見出し画像

ホテル オールハンドメイド

なぜか朝早く目が覚めた。一般的にはこの時間を朝早いと言わないのは知っているけれど、僕の中では早朝とも言える時間だった。カーテンを開け、布団を畳み、音楽をかけ、水道水を飲み、パジャマからTシャツとハーフパンツに着替え、パソコンの前に座った。

「パジャマ」と「Tシャツとハーフパンツ」の違いはなんだろう、とぼんやりと考えた。どちらもTシャツとハーフパンツなのだ。寝る時に着ていればそれはパジャマなんだろうという結論に達するまでに、朝のぼんやりした頭では無駄に時間がかかった。

パソコンを立ち上げ、昨日まで行っていたラブホテルの原稿を書き始めた。寝起きにしてはなかなかスムーズに書けた。早起きは大切なんだろうと思う。同時に「ただ」とも思う。明日もこの時間に起きるかと言えば、起きないだろう。僕にとって午前という時間は未知の時間だ。宇宙人が来ているかもしれない、恐竜が闊歩しているかもしれない、そのくらい僕はこの世界の午前中について何も知らない。

………

夏の日本海を見ながら単線の列車は走った。駅が近づき電車が減速するとうるさいほどの蝉の声が聞こえた。どこかの窓が開いているのだろう。まだ七月の中旬なのに列車の音を消すほどの蝉が鳴いていた。青い日本海は冬の荒波を感じさせることもない。空には大きな入道雲が浮いていた。

無人駅で僕は列車を降りた。僕以外には誰も降りなかった。そもそも片手でお釣りが来るくらいしか乗客は乗っていなかった。駅舎はどこかのポイントで時が進んでいるのを忘れたような建物だった。改札を出ると海まで一直線に道路が伸びていた。その沿道にはシャッターが閉まった商店や旅館がある。昔はここも栄えていたのだろう。

僕は改札で立ち止まり、一直線に伸びる道路を見た。その道路を子供達が駆けて行った。一人や二人ではなく、両手ではギリギリ足りない人数だった。このような街は子供が少ないというのが全国的な特徴だと思うけれど、この街はそうではないようだ。静かな街に子供達の楽しそうな声が響いていた。その声には蝉も負けていた。

………

玄関の扉に鍵を差し込む音がした。パソコンのある部屋のドアを開けていたので、玄関がよく見え、やがて扉は開き、静かに入って来る彼女と目が合った。
「起きてたんだ、おはよう」と彼女は驚きも喜びもない平板な声で言った。
「そうだね、珍しく」と僕は答えた。「おはよう」

彼女は台所で手を洗い、電気ケトルに水を注ぎスイッチを押した。台所の上の扉を開けてマグカップを二つ取り出して、インスタントコーヒーを瓶からそのままカップに入れた。僕はその様子をただ見ていた。いつもは寝ているから、珍しい光景だった。どこに何があるか僕より彼女の方が理解している。

「昨日までいなかったでしょ?」と彼女が訊いた。
「ラブホテルに行ってたんだ、島根の」と僕はそのラブホテルがあった街の名前を彼女に伝えた。
「あ、そう」と彼女は曖昧な返事をしてお湯が沸いたと話を中断した。

彼女はマグカップに少しだけお湯を入れてマグカップを何回か小さく回し、インスタントコーヒーが溶けたのを確認すると上までお湯を注ぎ、二つを入れ終わると一つを僕の前にある机に置いた。ありがとう、と僕は彼女の額にキスをした。どういたしまして、と彼女は言った。

………

駅を出て蝉の鳴き声を聞きつつ、海に向かって一直線に伸びる道路を歩いた。駅から離れるにつれ、蝉の鳴き声は小さくなり代わりに波の音が聞こえた。海にぶつかると、今度は海岸線に沿って僕は歩いた。平和な夏の一日を象徴するような景色だった。

たまに若いお母さんとすれ違った。なぜお母さんと分かったかと言えば、子供を抱いていたり、太陽の光を遮るように日除けを降ろしたベビーカーを押していたからだ。もちろん若いお父さんともすれ違った。なぜお父さんと分かったかと言えば、先と同じ理由だ。子供が多い街なのだ。

やがて目的としていたラブホテルが見えてきた。海にちょっと突き出した崖の上にそのラブホテルはある。「ホテルオールハンドメイド」。以前から存在は知っていたのだけれど、島根は僕の住む東京からは遠いのでなかなか行けないでいた。まとまった休みが取れたので訪れたわけだ。

「ホテルオールハンドメイド」はラブホテルの雰囲気をまるで持っていなかった。ロッジと言った方がしっくり来るかもしれない。そのロッジの横にはガレージがあって、ガレージの天井からは一本の煙突が空に向かい伸びている。中からは機械音がするけれど、窓やドアは閉められていて、中の様子を見ることはできない。

ロッジの入り口の上には島根の県木である「黒松」の板に、県木の候補となった赤松としらかしの細い枝で「ホテルオールハンドメイド」の文字が作られていた。屋根には風見鶏があり、心地よい海風に吹かれていた。

木の扉を開けると、明るいフロントがあり、草木染めで深いブルーとなったエプロンをつけた女性が立っていた。大きな窓から入る光が彼女を優しく照らした。もちろん直射日光ではない。夏を涼しく過ごし、冬を暖かく過ごせるようにきちんと設計された建物なのだ。日本の家は徒然草の時代より「夏をむねとすべし」で建てられた家が多いけれど、この建物は夏も冬も快適に過ごせるような気がする。

それもそのはずで、このラブホテルのオーナーの男性はもともとは建築士だった。やがて日本中を、世界中を旅することになる。それはよりいい木を求めての旅だった。その旅はフロントに立っていた女性も一緒だった。二人はやがて結婚して、ここにラブホテルを作った。いい木を求めた結果、島根県のこの街に行き着いたのだ。もちろんこのラブホテルも彼の設計だ。

島根県の森林率は全国で三番目で、2005年には美しい水を育む森を次世代に引き継ぐべく、「水森税」条例も制定されている。オーナーが求めるものがここにあったのだ。蝉がうるさいほど鳴いていたのはそういうことなのだ。

………

彼女が台所の椅子を僕の隣に持って来て座った。ただすぐにエアコンが効き過ぎている、と言ってエアコンのスイッチを切ってベランダの窓を開けた。蝉の鳴き声がうるさいほど部屋の中に響いた。

僕は東京の現実的に古い住宅街に住んでいる。近くに神社があり、その神社には立派な境界林があるので、夏になるとこの街の蝉が全部ここに集まっているのではないかと思うほどにうるさい。毎日うるさく感じるけれど、その蝉の鳴き声が小さくなると夏の終わりを感じ寂しくもなる。僕はわがままなのだ、たぶん。

部屋は一気に暑くなった。彼女はそんなことは気にしていないようだったので、僕もそれでよかった。夏は夏を感じた方がいいのかもしれない。それに彼女のオーバーサイズの白いオープンカラーシャツと濃いグレーのワイドパンツがさっきより輝いているように感じた。

「今日は何時までいれるの?」と僕は尋ねた。
「そうね」と彼女は椅子に座った。「子供の帰りが早いから昼過ぎには帰るかな」

僕は彼女の淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。

………

フロントで部屋を選んだ。奥さんが写真を見せてくれた。写真は薄いアルバムのようになっているのでパラパラとめくる。全ての部屋に木の名前がついていた。「ミズナラ」とか、「シラカバ」とか、「黒松」とか、そんな名前だ。木にこだわるご夫婦の考えが部屋の名前に反映されている。僕は「コナラ」を選んだ。

「二階の角部屋ですね」と奥さんが言った。「今日は天気もいいですし、窓からは海が見えますよ。空も綺麗だったでしょ」
「そうですね」と僕は返事をした。

部屋までは奥さんが案内してくれた。ここがラブホテルなのを忘れてしまう。アットホームなペンションにでも来た気になる。でもここはこの街で唯一のラブホテルなのだ。この街に住む若い人たちは必ずこのラブホテルにやって来る。実家暮らしが多いから、そのようなことをするとなるとここしかないのだ。もっとも数年前からは県外からのお客さんも増えたと聞く。

案内された部屋は木の温もりを感じる部屋だった。木の椅子に、木のベッドに、木のテーブル。布団カバーにはこの街の町章が刺繍されていた。奥さんが作ったものだ。奥さんは刺繍とか縫い物とか染め物とかを得意としている。どれもセンスがいいように思える。

やはりここがラブホテルであることを忘れてしまうけれど、ベッド脇にある木のテーブルには小さな白いお皿があり、コンドームとドングリが二つずつ置かれていた。ドングリが一緒に置かれているのは、この部屋が「コナラ」だからかもしれない。

海に面した窓を開けた。波の音が大きくなった。眼下に白い砂浜と青い海が見えた。砂浜ではさっき駅から見た子供たちではない子供たちが遊んでいた。男の子たちは走り回り、女の子たちはしゃがんで貝殻でも探しているようだった。海はキラキラと輝いていた。

僕がそんな様子を見ていると一人の男の子と目が合った。半袖に半ズボンで細い流木を持っている。僕はなんとなく手を振ってみたけれど、男の子は名前でも呼ばれたのか、ラブホテルに背を向け走って行った。その後ろ姿を僕はいつまでも見ていた。

………

僕はもう一度、ラブホテルがあった街の名前を彼女に言った。彼女は聞こえない素振りを見せていたけれど、やがて「その街に行ったことがある」と言った。僕は驚いた。特に観光地でもないし、彼女の生まれも育ちもその後に住んでいた街も知っていたから、その街と彼女が上手く結びつかなかったのだ。やはり午前中は僕の知らないことだらけだ。点は点のまま存在し、彼女に理由を聞かなければいつまでも線になる気配はなかった。

「なんで?」
「行ったのよ、そのラブホテルに」と彼女は小さな声で言った。
聞くか迷ったけれど、誰と? と僕は結局訊いた。
「君がすごく存在を知っているけれど、会ったことはない人」
僕はため息をついた。
「聞きたくなかったでしょ?」と彼女が言った。
「あるいはね」と僕は言い、今度は彼女の唇にキスをした。

「いつ行ったの?」と僕は訊いた。点が線になってしまったので、もう面にするしかないと思ったのだ。彼女はいつ行ったかを教えてくれた。いつだったかな、と迷うわけではなく、きっちりと行った西暦を教えてくれた。子供を深く愛しているのだ。僕は今年の西暦と彼女の教えてくれた西暦を脳内で引き算してみた。

………

このラブホテルは「ホテルオールハンドメイド」だ。先に書いたように建物もそうだし、室内の家具もご夫婦が作った。オールハンドメイドという名前に偽りはないのだ。コンドームが乗っていたお皿だって奥さんが作ったそうだ。自ら作ることを大切にしている。

コンドームだって手作りなのだ。今では一番のこだわりと言ってもいいかもしれない。毎日その日に使う分のコンドームをご主人が作っている。前日の夕方から仕込みは始まる。素材であるゴムを溶かし、深夜になるとそれを練り始める。ご主人は「練れば練るほどいいんです」と言っていた。

素材のゴムにもこだわっている。南米・ペルーの「イキトス」で取れるゴムを輸入して作っている。イキトスはアマゾンへの玄関口の街で非常に不便な場所にある。そこに行くには陸路はなく、船か飛行機でしか行くことができない。密林が訪問者を拒んでいるのだ。

古くはゴム栽培で栄えた街だった。しかし、やがてゴム栽培は斜陽となり、誰もゴムを育てることはなくなった。世界は不便な土地でゴムを作るより、もっと物流がよい場所で作ることを求めたのだ。結果、ゴム畑は荒廃地となった。

そんな土地にホテルオールハンドメイドのご夫婦は訪れた。いい木を求めて旅している時だった。そこで細々と作られたゴムを見て二人は感動した。実に質のいいゴムだった。土がいいのだ。ただ世界はそのゴムを必要としていなかった。そのことに二人は悲しんだ。

やがて二人は求める木に出会い、「ホテルオールハンドメイド」をオープンさせた。ラブホテルでの行為が一番のハンドメイドだと考えたからだ。ご主人はラブホテルの設計や家具を作り終えると、イキトスに飛び、粘り強く説得しゴム栽培を再開させた。契約農家のような形でホテルオールハンドメイドのためだけにゴムは作られる。つまりホテルオールハンドメイドのコンドームは他では真似できない一品というわけだ。

もちろん素材だけではない。作り方にもこだわっている。作り方というか、装着した時の気持ちよさにこだわっていると言った方がいいかもしれない。そのために夕方からゴムを溶かす作業を始め、夜中練り、朝方に成形する。鮮度のいいコンドームなのだ。コンドームは鮮度とご主人は話した。

「気持ちがいいか、気持ちがよくないかなら、気持ちがいい方がいいと思うんです」とご主人は語った。「世の中、薄さとか、強度とかを売りにするものが多いけど、うちはそんなのは無視です。薄くないし、強度もないけど、気持ちがいいんです」

僕はそれを聞いて「なるほど」としか言えなかった。こんなに強いこだわりと熱意を持つ人にはなかなか会うことがないから、言葉が見つからなかったのだ。実際このコンドームは口コミで十年ほど前から人気になり、県外からもこのラブホテルを訪れる人が増えたそうだ。もちろんネット販売を期待する声もあるけれど、「作れる数に限りがあるし、なにより鮮度が落ちるから難しいんです」とご主人は話した。

………

「子供は何歳だっけ?」と僕は訊いた。
彼女の子供が小学校の何年生かは知ってはいたけれど、子供のいない僕は何年生が何歳なのか自信がもてなかった。自分にもその年齢があったからわかってもいい気がしたけれど、その頃のことなんて覚えていないのだ。

彼女は窓の外を見ながら、子供の年齢を教えてくれた。暑いこの部屋ではいくら時間が経ってもホットコーヒーはホットコーヒーのままであり続けた。蝉は暑さに負けずに、なんならさっきよりもうるさく鳴いている気がした。

………

僕がホテルオールハンドメイドを出たのは夕方だった。本当はもっと早く帰るつもりだったけれど、奥さんが列車は夕方までないと教えてくれたので、午睡を貪った。落ち着く部屋で、よい眠りだったと思う。

奥さんに挨拶をしてホテルオールハンドメイドの扉を閉めた。風見鶏は少し涼しくなった海風に相変わらず吹かれていた。隣のガレージではコンドームの仕込みが始まっているようで、煙突から白い煙が吐き出されていた。

夕暮れの海を見ながら駅まで歩いた。何人かの子供たちが僕を追い越し走って行った。駅に着くとまだ列車は来ないようだったので、駅舎前の椅子に座り海に向かう一直線の道路を眺めた。子供たちがやってきて、駅前のよくわからないモニュメントを中心にグルグルと走り回り嵐のように去って行った。

ただ一人の男の子が戻ってきて僕の顔を見た。
「さっき崖の上の建物にいた?」と彼が言った。
「いたよ、浜辺にいた子だね」と僕は答えた。彼はラブホテルの窓から浜辺を見た時に、流木を持って僕と目が合った男の子だった。

彼は頷き海の方を向いた。僕も釣られてそちらの方を見ると、夕焼けで赤く染まった空に白い煙が伸びていた。ホテルオールハンドメイドから上がる白い煙だ。明日の仕込みをしているのだ。男の子もその煙を見ていた。

「僕ね、あの煙を見るとなんだか懐かしくなるんだ」と男の子は言った。

彼は何かに懐かしさを感じるにはまだ若すぎる気がしたけれど、そのことについてはなんとなくわかる気がした。気持ちはいいけど、強度はないのだ。薄くもないけど、強度もないのだ。この街に子供が多い理由もまた全てわかった気がした。気持ちはいいけど、強度はないのだ。薄くもないけど、強度もないのだ。

男の子はバイバイと言い、海の方へと走っていた。彼の後ろ姿の向こうにはいつまでも白い煙が空へと伸びていた。

………

彼女は相変わらず窓の外を見ていた。窓からたまに入る生ぬるい風が彼女のイヤリングを揺らした。

僕は脳内での計算を終えた。計算はピッタリとあった。気持ちはいいけど、強度はないのだ。薄くもないけど、強度もないのだ。気持ちが悪い計算をしている気がするけれど、そういう話なのだから仕方ない。それに気持ち悪い計算だけれど、気持ちがいいけど、強度はないという話であり、薄くもないけど、強度もないという話なのだ。とりあえず「ホテル オールハンドメイド」が全国的に人気なのが間違いないこともわかった。

僕も窓の外を見た。この辺りには高い建物がないから入道雲がよく見えた。僕は彼女の名前を呼んだ。

蝉はいつまでも鳴き続けていた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?