愛しの銀ちゃん

高瀬 甚太

 雨上がりの空に絵に描いたような虹がかかっていた。猥雑なこの街で、虹を見るなど滅多にない。大西佳代子は隣に立つ江坂銀二の手を握り、思わず声を上げた。
 「銀ちゃん、虹だ、虹だよ!」
 黒皮のジャンパーにリーゼント、ロック歌手と見間違うほどスタイルのいい銀ちゃんは、虹なんてものに興味を持たない。
 「何が虹だよ。俺は忙しいんだ」
 佳代子の頭を一つ叩いて、さっさと先を歩きはじめる。
 秋から冬へ季節が移行して行く時期だ。街を歩くほとんどの人が厚手の上着を身に付けている。
 「銀ちゃん、待ってよ」
 大慌てで佳代子が銀ちゃんを追いかける。佳代子もまた秋物のブルーのコートを身に着けていたが、そのコートは、夏の空のように明るく輝いていた。

 佳代子が銀ちゃんと知り合ったのは、一年前のちょうどこの日と同じ頃、晩秋の季節だった。幼友達の結婚式に出席して、引き出物を入れた紙袋を手に消沈した面持ちで街を歩いていた時、突然、背後から軽い調子で声をかけられた。
 「お茶でも飲まへんか?」
 それが銀ちゃんだった。銀ちゃんの第一印象は最悪だった。髪の毛をリーゼントにして、黒の革ジャンを着て粋がっていたけれど、軽薄さがもろに出て、女が欲しい、女を抱きたいだけが目的と思わせるような卑猥な印象だった。
 無視して歩いていると、後ろから銀ちゃんが追いかけてきた。幼友達が自分の好きだった男と結婚した。それだけでも十分打ちのめされているのに――。いい加減にしてよ。ため息を一つついて、立ち止まると、つけて来る銀ちゃんを思い切り睨んだ。
 「何だよー。つけてなんかねえぞ。俺もそっちの方向へ行くんだよ」
銀ちゃんが声を荒げた。それを見て、案外、気の弱い男だなと、佳代子は思った。
 銀ちゃんを巻くために、佳代子は途中にあった喫茶店の中へ入って行った。佳代子が思った通り、銀ちゃんは入って来なかった。
 温かいコーヒーを飲み、女性雑誌に目を通していると、いつの間にか三〇分が経過していた。レジで金を払い、慌てて外へ出ると、霧雨のような雨が降って来た。急ぎ足で路上を駆け抜け、駅に向かう道を急いでいると、不意に傘がさしかけられた。
 「濡れたら風邪ひくよ」
 傘を手に、銀ちゃんが笑顔を浮かべていた。
 「喫茶店へ入って、なかなか出て来ないから、待ちくたびれてもう帰ろうかなと思っていたところや。逢えてよかった」
 屈託なく話す銀ちゃんを見て、思わず私は笑った。その笑いを、銀ちゃんは自分への好意と受け取ったようだ。
 「腹減った。おいしい店があるから食べに行こう、悪いけど割り勘で頼むわ」
 佳代子の手を引っ張って駅近くの店の中へ入って行った。
 ――それが銀ちゃんとの最初だった。
 好きだった男に振られ、寂しさの渦中にいた佳代子を救ったのは、紛れもなく銀ちゃんだった。ただ、女が欲しいだけの銀ちゃんが、佳代子に執着した理由を佳代子は銀ちゃんから何も聞かされていない。銀ちゃんもそれに関しては何も言わなかった。
 当初は、暇つぶし程度に考えていた銀ちゃんと一年も付き合うなど、佳代子は思ってもみなかった。今では、佳代子の方が銀ちゃんに夢中になっている。

 銀ちゃんには行きつけの店があった。えびす亭という、主におっちゃんたちがたむろする立ち呑みの店であった。銀ちゃんに誘われて佳代子も何度か一緒に行ったことがあるが、佳代子はその店があまり好きではなかった。立ち呑み特有の酒の臭い、おでんや油ものの臭いがごった煮になって、なんともいえない異臭に包まれている。佳代子はこの店に入るといつも頭が痛くなる。しかも、客たちのぶしつけな言葉が佳代子を立腹させ、居心地を悪くさせるのだ。
 「銀ちゃんとはもうやったんか?」
 酒に酔っているとはいえ、聞いていいことと悪いことがある。無視して黙っていると、今度は銀ちゃんに聞く。
 「銀ちゃん、ええ女の子、捕まえたなあ。羨ましいよ。ところで――」
 銀ちゃんは照れながら、ウンウン頷いて助べえなおっちゃんの空のグラスにビールを注ぐ。銀ちゃんも銀ちゃんだ、と佳代子は思う。こんな店、若い女の子を連れてくるような店じゃない、私を何と思っているのよ。と、思わず泣きたい気分になってくる。
 でも、銀ちゃんはこの店が好きなようで、毎晩のように行きたがる。初めのうちこそ、佳代子も一緒に、えびす亭に来ていたが、それも二、三回のことで、気分を害して以来、えびす亭には同行しなくなった。
 「居酒屋でも、座ってゆっくり呑める店、いくらでもあるでしょ。私、えびす亭のように立ち呑みの店には行きたくない。行くのだったら、もっとお洒落で、料理がおいしいか、ゆっくり話の出来る店に行きたいわ」
 佳代子の頼みに、その時こそ銀ちゃんは渋々同意するのだが、それも長続きしなかった。銀ちゃんはやっぱりえびす亭の方がいいようで、そのうち、 佳代子との約束をすっぽかしてせっせとえびす亭に通いはじめた。
 一時、佳代子は、銀ちゃんはなぜ、あんな小汚い店に行きたがるのか、それを推理したことがある。銀ちゃんの興味を惹くものが、あのえびす亭にあるのでは、と考えてみたのだ。だが、どのように考えても何も出て来なかった。女性の客もいないことはないが、それほど若い女の子が来るわけではないし、銀ちゃんの好きな料理が出るわけでもない。一体、どうして銀ちゃんは、あんなに足しげく、えびす亭に通うのか、佳代子にとっては大きな謎だった。
 とはいっても、そのことを除けば、二人の仲は極めて順調だった。銀ちゃんはやさしかったし、佳代子のことを心底愛してくれているようだった。結婚の話こそ出なかったが、いつしか佳代子は、銀ちゃんとなら結婚してもいいと思い始めていた。
 銀ちゃんは、東大阪市にある鉄工所で工員として働いていた。出身は、広島県で、瀬戸内海に浮かぶ小さな小島が銀ちゃんの故郷だった。
 銀ちゃんと話していると時々、故郷のなまりが顔を出す。佳代子は、そんな銀ちゃんの故郷なまりが嫌いではなかった。
 「ほじゃけのう、俺、お洒落な店、苦手やけん」
 ずいぶん気を付けているようだが、時々、そういった言葉が顔を覗かせ、銀ちゃんは慌てて、その言葉を訂正するように言い直す。
 「いいやないの。私、広島なまり、嫌いやないよ」
 そのたびに佳代子は、銀ちゃんにそう言うのだが、銀ちゃんは、故郷の言葉があまり好きではないようで、言い直した後、しばらく沈黙することが多かった。

 「銀ちゃん、今日もえびす亭に行くの?」
 午後七時半という早い時間、映画館を出た銀ちゃんは、「じゃあな」と手を振って佳代子の元を去ろうとする。
 「お茶でも飲もうよ」
 佳代子が言っても、銀ちゃんは、「またな」と言って去って行こうとする。このところ、ずっとそうだ。
 ――もしかしたら銀ちゃんは私が嫌いになったのかしら。
佳代子は思わず、そう思った。
 銀ちゃんと佳代子の間には、一年も経つのにいまだに何もない。銀ちゃんが佳代子の体を求めて来ても、佳代子は決してそれを許さなかった。結婚するまでは純潔でいたい、その気持ちが佳代子に強くあったからだ。だが、銀ちゃんは佳代子の気持ちが理解できていないようで、佳代子が拒むと露骨に嫌な顔をする。そんなことが度々続くと、互いにギクシャクとしたものになってくる。
 ――銀ちゃんの気持ちが理解できない。
 不安を感じた佳代子は、去って行こうとする銀ちゃんに言った。
 「待って、私もえびす亭に行く」
 銀ちゃんは振り返ると、驚いたような表情で佳代子を見た。
 「いいでしょ」
 「えびす亭、嫌いなんだろ? 無理しなくていいけん」
 「私が行ったら困ることでもあるの?」
 「いや、そうじゃないけど、嫌々ついて来られてもなあ……」
 「嫌々じゃないわよ。たまには行ってみたい。そう思っただけ」
 「まあ、いいけどね。でも、露骨に嫌な顏しないでほしい。店の人たちに悪いから」
 銀ちゃんが釘を刺す。佳代子は大きく頷いて、「わかった」と返事をした。
 佳代子の父親は酒を一滴も呑まなかったし、親戚縁者のほとんどが酒に弱かった。佳代子も酒に強いわけではなかったが、会社で働くようになって自然に酒を呑むようになり、今では酒豪の一歩手前のところまで来ている。
 銀ちゃんはよく酒を呑む。煙草を吸わず、ギャンブルもしない銀ちゃんにとって、酒を呑むことだけが唯一無二のストレス解消法であったようだ。
銀ちゃんは、ほとんど毎夜といっていいほど、えびす亭に顔を出している。健康のためにもよくないので、佳代子は少しでも銀ちゃんの酒量を減らすようにしたかった。そのためにもえびす亭の客たちの魔の手から銀ちゃんを護らなければと、常に思っていた。
― ―ちょうどいい機会だわ。
 えびす亭の暖簾の前までやって来た佳代子は、酒の臭い、おでんや焼魚の臭いにめまいを感じながらも、決意を込めて暖簾をくぐった。
 「よぉー、銀ちゃん。こっちこっち」
 頭にタオルの鉢巻を巻いた労働者風の男が銀ちゃんを手招きする。銀ちゃんは、佳代子のことなど忘れたかのように、佳代子を放っておいて、その男の傍に立とうとする。銀ちゃんの服の袖を掴み、佳代子は必死で銀ちゃんの後に続いた。
 ――こんなところで一人にされたら、何をされるか、わかったものじゃない。
 畏れと不安の目で、佳代子は銀ちゃんの隣に立ち、カウンターに鈴なりになったえびす亭の客たちを眺めた。
 労働者風の男もいたが、スーツを着たサラリーマンもいる。高齢の客もおれば、二十歳になって間もなくの客もいた。いろんな客がいるものだと、感心しながら、えびす亭の店内を眺め見渡した。以前、来た時は気が付かなかったが、カウンターの中にある厨房に置かれたおでんが結構おいしそうに見える。厨房の奥で焼かれている魚も意外においしそうに思えた。そういえば、今日、映画を観る前に軽い食事をして、その後、何も食べていない。そのことに気付いた佳代子は、労働者風の男と話に夢中になっている銀ちゃんをつついて、
 「お腹が空いた」
 と耳打ちをした。
 「マスター、おでん適当に。それとマグロの造りちょうだい」
 五個入ったおでんの皿とマグロの造が銀ちゃんと佳代子の間に置かれた。
 「銀ちゃんの彼女でっか。えらいべっぴんさんでんなあ」
 タオルの鉢巻男が、そう言いながら、
 「マスター、銀ちゃんの彼女に土手焼きとネギマと皮の焼き鳥あげて」
 と声を上げる。佳代子は慌てて手を振って、タオルの鉢巻男に、
 「いえ、私、結構ですから――」
 と言うが、銀ちゃんは、
 「いいからいいから、ご馳走になっておき」
 と言って、鉢巻男に礼を言う。
 鉢巻男だけではない。その他の客も同様に、
 「銀ちゃんの彼女にビール一本」
 「銀ちゃんの彼女にポテトサラダ」
 「銀ちゃんの彼女に串カツ五本」
 と、注文して、そのたびにマスターが佳代子の前に置いて行く。いつの間にか、佳代子の前は、ビールと肴のあてで一杯になってしまった。
 「銀ちゃん、これ、どういう意味?」
 気味の悪さを感じた佳代子が銀ちゃんに聞いた。
 「みんな、佳代子のことを歓迎してくれているんだ。お礼などいいからご馳走になればいいけん」
 「でも、一年前、ここへ来た時はこんなことなかったわ」
 「佳代子が、この店やこの店の客を好きじゃないということを、みんな、感じ取っていたからさ」
 「悪いけど、私、今でもこの店や客のこと、そんなに好感をもっていないわよ」
 「それでも、一年前とはずいぶん違っていると思う。その証拠に、今日の佳代子の表情、そんなに険しくないから」
 「私の表情が険しかった? そんなに嫌な顔をしていたの」
 「俺でも感じていたから、店の人たちはもっと感じていたかもしれんね」
一年前、まだ、銀ちゃんと付き合い始めて日が浅かった時期、二、三度、えびす亭にやって来たことがある。あの時、佳代子は立ち呑み店特有の臭いが嫌で、客にも嫌悪感を抱いていた。客たちも、そんな佳代子を見て、すぐに悟ったのだろう。
 ――この女は、えびす亭の客じゃない……と。
 一年ぶりにやって来た今日、私の何が変わったというのだろうか、佳代子は首を傾げる。相変わらず、臭いには抵抗があるし、客たちにも好感が持てないでいた。それなのに客たちの、この歓迎ぶりはどうだ。まるで、えびす亭の一員と認めてくれているようではないか。
 それも悪くはないかなと、おでんを口にし、ポテトサラダを食べ、焼き魚に箸を通し、ビールを呑みながら佳代子は思った。
 銀ちゃんが、せっせとえびす亭に通う意味が何となくわかったような気がして、佳代子は銀ちゃんを眺め見た。銀ちゃんは相変わらず、鉢巻男と熱心に話をしている。どうやら話題はプロ野球のようだ。広島生まれの銀ちゃんは熱心な広島カープファンで、鉢巻男はタイガースファンのようだ。対立するチームのはずなのに、笑顔で話している。しかも楽しそうだ。
 瀬戸内海の小島から単身やって来た銀ちゃんは、大阪へやって来て、きっと寂しい日々を送っていたに違いない。その寂しさを埋めてくれたのが、このえびす亭だったのだろう。この店で酒を呑み、客たちと雑多な話を繰り返すうちに、いつの間にか、えびす亭は銀ちゃんにとって、最高に居心地のいい店になったに違いない。
 見かけほど軽くない銀ちゃんが、街で見つけた佳代子に声をかけたのは、決して偶然ではなかったのだと、佳代子は今になって思う。あの時、佳代子は、友人の結婚式の帰りで、きっと、とてつもなく寂しい表情をしていたに違いない。自分のことを「好きだ」と言い、佳代子をその気にさせておいて、いつの間にか佳代子の友人に乗り換えて結婚した男、結婚式なんて出たくないと思っていたのに、何も知らない友人に請われて出席しなくてはならなくなった。
 とうとう我慢が出来なくなって、最後までいることが出来なくて、佳代子は式場から抜け出した。今にも自殺しかねないような悲観に暮れた佳代子を見て、銀ちゃんはきっと何かを感じたのだろう。それで佳代子に声をかけ、佳代子を誘ったのだ。
 付き合い始めてからも、佳代子は銀ちゃんのことをあまり信用していなかった。自分を捨てた男と同類だろうぐらいにしか思わず、適当にあしらってきた。そんな時に連れて来られたのが、このえびす亭だった。
 「何よ、こんな店に連れて来て」
 と、その時、佳代子は、銀ちゃんを心の中で罵倒した。佳代子を捨てた男は、デートの際は、必ずと言っていいほど、ホテルのレストランに行き、フルコースメニューを食べさせ、行きつけのバーに連れて行った。それに比べて銀ちゃんはどうだ。
 「ここの店の味噌汁が好きなんだ」
 と言って、二度目のデートに連れて行ってくれたのが、今里の大衆食堂だった。確かに味噌汁はおいしかったけれど、デートに連れて行く場所ではないでしょ、と、佳代子はこっぴどく銀ちゃんを非難したことがあった。
 自分とは価値観がずいぶん違う。佳代子は、三度目のデートで銀ちゃんと別れようと決心した。でも、できなかった。銀ちゃんと一緒にいると、以前の男には感じなかった和みを感じ、心が落ち着いたからだ。
 一年を経ても、銀ちゃんは変わらなかった。初めて会った時とまったく変わらず、佳代子のそばにいて、常に佳代子を慈しんでくれた。
 以前の男で懲り懲りしていた佳代子は、銀ちゃんとの性交渉を持たずにここまで来たが、銀ちゃんは不満を漏らしながらも佳代子のために我慢した。いつしか佳代子は、そんな銀ちゃんを愛しく思うようになっていた。

 えびす亭を出て、佳代子は銀ちゃんと共に電車に乗った。いつもは駅で別れるのだが、この日は、もう少し、銀ちゃんと一緒にいたかった。
 「悪いなあ、あまりいい店、連れて行けなくて」
 電車の中で銀ちゃんは、いつになく素直に詫びた。銀ちゃんが貧乏なことはよく知っていたし、背伸びをしないことも知っていた。
 「いいのよ。私、そんな銀ちゃんが好きだから」
 銀ちゃんはしがない工員だ。多分、この先もしがない工員で居続けるだろう。会社役員の父は、銀ちゃんと結婚すると言えば、どんな反応をするだろうか。名門女子大出の母も、きっと猛反対するに違いない。周囲の誰もが反対することは、十分、承知していた。それでも、自分の人生は誰にも決めさせない。自分の人生は自分のものだ。佳代子はそう思っている。
 「銀ちゃん、また、えびす亭、一緒に行こうね」
 電車に揺られながら佳代子が言うと、銀ちゃんは、ニッコリ笑って大きく頷いた。
 吊り革を持つ銀ちゃんの左手を佳代子は白い小さな右手で包み込んだ。銀ちゃんが驚いたような顔をして佳代子を見た。
 「銀ちゃん、好きよ」
 佳代子が囁くように言うと、銀ちゃんは、ちょっぴり照れながら、
 「俺も佳代子が大好きだ」
 と言った。
 その瞬間、小さな幸せが佳代子の目の前に、ポッと浮かんだような気がした。
 電車が次の下車駅をアナウンスしている。佳代子は銀ちゃんの手を取ると、ためらうことなく、駆け下りた。
<了>

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