フロントの横にピッツァ釜! 本格的なピッツァが食べ放題「ホテル ピッツァ」
僕が家に帰ると彼女が来ていて、パソコンの前の椅子に座りコーヒーを飲んでいた。「おかえり、どこに行ってたの?」と彼女が言った。「ただいま、ラブホテルだよ」と僕は台所で手を洗い、一歩だけ横にずれて換気扇の下に行ってタバコに火をつけた。
「どんなラブホテルだった?」と彼女が訊いた。多くの場合、ラブホテルに行ったと伝えれば誰と言ったの? などの会話になると思う。しかも真昼間にだ。関係性によっては大きな問題になるかもしれない。
ただ彼女は僕の趣味を理解しているようで、そんなことは全く気にしていないようだった。それに、と思う。僕が別の誰かとラブホテルに行ったとして、彼女との関係性では問題は起きないように思えた。彼女は怒るのだろうか。
「面白いラブホテルだったよ」と僕は言った。
「それはよかった」と彼女は笑った。
………
高校時代を思い出すとあまり書くべきことがない。それはいい思い出がないとか、暗い思い出しかないとかではない。動物園でたまに見かける、なんの動物も入っていない檻のように、高校時代の思い出というものがただただないのだ。檻は存在する、ただ動物がいない。高校時代は存在する、ただ思い出がない。そういうことになる。
結果、高校時代のことを話して? と誰かに言われると僕の頭は随分と痛んだ。何も話せることがないから困るのだ。
「どんな学校だった?」
「きっと君が通っていた高校と同じような感じだよ」
「運動会とか文化祭は何をしたの?」
「きっと君の高校と同じだよ、ただ運動会も文化祭も出席してないからよくわからない」
「友達とか彼女はいた?」
「友達も彼女もいなかった。同級生の名前だって一人も思い出せない。たぶん鈴木とか佐藤とかはいたと思う、統計的に」
「あまりパッとしない高校時代だったのね?」
「あるいはね、ただパッとしていなかったか否かも定かではないね、覚えていないんだ」
誰かはやがて呆れる。
………
そのラブホテルは神奈川と東京の県境にあった。山梨で最初の一滴が生まれ、東京湾に流れ込む過程で生まれる河川に面していた。下流域で川幅は広く、そのラブホテルに行き、もう数年は開けれれていないような窓を無理やり開けると、その川が見え、その向こうに東京が見えた。天気がよく、空気が澄んだ冬の日は東京タワーやスカイツリーが遥か遠くに存在するのを確認できた。ただ誰も見ない。誰もラブホテルで窓なんて開けないのだ。
そのラブホテルの名前は「ホテル ピッツァ」だった。真っ白な三階建ての建物の入り口には、青や水色のタイルが下の方にだけ無数に貼られ、波打ち際をイメージしているようにも感じられた。建物の側面には上を向いて銀色に輝くL字の煙突が一本だけあり、白い煙を吐き出した。
自動ドアが開くと、ラブホテル特有の薄暗さはなく、明るく田舎のカフェのような雰囲気だ。何よりいい匂いが充満している。チーズが美味しく焼ける匂い。フロントにピザを焼く漆喰の窯があるのだ。ピザ釜上部のアーチの部分には赤やオレンジ、ピンクのタイルが貼られている。こちらは何をイメージしたのかわからないけれど貼られている。そこから一本のパイプが伸びていて、やがて壁にそのパイプは消えて行く。外で見た煙突の先、あるいは始まりがこのピザ釜なのだ。
部屋を紹介する写真が壁に貼られている。「マルゲリータ」「マリナーラ」「バンビーノ」「カニとオマール海老ソースの贅沢ピッツァ」「大阪風お好み焼き風ピッツァ」など、ピザの種類が部屋の名前になっている。前半部分はよく知っている一般的なピザの種類だったけれど、後半になるとオリジナルが過ぎるピザになった。
フロントにいる男性は白衣にコック帽をかぶっている。パネルを見ながら僕は「ビスマルク」と部屋の名前を告げた。彼は熟練のコックにしか見えなかったので、彼に部屋の名前を告げるべきなのか悩んだけれど、それ以外に人もいないのでおそらく正解なのだろう。
「かしこまりました、ピッツァは何枚にしましょうか?」とコックは言った。
「ピザ?」と僕は聞き返す。
「そうです、ピッツァは何枚にしましょうか? ピッツァは」
「じゃ、ピザを二枚」と僕はピースマークをコックに向けた。
「どのピッツァにしましょうか?」
「どのピッツァ、、、」
一般的なラブホテルではまずしない会話だった。
………
「なにかあるでしょ? 高校時代の思い出」と誰かが僕に問う。
「思い出、思い出」と僕は脳内で繰り返す。
何もいない檻を僕は必死に見つめる。そこには確かに動物はいなかったけれど、いつかの食事の残りなのか、それを求める蟻がいることに気がつく。そういうことだってある。動物はいないけれど、おまけにもならないようなものがいることが。
………
高校時代の英語の授業には、教科書を読み上げる時間があった。出席番号がクラスの全員に振り当ててあり、英語の教師はその日の日付で教科書を読み上げる人を選んだ。おそらく誰も教科書を声を出して読み上げたくはなかった。僕も例に漏れずそう思っていた。
ある時、帰国子女の男の子が出席番号により教科書を読み上げることになった。彼は立ち上がり教科書を読んだ。クラスから笑い声が上がる。彼の発音はネイティブだった。アップルを「アポー」と言った。カタカナで書くとおかしく感じるけれど、彼の「アポー」の発音を僕は笑うことはなかった。むしろ美しく感じた。僕が求める英語があった気がする。
高校では、中学でもそうだ。英語の発音がいいと笑われるくだらない文化があった。今はどうかは知らない。僕には子供はいないし、今の教育について、もちろん調べればわかるけれど、そんなつもりもないからわからない。でも、当時はそのようなくだらない文化があった。彼は二度と教科書を読み上げることはなかった。出席番号で当てられても断った。教師もそれを自然に受け入れた。
もっとも僕は彼の名前も顔も思い出せない。いまどこで何をしているのかも当然知らない。覚えているのは「アポー」の発音だけだ。僕も大人になり海外に行くようになった。ネイティブの発音を聞く機会もたまに発生した。それでも、おかしな話ではあるけれど、彼の「アポー」を超えるアポーに出会ったことはない。彼の「アポー」はアポーの赤さと蜜の詰まった甘さを感じさせた。そんな「アポー」があるのだ。
………
「どのピッツァにしましょうか?」とコックの男は繰り返した。
僕は適当に二種類のビザを注文した。食べ放題だそうだ。ピッツァが焼き上がったら部屋にピッツァを持っていきます、とコックは言った。
僕は「ビスマルク」の鍵を受け取り、階段を上り二階の廊下を歩いた。白い壁に白い天井の廊下だった。明るかった。窓は全て潰してあるけれど、LEDライトが白く廊下を照らした。壁には二枚だけイタリアの古典的な絵画が飾られていた。
部屋も同じように白いことを期待したけれど、そうではなかった。一枚のイタリアの街並みの写真が引き伸ばされ、壁にも天井にも床にもプリントされていた。何と言えばいいのだろうか、間違いなくここは日本だし、ラブホテルだし、「ビスマルク」という部屋だけれど、イタリアの街中にベッドが置いてある感じなのだ。
窓にもそのプリントは施され、外の光でそこだけ特別に明るかった。落ち着くかと言われれば、間違いなく落ち着かないと答えることができる。そもそもラブホテルに落ち着きを求めることがおかしいのだ。そのような空間に出会えるから、僕はラブホテルが好きなのだ。
ベッドの脇にある窓を開ける。イタリア人の男女の足がプリントされているところだ。誰もその窓を開けないのだろう。取手を握り、力いっぱいに手前に引かなければ開かなかった。やっとの思いで窓を開けると当たり前だけれど外が見えた。
遠くに小さく東京タワーやスカイツリーが見える。冬の青空には雲一つ浮いていない。どこまでも青かった。川の流れは速く、今の時間なら午後の早い時間には東京湾に辿り着くだろう。河川敷を歩く犬を連れた若い男と目があった。僕は軽く会釈をしたけれど、彼は僕の存在をなかったかのように歩き去って行った。犬だけがずっと僕の方を見ていた。
ベッドに横になる。天井を見ると横断歩道を渡る老夫婦と目があった。僕はまた会釈をする。もちろん老夫婦は会釈を返すことはなかった。老夫婦は写真なのだ。遠くにはピザ屋の看板が見える。イタリアのピザはどんな味なのだろう。
………
動物園を歩く。初めて来る動物園だ。自分でもなぜこの動物園に来たのかわからない。動物園に来るつもりなんてなかった。ここはどこで、なんという名前の動物園なのだろ。それすらわからない。でも、確かに動物園にいる。僕以外に人はいない。動物もいない。
延々と何もいない檻が続く。僕が一つ前に見た檻には何もいなくて、次に見た檻にも何もいなかった。その次も、そのまた次の檻にも動物はいない。何もいない。何かいないかと必死に檻を見たけれど、何もいなかった。本来いたと思われる動物の名前が書かれた看板だけが色褪せて風に吹かれていた。
空は曇っているとも、晴れているとも言えた。暑くもなければ寒くもなかった。天候も、何もいない檻も、この状況をなんと表現すれば一番的確なのかわからなかった。表現できない環境をわざと作っているようにすら思えた。そのような場所を僕は一人歩いた。誰かに会いたかった。誰かと話したかった。ゾウを見たかった。せめてゾウだけでもいてくれたらと思った。でも、いない。誰もいない。何もいない。動物園なのに。今日は日曜日のはずなのに。
………
ドアをノックする音が聞こえた。規則正しい間隔で三回ドアがノックされた。僕は眠りから覚め、ベッドから起き上がり、ドアを開けた。フロントにいたコックが右手と左手に木のプレートに乗ったピザを持って立っていた。どうやってノックをしたのだろうと不思議に思ったけれど、できるのだろう。彼ならそれくらいのことができる気がした。だって、ピザが食べ放題のラブホテルを開業するくらいなのだ。それくらいは簡単なことなのだ、きっと、おそらく、たぶん。
「焼き上がったピッツァです」と彼は言った。そして、それぞれのピザの説明をしてくれた。チーズが何で、生地の小麦はどこどこ産で、と。数えたのだけれど彼はその説明の間に十八回も「ピッツァ」と言った。一度もピザとは言わなかった。彼が焼くのはピザではないのだ、ピッツァなのだ。
少しだけ彼と話をした。彼はピッツァが好きでイタリアに修行に行ったそうだ。もちろんピッツァのことも学んだし、イタリアの文化にも感動したそうだ。この感動をピッツァだけではなく、別の形でも表現したいと思い、日本に戻りこのラブホテルを開業したと言った。
僕はイタリアに行ったことがない。どのような文化を持つのかも詳しく知らない。でも、形にするとこのラブホテルになるのだ。なかなか悪くないように思えた。何より彼の作るピッツァはとても美味しかったからだ。
「美味しいですね、このピッツァ」と僕はピッツァを一口食べて言った。
「ありがとうございます」と彼は答えた。そして「チャオ」と言いながらドアを閉めた。
「チャオ」と僕も言った。
僕はベッドに座り、その脇にある小さなテーブルにピッツァを置いて食べた。本当に美味しいピッツァだった。ピザではないように感じた。正真正銘の「ピッツァ」なのだ。もし誰かに食べさせることができたら喜ぶだろうと思う。そのようなラブホテルの誘い方もあるのかもしれない。
「すごく美味しいピッツァを食べられる場所があるんだ」と僕が言う。
「そんなに美味しいピッツァが食べられるならどこにでも行く」と彼女が答える。
そして、二人でここに来るのだ。物事がそんなにスムーズに進むのかわからなかったけれど、食べる価値のあるピッツァであることは間違いなかった。
僕はピッツァを食べ終わると部屋を出た。もっとここにいるつもりだったけれど、この部屋は落ち着かない。だってイタリアの街中のどこかなのだ。ラブホテルは落ち着く場所ではないからそれでいいのだけれど。
フロントに行くと、コックの彼がピッツァの白い生地を頭よりも高く投げ上げていた。ピッツァは投げてあの丸い形にするのだ。まるで雲のように白い生地は宙を気持ちよさそうに浮いた。
僕は「チャオ」と言ってラブホテルを後にした。
………
「面白いラブホテルだったよ」と僕は言った。
「それはよかった」と彼女は笑った。
彼女がコーヒーを淹れたおかげで部屋にはいい香りが立ち込めていた。彼女は濃いグレーのロングスカートにクリーム色のニットを着ている。僕の部屋には不釣り合いな感じがしたけれど、彼女はそんなことは気にしていないようだった。そんな彼女をいつまでも見ていたいと僕は思った。
「君も飲む?」と彼女は台所に来て、サーバーに残っているコーヒーを僕のマグカップに注ぎ、シンクの横に置いた。僕はタバコを消して彼女にキスをした。そして、抱きしめた。彼女からはコーヒーと僕が長く求めていた匂いがした。
「匂いが移ると困るんだけどな」と彼女は僕の耳元で静かに笑った。
「ごめん」と僕も彼女の耳元で謝った。「食事はまだ?」
「そうね、なんでかわからないけどピッツァでも食べたいな」と彼女は言った。
彼女の向こうの窓から冬の青空が見えた。空にはあのコックが投げ上げた白いピッツァの生地のような雲が二つだけ浮いていた。ゾウの鳴き声も聞こえた気がした。ここは古い住宅街で動物園はずっと遠くにある。でも、聞こえた。そんな気がした。自動車の音がそう聞こえたのかもしれない。
彼女が僕の肩から顔を離し、「どうしたの?」と訊いた。どうもしないよ、と僕は言い、もう一度キスをした。そして、彼女の瞳を見つめた。
「すごく美味しいピッツァを食べられる場所があるんだ」と僕は言った。
………
という妄想を「ホテル ピッツァ」で一人ピッツァを食べながらしている。このピッツァは確かに美味しい。ただ「大阪風お好み焼き風ピッツァ」はイタリアでの修行が生かされたピッツァなのだろうか。大阪の風が強すぎる。確かに美味しいけれど。食べ放題だからもう一枚食べようと思う。
フロントに電話をかけ、「プエルトリコ風タイ風味パンナコッタ激辛ピッツァ」を僕は注文した。
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