好きに理由はいらない

高瀬 甚太

 一メートル八〇センチは超えているだろうか。背の高い男性がゆっくりとした足取りで私の目の前に立った。赤銅色に焼けた肌を露出して、無精ひげを蓄えた顔を上げ、視線を前に向けると、
 「氷室さんですか? 氷室正二さん」
 と聞いた。
 「そうです。氷室です」
 と答えると、
 「桐山昭三です。本日はありがとうございます」
 と深く礼をし、
 「私の話を書いてくれると聞きました。本当ですか?」と聞いた。
 ライターを職業とする私は、さまざまな人のつてを得て、その人の人生を書き、一冊の本にしたいと考え、それを実行していた。これまでにもたくさんの人の紹介を受け、出会い、取材をしていた。だが、本人が言うほど、感動的な話には出会わなかった。どの話も私の望む「何か」が感じられなかった。
 「書くかどうかは、お話をお聞きしてからのことになります。それでもよろしいでしょうか? 無駄になるかも知れませんが」
 桐山は、笑顔を浮かべて、大きく頭を振った。
 「もちろんです。それで結構です。お話を聞いていただくだけでもありがたいです」
 桐山の話が始まった。私は桐山に断って録音し、メモを用意した。

 ――出身は北九州の小倉です。高校を卒業してすぐに大阪へやって来ました。最初に就職したのは淀川区の薬品問屋でした。営業マンとして五年ほど働きましたが、待遇面で経営陣に不満を漏らしたところ、あっさりクビになりました。以後、転々と職を変え、ついには手っ取り早く金を稼ぐために道路工事の現場で肉体労働をするようになりました。
 汗を流して働くことは決して嫌いではありませんでした。きつい仕事ではありましたが三年ほど続けました。給料も悪くなかったし、もう少し続けてお金が溜まったところで次の人生のステップを踏もう、そう考えていたのですが――、しかし、三年経ったところで事故に遭い、約一カ月間、病院に入院することになりました。
 その病院に入院したことがきっかけで、俺は看護師の桐山晴子と出会うことができました。珍しくもないけれど、そう多くもない桐山という名前の名札を付けた看護師を見た時、俺は、何となく運命を感じました。
 ――もしかしたら俺と同郷かも知れない。
 そう思った俺は桐山晴子という看護師に尋ねました。
 「桐山さんの出身はどちらですか?」と。
 早朝の検診に訪れた桐山晴子は、笑って、「和歌山です」と答えました。
ガッカリしたけれど、俺はなおも桐山晴子に問いかけました。
 「和歌山には桐山という名前が多いのですか?」
 「いえ、そう多くはありません。私の生まれた町には私の家と親戚の家、数軒だけでしたから――。桐山さんはどちらの出身ですか?」
 「俺は北九州の小倉です。俺の住んでいた町では、桐山という名前は二、三十軒あったかな。結構多い方だったと思います」
 「それって全部、親戚ですか?」
 「いえ、親類筋じゃない桐山姓もいました。看護婦さんの名札を見た時、  何だかうれしくなってね。それでお尋ねしました」
 「そうですよね。同姓の人に出会うと、思わず出身地を聞きたくなりますよね」
 弾んだ声で晴子がそう言いました。背丈も中ぐらいで顔も十人並み、特にこれといった特徴のない晴子に俺は興味を持ちました。
 ――好きになるのに理由はいらない。理由を付けなければならないような「好き」なら、それは本当にその人のことを好きじゃない。俺はいつもそう思っていました。
 この時の俺もそうでした。晴子が検診に来るたびに俺は夢中になって話しかけました。普段の俺はとてもシャイで、寡黙で、好きな女の前に立つと何も言えなくなります。でもこの時の俺は違いましした。
 ――寡黙で何を考えているかわからない。
 それが世間の俺に対する見方でした。俺はほとんど無駄口を叩かないし、積極的に喋ろうともしません。そんな俺が晴子の前でだけはよく喋ったんです。晴子のことをもっともっと知りたいと思っていたからです。
 晴子は俺より二歳下で、大阪で一人暮らしをしていました。両親は健在で兄と妹が和歌山で暮らしていると聞きました。好きな食べ物は寿司で、好きな色は白、好きな歌手は桑田佳祐で好きな作家は村上春樹――。俺は、音楽はあまり聴かないし、小説もあまり読まないからわからなかったけれど、好きな食べ物と好きな色だけは彼女と一緒でした。
 「村上春樹って読んだことがないんだよな」
 と晴子に言うと、翌日、晴子は村上春樹の『風の歌を聴け』という作品を届けてくれました。
 「村上春樹のデビュー作で、私が一番初めに読んだ本なの。村上春樹はこの作品で群像新人賞を受賞したのよ」
 肩まで伸びた癖のない髪を揺らしながら、晴子は笑顔を湛えて俺に話しました。
 逢うたびに好きになる――。その時、俺はもっと入院が長引けばいいのにと心の底から願っていました。

 退院が近づいたある日、俺は晴子に率直に思いを打ち明けました。俺が彼女を好きだということを彼女は知っていてくれているはずと思っていたのですが、彼女は俺の告白を聞いて、驚きました。彼女は俺のことを一人の患者としてしか見ていなかったようで、すぐには返事をしてくれませんでした。
退院まで一週間ありましたが、なぜか、彼女はその翌日から俺の前に姿を見せなくなりました。
 「桐山晴子さんはどうしていますか?」
 検診に来た看護師に尋ねると、看護師は困ったような顔をして、
 「桐山さんは別の病棟に移られました」
 と言います。
 「別の病棟? 急ですね」
 「人員の配置の変更は時々ありましてね。看護師が急に不足したりすると、そういうことが時々起こります」
 看護師の説明はいかにも言い訳めいていて、俄かには信じられませんでした。
 「桐山さんに連絡を取りたいのですが、お願いできませんか?」
 看護師は検診の手を止めて、
 「お気持ちはわかりますが、お教えすることは禁じられています。申し訳ありません」
 と、その看護師は丁寧に断りました。
 振られたのだと思いました。彼女は、看護師として患者に親しくしてくれていただけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。
 胸に熱いものが込み上げて来て、その夜、俺は一晩中、泣き明かしました。
 でも、晴子を恨んだり憎んだりする気持ちなどなく、俺が一方的に好きになった、ただそれだけのことでしたし、時間と共に俺は少しずつ、彼女に感謝するようになりました。ほんの少しの間でも夢を見させてくれた。感謝の気持ちで一杯でした。
 退院する日、俺は最後の検診にやって来た看護師に言いました。
 「桐山さんにお礼を言っておいてください。おかげで楽しい入院生活を送ることができましたと」
 さっぱりした気持ちで俺は病院を去ることができました。もう二度と会うことはないだろうな、そんな思いで病院を振り返り、誰も見送る人などいないのに、俺は病院に向かって大きく手を振り、別れを告げました。

 再び俺は道路工事の現場で働くようになりました。負った怪我は完治していましたが、心に負った傷だけは消えずにくすぶり、それが俺をしばらく悩ませました。
 女性と出会う機会も少なく、これまでまともに女性と付き合ったことなどない俺です。初めてといっていいほど真剣に思った女性のことを、そうたやすく忘れられるわけはありません。悶々とする思いを抱えたまま、俺は仕事に精を出し、仕事を終えた後、彼女を忘れるために仕事仲間と共に毎晩、溢れんばかりの酒を呑みました。
 ある日、俺は病院の荷物を整理していて、バッグの中に本を発見しました。彼女が貸してくれた村上春樹の『風の歌を聴け』を返却せずにそのまま持って来てしまっていたのです。どうしようか、悩みました。病院の住所へ送付すればそれでいいのでしょうが、何となく無責任なような気がして送りそびれました。
 ――第一、俺は借りたままこの本を読んでいない。
 せめて読んでから返却しよう、そう思った俺は、その夜から読書に没頭しました。読み慣れた人なら二日もあれば十分に読めたでしょうが、本など読んだことのない俺には、とてもそんな短期間で読めるはずがありません。結局、一週間かかってしまいました。
 読後の感想を書こうと思い、便箋に向かいました。でも、手紙など書いたことのない俺に文章など書けるわけがありません。おまけに読後の感想などもってのほかです。頭を抱えながら便箋に向かうこと三日、俺は、ペンを放り出して書くのをあきらめました。
 ――いい文章を書こうとするな。気持ちだけ、思いを書いて記せばいいじゃないか。どうせ振られているのだし。
 そんな声がどこからともなく聞こえてきました。起き上がった俺は、すごい勢いで便箋にペンを走らせました。
 『主人公の気持ちが伝わって来た。何となく俺の今の気持ちにピッタリする本だった。ありがとう。俺は同じ名前の桐山さんを愛したことを後悔していない。幸せを祈っています』
 たったそれだけの手紙を封筒に閉じ込めて、俺は本と共に病院へ送りました。

 それまで関わっていた道路工事の仕事が終わり、次の工事現場が他県に決まり、それを契機に俺は工事現場の仕事を退職しました。
 ずっと自炊をしていたせいで、料理に興味を抱くようになっていた俺は、居酒屋でアルバイトをして接客と料理の勉強をすることにしました。居酒屋の厨房は、それはもう凄まじい忙しさで、時間によっては休憩を取る間もないほどこき使われます。それでも、いつか小さくてもいい自分の居酒屋を作りたい、そう思っていた俺は、歯を食いしばって頑張りました。
 洗い場から料理の下働きへ。そして本格的に料理を作れるようになるまで一年かかりました。それでも店の人に言わせると、かつてなかった速さだと言って褒めてくれます。それだけ俺は、仕事を覚えるのに真剣だったのでしょう。
 店長や職場の仲間に、アルバイトを辞めて自分の店を作りたい旨を話すと、全員が快くそれを了承してくれ、
 「厨房ばかりじゃ店は開けない。客の対応も大事だ。しばらくそれを経験して店を開いた方がいい」
 と忠告してくれました。
 厨房から表へ出て、客の対応をするようになった俺は、そこで一度、頭を打ちました。寡黙で喋りの苦手な俺は、客対応がまるっきりダメでした。
 「薬問屋の営業をしていたのだろ。取引先と話をしないと注文を取ることなどできなかったのと違うんか」
 と、店長に叱責されましたが、実は俺、薬問屋の営業をしていた時もからっきし会話がダメで、挨拶程度しか話が出来なくて売上があまりよくなかったのです。それでも五年ほど続いたのは、病院の医師たちがそんな俺を気遣って注文をくれたからです。
 それでも苦手などと言ってはおれません。俺は必死になって客とコミュニケーションを取るよう努めました。
 俺はずっと昔から、話し下手で、話せないのがダメだと思って来たのですが、実はそうではなく、聞き上手であることが大切なのだと、客商売をやるようになって思い知らされました。
 ――その時、俺はふと桐山晴子のことを思い出しました。
 病院へ入院している時、俺は積極的にアプローチしなければと思い、懸命に彼女に話しかけました。彼女のことをもっと知りたくて、質問ばかりしていたような気がします。でも、それは会話じゃなかったのです。一方的に話すだけでは会話にはならない。そんなことさえわからないほど、俺は彼女に夢中になっていたのかも知れません。
 確かに彼女は俺の質問の一つひとつに丁寧に答えてくれました。でも、一度として彼女の話を聞いたことがあったのか、否です。正しいコミュニケーションが成り立たない関係に愛は生まれません。そのことを思い知らされました。
 酒を呑んだ客はほとんどの人が饒舌です。阪神タイガースの話や聞きかじりの政治の話、上役の悪口から始まって女房に対する愚痴――。さまざまな話題を振りかけて来て、たいてい、自分自身が語ることに終始します。
 懸命に耳を傾けることの大切さ、相槌のタイミングなど、俺は仕事を通じて少しずつ聞き上手になっていきました。そうすると客との距離が近くなって、話しかけてくれたり、名前を呼んでくれたり親しくなることができました。
「も う大丈夫だ。よく頑張った」
 店長がそう言って俺の肩を叩いたのは、厨房を出て、さらに一年後のことでした。
 俺は、いよいよ自分の店をスタートさせることになりました。
 いつか店を開く時は、自分が入院していた病院の町で開店させたい。ずっとそう思っていました。桐山晴子に会えるかも知れない――と思ったわけではありません。いくら俺でも時間が経ちすぎています。彼女のことはいい思い出として残し、俺は仕事に必死になりました。
 俺が入院していた大学病院は結構大きな病院でした。外来も多く、もちろん入院患者も多かったのですが、何よりも俺が気に入っていたのは、その病院を囲むようにして家々が建ち並び、町が形成されていたことです。それほど大きな町でもなく、でも、それほど小さなわけではない。賑やかなわけでもなく、ひっそりとしているわけでもない。要は何となく俺のお気に入りの場所だった、そういうわけで、俺は開店をこの町に決めた、というわけです。
 商店街とは名ばかりの店がポツンポツンと建ち並ぶ通りに店を構えました。電車に乗って少し行けば大きなターミナルがあるし、賑やかな通りや店が建ち並ぶ場所もあります。だからほとんどの人がこの町で用を足さず、その街へ向かいます。ショッピングはもちろんのこと、飲食も同様です。したがって俺の開店した通りもひっそりとして、人の往来もそれほど多くはありませんでした。
 客商売は立地が命です。それは俺もわかっていました。だけど俺の性分として、競合店の多い場所でしのぎを削るより、地域の人たちに愛されて親しまれる店にしたいという思いがあったので、冒険とは思いましたが、その商店街に決めました。
 「この場所は駄目だよ。悪いことは言わないからやめときな。これまで何軒もの店が潰れているから」
 土地の人たちが心配してくれました。それほどその場所は何軒もの店が開店しては潰れ、潰れては開店している場所だったのです。でも、俺はその時はその時で仕方がないと思っていました。倒産したら、また道路工事現場で働こう、そう決めていましたから。
 居酒屋といっても何の工夫も施さなければ、魅力がないし、地域の人に来てもらうことなど出来ません。どういった特徴を持つ店にすればいいか、開店前の準備中、俺は懸命に考えました。
 ――そうだ。居酒屋でありながらサラダが美味しい。そんな店に出来ないか。
 まず俺はそれを考えました。町全体では女性が多いとは言えませんでしたが、病院にはたくさんの看護師が働いています。その看護師が喜んでもらう店にしたい。俺はそう思ったのです。
 ファミリーレストランにあるようなサラダバーを考えた俺は、一定の金額さえ払えば、自由にサラダを食べることができる、それを店の売り物にしようと考え、チラシを作って撒きました。町の住人はもとより病院の看護師にも配ってもらうよう手配をして、いよいよ開店日を迎えました。
 「居酒屋でサラダバーなんておかしくないか?」
 と言うような意見も多かったのですが、俺は自分の思いを優先させることにしました。その時の俺のイメージの底に桐山晴子への絶えない思いがあったことは否めません。なぜなら俺の中には、入院していた病院の看護師たちに俺の店を利用してほしいという思いが強くあったからです。
 チラシを撒き終え、店の装備も終わり、準備万端整ったのが、開店一日前のことでした。
 「どうせ長持ちしないだろうよ」
 それが多くの人の意見でしたが俺はまるで気にしませんでした。その時の俺にとって自分の力でスタートさせる、そのことが何よりも重要でした。

 開店日は、早朝から晴れ上がった本当にいい天気でした。早朝から仕込みに入った俺は、午後五時の開店を前に仕込みを始めました。仕込みが終了したのは午後一時、四時まで一休みすることにしました。
 アルバイトをしていた店から花輪が届き、どこで知ったのでしょうか、道路工事の現場の人間からも花束が届きました。俺は頬をパチンと叩いて気合を入れ、午後五時の開店に備えました。
 『サラダバー居酒屋きりやま』、それが店の名前でした。居酒屋らしい名前をいくつも考えたのですが、結局、巡り巡って自分の名字を当てることになりました。心の底に桐山晴子が店名を見て気付いてくれるかも知れない。そんな思いがあったのかも知れません。
 午後五時を前にして三〇分ほど早く暖簾を掲げ、提灯に灯を点けました。待ちきれなかったのです。通りは相変わらず人通りが少なく、近くには会社などほとんど存在しません。自分の家を前にしたサラリーマンが立ち寄るとも思えず、主婦も立ち寄るはずがない。そんなことを思い始めると絶望感に苛まされましたが、何とか二〇人程度、客が来てくれたら、そんな思いを抱きながら客を待ちました。
 ところが案に相違して、午後六時前、五人ほどの女性のグループが顔を覗かせ、
 「ここってチラシに書いてあったサラダが食べ放題のお店ですか?」
 と俺に聞きました。
 「ええ、そうですよ」
 と、答えると、「やっぱりそうだった」と言って四人掛けの席に座ります。
 「ご注文は?」
 と、聞くと、一人が、
 「居酒屋でサラダ食べ放題なんて珍しいものね。私、ビールとおでん盛り、それとサラダバー」
 と言い、同調するように他の全員がサラダバーとドリンク、一、二品の酒の肴を注文します。
 それほど人が入るとは思っていなかったので、人を雇っていなかった俺は、たちまちそのことを後悔することになりました。次々と客が入って来るのです。その大半が女性でした。
 一人で注文を取りに回り、料理を作り、てんてこ舞いの状態です。八時を回る頃にはグロッキーの状態でした。それほど開店日のこの日は人が入りました。閉店時間は午前〇時ですが、その時間帯まで四人掛けテーブル席5卓と一人掛け十席はほとんど満杯状態で、サラダバーのサラダも都合五回継ぎ足しました。
 ――開店日だから物珍しさもあって人が入ったのだろう。
 そう思っていました。ところが二日目も三日目も同様の状態が続いて、俺は厨房に一人、表に一人、人を雇い入れました。とても一人では手が回らなかったからです。
 それでも一週間も続けばいいぐらいに思っていました。ご祝儀みたいなものだろう。そう考えていたのです。ところが一週間経っても二週間経っても客は減るどころか、どんどん増えて行きます。二週間目には表にもう一人雇ったぐらいです。
 女性客が六割を超えていました。そのほとんどが病院の看護師だろうと思っていたのですが、確かに看護師は多かったものの、女性客の半分ほどが看護師で、後の半分が地域の主婦、独身層のОLたちでした。これにはさすがの俺も驚きました。

 一カ月を経ても同様の状態が続いていました。いや、むしろ客は増加する一方でした。その日、俺は、客の注文を取ったり出来上がった料理をテーブルに運ぶ役割をしていました。表の女性が病気で休んだための処置でした。普段の俺は厨房で料理を作っていますから。
 午後八時を過ぎて七、八人の女性客が団体で店に入って来ました。テーブルが一卓しか空いてなかったので、とりあえず四人に先に席についてもらい、後の四人は少し待っていただくことにしました。五分と立たずに席が空き、残りの四人もテーブルに着いてもらうことにしました。
注文を聞くためにその集団に近付くと、そのうちの一人が大きな声を上げて俺の名前を呼びました。
 「桐山さん!」
 エッと思って名前を呼んだ女性を見ると、何と、桐山晴子がそこにいたのです。
 彼女はまるで変っていませんでした。俺は驚きのあまり声も出ず、
 「や、やあ。桐山さん」
 と、答えるのが精一杯でした。
 「きりやまって暖簾に書いてあったからまさかと思っていたけれど、桐山さんがやっていらっしゃったのですね。意外でした」
 桐山晴子も驚きを隠せなかったようです。それはそうでしょう。病院に入院していた時、俺は一度も店を開く話などしていませんでしたから。
 俺は笑顔で、
 「今日は来ていただいてありがとうございます」
 と答えるのがやっとの状態で、それ以上話を続ける余裕がありませんでした。店が満杯で次々と客の注文に追われていて、ゆっくり話をする時間がなかったのです。
 桐山晴子たちは、その後一時間ほど店にいて、その日はそのまま帰りました。俺は、彼女を見送りながら、
「ありがと うございました」
と声を上げましたが、なんとその時、彼女が小さく手を振ってくれたのです。

 店は順調すぎるほど順調でした。
 「サラダバーの意外性が客の心を掴んだのじゃないか」
 と、評する者もいましたが、俺はそんな評価など、どうでもいいと思っていました。人気があるからといって人気の上に胡坐をかいておれるほど安泰とできる商売なんてありません。日々、変化を付けなければ客はそのうち消えて行きます。
 俺は、女性客を対象にしたメニューの増加を試み、サラダバーのサラダの新鮮さ、量の豊富さを失わないよう常に心がけました。その甲斐あって客はどんどん増えて行き、一年もの長い間、常に満席といった状態を作り出すことができました。
 桐山晴子は、その後も看護師仲間たち数人で何度か店にやって来ました。特に会話もなく、挨拶程度に終始することがほとんどでしたが、一年近く経ったある日、店を閉店しようと暖簾を下ろしていると、突然、桐山晴子が俺の前に現れました。
 「桐山さん」
 と、突然、名前を呼ばれた俺は、驚いて、
 「どうかしたのですか?」
 と聞きました。桐山晴子の様子が普通ではなかったからです。
 「店を閉めた後、お時間ありますか?」
 彼女が聞くので、俺は、
 「いいですよ。店を閉めるまで待っていてもらえますか」
 と答えました。
 働いていた人たちを送りだした俺は、彼女を店の中の事務所に招き入れました。
 「桐山さんとお話しするのは何年ぶりですかね。何だか懐かしい気がします」
 俺はそう言って、彼女の前にお茶を差し出しました。
 「その節は申し訳ありませんでした。桐山さんにお付き合いを申し込まれて返事もせずに逃げてしまって――」
 「いいんですよ。振られるのには慣れていますから。どうぞ気になさらないでください」
 俺が笑って言うと、彼女は突然、顔を上げて俺を見つめて言いました。
 「私がなぜ、桐山さんから逃げたかわかりますか?」
 「それは、あなたが私を患者として付き合っていて、男性として好意を抱いていたからではなかったからですよ。そんなことぐらい、鈍感な俺にもわかります」
 すると、彼女は大きく首を振って俺に言いました。
 「そうじゃないんです。私、自分の気持ちがわからなくて、あなたを好きなのかどうかさえもわからなくなって、逃げていたのです。自分の気持ちに気が付いたのは、あなたが退院してしばらくしてからのことです」
 彼女は息を大きく吸い込むようにして俺を見ました。
 「私の父は放蕩な人で、私の男性観を台無しにするような人でした。ですから私は男性に対して、ずっと愛情を持てないで来ました。これまでも何人かの人に交際を申し込まれたことがありましたが、受け入れる気持ちにはなりませんでした。あなたから交際を申し込まれた時も同様です。私は一人で生きて行くべきだと思っていました。それでもなぜか、私はあなたのことが妙に心に引っかかっていました。決定的になったのは、あなたが私の貸した本を郵送してくれた時でした。短いあなたの手紙に私はハートを射抜かれた思いがしました。何ということはない文章なのに、私にはあなたの思いが溢れんばかりに伝わって来ました。連絡を取りたい。そう思いましたが、あなたにあのような行為を取ったことを思い出すと、安易にそうすることが出来ませんでした。同僚がこの店のことを教えてくれた時、私はその店名を見てハッとしました。もしかしたら――、でも、あなたが店をやるなんて思ってもいなかった私はその考えをすぐに打ち消しました。友人に誘われてこの店を訪れたのはそのすぐ後のことです」
 それ以上、彼女の話を聞く必要がありませんでした。大切な言葉は俺の方から言うべきだと思い、改めて彼女に言いました。
 「俺は今でもあなたのことが大好きです。あなたの男性観を俺が変えてみせます。誠実にあなたの思いをしっかりと受け止めて、一生、あなたを大切にします。どうか、私と結婚してください」
 ――人を愛するのに理由はいらない。好きだ、その気持ちさえあれば十分だ。
 俺は今度こそ彼女を逃がさないよう、しっかりその肩を捕まえました。彼女はそれを涙に濡れた笑顔で受け止めてくれました。
 今、彼女は病院を退職し、俺の大切な妻となり、家庭を守り、時々、店の手伝いをしてくれています。
 俺はこの場で心の底から叫びたい。「幸せだ」と――。

 桐山の話が終わった。
 「ありがとう」
 お礼を言って、私は彼の手を握った。私の求めていたものが彼の話の中にあった。話を聞けて心から嬉しかった。
 桐山は深く礼をすると、大股で去って行った。その背に私は力いっぱい、大きな声をかけた
 「きっといい本ができるよ」
〈了〉


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?