愛と裏切りの舞台劇

高瀬 甚太

 さほど興味を持っていなかった演劇に、強い関心を抱き始めたのは真里菜と芹菜の影響だ。舞台に情熱を傾ける真里菜は、恋や愛にまるで無関心のように舞台稽古に精進した。芹菜もまた、出産を控え、慌ただしい時を過ごしていた。私もまた、忙しい時を過ごしていたが、合間を縫って、さまざまな演劇を鑑賞し、演劇に対する興味をさらに深めた。
 半年近くが経過した頃、市の主催する文化人の集まりに招待された。日頃、こうした席に興味のなかった私は、誘いを受けても出席することなどなかったのだが、発起人の中に『アウトライトK』の宮川新太郎の名前を見つけ、話す機会があればと思って出席した。
 関西を代表するさまざまな文化人の集まりである。ホテルの大ホールは大そう賑わっていた。弱小出版の私など、こうした席に招待されること自体、おこがましいと思ったが、それでも長年、出版の仕事をしているせいか、見知った人も多かった。私の今回の出席の最大の目的は宮川に会うことだった。だが、三百人ほどの人が集まる会場で、宮川を見つけることは至難の業といえた。
 無理かなと思ってあきらめかけて会場の隅にある椅子に座ろうとした時、偶然、隣りの席に宮川が座った。しかし、宮川は隣席に座った男性と話していて、その会話がなかなか終わろうとしない。しびれを切らした私は、タイミングを見計らって、宮川に声をかけた。
 「失礼ですが、『アウトライトK』の宮川さんではありませんか?」
宮川が私の方を向くと同時に、それまで話していた男は、「それでは私はこれで」と言って席を立った。
 「私、極楽出版の井森と申します」
 名刺を差し出して挨拶をすると、宮川は、名刺を持っていないことを謝り、宮川ですと、名乗った。
 私は、何度か宮川の舞台を観たことを話し、率直な感想を述べた後、真里菜のことを尋ねた。半年以上、真里菜に会っていない。その間、なぜか真里菜は宮川の舞台に名を連ねていなかった。なぜなのか。それを宮川に聞いてみたかった。
 「真里菜はうちの劇団を退団しました」
 言葉少なに宮川は語った。
 「退団した? どうしてですか。何か問題があったのですか」
 驚いて尋ねると、宮川は困ったような顔をして私に説明をした。
 「練習熱心で期待していたんですよ。本人も意欲がありましたからね。ところが三カ月ほど前になりますが、突然、退団させてほしいと言ってきて――。慰留したのですが、本人の意志が固くて、二カ月前退団しました」
 「何か理由があったのでしょうか。あんなに張り切っていたのに」
 「舞台をあきらめて普通の生活をしたい、と言ってましたね。多分、舞台を忘れさせるほどいい男に出会ったのでしょう」
 宮川は苦笑いをして、「それでは失礼します」と断って席を立った。
 意外だった。ほんの半年前、出会った時の真里菜の様子からは想像もできなかった。
 真里菜の携帯電話に電話をした。だが、その番号は不通になっていた。どうやら電話番号を変えたようだ。今度は芹菜に電話をかけた。芹菜はすぐに電話に出た。
 ――編集長、お久しぶりです。
 芹菜の明るい声に安心した。
 「無事、出産しましたか?」
 ――それが流産してしまって。
 ――えっ!? 流産?
 ――そうなんです。安定期に入っていたのに残念で仕方がありません。
流産したというのに、芹菜の声には暗さが微塵も感じられなかった。
 ――それは残念でしたね。でも、またチャレンジすればいい。いい旦那が付いているんだから。
 励ますように言ったつもりだったが、返ってきた芹菜の言葉に腰を抜かさんばかりに驚いた。
 ――主人とは流産の後、離婚しました。
 ――離婚……。あれほど仲のよかった二人が。
 何かの間違いではないか、そう思って聞くと、
 ――仲の良いことと真に理解しあっていることとは違います。
と意味深な答えが返ってきた。
 ――でも……。
 ――編集長、心配しないでください。一度でも幸せを感じることができただけでも、私、よかったと思っていますから。
 芹菜の明るさが気になった。
 ――きみたち、一体、どうしたというんだ? きみも真里菜も……。
 ――真里菜も?
 ――ああ、真里菜も劇団をやめた。
 ――なぜ、真里菜は劇団をやめたのですか?
 ――わからない。宮川に聞いたのだが、舞台をあきらめて普通の生活がしたいと言ったそうだ。
 ――……。
 芹菜は唐突に電話を切った。
 二人とも、どうしたというのだろうか。芹菜は家庭に幸せを得、真里菜は女優としての幸せを掴む――。つい先日、私は二人が再会した時、そう信じて疑わなかった。
 出産を控えた芹菜の表情と、女優として階段を駆け上がって行く真里菜の表情を思い起こしても、そこには何の不安も感じられなかった。わずかな期間に一体、何があったというのだろうか。
 真里菜の消息を訪ねようと思い立った私は、劇団に出向き、事務所で真里菜の住所を尋ねた。個人情報であることから、劇団の事務員は最初のうち渋ったが、出版関係で取材をしたい旨、伝えると、今度はいとも簡単に住所を教えてくれた。
 真里菜は西宮市に住んでいた。地図で住所の位置をしらべると、阪急電車の西宮北口駅で下車して北に向かって少し歩いた場所に真里菜の住まいがあることがわかった。
芹菜に連絡をして、
 ――これから真里菜の住所を訪ねるのだが、一緒に行かないか?
と誘うと、芹菜は、30分後に阪急電車の梅田駅で、と言って、一緒に行くことを快諾した。
 芹菜の様子を見ていると、真里菜とはあの日以来、会っていない様子だった。普通なら再会によって、再び付き合いが始まるはずだと思うのだが、二人の間にはそれがなかった。芹菜と真里菜の間にはそれほど深い友情がなかったということになるのだろうか。それとも、お互いに相容れない何かがあるのだろうか――。
 約束の30分後、芹菜は阪急梅田駅に現れた。少しやつれた感じはあったが、元気な様子で、子供を流産し、夫と別れた暗さを感じさせることはなかった。
 梅田から特急電車で約15分ほどで西宮北口に着く。その間に、芹菜に離婚に至る事情を聞くと、しごくあっさりと、「愛情が冷めたから」と答えた。
なぜ、愛情が冷めたのか、冷めるようなことがあったのか、聞こうと思ったが、芹菜はそれ以上話したがらなかった。
 西宮北口駅で下車して、北側の出口を出て、5分ほど北に向かって歩いたところに、真里菜の実家があった。高級住宅街にふさわしく、真里菜の実家も豪華な佇まいを見せていた。
 チャイムを押すと、真里菜の母親らしき人物の声が聞こえて、「どちらさまですか?」と聞いた。
 「井森と申しますが、真里菜さんはご在宅でしょうか?」
尋ねると、「しばらくお待ちください」と声がしてインターフォンが切れた。
 しばらくして門が開き、母親らしき人物が私たちの目の前に現れた。
 「お世話になっています。真里菜の母親です」
 と丁寧な挨拶をした後、母親は、
 「真里菜にどんなご用でしょうか?」
 と聞いた。
 私は、真里菜さんの友人で、真里菜さんが劇団をやめたことを知って驚いている旨を話し、ぜひ、真里菜さんにお会いして、その辺の事情をお聞きしたい、と思って訪ねたと説明をした。
 真里菜によく似た顔立ちの母親は、
 「真里菜はもうこの家にはおりません」
 と答え、「結婚をすると言って家を出ました」と暗い表情で話した。
 「結婚? どんな方とですか」
 私が聞くと、母親は首を横に振って、
 「何も言わずに出て行きました。本当にしようのない娘です。演劇をやる時も、私たちの反対を押し切って……。今度は演劇をやめて結婚すると言い出して」
 「どこに住んでいるか、連絡はないのですか?」
 「ありません。出て行ったきり、そのまま何の連絡もしてきません。相手の男も、一度ぐらい挨拶に来てもよさそうなものなのに、何も言ってきません」
 母親はそう言って憤慨した様子を見せた。
 私たちは、傷心の思いで真里菜の実家を後にした。これで手がかりはすべてなくなった。真里菜は一体、どこへ消えたのか。真里菜に何があったのか――。
 私たちは、再び劇団を訪ね、出版社ですが、と断って、真里菜と交際していた人物を知らないかと、稽古途中の劇団員数名に訪ねてみた。だが、誰もが首を振り、練習熱心な真里菜にはそういった噂などまるでなかったと口を揃えて答えた。それほど真里菜は真剣にわき目も振らずに演劇に打ちこんでいたのだ。
 「そう言えば――」
 劇団員の一人が思い出したように声を上げた。
 「私、真里菜が劇団を退団する少し前、一度だけ目撃したことがあるわ」
 劇団員は、それが真里菜の恋人であるかどうかはわからないけれど、と断って、
 「二人で手をつないで道頓堀を歩いていたわ。後姿だったから、はっきりと真里菜と確認できたわけじゃないけど、でも、多分、あれは真里菜だった」
 「一緒にいた男性はどんな感じの人でしたか?」
 私が聞くと、劇団員は首を振って「わからない」と答え、
 「でも、ごく普通の、真里菜と同年代ぐらいに見える男性だった」
 と話した。
 劇団を出て、難波へ出た私と芹菜は、千日前の喫茶店に入った。芹菜にどうしても聞いておきたいことがあった。
 「この間、真里菜と一緒に芹菜の住まいを訪ねたことがあっただろ。あの後、二人は一度も会っていないのか?」
 芹菜は首を振り、「何度か電話をしたんだけど……」と答えた。
 「電話をしても真里菜は会わなかった?」
 「劇団の稽古が忙しくて、と言っていたわ」
 「芹菜と真里菜の仲は本当のところどうだったんだ?」
 私が一番、確認したかったことだ。
 「――私は、真里菜のことを友だちと思っていたけど、真里菜はそうじゃなかったのかも知れない」
 芹菜は、小さくため息をつくと、私に今までのいきさつを話して聞かせた。
 
 ――この間、私が真里菜に言った言葉で、宮川さんに言われたこと、真里菜の方が私より演劇人としての才能があるって言ったこと、あれ、本当は嘘なの。真里菜に頑張ってもらいたくて私、咄嗟に嘘をついたの。
 真里菜と私は劇団の同期で、年齢も一緒だったからとても仲がよかったの。一緒に遊んで、一緒に食事をして、編集長ともよく三人で一緒に呑みに行ったでしょ。でも、途中から真里菜がひどく私を意識するようになって……。真里菜が私にだけは負けたくない、とライバル意識を持っていたのはわかっていたけど、そこまで強いとは思っていなかった。
 宮川さんが、私を呼んで、芹菜と私のどちらかを抜擢するつもりだが、きみを選ぶからそのつもりで、と言われた時、私、真里菜に悪くて――。真里菜と仲たがいするのが嫌だった私は、ちょうど、両親の離婚問題があったから、それにかこつけて劇団を退団したの。私はその程度の人間、でも、真里菜は違う。真里菜は必死で女優になろうとしていた。私は真里菜を応援していた。でも、大阪を離れる時も、高知に帰ってからも、どれだけ連絡をしても真里菜は返事をくれなかった。なぜだろう、真剣に考えたわ。でも、どれだけ考えてもわからなかった。そのうち、私が真里菜に役を譲ったことがわかったのだろうか、そんなことを考えるようになった。真里菜はプライドの高い女の子だったから、それが許せなかったのかも知れない。大阪へ戻ってからも幾度か電話を入れたけれど、不通になっていて、電話がかからなかった。番号を変えたんでしょうね。でも、劇団のニュースや舞台を時々、覗き見て、真里菜が頑張っていることを知り、私、とても嬉しかった。
 結婚したのは、劇団に戻ることをあきらめて働き始めた時、とても親切にしてくれた同僚がいて、その人のやさしさに打たれて、同棲するようになって、子供ができたことを知り、籍を入れた。流産をしたのは、彼とちょっとした諍いがあったからなの。ある日、酒に酔い、上機嫌で帰って来た彼のカッターシャツに、ピンクの唇の跡があった。彼に、これはどういうことなの? と聞いたら、彼が怒って、酔いも手伝って、私を突き飛ばした。その時、お腹を椅子で強く打ったことが致命傷になって、流産をしたわ。悲しかった。夫を恨んだ。そんなことがあって、私たちの仲は急速に冷え込んでいった――。
 離婚をしたのは、その後のこと。夫は私に一言もやさしい言葉をかけてくれなかった。夫のやさしさの本質を知った思いの私はかえって吹っ切れることができた。
 別れる前から夫とはコミュニケーションがなくなっていた。今も夫とは何もない。私は夫に何も要求していないけど、お腹の中の子供への謝罪の言葉ぐらいは聞きたかった。
 脚本も、真里菜が退団したと聞いて、少し意欲が薄れているの。私の脚本を真里菜が演じる。それが私の夢だったから――。
 
 芹菜の話を聞きながら、私の中に一つのことが思い浮かんだ。
 「芹菜の旦那は、今、どこに住んでいる?」
 芹菜は、まだ、元のマンションに住んでいるはずだと答えた。
 「旦那に会いに行こう」
 私が言うと、芹菜は「会いたくない」と言って首を振った。
 それでも強引に私が誘うと、芹菜は、
 「お腹の子供への謝罪なら、もうあきらめています」
 と答えた。
 「だから、もう行かなくてもいい。会いたくない」
 そんな芹菜を強引にタクシーに乗せ、私は芹菜の元夫の住むマンションを目指した。
 「編集長、私、もう元の鞘に戻る気はありませんから」
 後部シートに座った芹菜は、そう言って私に断った。
 「私は彼のやさしさに惚れて一緒になりました。でも、そのやさしさは偽りのやさしさだった。本質が透けて見えると、愛は一気に冷めるものです。編集長がどのよう意図で私を連れて行こうとしているのかわかりませんが、そのことだけはご承知ください」
 芹菜の気持ちは痛いほど伝わってきた。しかし、私には、芹菜の元夫のところへ行き、どうしても確かめなければならないことがあった。
 マンションの前に到着すると、管理人に出くわした。管理人は芹菜を見ると、何か言いたげな表情を見せたが、何も言わず、黙して私たちを通した。
エレベーターに乗って十階に到着すると、芹菜は一瞬、懐かしげな表情を見せた。
 このマンションで、この場所で、つい最近まで芹菜は幸せを感じていたはずだ。それが今は――。芹菜を見て、私は人生の、あるいは愛の儚さを呪った。
 チャイムを鳴らすと、声が聞こえてきた。明るい透き通った女の声だ。
 「山本です」
 芹菜の顔が一瞬、曇った。別れてまだ間がないというのに、夫はもう女と一緒に住んでいる。なんて人だ。
 「井森です。極楽出版の井森です」
 インターフォンの向こうの声が一瞬止まった。ドアを開ける気配もない。
 「真里菜さん、井森です。出て来てください。芹菜さんも一緒に来ています」
 芹菜が一瞬、えっと叫び声を上げて私を見た。
 「真里菜がどうして?」
 私は言った。
 「今にわかります」
 もう一度、チャイムを鳴らした。すると、恐る恐るドアが開いた。そこにいたのは真里菜だった。
 
 あの時、芹菜と再会した真里菜は、子供を宿し、やさしい夫を得て、これ以上ない幸せを満喫している芹菜を見て、羨望の眼差しを向けた。劇団時代、芹菜は真里菜にとって目の上のタンコブだった。常に芹菜にリードされている気がしていた真里菜は、芹菜に負けまいと必死になって稽古に励んだ。だが、それでも真里菜は芹菜に勝てなかった。
 ようやく決まりかけた舞台の役も、宮川は真里菜ではなく芹菜を選んだ。再会した時、芹菜はその時のことを弁明したが、すべてを知っていた真里菜には芹菜の思いやりに満ちた言葉が屈辱的に聞こえた。芹菜に負けたくない、その一心で凝り固まった真里菜は、芹菜の夫を誘惑した。芹菜の夫は他愛もなく真里菜の誘惑に乗り、真里菜と深い仲になった。真里菜は、酔った芹菜の夫のシャツに口紅をつけ、芹菜の混乱を狙った。芹菜は流産し、流産をしたことが夫との仲を冷えさせた――。
 
 「編集長、幸せってなんでしょうね?」
 帰りのタクシーの中で芹菜が聞いた。
 「努力なしでは掴めないものじゃないかな」
 私が答えると、芹菜は、笑って言った。
 「安易に伴侶を選んで、何の努力もしないで、うわべの付き合いをして幸せだと思っていたことが幻想にすぎなかったことに気が付きました。今度こそ私、精一杯努力をして、本当の幸せを掴みます」
 ――以後、私は芹菜にも真里菜にも会っていない。だが、芹菜が次々と脚本を発表して、演劇界に新風を送り込んでいるという情報は耳にしている。それが芹菜の幸せかどうか、私には知る由もなかったが、真里菜のその後についてはまるでわからない。芹菜の夫と共に幸せを掴んだのだろうか、気になったが、いつの間にか転居していて、その消息を知る手立てはまるでなかった。
〈了〉

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