「鬼殺し絵巻」異聞

高瀬 甚太

 暮れも押し迫った時期のことだ。師走の慌ただしさとはまるで無関係に、私はのんびりと休日を過ごしていた。九月の初めに中小企業の会社の社長の自叙伝を引き受け、その原稿の作成から印刷・製本に至るまでを一手に引き受けたおかげで、十二月の初めにその金が入り、一時的とはいえ、数年ぶりに金銭の心配をしなくてもいい年の暮れを迎えた。
 商店街へ出た私は、年末商戦を繰り広げる商店を横目に見ながら、年中変わりない古本屋を数軒冷やかしながら歩いた。商店街には古本屋が七軒あり、それぞれ特性を備えて営業していたが、私が特に気に入っていたのは、『恵方堂』という古書店である。年老いた主人が一人、店の奥まった場所に座る、昔ながらの古書店には、他ではあまり見かけない奇異な書物が山のように積まれていた。高価な本もあれば安価な本もあり、本の一番後ろのページに一冊、一冊、丁寧に鉛筆で値段が書かれていた。私は時折、その店で掘り出し物の書物を手にすることがあった。
 その時、私が見つけたのは、『鬼殺し絵巻』という書物で、鬼伝説に関するさまざまな逸話を集め、絵画を掲載した本であった。大きさはB5サイズと、一般の書籍より少し大きく、中身はモノクロと二色の構成になっていた。
 一般的に鬼とは、民俗学上の鬼で祖霊や地霊にまつわるもの、天狗などに代表される山岳宗教の鬼、邪鬼や夜叉などの仏教系の鬼、盗賊や凶悪などの人鬼系の鬼、怨恨や憤怒によって変身する変身譚系の鬼に分類されると、文芸評論家の馬場あき子氏の本に書かれていた。
 著者名が書かれておらず、出版社名の表記もないこの本に登場する鬼は、平安から中世の説話に登場する怨霊の化身や、人を食する恐ろしい鬼の話や絵画が、ことさら妖しげに表現されていて、誰が何のために制作したものか、意図の掴めない不可思議な本だった。
 戦乱、災害、飢饉、社会不安の中で頻出する平安時代の人たちの恐怖が生み出した現象として、鬼の存在がその象徴として生まれたと考えられていたが、紙面に見る非常にリアルな鬼の姿に、架空のものとはとうてい思えない衝撃を感じ、いや、恐怖心を感じて思わず本を閉じた。だが、怖いもの見たさでまた、その本を手に取ってしまう。
 結局、私はその本を購入して事務所に戻った。思ったよりも価格が安価だったことと、もう少しその本を読んでみたいという好奇心に駆られてのものだったが、事務所に帰ってすぐに仕事の電話がかかって急に忙しくなり、その本を本棚に積み上げたまま、読まずに放って置いた。
 年の瀬が迫り、仕事が一段落したところで、ようやく私は『鬼殺し絵巻』のことを思い出し、積み上げた本棚から取り出して読み始めた。
だが、本を開いたところでまたしても邪魔者が入った。インターフォンが鳴ったのだ。
 ドアを開けると、見知らぬ老人が立っていた。白髪と白いひげ、仙人と見間 違うような風貌の老人であった。黙ったまま突っ立っているので、部屋を間違えたのかと思い、
 「極楽出版ですが」
 と断ると、老人は物も言わず、つかつかと部屋の中へ入り込んで来た。
 「勝手に入らないでくださいよ」
 老人を捕えて追い出そうとするが、老人は思いのほか強い力で私を押しのけ、迷いなく本棚に向かった。
 「先日、あなたが古書店で買われた本はどこにある?」
 本棚の前で老人が私に聞いた。
 「先日、買った本? 『鬼殺し絵巻』のことですか?」
 老人はニコリともせず、無表情な顔で、
 「そうじゃ。どこにある?」
 と再び聞いた。私は、机の上に置いた『鬼殺し絵巻』の本を取り出し、老人に見せた。
 「この本のことですか?」
 老人は、私の手からその本を奪い取るようにして手に取ると、本を広げて奇妙な叫び声を上げた。
 「ウォーッ やはりじゃ――」
 苦悶の顔を浮かべる老人は、本を手にしたまま、へたり込むようにして床に座り込んだ。わけがわからず、私は老人に尋ねた。
 「一体、どうしたと言うのですか? 突然、飛び込んできて――。説明していただけませんか」
 『鬼殺し絵巻』を私が購入したことをどうして知ったのか、また、私の住所をどうして調べ当てたのか――。謎だらけの老人の行動に思えた。
 床に座り込んだ老人を椅子に座らせ、お茶を用意して老人の目の前に置くと、老人はそのお茶を一気に喉に流し込んだ。
 「すまなかった。取り乱したりして。実は、その本は私の息子が自費で制作した本で、絵も文もすべて息子の手によるものじゃ」
 「息子さんが作られた本なのですか?」
 「そうじゃ。わけがあって、自費制作した100冊の本のすべてを焼却したはずだった。だが、1冊だけ息子が友人に手渡していたことが最近になってわかった。その友人の家を訪ねると、その本を手にしてから奇怪な現象が次々と起きて息子の友人は精神を病み、病院に隔離された。本の行方を尋ねると、家人は、『恐ろしくなって焼却しようと思ったが、それが出来ず、仕方なく古書店に持って行った』と聞いた。慌てた私は古書店に走った。しかし、すでにその本は売れていて書店にはなかった。書店の主人に尋ねて、あなたのことを知った。主人は極楽出版の井森編集長が購入したと私に教えてくれた」
 『恵方堂』を訪れることは度々あったが、店の主人と親しく話したことはなかった。一度だけ、どうしても手に入れたい古書があって、探してもらうようお願いしたことがある。その時、住所と名前を告げた。だが、それはずいぶん前の話だ。
 「主人は、私にあなたの住所を教えてくれ『困ったことがあるのだったら相談したらどうですか』と親切に言ってくれた。『好奇心の強い方だからきっと相談に乗ってくれる』、そう言っていた。だが、息子の書いた本は――」
 老人はそこで言葉を詰まらせた。古書店の主人がなぜそこまで私を知っているのか不思議でならなかったが、買い被りも甚だしいと私は思った。私は、一介の編集長に過ぎない。相談に乗られても相手を満足するような答えなど出せるはずがない。そのことを老人に伝えようと思ったが、その前に老人は、思い詰めた表情で私に語り始めた。
 「井森編集長、突然、飛び込んできてまことに申し訳ありません。見ず知らずのあなたにこんなことをお話しするのもどうかと思いますが、これも何かの縁と思ってお聞きください」
老人の真剣な表情を前にして、仕方なく私は老人の話を聞くことにした。
 
 ――息子は、幼い頃から早熟で、頭のいい、洞察力の鋭い男の子でした。小学生の頃から絵を描き、文章を書き、それが高評価をいただいて話題になる、そんな子供でした。かなり年を経て生まれた子供でしたので、私は息子が可愛くて仕方がなく、息子のためを思って英才教育を施しました。それがよかったのか、悪かったのか、息子は中学ですでに高校、大学程度の学力と知識を備えていたほどです。高校へ入学する頃、息子は肺を病み、半年間サナトリウムに隔離され、療養を余儀なくされました。そのサナトリウムで息子は一人の男性と知り合い、その男と知り合ったことで、その後の息子の運命が劇的に変わってしまいました。
息子に影響を与えたその男性は定塚仁志と言い、三十代の文筆を生業とする作家でした。定塚は、後に肺だけでなく精神も病みますが、この時、彼の存在が息子には何より新鮮で革新的な人間に見えたのでしょう。定塚は息子に、目に見えない、しかし、感じることのできる異界について話して聞かせ、息子を虜にしてしまいます。
 定塚の話す異界に興味を示すようになった息子は、その頃から私の期待する方向とは違う方向へと大きく舵を切るようになりました。サナトリウムを退院し、平常の生活ができるようになった息子でしたが、その頃にはもう高校にも大学にも興味を失くし、ひたすら異界を探求するおかしな人間に変わり果てていました。
 やがて息子は、『鬼殺し絵巻』の制作に取り組むようになりました。息子の描く鬼は、息子が探究して止まない異界の象徴でした。不可思議な言葉を口走り、制作に執念を燃やす息子を見て、私は息子が狂人になったのでは、と思いました。それほど、その姿は異常そのものだったのです。
 完成したのが昨年の暮れ近くのことです。私は、息子のためにその著作を自費出版することにしました。その時からです。異常なことが起こりはじめたのは――。もっと早く制作を取りやめればよかったのですが、異常事態に気付いていなかった私は、本の制作を急がせました。精神に異常を来し始めた息子の命がそう長くないのではと、秘かに感じていたからです。
 時を同じくして、定塚が精神を病み、病院に収容されたと診断してもらいました。結果は最悪でした。息子の体内、膵臓にできた腫瘍が悪性であることがわかり、しかも、同時に息子の精神は、取り返しのつかない異常事態に陥っていたのです。
 本が完成してしばらくして、事件が発生しました。息子の本を知人に渡したところ、その知人が発狂して電車に飛び込むといった事件が起きたのです。単なる偶然と最初は思いました。ところが、別の知人に手渡すとその知人も原因不明の突然死で亡くなったのです。それでも私は信じませんでした。でも、三人目の犠牲者が出たところで、信じざるを得なくなりました。息子の本は魔性の本だと――。
 完成当初、私は息子の描く鬼に違和感を持ちました。鬼だけではありません。鬼以外の絵もそうでした。いえ、文章も平易に鬼伝説を扱っているようで、そうではないことを悟りました。そこにあるのは紛れもなく異界に棲む者にしか理解できないものでした。そのことに気付いた私は、息子の目を盗んで急いで本を焼却しました。焼却した時、立ち昇る妖しげな炎の色を見て、私は自分の考えが間違っていないことを悟りました――。
 
 老人の話が終わったところで、私は改めて老人に本を手渡した。老人は、その本を革のカバンに放り込むと、慎重に鍵をかけた。
 「古書店の主人に、あなたに相談をしてみろと教わりましたが、相談をしてもいいものでしょうか」
 『鬼殺し絵巻』の本を手に取った時から、すでに私は、異界に誘われていたのではないだろうか。ふと、そんな気がした。しかし、本を購入してから五日が経過している。なぜ、私は他の人たちのように被害を受けなかったのだろうか。あれこれ思いを巡らす私に、老人が再び問いかけた。
 「あなたに相談するしかないと私は考えています。どうか息子を助けてやってください」
 「息子さんを助ける!?」
 この本を制作した息子は、精神に異常を来し、しかも末期のガンだと先ほど聞いたばかりだ。医師でもない私に助ける方法などあるはずがない。
 「私は医師ではありませんし、息子さんを助けるなどとても無理です」
 断ると、老人は、
 「命ではありません。息子が異界に導かれるのを防いでいただきたいのです。穏やかに死なせてやりたい。そのためには魂が異界に向かうのを防がなければならない」
 「魂が異界に向かうのを防ぐ?」
 「編集長も息子の制作した本をご覧になってお気づきのことと思いますが、息子が異界に導かれていることは明らかです。このまま放っておくと間違いなく息子の魂は異界に向かいます。私はそれを防いでやりたいと思っています。しかし、方法も方策も私には何もなく、どうすることもできない。だが、あなたならきっとできる。私は確信を持ちました」
 老人の確信がどこからきているのか、私にはまったく理解できなかったが、老人は私にその説明をした。
 「通常、この本を手にした人は、知らず知らずのうちに異界に誘い込まれます。息子が本を送り、本を見た二人の知人はその被害者となり、一人は自殺し、一人は精神を破壊されています。私は、たまたま、この本を見ていなかった。息子が送付した数人の異常な事態に気づいた私は、この本を少し呼んだだけで凄まじい恐怖を感じ、すべての本を焼却しなければならないと思いました。送付した知人の家族に本を返却していただき、すべて灰にした、そのつもりでした。だが、1冊だけ取り残し、それをあなたが手にした。当然、あなたにも危害が及ぶはずだが、あなたには何の変化も見られない。最初、私はそれが不思議でならなかった」
 私は、『鬼殺し絵巻』のすべてを読破していなかった。古書店でパラパラとめくっただけで、本格的に読もうと思った時に老人がやって来た。そのことを老人に話したが、老人は意に介さなかった。
 「あなたは護られている。私はそう感じています。助けてくださいお願いします」
 力になりたいとは思うが、何をどうすればいいのか、私には見当が付かなかった。老人の買い被りだと話しても、老人は一向に怯まない。老人の熱意に負けた私は、仕方なく、できるだけの協力をします、と約束をした。
 
 老人の名前は、片岡俊二、息子の名前は片岡俊太と言う。息子の俊太が本の制作に取り掛かったのは、昨年秋のことで、完成したのは今年の秋だと、老人は語った。本を制作するきっかけになったのは、昨年夏、定塚から手紙が届き、それを読んでからのことだと老人は説明をし、定塚から届いた手紙の内容を知りたくて、俊太の部屋を調べたが、いまだに見つけられずにいると語った老人は、定塚が収容されている病院の名前を私に教えた。
 『鬼殺し絵巻』の謎を解く鍵は、定塚にあるのではないか、老人が考えたことを同様に私も考えていた。早速、私は定塚の入院する病院に向かった。
 病院は阿倍野にあった。だが、すでに定塚はその病院から岸和田にある病院へ転院していた。転院の理由を、面会した担当医は、『当院では手に負えなくなった』と語り、岸和田のより強固な病院へ転院させた正当性を私に訴えた。看護師からも話を聞いたが、定塚は精神を病み、それが定塚の中に潜む凶暴性を呼び起こしたようだと語るだけで、それ以上、詳しく説明することを避けた。
 凶暴性という看護師の説明が、私に『鬼』を連想させた。その日、私は、転院させたという病院の名称と場所を聞き、すぐさま岸和田に向かった。
 難波駅から南海電車に乗り、岸和田駅までおよそ25分、岸和田駅に到着した私は、駅からタクシーを拾い、病院の名称を告げて乗車した。病院まで約15分、タクシーを下車し、病院の受付で定塚の名前を告げると、面会謝絶になっていると受付の担当が話した。
 「面会謝絶? どうしてですか? 担当医にお話をさせてもらえませんか」
 執拗に食い下がったのと、出版社の名刺を見せたことが功を奏して、受付が担当医を呼んだ。白衣に身を包んだ担当医が現れたのはすぐ後のことだった。担当医は、私を見て、まず定塚との関係を聞いた。よほどの理由がない限り、面会させたくない。そんな様子がありありと見える対応だった。
 私は、出版社としての立場を明確にして、担当医に、
 「会わせてもらえないならこちらにも考えがある」
 と伝えると、担当医は、あっさりと、「わかりました」と言って引き下がり、定塚が収容されている部屋に私を案内した。地下に至るエレベーターに乗った医師は、薄暗い通路を歩き、まるで刑務所の独房が居並ぶ場所へ私を案内した。
 「定塚さんは、凶暴性を帯びて非常に危険なので、この部屋に収容しています。従って面会は食事を運ぶドアの小窓からになります。時間も短時間に区切らせていただきますのでよろしくお願いします」
 担当医は、「10分後に」と言って、私を置いてその場を去った。
 小窓を開けると薄暗い室内に定塚らしき人物が立っているのが見えた。
 「定塚さん。私、極楽出版の井森と申します。片岡俊太さんをご存じですよね。片岡さんのことで、お聴きしたいことがあって来ました」
 静まり返った室内からは何の応答もない。しかし、その一瞬、薄暗い室内に見える人影が動いた。同時に、咆哮が私の耳にこだました。
 何を言っているのか、何を言おうとしているのか、まるでわからない。小窓からニューッと腕が伸びてきた。その腕は人の腕ではなかった。獣か魔物の腕のように私には見えた。
 「片岡さんが作った『鬼殺し絵巻』について、知っていることがあれば聞かせていただきたいのですが――」
 鋭く伸びてきた腕から逃れるようにして私が尋ねると、咆哮が止んで、急に静かになった。腕がするすると部屋の中へ収められていく。
 「俊太は作ったのか?」
 正常な意識を持った人の声がした。獣から人間にすり替わったように、その声は美しく清く澄んでいた。
 「ええ、完成しました。ですが、何人か犠牲者が出て、俊太の父親がその本を焼却しました。たまたま焼却から逃れた1冊が偶然、私の手に渡って――、父親が私に救いを求めて来ました。今のままだと、俊太の魂は異界に連れ去られると危惧しているのです。俊太の死期が近いことから、父親の焦りは相当なものです。こんな話、誰に話しても信じてもらえない。そう言って相談を受けたのですが、私にもこれといった方策が浮かびません。そこで思い浮かんだのがあなたの存在です。俊太はあなたを信奉していました。あなたの影響を多分に受けていると思われます。『鬼殺し絵巻』の制作もあなたの意志が絡んでいるのではと思い、あなたに聞けば、俊太を救えるのでは、そう思って――」
 「俊太は、穢れのない美しい魂の持ち主だ。異界のものたちが欲しがるのも無理はない。俊太に『鬼殺し絵巻』を書かせたのは、推察通り私だ。と言うよりも異界のものたちが私にけしかけたと言った方が正しいかも知れない。その本が完成したら、私と俊太の魂は共に異界へ移り住む予定でいた。本来なら完成した時点でそれが出来ているはずなのに、こうやって私が生きながらえているのは、邪魔者が入ったせいだろう」
 「邪魔者?」
 「そうだ。多分、父親だろう。父親の俊太を思う心が邪魔をしているのかもしれない。異界のパワーが俊太の肉体を蝕み、精神を崩壊させようとしている。それは私も同じだ。違うのは、俊太には彼を思う父親の愛があるが、私にはない。私は多分、このまま狂人として果てるだろうが、俊太は生き延びられる可能性がある」
 「俊太の命が助かると言うのですか?」
 「ああ、そうだ。帰ったらすぐに、『鬼殺し絵巻』を清い水に晒し、祈願文を書いた白い紙で本全体を巻き、神社に奉納しなさい。一日、二日、死の淵に追いやられるが、それを乗り越えれば彼は復活する。ただし――」
 そこまで語った時、担当医の声がした。10分が過ぎたのだ。
 「ただし? ただし、何ですか?」
 問いかけたが、再び咆哮が繰り返され、定塚は二度と喋りかけて来なかった。
 「定塚さん、ありがとう」
 小窓から叫ぶと、薄暗い部屋の中に立ち尽くす定塚のシルエットが垣間見えた。その姿を見て、思わず私は愕然とした。定塚の頭の部分に二本の角が生えていたのだ。
 
 事務所に戻った私は、すぐに俊太の父親、片岡に連絡を取った。片岡は、私からの連絡を待ちかねていた様子で、慌ただしく、
 「どうでしたか?」
 と聞いた。
 定塚との一部始終を話して聞かせた私は、片岡に『鬼殺し絵巻』の本を持って来るよう依頼した。片岡は、「いますぐ行く」と言い捨てて電話を切った。俊太の容態が、一刻の猶予もないことは明らかだった。
 30分後、片岡が現れた。私は間髪を入れず、片岡と共に近くの神社に向かった。神社には予め、ことの次第を告げていた。
 まず、手水舎で本を清い水に晒した私たちは、予め用意しておいた祈願文を書いた白い紙で本全体を巻き、それを手に、巫女に先導されて、拝殿に昇殿、着座した。と同時に神職によって太鼓が打ち鳴らされた。
 お祓いは30分ほどで終わり、祈願して終了となった。お祓いを受けた本の処分は、神社で行われることになり、私たちは急いで俊太の入院する病院に向かった。
 一進一退を繰り返していた俊太の容態は、今日が峠だと医師から伝えられていると、片岡は話し、息子のことを思ってか、何度か表情を歪めた。
 定塚の言う通りにしたものの、果たして本当に俊太は復活するのだろうか――。確信はなかったが今となっては定塚の言葉を信じるしか術がなかった。
 病院の中へ入ると、看護師が、俊太は集中治療室に入って最後の治療を受けていると語った。赤いランプが点ったままの集中治療室の前で、私と片岡は奇跡が起きることを願いながら待った。
 3時間が経過したところで、赤いランプが消えた。片岡は、消えたランプを見つめて、
 「俊太!」
 と声にならない声を上げた。
 ドアが開き、医師が姿を現した。医師はゆっくりとした足取りで片岡に近づき、
 「奇跡が起きました……」
 額を汗で濡らしながら医師が語った。
 「奇跡!?」
 片岡がおうむ返しに問い返すと、医師は、ニッコリ笑って、
 「信じられないことですが、末期ガンが手術中に突然、姿を消しました。転移も今のところ見られません。まだ、安心はできませんが、今のところ大丈夫です」
と答えた。
 「問題は、息子さんが抱えていた精神的な病がどうなるかということです。今回のガンによる度々の手術などで、息子さんの精神にストレスがかかって、それが悪影響を及ぼさないか、心配です」
 医師は、片岡の手を握り、
 「たとえ、どのような事態に陥っても、息子さんを支えてやってください」
 と言葉少なに語った。
 多少の不安は残ったが、それでも片岡は、息子が生還したことが嬉しかったようだ。私の手を固く握りしめて、「ありがとう」を繰り返した。
 定塚が最後に言った言葉、「彼は復活する。ただし――」と言った言葉がずっと気になっていたが、そのことは片岡にはあえて告げなかった。
 
 一〇日ほどした朝のことだ。年が明けてようやく落ち着いたその日、片岡から改めてのお礼とその後の俊太の経過を報告する電話が届いた。
 ――編集長、おかげさまで退院でき、順調に回復しています。心配していた精神的な障害も、神社でのお祈りが効いたのか、以前よりずいぶんマシになりました。ただ――。
 ドキンと鳴る自分の心臓の鼓動が聞こえた。やはり、何かあったのか――。
 ――以前は簡単に解けていた方程式の問題が解けません。国語も英語も以前は大学生レベルなら簡単にやってのけたのですが、今は、そこらにいる高校生の中レベルです。父親としては少し残念ですが、まあ、仕方がありません。奇跡的に復活し、息子と一緒に散歩をしたり、ゲームをしたりできるだけで、私は充分幸せです。
 片岡の話を聞いて、私はホッと胸をなでおろした。
 事務所を出て街に出ると、神社から太鼓の音が聞こえた。祈願している人のための太鼓か、それとも新年を祝う太鼓か、私はそっと神社に向けて歩を進めた。
〈了〉

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