女王涼子
高瀬甚太
子供の頃から女王様だった。
誰もが納得する美しさが木屋涼子にはあった。その美貌は年齢と共にさらに磨きがかかり、高校生の頃には学校のみならず、広く地域の噂に上るほどその美貌は際立っていた。
涼子の周りには常に三、四人の同級生女子の取り巻きがおり、少し離れたところには、男子たちで作られた親衛隊が十数人、涼子を護るかのように鎮座していた。
担任の金井忠彦は、今年の五月に三〇歳を迎えたばかりの独身だったが、彼もまた涼子に魅了されていた一人だった。いや、正確に言えば、金井に限らず、独身、既婚、年齢を問わず、大半の男性教師が涼子の美しさに魅せられていたといっても過言ではない。
涼子が高校二年に進級した春のことだ。涼子のクラスに転校生がやって来た。涼子の学校は私立の名門校であったから、この時期に転校生が入るなど珍しいことのように思えたが、その生徒の転入の際には、わざわざ校長がその男子学生の隣に立ち、紹介をした。
転校生は速水陽一と言った。一メートル八〇センチは優に超えるだろう身長と、スポーツマンらしい体格、朴訥で爽やかな笑顔は一瞬にして女生徒たちを魅了した。
涼子もまたその転入生を興味深く見つめていた。いかにも田舎育ちらしい素朴な雰囲気が都会ずれした男子を見て来た涼子の目に新鮮に映ったからだ。
校長は速水を紹介する際、
「当校のスポーツ史を塗り替える生徒です」
と語った。
涼子の高校は、高校野球で一躍その名を知られ、名門と呼ばれるまでになった学校だったが、近年、進学校としての名声の方が高くなり、スポーツ面での名声はかなり沈下していた。
速水が転校してくる数日前、金井は校長室に呼ばれた。金井が校長の前に立つと、校長は一枚の写真を取り出し、それを金井に見せた。写真に写っていたのは速水だった。
「金井くん。きみも知ってのとおり、我が校はもともとスポーツの名門校だった。それがどうだ。監督のきみには申し訳ないが、この十数年というもの、あれほど強かった野球は三回戦敗退がいいところ、陸上、バスケット、バレーボール――。すべて他校の後塵を拝している。確かに進学校としての名声は上がったが、文武両道を基本とする我が校の建立精神を考えると、このまま放っておくわけにはいかない。そこで私は考えた。いい人材を確保する必要があると――。ヒーローが必要なのだ。一人でもヒーローが誕生すれば、逸材は集まってくる。そこで選んだのが速水くんだ」
金井は校長が取り出した写真を凝視した。だが、高校野球界で見覚えのある顔のようには思えなかった。
「校長、この速水という生徒ですが、それほどの逸材であれば中学時代からすでに名前が知られていると思うのですが、私は名前も顔もまったく存じていません」
校長は頷くように頭を二度ほど振って、金井を見た。
「そりゃあそうだろう。彼は無名の選手だからな」
校長の言葉に金井は驚いた。無名の選手が救世主になどなり得るはずがない。
「救世主になるよ。彼は必ず。徳島の片田舎で私が見つけてきた生徒だ」
と校長は語り、速水を見つけたいきさつを金井に説明した。
「大学時代の親友から電話があって、うちの高校に素晴らしい逸材がいると連絡を受けた。そんな話は山のようにあるからね。あまり期待はしていなかったが、友人にも会いたかったから二月の終わりにその学校を訪ねた。そこで紹介されたのが速水くんだった。確かに体格は素晴らしいが、体格と技術は別物だ。そこで私は友人に尋ねた。彼の何がいいのかと。すると友人は、まあ見ていてください。そう言って速水に投球を命じた。その時、捕手が二人縦に並んで座った。おかしいことをするなあと思いながら見ていたよ。でも彼が投げたボールのスピードを見て納得した。すごいスピードボールだった。160キロは軽く超えていたのではないか。おまけに切れもある。しかも球質が重たい。一人では受け止められないから捕手の後ろにもう一人捕手が座って支えなければならかったのだ。友人は言ったよ。速水が出場できればうちのような田舎の学校でもいいところまで行くに違いない。だが、彼の球を受け止める捕手がいなかった。何人か試してみたが、誰も受け止めることができなかった。だから仕方なく二番手の投手で戦ったよ。勿論惨敗だ。このまま速水を眠らせておくのはあまりにももったいない。そう思っておまえに連絡したのだと、友人は私に説明をした。私は彼をうちの高校に転入させ、甲子園を目指す。そう宣言して速水を転入させることにした」
校長の話を聞いて、金井はある程度理解できたが、最終的に自分の目で確かめたいと思い校長に申し出た。
「私が球を受けますから、速水くんに一度投げさせてもらえませんか? そのうえで判断したいと思います」
校長は金井の申し出に快く応じた。自分が斡旋した下宿で待機する速水に連絡を取ると、至急学校に来るように命じた。十数分後、速水が金井の前に現れた。速水を見た金井はいい体格をしているなあ、と思い、野球の経験を聞いた。
「高校の体育の時間に遠投の距離を競う項目があって、投げたらかなりの距離が出ました。それを見た野球部の監督に野球をやれ、と勧められて入ったのでまだ七か月ほどにしかなりません」
その言葉を聞いて金井はがっかりした。球が速いだけでは野球はできない。七か月では物にならないかも知れない。
金井がミットを構えるのを見届けると、速水が両手を上に掲げモーションをつけた。速水は左投げだった。速水はウォーミングアップもせずに硬球を握り締めると大きく振りかぶった。
空気を切り裂くように、唸りを上げた球が金井の構えたミットに吸い込まれた。その瞬間、あまりのスピードに金井は後ろへひっくり返った。ミットをしているのに手がジンとしびれた。何という剛球だ。金井は仰向けに倒れたまま起き上がれなかった。
スピードガンなら165キロを計測しただろう。ただ早いだけではない。手元に来てグンと伸びた。高校野球ならこの球だけで決勝に上り詰めることができる。高校生に打てる球ではなかった。
しかし問題は速水の球を受ける捕手の存在だと金井は思った。しかし、校長はすでに金井に対して回答を用意していた。
校長はレスリング部の天田という選手を野球部に入部させるよう働きかけ、捕手にする計画を立て、すでに交渉を済ませていた。
学校中がすぐに速水の噂で持ちきりになった。放課後、野球部が練習するグラウンドには、大勢の生徒が押し寄せるようになった。
速水の存在が際立ってくるにしたがって、女王としての涼子の存在が薄れてきた。
それは学内だけにとどまらなかった。街中の注目の的であり続けた涼子に変わって、今は速水が話題を独占していた。
夏の高校野球大会予選が始まるとそれはさらに加速した。
金井監督が懸念していた捕手の問題も、レスリング部の天田が速水の剛球をしっかりと受け止め、捕手の役割をしっかりとこなすようになっていた。レスリング部の精鋭だっただけあって、天田は足腰がしっかりしており、度胸が据わっていた。
予選第一試合から完全試合をやってのけた速水は続く第二戦でもノーヒットノーランという快挙を成し遂げ、試合が進むごとに学内は言うに及ばず町中が熱狂した。
速水の活躍と反比例するように、涼子の日常は大きく変化を遂げた。学内の生徒たちは、速水を応援することに熱中するようになり、涼子に関心を示さなくなった。取り巻きや親衛隊は日を追うごとに少なくなり、涼子は一人でいることが多くなった。
涼子は持って生まれた美貌にさらに磨きをかけた。そうすれば去って行った者たちを取り戻せる、そう考えていたからだ。
単なる一時的な熱病だろうと涼子は考えていた。一時的に人気を博す生徒はこれまでも多くいた。しかし、そんな人気はすぐに沈下し、消えた。しかし、涼子はそうではなかった。涼子の美しさは多くの人々を魅了し、学内だけでなく、街中の人気を呼んだ。
涼子は美しさを際立たせるために日々努力していた。他人が自分をどう見るか、そのことを常に考えていた。その結果、涼子は自他ともに認める女王様として君臨するようになったのだ。
田舎の野球バカ、涼子が持っていた速水のイメージは速水を知るに従って消えて行った。
速水は学業も優秀だった。転校して間もないのに最初の中間テストでクラスの五位に入った。それだけではない。彼は男子生徒、女生徒、誰とでも気軽に接し、相手に嫌な思いをさせることなど一切なかった。野球でどんなに人気者になろうとも、それは変わることはなかった。
涼子も速水と何度か話したことがあった。ふつうの男子生徒は、涼子の前でたいてい気おくれするか、眩しそうにみて、しどろもどろになることが多いのだが、速水は他の女子生徒と接するように涼子に接した。
涼子は、速水は自分に関心がないのでは、と思った。だが、そんなはずはない、と否定した。今まで自分に関心を持たなかった男は一人もいない。それは上級生であろうが、教師であろうが同様だった。それだけに涼子は自分の美しさに絶対的な自信を持っていた。
放課後、野球の練習に出ようとする速水に廊下で出会った涼子は、
「速水くん、頑張ってね。応援しているから」
と声をかけた。速水は、
「ありがとう」
と手を上げてそのまま走り去った。
速水の後ろ姿を見送りながら涼子は自分に対する速水の関心の薄さに腹が立った。
また、ある時、涼子は教室の中で速水に徳島について尋ねたことがある。 涼子の斜め後ろに速水が座っていた。涼子は斜め後ろに視線をやり、
「速水くん。少し教えてもらえませんか?」
と聞いた。速水は、座ったまま、
「いいですよ」
と笑顔で言った。
「速水くん、徳島でしょ。今度、祖母が徳島へ旅行に行くのですけど、徳島へ行くとしたらどこがいいですか?」
涼子の問いかけに速水はしばらく考えていたが、
「すみません。ぼく、徳島の人間ですけど、県内のことあまり知らないんです。申し訳ない。ネットで調べたらすぐに出てきますよ」
と頭を掻きながら答えた。会話はそれ以上進展せず、話はそこで途切れた。
今までの男だったら、涼子が尋ねるとすぐにチャンスとばかりに近寄って、知りたくもないことまで教えてくれ、後で調べて情報を提供してくれたものだが、速水はそうではなかった。
涼子は苛立った。自分に対してあまりにも無関心なことに腹が立って仕方がなかった。
そうしているうちに涼子の高校は決勝に勝ち上がった。
高校野球の予選が始まって以来、スポーツ紙に速水の名前が載らない日はなかった。彗星のごとく現れた豪速球投手の存在はメディアにとって恰好の標的だった。しかし、朴訥で明るい速水は、決して奢ることはなく練習をし、ひたすら腕を振り続けた。
決勝の近づいたある日、涼子は速水に声をかけた。
「速水くん、私も応援に行きますから頑張ってくださいね」と。
しかし、速水は涼子の期待したような反応を示さなかった。笑顔で「ありがとう」と言い、それで終わった。速水は自分を嫌いなのだろうか。何とも思っていないのだろうか、涼子は初めて味わう屈辱に体が震えた。
あなたみたいな田舎者、誰が相手にするものですか。あなたなんか野球を取ったら何も残らないじゃないの。心の中でそう叫び続けた。
決勝戦の日、校長以下学校中の教師、学生すべてが総出でスタンドに集合した。
勝てば甲子園大会出場が決まる。速水に寄せる学校関係者の期待は大きかった。
涼子はこの日、応援に行こうか行くまいか逡巡した。この私がなぜ、速水の応援に炎天下のスタンドにいなければならないのか。肌を陽に焼くことも気がすすまなかったし、速水に対する腹立ちもあった。
だが、一人だけ欠席するわけにはいかなかった。いつもなら迎えに来るクラスメートの取り巻きもこの日は現れなかった。仕方なく涼子は大きめの帽子を用意し、日傘をさして球場に向かった。
スタンドに入り、座った涼子が日傘をさそうとすると、後ろに座った生徒に、
「見えないから日傘をさすのをやめてください」
と言われ、もう一人の生徒にも、
「その大きな帽子、どうにかならないか」
と苦情を言われ、渋々日傘を閉じ、帽子を脱いだ。
プレーボールのサイレンが鳴り、大きく振りかぶって投げた速水の初球に、超満員に膨れ上がった球場が一斉にどよめきの声を上げた。スピードガンの表示が163キロを示していたからだ。
すべての視線が速水に注がれていた。涼子に注目する者など誰もいなかった。
激しく照りつける太陽の下で、速水は連投の疲れをものともせず、打者に向かっていた。野球に関しては全くの素人だった涼子もスタンドの熱狂につられていつの間にか速水の一挙一動に注目するようになっていた。
速水に対する声援は止むことがなかった。その声援に応えるように相手チームを速水は五回までパーフェクトに抑えた。だが、味方チームの打撃が芳しくなく、無得点のまま、スコアボードにゼロが並んだ。
ゼ ロ対ゼロの手に汗握る投手戦になっていた。スタンドで見守っていた涼子もいつしか声を上げて速水に声援を送るようになっていた。太陽に肌をさらし、メガホンを振る涼子のそれは普段の涼子を知る者にとっても驚きであっただろう。
涼子が人を応援するなど初めてのことであった。常に他人に思いを寄せられ、応援を受けてきた主役的存在であった自分が、今、紛れもなく脇役に回っている。そのことを涼子は実感していた。
常に主役でいなければならない。そんな自分の立場を誇示してきた涼子にとって、一時的にしろ脇役に回るなど屈辱以外の何物でもなかったが、今の涼子はそんなことすら頭にないほど、夢中になって試合を応援していた。
息詰まる熱戦が続き、試合は延長戦に進んだ。延長十二回表、とうとう速水が打たれ、ヒットを許した。速水は疲労困憊していた。腕が振れなくなっていたのだ。金井監督もそれをわかっていたが、かといって速水に代わる投手はいなかった。負けても仕方がない。金井監督は腹をくくって戦況を見守った。
次打者にフォアボールを出し、一塁二塁にランナーが出た。最大のピンチにさすがの速水も焦ったのだろう。次の打者にデッドボールを許した。
ツーアウトフルベース、最大のピンチに速水は思わず天を見上げた。その時、スタンドから大声援が起こった。しゅんとなったスタンドを沸かせたのは、涼子の一言だった。
「速水くん頑張って!」
何でもない一言なのに、スタンドのボルテージは一挙に上がった。他でもない、女王涼子が髪の毛を振り乱して応援をリードしたのだ。他の者が追随しないはずがない。
一気に起きた大声援の主、涼子に視線をやった速水は、帽子を取って軽く会釈をすると、
大丈夫、打ち取ってみせる、と言わんばかりに手を振った。
青い空が天に広がり、ちぎれた雲の破片が青を引き立たせるかのように散りばめられている。マウンド上の速水がキャッチャーを見つめ、大きく振りかぶると、場内は一瞬、静まり返った。
160キロを表示する直球が三球続き、バッターは一度もバットを振れないまま三振に倒れた。その瞬間、速水はスタンドに向かって吠えた。
その裏の攻撃、相手の失策によって塁に出た六番打者が盗塁で二塁に進んだ。七番打者が絶妙の送りバントで走者を三塁に進め、ワンアウト三塁で得点のチャンスが生まれた。金井監督は次打者の天田にヒットエンドランのサインを送った。今日、ノーヒットの天田はワンボールワンストライクの後の三球目をおっつけるようにして打った。天田の打球はヒュルヒュルと一塁二塁の間を抜け、外野に転がった。それを見た三塁ランナーは両手を上げてホームを踏んだ。劇的なサヨナラ勝ちだった。ベンチから速水を先頭に全員が飛び出し、ホームに帰って来た天田を祝福した。スタンドの熱狂は頂点に達していた。
涼子もまた歓喜の渦の中にいて、だれかれ構わず手を握り、ピョンピョンと飛び跳ねていた。
その日の夜、涼子は心地良い眠りに就いた。
速水の夢を見た。速水がグラウンドに立って吠えていた。土と汗、泥にまみれた速水の姿を涼子は美しいと思った。声援を送ると、速水は手を振って応えてくれた。
幼い頃から美貌が注目され、多くの取り巻きに囲まれてきた女王、涼子は、これまで常に主役として君臨してきた。注目され、憧れとされる存在を目指すのはそんな涼子にとって当然のことだった。しかし、その結果、涼子は真の共にめぐり合うことなく今日まで来た。共に泣き、共に笑う、そんなことなど無縁のもののように思ってきた涼子が、初めて体験した野球部の応援。声を枯らし汗にまみれて必死になり、無我夢中になって声援を送るその時の涼子には、自己愛、利己主義のかけらもなかった。
夢の中で涼子は、何かを必死になって念じていたように思う。ただ、目覚めた時、それはきれいさっぱり失われていた。だから自分が何を念じたのかまるでわからずにいた。ただ、何かを念じた、その記憶だけが残っていた。
翌日、涼子は通学の途中、改札口に入り、ホームへの階段を上がって行く途中、涼子の目の前で老婆が転んだ。涼子は老婆に近づくと、「大丈夫ですか?」と声をかけた。
老婆は、笑いながら「大丈夫ですよ」と涼子に応えた。涼子は老婆の手に持っていた大きなバッグを手にすると、
「電車の中まで持って行ってあげますわ」
と言い、老婆の手を引っ張ってホームに立った。
今までの涼子なら気持ちで思ったとしても行動には出せなかっただろう。 自然にそれができたことが不思議でならなかった。
電 車の中へ老婆の荷物を持ち、手を引っ張りながら、涼子は夢の中で自分が念じたことを思い出した。
「人を思い切り愛したい」
夢の中で涼子は確かにそう念じた――。
学校への道を急ぎながら、涼子は自分も何かスポーツをしようと思い始めていた。女王様にふさわしくテニスがいいのでは、いや、陸上もいいのでは――。あれこれ考えているうちに学校に着いた。クラスメートが「おはよう」と言って近づいてきた。涼子も「おはよう」と言って笑顔を向けた。その笑顔は女王様の笑顔にはほど遠い庶民的な人懐っこい笑顔だった。
〈了〉
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