三十歳差の恋

高瀬 甚太

 小柳洋一に夕食を誘われた時、那須史江は、小躍りする胸の内を抑えきれなかった。それでも、興奮を押し殺し、わざと考えるふりをして、
 「仕事の様子をみてお返事します」
 わざと気を持たせるようなふりをして返事をした。
 小柳は、頭を掻きながら、
 「いや、いいんだよ。無理なら。ごめんね」
 と照れ笑いをして、その場を立ち去ろうとした。慌てた史江は、小柳の背中に向かって、
 「大丈夫ですよ。仕事、片付けて行けるようにしますから」
と叫んだ。
 小柳と史江との間には、三十歳の年の開きがあった。史江が二十五歳、小柳は五十五歳、親と子ほどの年齢差があるというのに、史江は、小柳のことが気になって仕方がなかった。
 史江の勤務する会社に、小柳が出入りするようになって半年が経つ。小柳は小さな出版社を経営していて、史江の会社に出入りするようになったのは、社長の田坂幸太郎に自伝を依頼されたことによる。その取材や打ち合わせなどで、小柳は、この半年間、頻繁に史江の会社を訪れていた。
 史江は、総務兼社長秘書のような役割をしていたこともあり、小柳と接する機会が多かった。
 社長が不在で留守の時、小柳は社長室で帰社を待つことが多かった。多忙な田坂は、小柳と約束をしていても、仕事の用件が入ると、小柳との約束をすっぽかして社を出てしまう。約束を違えたのは自分であるにも関わらず、帰社して小柳が待っていないと不満を漏らすことがよくあった。そのため、小柳は、田坂が不在の時でも、辛抱強く社長室で田坂を待った。そんな小柳に史江は同情した。常に笑顔を絶やさない小柳は、史江の淹れるお茶をいつも美味しく飲み、話しかけてきた。他愛のない会話であったが、史江はいつしか、そんな小柳に関心を寄せるようになっていた。
 定時に仕事を終えた史江は、待ち合わせ場所の地下鉄のM駅出口に急いだ。駅を出て、階段を上がると商店街の入り口で、商店街を行き来する人通りに紛れるようにして小柳が待っていた。女性にしては一メートル七十五センチと背が高かった史江は、子供の頃からそのことをコンプレックスにしてきた。しかし、小柳の前に立つと、その長身がそれほど目立たないことに気を良くしていた。ガッチリとした体格で、身長も一メートル八十センチに近い小柳は、史江を見つけると、はにかむような笑顔を見せ、大きく手を振った。
 「小汚い店で申し訳ないけれど――」
 と断って、小柳は史江を商店街から少し外れた小さな居酒屋に史江を案内した。 
 「おや、珍しい。小柳さんが若い女の子を連れて来るなんて。雨でも降らなきゃいいんだけれどね」
 出迎えた店の店主が小柳をからかうようにして言った。小柳は、照れ笑いをしながら奥の席へ史江を座らせ、「ビールでよかったかな?」と尋ね、大きな声で、
 「生ビール二杯!」
 と注文をした。
 「この店は、小汚いし店主の口も悪いが、不思議と料理だけは美味しいんだ。那須さんにもきっと気に入ってもらえると思う」
 と言って、料理をいくつか注文した。小ぢんまりとした店内にアットホームな空気が流れている。いつの間にか、店内の席が埋まり、店員二人と亭主が厨房と客席を慌ただしく行き来し始めた。
 一時間ほど過ぎた頃、史江はいつになく心地良い気分に浸っていることに気が付いた。ビールを数杯呑み、料理に舌鼓を打ち、小柳と他愛もない会話を繰り返しているうちに、ずいぶん以前から小柳と付き合ってきたような錯覚を起こした。
 小柳は、どれだけ酔っても史江を口説いたり、セクハラまがいの言葉を口にしたりはしなかった。むしろ史江の話に真剣に耳を傾け、聞くことの方が多かった。それが史江には心地良かった。
 何を話したのか――。史江はほとんど覚えていなかった。
 亡くなった父のこと、仲たがいしている母親のこと、昔、好きだった男性のことなど、これまで女性の友人たちにすら話しことのない内容が多かったと思う。小柳と話し、そうしたことを話すことで、心の中に鬱積していたさまざまなものが自然に雲散霧消した。
 店を出た後、地下鉄の駅まで小柳は史江を送った。
 「一人で帰れますか?」
 いつになく多量の飲酒をしていたが、史江はさほど酔ってはいなかった。
 「大丈夫です。帰れます」
 答えると、小柳が言った。
 「そうですか。気を付けて帰ってください。今日は本当に楽しかった。那須さんさえよければいつでもご馳走させていただきますよ。また呑みに行きましょう」
 小柳の言葉に、反射的に史江が答えた。
 「本当に? こちらからお願いしてもいいですか」
 小柳は、少し驚いた顔をしたがすぐに笑みをこぼした。
 「いいですとも。大歓迎です」
 小柳が大きな両手で史江の手を覆った。固く力強い手の平に温かなものを感じ、史江の胸が一瞬震えた。それが二人の交際の始まりになった。
 二度目の時、誘ったのは史江の方からだった。社長室で田坂の帰りを待つ小柳にお茶を淹れながら、史江は小柳に先日の礼を言った。
 「いえいえ、こちらこそ楽しかった。ありがとうございます」
 恐縮した小柳が史江に礼を言うと、間髪を入れず史江が言った。
 「小柳さん、よかったら、また連れて行ってもらえませんか?」
 てらいもなく史江が言ってのけると、小柳もまた、ごく自然に答えた。
 「いいですよ。いつがいいですか? 那須さんの都合のいい日時を教えてください」
 「早速ですけど、明日なんかどうですか?」
 「明日ですね。かまいません」
 年上とはいえ、男性に誘いをかけるなど、これまでの史江には考えられないことだった。だが、史江は、小柳の前だと、ごく自然に素直に振る舞うことができた。

 夏の終わりに近い時期、史江はすでに小柳と数回の逢瀬を重ねていた。呑んで食べて話をしてそれで終わりという、親子か友人のような関係が続いた秋の日の夜、異変が起きた。
 その夜、いつになく史江は痛飲した。
 「那須さん、そのぐらいにしておいた方がいいんじゃないですか」
 小柳が止めても、史江は呑むことをやめなかった。小柳が心配げな表情で史江の顔を覗き込む。すると、史江はもっと小柳に心配させてやれと言わんばかりに、ビールを呷る。元々、酒に強く、父親に子どもの頃から鍛えられてきた史江ではあったが、さすがにこの時ばかりは少々呑みすぎた。店を出るまではそうでもなかったが、店を出てしばらく歩いたところで嘔吐しそうになった。若い女性が路上で嘔吐するのはあまりにもみっともない。そう考えた小柳は、史江を抱きかかえるようにして、近くにあったラブホテルに飛び込んだ。
 ホテルの一室にある浴室とトイレが一緒になった部屋に史江を運び込むと、小柳は扉を閉め、史江の回復を待った。史江は、嘔吐する瞬間、衣服を汚してはならないと思ったのか、着ている衣服をすべて脱ぎ捨て素っ裸になり、トイレで嘔吐を繰り返した。それは史江のいつもの習慣であった。
 三〇分ほど過ぎただろうか。おそるおそるトイレを開けると、便器を抱えるようにして素裸の史江が眠っていた。お腹の中のものをすべて吐き捨て、ようやく落ち着いたのだろう。すっかり冷たくなった史江を見て、自身も裸になった小柳は、史江を抱きかかえて湯で満杯にしたバスの中へ入った。冷たかった史江の白い体が次第に上気し、眠りの中にいた史江がホッとため息を漏らした。
 バスから出た小柳は、素裸のままでいる史江の体をバスタオルで拭き、ベッドに横たわらせ、毛布を被せた。二五歳の史江の裸身は美しく、まばゆいほどの光を放っていた。小柳は、男としての欲情を押し殺して史江の傍を離れ、ベッドの近くにあったソファに横たわり、照明を消した。
 一時間ほど過ぎた頃、小柳の耳に、
 「寒い――」
 と言う史江の声が響いた。
 慌てて飛び起きた小柳は、史江に尋ねた。
 「大丈夫ですか?」
 史江は、それでも頻りに寒いを繰り返した。被せる毛布はもう残っていなかった。一計を案じた小柳は史江の隣に横たわり、そっと史江を抱き締めた。
 「服が冷たい」
 小柳に抱かれた史江が小柳を突っぱねる。どうやら史江はまだ酔いから醒めていないようだった。
 仕方なく小柳は、下着一枚を残したまま裸になり、史江をそっと抱き寄せると、小柳に抱かれた史江は、安堵したかのように軽い寝息を立てて眠り始めた。
 小ぶりの乳房を前にして、小柳は眠ることが出来なかった。このまま史江の中に押し入りたい。何度そう思ったか知れない。それでもずっと我慢し続けたのは、小柳を信頼して身を任せる史江の無防備さを裏切ることは出来ない。そう思ったからだ。
 翌朝、小柳が目覚めると、史江が足元に蹲って何かを注視していた。驚いて下半身を見ると、勃起した小柳の一物が史江の視線にさらされていた。慌てて隠そうとすると、史江が怒った。
 「私、男の人のモノを見るの初めてなの。もう少し見ていたい」
 「見るのが初めて? じゃあ、那須さんは男性経験がないの?」
 史江が笑顔で頷く。小柳は、史江が推しとどめるのを無視して、急いでパンツを穿き、ズボンを穿いた。これ以上、史江の視線にさらされてしまうと、小柳は高まる自分の欲情を押しとどめる自信がなかった。
 結局、その日の朝、二人は曖昧な気分を残したままホテルから出た。

 妻帯者である小柳は、そのことを史江に隠したことはなかった。子どもがいることも伝えていた。過去に妻以外の女性を愛し、付き合ってきたことも包み隠さず史江に話した。
 史江がどう思ったかは別にして、小柳は史江に嘘をつくことはしなかった。史江の気持ちがどうであれ、いつしか小柳の気持ちは史江に傾いていた。ただ、三十歳という年齢差が辛くもその気持ちを押しとどめていた。大人げない。その気持ちが小柳の中に常にあったからだ。
 史江は、長身のスラリとした美しいスタイルを誇っていた。小さな顔に切れ長の目が印象的な典型的な美人顔であった。男性にモテないわけがない。小柳は史江と共に酒を呑みながら、常にそう思ってきた。その史江が、男性経験がないとは俄かには信じ難かった。
 ホテルで一泊した後、小柳はしばらく田坂と会う機会がなく、史江の会社を訪問することがなかった。何となく気まずい思いをしたこともあって、小柳は、ちょうどいいと機会かも知れないと思ったりもした。
 小柳の携帯に史江から電話がかかってきたのは、そんな時だった。
 ――小柳さん、那須です。今、大丈夫ですか?
 ――大丈夫ですよ。
 答えながらも小柳は胸の高まりを抑えることが出来なかった。
 ――今日、会えないかなあ。
 ――今日ですか。いいですよ。
 この日、小柳はカメラマンとの打ち合わせを控えていた。それでも史江との時間をつい優先してしまう。小柳は、急用ができたことをカメラマンに連絡し、史江との約束を優先させた。
 史江の終業時間に合わせて、小柳は待ち合わせ場所に急いだ。小柳が到着すると同時に史江が姿を現した。ホテルで抱き合ったことなど意に介さない明るい表情で、史江は小柳に近付いてきた。
 その夜、いつものように酒を呑み、話した後、小柳は史江と共に町を歩き、公園に行きつき、そこで初めてキスを交わした。軽いキスだったが、史江の体は小刻みに震えていた。
 「私、出来ないの。そんな病気なの」
 小柳の体を押しとどめるようにして史江が言った。稀に女性に見られる病気だと史江は話した。
 「今まで何人かの人と恋したことがあるけれど、どうしても受け入れられなくて――。みんな去って行った。病気なのだと話しても、誰も信じてくれなかった。体を許さないのは、自分を愛していないからだろう、そう言ってみんな私の元から離れたわ」
 小柳は、史江を慰めるように肩を抱き、小さな声で史江の耳元で囁いた。
 「いいんだよ。何も心配しなくても」
 月明かりに照らされた公園の木々が夜風に揺らぎ、小さな葉音を立てた。小柳は史江の手を握り締めると、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。

 その夜から、小柳と史江は、これまで以上に頻繁に会うようになった。どちらからともなく誘いあうのだが、互いに惹きあうものが強くなっていたことは否めなかった。
 史江は、小柳に自らの思いを告白し、小柳もまた、それ以上の思いで史江を受け止めた。
 そんな二人が旅に出る機会を持ったのは、そんな頃だった。連休の谷間を利用して、一泊二日の旅に出ることにした。計画を立てたのは小柳だったが、旅を希望したのは史江の方だった。
 伊勢市に近い三重県の五か所湾に向かった小柳と史江は、何の観光名所もないような漁港で静かに時を過ごし、民宿旅館に宿を得た。潮風に打たれながら漁船の行き交う複雑に入り組んだ湾内の景色を眺めて、小柳の心境は複雑だった。
 ――なぜ、こんな場所までやって来たのか。
 妻には、旅の取材で出かけると言ってあった。頻繁に取材に出かける小柳を妻は疑ったことがない。史江とこれから先、どうなっていくのか、それさえもわからないまま、小柳はここまでやって来た。
 宿に戻り、遅い夕食を食べた後、史江がテレビを付けた。お笑いタレントのバカバカしい番組が流れていた。
 「お風呂に入って来るよ」
 小柳が史江に言うと、史江も立ち上がり、
 「私も風呂に入る」
 と言った。
 民宿の風呂は、男女別々になっていた。小柳は、衣服を脱いで風呂場に入り、その大きさに目を見はった。すでに五人ほどの男性が湯に浸かっていた。客だけでなく、地域の住民もこの民宿の風呂を利用するらしい。男たちの会話からそれが窺われた。
 「どこから来なさった?」
 湯船の中で高齢の老人が小柳に尋ねた。
 「大阪から来ました」
 「大阪ですか。わしも昔、大阪の東成区で働いていたことがあります。鉄工所で十年ほど働いて、この町へ戻って来て、今は漁師をやっております。やはり、故郷はいいものですなあ。生活の原点を取り戻した気がします」
陽に焼けた肌をタオルで撫でまわすようにして老人はなおも小柳に語り続けた。
 ――どうしてこの町を選んだのか。
 老人と会話をしながら小柳は、ようやくその答えを見つけたような気がした。
 観光名所と呼ぶべきものなどほとんどないこの町こそ、二人の旅に相応しかった。物見遊山の旅ではない。ロマンスの旅でもなかった。老人が都心から故郷に戻り、生活の原点を取り戻したように、小柳もまた、史江との愛を見つめ直さなければならない時期に来ていることを感じていた。そのためにも、この海の町は史江と話し合うのに相応しい場所のように思えた。
 部屋に戻ると、風呂から上がり、浴衣に着替えた史江が肩まで垂らした黒髪をドライヤーで乾かしていた。どっぷりと暮れた外景に、波のざわめきが心地よく響いた。
 食事が用意され、生鮮な魚介類が食卓を彩る。とても食べきれる量ではないように思えたが、空腹が幸いしたのか、箸が進み、一時間足らずでほとんどの料理を食べ終えた。
 「少し散歩しようか」
 「うん、行こう」
 小柳の言葉に史江が応じた。
 時刻はまだ、午後七時半を過ぎたばかりだ。二人は浴衣のまま下駄を鳴らして民宿の外に出た。外灯の少ない町であったが、月明かりが鮮やかに道を照らしだしていた。漁港が近かった。停泊した幾槽もの漁船がゆらゆらと波に揺れている。ちょうど満潮なのだろう。昼間見た時よりも船の位置が高く見えた。
 「静かね」
 史江が夜の海を眺めながら感慨深げに言った。
 「ああ、静かだね。都心では味わえない静けさだ」
 小柳もまた、ある種の感慨を込めて史江に言った。漁港から離れ、漁村の路地を歩き、一通り歩き終えたところで宿に戻った。一時間近く経っているのでは、と思っていたが、半時間も経っていなかった。ここでは、時間の流れがすこぶる緩やかだ。
 部屋に戻るとすでに布団が二枚、並んで敷かれていた。テレビを付ける気にもなれず、小柳はそのまま布団に身を横たえた。史江も同じように、小柳の傍に身を横たえる。史江の頭を持ち上げ腕枕をすると、史江は身体を横にして小柳に密着するようにして目を閉じた。
 「女房と結婚して二十五年になる。ちょうど那須さんが生まれた年と同じだ。年齢差は七歳、もちろん僕の方が上だ。普通に恋愛して、ごく普通に結婚して、二年目に長男が生まれた。その頃、僕はまだ、出版社の社員で、給料もそれほど高いわけではなかったが、何とか、女房と子供を養ってきた。
子育てに忙しい女房との間に、少しだが亀裂が走ったのは五年目のことだ。だが、それもつかの間で、二人目の二人目の次男が誕生したことで回避できた。セックスレスに陥ったのはその頃からだ。出版社に勤務して十年目の春、僕は独立を果たし、自分の会社を持った。順風万般と言うわけではなかったが、独立して三年目から売上が上昇した。同時にその頃から僕には愛人が出来た。会社に出入りするイラストレーターで、僕より十歳若い、才能豊かな女性だった。素直で可愛いところが気に入って、時々、食事をするうちに関係を持ってしまった。
 妻にはばれなかったと思う。逢瀬を重ねるうちに僕は彼女に夢中になり、妻との離婚を真剣に考えるようになった。しかし、家に戻り、妻と顔を合わせると、とてもそんなことは言い出せなかった。家庭的で何の落度も感じさせない妻に、どうして離婚など言い出すことが出来よう、しかも幼い二人の子供がいる――。
 不満を口にし始めたイラストレーターの女性とは、結局、別離することになった。
 田坂さんの本を作ることになり、会社に出入りするようになって僕は、年甲斐もなく、三十歳差のある、子供のような那須さんに興味を持ってしまった。那須さんと一緒に食事をし、酒を呑むことが僕にとって最大の楽しみになっていた。ただ、那須さんが僕を愛してくれるなど思ったこともない。だから、こうやって二人で宿に泊まっていることが未だに信じられない」
 ひとり言のように、小柳が天井を見つめて話すのを、史江はじっと黙って聞いていた。
 「年齢なんて気にならないわ。最初のうちこそ意識したかも知れないけれど、頻繁に会うようになってからは小柳さんが三十歳上だなんて意識しなくなった。
 先日もお話ししたけれど、私は男性を受け入れられない稀有な病気で、これまで一度も男性とこうやって過ごしたことがなかった。何人かの男性と交際したけれど、迫って来られると無意識のうちに男をはねのけ、身を庇って来た。中には大好きな男性もいたけれど、その人ですら、私は受け入れることが出来なかった。病院で治療を受けたけれど、結局、どうにもならなかった。一生、男性を知らないまま生きて行くしかない。そう思っていた時、小柳さんと出会った。小柳さんと話していると、自然に心が和んで、気持ちが落ち着く――。多分、それは、セクハラや口説くなどの行為をしない小柳さんの態度や、常に私の、どんなくだらない話にも真剣に耳を傾けてくれる小柳さんのやさしく温かな性格にあったと思う。
 酔っぱらって嘔吐しそうになり、ラブホテルに入った時、すっかり眠ってしまい気が付いたら、小柳さんに抱かれて湯船に浸かっていた。いつもの私なら、その時点で声を上げて、逃げ惑っていたと思う。でも、それをしなかったのは、小柳さんに抱かれていることがとても心地良かったから――。ベッドに入り、一人で毛布にくるまっていると、無性に寂しくなった。小柳さんに隣で眠ってほしい、そう思って声をかけると、ようやく小柳さんが私のそばに来た。私は素裸なのに、小柳さんは服を着ている。それをなじると、小柳さんは困った顔をして服を脱ぎ、私の隣に横たわった。
 もし、小柳さんが襲ってきたらどうしよう――。そんなことを考えなくもなかったけれど、多分、小柳さんはそんなことはしないと、私の中に妙な確信があった。
 朝、目を覚まして小柳さんを見るとパンツだけの姿でよく寝入っていた。そのパンツの股間が大きく盛り上がっていることに気付いた私は、そっとパンツを脱がし、小柳さんのそそり立つ一物を見た。男性のモノを見るなど、生まれて初めてのことで、最初は驚いたけれど、触るとさらに勃起して――。その時、気が付いたの。小柳さんはずっと我慢をし続けているのだなと。
 私の中に変化が生まれたのは、その時からだったと思う。急に小柳さんが愛しくなり、キスをしても抱かれても何の違和感も起きなくなった。もしかしたら、私、小柳さんとだったらセックスが出来るのでは、そう思うようになって――」
 小柳が強い力で史江を抱き締め、キスをした。浴衣の胸をはだけ、小ぶりの白い乳房を露出させると、その乳房に小柳が顔を埋めた。史江はかすかに肩を震わせたが、小柳をはねのけようとはしなかった。小柳の大きな手が、長い指が史江の全身をまさぐっても、史江は小さな吐息を漏らしながら懸命に小柳にすがりつき、小柳の頭を抱きかかえるようにして静かに足を開いた。
 痛みのために史江は声を上げたが、それも一瞬のことで、次には喜びの声に変わっていた。布団を鮮血で濡らしたまま、天井を仰ぐ史江に、小柳がつぶやくような声で言った。
 「すまなかった」
 医師の治療を受け、精神科に通院しても治ることのなかった病気が治った。史江はむしろ小柳に感謝したい思いで一杯だった。

 旅から帰り、しばらくして、小柳は史江のマンションに足を踏み入れるようになり、週に二回ほど泊まって帰るようになった。
 史江は、小柳が泊まる日は、必ずといっていいほど鍋料理でもてなした。二人は頻繁に性行為を重ね、一年が経過した頃には、夫婦と見まがうような関係に陥っていた。
 それでも、史江の会社では、二人の関係を気付かれないように苦心した。そのおかげで、誰一人として小柳と史江が怪しいと口にする者はいなかった。
 いいセックスは女性を美しくすると言うが、史江の場合もそれに該当した。史江の美しさは群を抜き、彼女を誘おうとする者は枚挙の暇がなかった。そんな中、史江の会社に史江を訪ねて来た男性がいた。
 「うちの社員だが、あんたに一目ぼれをして夜も眠れないといって嘆いている。後生だから一度、会ってやってもらえないか」
 史江の会社の取引先の社長だった。その話に出てきた男性も、これまでにも何度か社長と一緒にやって来ていたと言う。多分、印象が薄かったのだろう、史江はすぐにはその男性の顔が思い出せなかった。
 「わしにとって息子のような存在の大切な社員だ。放っておくわけに行かなくて、お願いにやって来た。この通りだ。お願いします」
 史江の前に社長が深々と頭を下げる。史江は「わかりました」と答えるしか術がなかった。
 その夜、マンションを訪れた小柳に、史江はそのことを話した。
 「もしかしたら結婚するかも知れないわよ」
 小柳をからかうようにして史江が言うと、小柳はただ一言、
 「そうか」
 とだけ答えた。
 「私、相手の人に注文を出すわ。結婚しても小柳さんと付き合うことを承知してくれないと、結婚しないって。ね、そうでしょ。そんなことも許さないような小さな男ならこちらから願い下げよ」
 「那須さん、それは違う。冗談でも相手の男性にそんなことを言ってはいけないよ」
 「どうして?」
 「どうしてもだ。相手の男性に間違っても私の話などしてはいけない。それよりも、真剣に相手の男性と向き合うんだ。その男性の会社の社長が那須さんに直談判しにやって来るのは、多分、その男性が好感のもてる男だからだ。何でもない社員であれば、社長が直談判にやって来るなどしない」
 小柳には予感があった。史江は多分結婚するだろう。強く請われての結婚だ。史江は幸福になる――。史江のそばから一日も早く離れてやらなければいけない。しかし、小柳の中で、その決心がはっきりと動き出すまで少しばかり時間を要した。

 ――小柳さん。私、会ってすぐにプロポーズされちゃった。
 一週間後、小栁の元へ史江から電話がかかってきた。
 ――そうか。それはよかった。どうだ、相手の男性はいい男だったか?
 ――普通。あまり目立たないし、小柳さんのような個性もない。ごく普通の男よ。
 そう言いながらも、史江は満更でもないような口ぶりだった。
 ――ねえ、今日とか会えない? いろいろ相談したいことがあるんだけど。
 ――今日は駄目だが、また、連絡をする。
 そう言って、小柳は電話を切った。このまま、自分が史江のそばにいると、史江のためによくない。ようやく小柳の中で決心がついた。
 小柳は、新しい携帯電話を購入し、これまでの携帯電話を捨てた。番号も変更し、史江からの電話がかからないようにした。会社の人間にも、「那須という女性から電話があっても、社長は不在だと話してくれ」と依頼し、史江との連絡網一切を断った。
 以後、小柳は一度も史江に会っていない。当然、史江の会社にも出入りをしていない。田坂の本はすでに作り終えていたし、出入りする用もなかった。
 史江が結婚したと聞いたのは、それから半年後のことだ。目の覚めるような美しさだったと、史江の花嫁衣装のことを話したのは、史江の会社の同僚の女性たちだった。同僚の女性に偶然、町で出会い、その時、その話を聞いて、小柳は、思わず史江の姿を瞼に思い浮かばせた。
 「そうそう、結婚式を挙げる直前まで、那須さんが小柳さんのことを気にしていましたよ。小柳さんのようなおじさんを気にするなんて変だわ、なんてみんな笑っていたけど、ホント、那須さんておかしな子でしょ」
 小柳は相槌を打って、笑ってごまかした。

 今でも時々、小柳は史江のことを思い出す。それほど長い期間、付き合ったわけではなかったが、密度の濃い付き合いだったと回想する。二人で過ごした漁村の宿、波のざわめきが今も小柳の胸を熱くし、思い出をよみがえらせた。それは今もって、なかなか消えようとはしなかった。
<了>


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