伝説マンがやって来た

高瀬甚太

 出版の仕事に携わっていると、時々、とんでもない客が訪れることがある。その男が初めてやって来た時、井森公平は車のセールスマンかなと思ったぐらいだ。
 いつもはインターフォンで即座に断るのだが、その日、井森は誤ってドアを開けてしまった。それが第一のミスだった。ドアを開けて男を見た時、井森は即座に、しまったと思った。スーツをしっかり着込んだ、いかにもセールスマンでございますといった風体の中年男性だったからだ。しかもその男はちょび髭を生やしていた。
 これはだめだ、そう思った井森は、「結構です」と断り、慌ててドアを閉めようとした。ちょび髭の男は、片足をドアに突っ込んでドアを閉めさせないようにすると、「話だけでも聞いてくださいよ」と懇願するように言った。
 困った井森は、仕方なく「じゃあ、少しだけですよ。忙しいので」と断って中に入れた。それが第二のミスだった。
 ちょび髭の男は中へ入ると図々しくさらに中へと入ろうとした。
 「ここで話を聞きます。制限時間は3分です」
 と断って、ドアの前に立ち、カウントを始めると、ちょび髭の男は慌ててバッグから書類を取り出し、
 「3分は無理です。もう少し時間をください」
 と言う。そこで受けてしまうのが井森の悪いところだ。
 「じゃあ、5分間だけ」
 それが第三のミスだった。ちょび髭の男は、手にしたパンフレットを手に流暢に説明を始めた。
 ちょび髭の男は、「伝説を販売しています」と、井森に説明をした。
 「伝説を販売? どういうことですか?」
 ちょび髭の男は待っていましたとばかりに話し始めた。
 「伝説は至るところに存在します。世の中にはいろんな伝説が存在し、それはさまざまな形で語り継がれます。私たちの商売は、それぞれの方の伝説を作り、それを世間一般に流布することが目的です」
 「人それぞれの伝説?」
 「そうです。人間は誰でもそれぞれ伝説を持ち合わせています」
 「……」
 「少し前まで自叙伝というのがもてはやされていました。しかし、自叙伝には面白みに欠けるという欠点があります。今の時代は、面白く興味の持てるものでなければ誰も読もうとしません。だから私たちは伝説を作ろうと考えたのです」
 「どうも今イチ話がよくわからないなあ。第一、その伝説と言うのがどんなものなのか、皆目見当がつかない」
 ちょび髭の男は、パンフレットの一部分を指さして、
 「ここの一文を読んでください」
 と言った。井森はパンフレットを手に取り、読んでみた。
 ――加納大吉は一介のサラリーマンである。大阪で生まれ、大阪で育ち、何不自由なく暮らし、高校、大学と進学し、一流企業に就職した。何の変哲もないように見える彼の人生だが、加納大吉を巡る、知られざる伝説があることを誰も知らない。
 加納大吉の父は加納大輔、祖父は加納大吾、祖祖父は加納大門という。先祖代々、加納家は名前に「大」の文字を使ってきた。それはなぜか。そこに加納大吉を巡るまか不思議な伝説がある――。
 ざっとこんな調子だ。書かれてあるのはそこまでで、ちょび髭の男に、この後、どうなっているのか尋ねると、「それはご契約なさらないと無理です」と言う。
 「では、私の場合はどうなるんだ?」と尋ねると、ちょび髭の男は、必要な項目に記入していただくことが条件ですと言う。
 必要な項目に記入するためには、契約をしなければならない。ちなみに契約金は三〇万円、伝説制作料の松コースが百万円、竹コースが七〇万円、梅コースが五〇万円だと言う。
 「少し高いんじゃないか」
 と反論すると、
 「ではいくらぐらいならいいですか」
 と聞いてくる。井森は考え込んでしまった。適正な金額というのがまるでわからなかったからだ。
 「興味がおありでしたら私どもの方で金額を検討いたします」
 と、ちょび髭の男は言い、契約書を取り出すと、
 「とりあえずこちらに記入していただけませんか? 金額と順番を優遇いたしますので」と言う。井森は思わず記入しようとしたが、寸でのところで思いとどまった。井森はこれまでこういったセールスで二度ほど損をしている。それも手ひどい損失だった。そのトラウマが蘇った。
 「約束の5分が過ぎましたのでどうぞお帰りください」 
 井森は丁重に断って言った。そのままにしていると、井森は必ず騙されて記入する。そして、その後、必ず泣くことになるのだ。
 ちょび髭の男は渋々部屋から出て行った。普通ならそれで終わるはずだった。だが、この時、井森は第四のミスを犯してしまった。それは、ちょび髭の男の話に興味を持ってしまったことだ。
 三日ほどして、再びあのちょび髭の男がやって来た。今度はドアを開けないように気を付けて、インターフォンで対応した。
 「伝説販売のものです。先日はどうも」
 と言うので、
 「その話だったら結構です。お断りします」
 と間髪を入れず断った。するとちょび髭が、
 「今日は伝説マンを連れて来ています。せっかくですから一度お会いになってみませんか。こういうチャンスは滅多にありませんから」
と言う。
 「伝説マン?」
 「そうです。世界でただ一人の伝説マンです」
 伝説マンと聞いて井森の好奇心が頭をもたげた。
 「じゃあ、ちょっとだけですよ。5分しか時間がありませんがよろしいですか?」
 「結構です。5分で結構です。よろしくお願いします」
 ドアを開けると、先日のちょび髭の男と帽子を深めに被って着物を着た、いかにも怪しげな男が立っていた。
 「その方が伝説マンですか?」
 と聞くと、帽子を被って顔がほとんど見えない男が井森の前に立ち、井森に向かって深々と礼をした。
 中に入れると、二人は図々しく、井森のデスクの前まで侵入し、じろじろと部屋の中を見回す。
 「入口でお願いできますか。この間と同じように」
 と二人に向かって忠告すると、ちょび髭の男が怒る。
 「何を言っているんですか。世界で一人の伝説マンがいらっしゃっているんですよ。少しは敬意を表してください」
 仕方なく井森は、デスクの横に二つ、椅子を持ってきて男たちを座らせた。
 「すみません。お茶ぐらいご用意していただけませんかね。伝説マンのために」
 「これは失礼しました。すぐにご用意します」
 井森は慌てて冷蔵庫の中にあるペットボトルを取り出して、グラスに冷たい茶を入れて渡した。 
 「ひぇっ!」
 伝説マンが突然、声を上げた。井森は驚いて、
 「どうかしましたか?」
 と尋ねた。
 「困りますよ。伝説マンは冷たいお茶が苦手なんです。熱いお茶をご用意していただけませんか」
 なんで自分こんなことをしているのだろう。井森は気を取り直して時計をみると約束の5分をとうの昔に過ぎていた。
 「申し訳ない。5分が過ぎました。お帰り願えませんか」
 と言うと、ちょび髭の男が再び怒った。
 「なんて失礼なことを言うんです。伝説マンに失礼だと思わないのですか。早く熱いお茶を用意して、こちらへ来てください。今日は大事な話がありますから」
 井森は、お湯を沸かして、湯飲みに茶を入れ、しずしずと二人に差し出した。伝説マンは、お茶を口にすると、「ぐぇっ」と再び声を上げた。ちょび髭の男がそれを見て、
 「伝説マンに安物のお茶を飲ませるなんて、失礼な人だ。お腹を壊したらどうするつもりですか」
 と立腹して言った。井森は頭にきて、
 「さっきから聞いていると、あんた方は何様なんだ。そんなふうに言われる筋合いはない。出て行ってくれ。さあ、今すぐ出て行ってくれ!」
 怒鳴り声を上げた。その声に驚いたのか、帽子を深く被ったままの伝説マンは、「ぐぇっ」と奇妙な声を上げた。その様子を見て、ちょび髭の男が何かを井森に言おうとしたが、委細構わず、井森は二人を部屋から追い出した。ドアの外でちょび髭の男が、
 「罰が当たるぞ。天罰が当たるぞ」
 と大声で叫んでいたが、我関せずで仕事を続けた。それにしても伝説マンというのは何者なのだ。少しは気になったが、仕事をしているうちにそんなことはすぐに忘れてしまった。
 一週間が過ぎた日のことだ。締切が近づき、いつになく多忙な時間を過ごしていた時のことだ。突然、ピンポーンとインターフォンが鳴った。それが二度、三度と激しい勢いで鳴るので、あわてて「どなたですか」と聞いた。
だが、誰も応答しない。そのまま放って仕事をしていると、再び、ピンポーンピンポーンと鳴り続ける。頭へ来てドアを開けると、ちょび髭の男と帽子を深く被った伝説マンが立っていた。
 慌ててドアを閉めようとすると、ちょび髭の男が靴をドアの間に挟み、閉めさせまいとする。靴を蹴とばして、閉めようとするが今度は伝説マンの履いている下駄がちょび髭の男を加勢する。5分ほど闘った後、馬鹿馬鹿しくなってドアを開けた。
 「いったい何の用ですか」
 目を吊り上げて井森が言うと、ちょび髭の男が、
 「あなたも往生際が悪い人ですねぇ」
 と言う。
 「往生際が悪い? なんであんたにそんなことを言われなきゃならないんだ」
 この二人を相手にしていると血圧が上がる。
 「用がなければ帰ってください」
 と追い出してドアを閉めようとすると、ちょび髭の男がドアの間に自分の靴を挟み、伝説マンの汚い下駄がそれに加勢した。
 「いい加減にしてください。私は忙しいんだ。こんなことをして遊んでいる暇はないんです」
 怒鳴り声を上げると、その倍ほどの声で、ちょび髭の男が言い返してきた。
 「せっかく、伝説マンが二度も来ているのに何てことを言うんですか。この罰当たりめ」
 売り言葉に買い言葉だ。井森だって負けてはいない。
 「何が罰当たりだ。何が伝説マンだ。いい加減にしろ。警察を呼ぶぞ!」
 「私たちは善意であなたに伝説をセールスしようとしているだけだ。何もやましいことはない。警察を呼ぶなら呼んでくれ。さあ、早く!」
 電話を手に取り、110番をプッシュしようと思ったが、途中で辞めた。向きになって相手をするのが恥ずかしく思えてきたからだ。
 「頼むからここへは来ないでください。私はあなた方に伝説をお願いするつもりはありませんから」
 懇願するように言うと、ちょび髭の男も、
 「じゃあ、今日を最後にします。伝説マンの話を一度だけ聞いてください。それで判断してください。もうお茶がどうのコーヒーがどうの、饅頭が欲しいなどとは決して言いませんから」
と丁寧な返事をした。
 井森は渋々二人を部屋の中に入れ、話を聞くことにした。
 「改めてご紹介します。世界でただ一人の稀有な存在、伝説マンです」
 ちょび髭の男が仰々しく伝説マンを紹介すると、伝説マンは立ち上がり、深々と井森に向かって礼をした。
 なぜ、帽子を深く被って顔を見せないのか、まるで理由がわからなかったが、着流しの着物と下駄というのも珍しく、昔、流行った酒場の流しを連想させるような風体だった。
 「伝説効果というのを編集長は信じますか?」
 グェッとかギャッしか声を聞いていなかった井森は、伝説マンが突然、喋り始めたので驚いた。意外に美しい、女性のような声で、伝説マンは女性なのかと一瞬疑ったほどだ。
 「伝説効果?」
 「文字通り、伝説による多大な効果を言います」
 「……あまり効果があるような気はしませんが」
 「人を語る時、たいていの人は、あの人、若い時、ずいぶん苦労したみたいよとか、奥さん、ヤンキーだったみたいよ、と言った感じで、いいことも悪いことも含めて過去を話題にします。そして話題の豊富な人こそが、人の口に上る機会が多く、人気者になる可能性が高くなります。愛される、嫌われる、それもまた過去の問題に大きく左右されます。
 どんなに平凡な人でも、過去のない人はいません。平凡で何もないとおっしゃる方もいますが、そうではありません。それは過去の捉え方に問題があるのです。また、どうしても過去に何もないとおっしゃる方でも、先祖を探って伝説を作ることはできます。
 せっかくこの世に生まれて、人に注目されることなく生き、一生を終えることは寂しいじゃありませんか。できれば、自分の存在を多くの人に知ってもらいたい。そう思うのが普通でしょ。私はそうした方々のために、その人を注目させる魅力ある伝説を作り上げたいと思っているのです。わかっていただけますか?」
 伝説マンに問われた井森は、つい、「はい」と答えてしまった。
 「しかし、ちょっといいですか。伝説を作るのはいいと思いますが、それをどう知らせるのですか」
 伝説マンは井森の質問にポンと膝を叩いて、
 「いいことを聞いてくれました。そこです。私たちの売りは」
と、そこまで来て突然、伝説マンの口調が変わった。
 「私たち伝説販売は、世界最大のネットワーク、デンデンを有しています。デンデンを通じて世界中に伝説をアピールするのです」
 「デンデン……? 失礼ですが、私、聞いたことがないですね」
 井森の言葉にちょび髭の男の顔が一瞬、険しくなった。伝説マンの肩も震えた。
 「デンデンを知らない人がいるなんて――、信じられません。世界最大のネットワークですよ」
 伝説マンが声を震わせながら言った。
 「そのデンデンというのは、どんなネットワークなんですか? たとえばフェイスブックやツイッターなどのようなものですか」
 「あなた、今は二十一世紀ですよ。そういったものはもうすでに過去の遺物です。これからの時代はデンデンです!」
 その後、伝説マンは長々とデンデンについての説明を始めたが、井森にはちんぷんかんぷんで理解不能の代物だった。
 それにしても彼らは、伝説に関心のない井森にアピールしてどうしようというのだろうか。井森は一貫して断っているのに――。彼らの意図が掴めなかった。どちらにしても胡散臭い奴らだ。早く追い出すに限る、そう思った井森は低姿勢に出て追い出すことを考えた。
 「伝説が人の一生を有意義にするということも、デンデンというネットワークでそれを流布するということも、何となくわかったような気がします。ただ、申し訳ありませんが、私はまったく興味がありません。だからどのように勧められても、私の気持ちは変わりません」
 と断言した。断言してはっきりと断った。すると彼らは笑った。大笑いした後、ちょび髭の男が井森に言った。
 「伝説マンが説得して断る人なんて初めて見ましたよ。信じられません。こんないい話を断るなんてどうかしています。あなた、おかしいですよ」
 セールスの根源は販売することにある。何が何でも売らなければならない。必要なものかそうでないか、そんなことはどうでもいいのだ。相手を断れないように仕向ける、そして契約に結び付ける。ちょっとした洗脳を行うことで相手は雰囲気やその場の空気に躍らされて契約する。それが今、まさに行われようとしている。こういう時は断固とした態度が必要だ。相手に乗じる隙を与えず、毅然とした態度を取る。
 「おかしくて結構です。今日の話はそれで終わりですか? じゃあ、お帰りください。私は忙しいのです」
 デンデンと言うネットワークも、伝説を作るという話も、内実は契約を取って金を稼ぐための方策でしかないことは明らかだった。追い立てるようにしてドアの前に立たせると、ちょび髭の男と伝説マンは、井森を睨みつけ、
 「後悔しますよ!」
 と捨て台詞を吐いて、出て行った。

 一カ月が過ぎた日、一本の電話を受けた。「相談があるからそちらへ行ってよろしいか」、と老女のような声をした人物が打診してきた。
 「どのようなご相談ですか?」
 気になったので井森が尋ねると、老女と思しき電話の人物は、「行ったときにお話しします」と言う。
 老女がやって来たのは翌日の午後だった。
 小糠雨が降っては止み、降っては止みを繰り返す、そんな天候の中、仕立てのいい着物と上品な顔立ちをした老女がやって来た。
 「井森編集長様でいらっしゃいますか?」
 井森の顔を見て、老女は確認するようにして言った。井森が「そうですが……」と答えると、老女は、「夫が本を作りたがっていて――」と切り出した。
 部屋に上がってもらい、老女に詳しい話を聞くことにした。老女は落ち着いた口調で井森に語った。
 「夫は現在八三歳になり、病気のため余命いくばくもない状態です。親の後を継いで経営者となった夫は、これまで殆ど苦労らしい苦労をせずにここまで来ています。会社の業績もいいし、何も心配することはなくて、これまでずっと順風満帆でした。ただ、振り返って、子供や孫に伝えるものが何もないというのが、死期を間近に控えた今、ずいぶん心残りのようです。それで専門家の編集長様に伝記を作っていただけないかということになって、本日、私が代理で相談にやって来たわけです」
 「伝記をつくる?」
 「そうです。主人の伝記をつくっていただきたいのです」
 井森は、その時、至極安易に考えていた。どんなに順風満帆に生きてきた人でも語るものは何かあるはずだ。人知れぬ苦労もあったに違いない。本人がそのことに気付いていなくても、社員なり、奥さんなり、周囲の人に尋ねればきっと材料は出てくることだろう。そう考えた井森は、「わかりました」と答え、「一度、ご主人にお会いします」と伝えた。
 老女は安堵の表情を浮かべ、「お待ち申し上げております」と言い、井森の元から静かに立ち去った。
 早速、翌日の午後、井森は老女の家を訪ねた。老女に教えられた芦屋の住所を基に訪ねると、山の手の豪勢な家屋が立ち並ぶ一角にその家はあった。
インターフォンを鳴らすと、その家の執事だろうか、黒いスーツに身を包んだ礼儀正しい紳士風の男が出迎えてくれた。
 「お待ち申し上げておりました」
 丁寧な応対に恐縮していると、男が「旦那様がお待ちです。どうぞ」と言って、井森を家屋の中へと案内した。庭を歩き、玄関に到達するまで数分を要した。玄関では老女が出迎えてくれ、「こちらへどうぞ」と、執事に代わって井森を案内した。途方もない広さと贅沢な造りの邸宅に圧倒されながら井森は案内されるままに進んだ。
 「編集長さんがいらっしゃいました」
 老女の言葉にドアが反応して開いた。どうやら自動ドアのようだった。
 部屋に入ると、老人がベッドの上に横たわっていた。
 「いらっしゃい」
 弱々しい声に迎えられた。ベッドに横たわる老いた人がこの家の主人であった。老女から八三歳と聞かされていたが、病気のせいか、それよりもう少し年老いて見えた。
 「すみませんなあ。わざわざお越しいただいて」
 老人はそう言って、森山宗光だと自分の姓名を名乗った。
 伝記を作るという依頼だったので、森山氏のこれまでの過去をざっと聞くと、驚いたことに何もない。恐ろしいぐらいに何もなかった。
 父親、祖父、祖祖父――。先祖代々、現在の仕事に従事してきた森山家の家系は、恵まれているというか、幸せというか、代々、殆ど何の波乱もなく経営を営んできた。時代がどう変わろうと、森山家は何の変化もなく、時代の流れに沿って生きてきた。経営と同様に家族にも波乱がなく、年頃になると見合いをし、結婚して子供を産み、育てる。それもまた不思議なほどに男女の比率がうまく合っていた。
 「幼児の時から学生時代と順調に育ち、恋の思い出もなければ、両親との思い出、家族の思い出も何もありません。ただ、勉学に勤しんで、経営を学んできただけです。恋人もいなければ友人もいませんので、思い出せることといえば学んだ事柄だけです。大学も同様に何もないまま首席で卒業し、卒業してすぐに祖父や父の経営する会社に就職、二五歳の年に見合いで現在の妻と結婚。エポックとなるものといえば、結婚、出産して子供が誕生した――、そのことぐらいでしょうか。経営は順調で、大部分を常務や専務がやってくれるので、私は判を押すだけ。私生活での大きな変化といえば、病気を患って死期が近い今だけです」
 平々凡々とした内容である。何不自由なく暮らしてきたことだけはよくわかるが、涙の味でパンを噛みしめたこともなければ、恋したことも失恋したこともない。友人と喧嘩をしたり、会社の中でトラブルに遭ったこともない。伝記を作るにはあまりにも平凡すぎて、作ることが困難に思われた。どんな人でも語る何かを持っているのが当然のことだが、森山氏にはそれがなかった。まるで意思のない人形のような人生だと思った。
 困った井森は、森山氏の了解を得て、森山家の住人、執事や奥さん、お手伝いなどに森山氏に関する話を聞くが、どれも判で押したように、立派な方ですとか、やさしい方ですといった抽象的な答えしか返って来なかった。それならと、森山家の伝統に関する資料を集めようとするが、何の変哲もない、仕事の記録しか残ってなく、伝記の参考になるようなものを何一つ見つけることができなかった。
 「わしが生きていた証しを伝記に残したい」
 それが森山氏の希望であったが、ひと通り聞いた森山氏の伝記は、わずか数行で終わりそうなほどに何もなかった。
 まさかこのような人物が世の中にいるとは思っていなかった井森は、安易に引き受けてしまったことを後悔した。だが、今さら断ることもできない。頭を抱えてしまった。
 森山氏は、絶対、嘘は書かないでほしいと井森に注文を付けた。真実のみで構成してほしいというのだ。多少のフィクションが許されるならまだしも、完全なノンフィクションで1冊の本を作り上げるとなると、それもまた、非常に難しいと思われた。
 完全に行き詰ってしまった井森が思い起こしたのは、例の伝説マンのことだ。こういった状態でも、彼らは果たして伝説を作り上げることができるのだろうか。それを聞いてみたい気がした。だが、一度ならず二度、三度と追い出した手前、今さら連絡はしにくい。
 森山氏に「時間の猶予をいただいて、全体を構築してみますので少しお待ちください」と断って、森山家を出た。森山氏の病状は芳しくないようで、時間の猶予はあまりないように思われたが、致し方なかった。
 事務所に戻ると、伝説マンの連絡先を書いた名刺があった。捨てようと思っていたが、捨てずに残しておいてよかったと思ったが、さて、電話をしていいものかどうか迷った。
 何でもそうだが、伝記にしろ自叙伝にしろ、感動がないものは書きにくい。森山氏の話を聞いていて井森は何の感動も得られず、また、感動とは縁遠い人生であると思った。
 思い切って伝説マンに電話をしてみることにした。伝説マンはすぐに電話に出た。電話に出て、ふふふ……、と笑った。
 「この間はどうも、実は少し相談したい案件があって……」
 へりくだって言うと、相手は高圧的な態度で、話した。
 「相談したい? 私どもにどのような相談があるというのですか」
 私は森山家の案件を、相手の名前を出さないように気を付けて話した。
 「今、話したように何もない人生でも、伝説マンは伝記を作れるわけですか?」
 伝説マンは、非常にゆっくりとした口調で、
 「だからこそ私たちが存在するのです。無理やり捏造するわけではなく、短期間で真実の伝記を作り上げることが可能です」
 自信たっぷりに言った。言った後、契約金と松竹梅、どのコースを選ぶか付け加えた。
 井森は、改めて電話をします、と断って一度、電話を切った。伝説マンの自信が井森には不可解だった。話を何も聞かず、安易に可能と言ってのける自信の裏に確たるものが何もないように思えた。
 大阪府警の原野警部の携帯に連絡を取った。暇なのかそれとも偶然なのか、彼はいつもすぐに電話に出る。この時もすぐに電話に出た。
 ――伝説販売? 伝説マン? それを調べろって――。何だいそれ?
 ――被害が出ていないかどうか急いで調べてほしいんだ。
 ――わかった。捜査二課に聞いてみる。それだけか?
 と聞くので。「それだけだ」と答えると、
 ――今度、酒を呑ませろよ。安酒は嫌だぞ。
 と注文を付けて電話を切った。
 ――2時間後、原野警部から電話がかかって来た。
 ――編集長、伝説販売のことだが、かなりの被害届が出ているようだ。大阪市内だけでも十数件、大阪府下になるともう少し多そうだ。特徴は、何とか自分が生きてきた証しを残したいと思う中高年の男性に、自叙伝ではなく、伝説を作って世間に流布しましょうと呼び掛けて、相手が乗ってくると、契約金を払わせ、松竹梅のコースを選ばせる。相手が乗って来なくても、これだと思うとしつこくセールスするらしい。この時、伝説マンと呼ばれる、伝説を書く専門の作家が同行し、説明をするようだ。ただ、詐欺と一概に言えないのは、伝説を書くために一応、話を聞き、資料を要求するらしい。それで依頼者は安心するのだが、金を払ってしまうと、連絡がまったくなくなってしまう。心配になった依頼者が進行状況を尋ねると、もうしばらくかかりそうだと言ってごまかす。だから、詐欺と断定できないらしい。
 やはりそうかと思った。伝説販売などと謳って中高年を騙す、あくどい手口にもう少しで引っかかってしまうところだった。このところ、中高年を騙す詐欺の手口が手を変え、品を変え、多種多様に氾濫している。思わせぶりな態度は、詐欺特有のもので、人の内面に切り込んでくるセールス話法もまた、詐欺師ならではのものだと確信した。
 伝説マンに頼んでも無駄だとわかった今、森山氏の伝記をどのように考えたらいいか、井森は再び頭を悩ませることになった。
 翌日、井森は、再び森山家を訪問した。訪問して、伝記の制作についての構想を話したいと告げた。
 病床の森山氏は、大いに喜んで井森を迎えた。その中で森山氏はこれまで数人の編集者、ライターに相談したことを井森に話した。ほとんどの編集者、ライターが敬遠し、難しいと言って断ったと言い、ただ一社、伝説販売という会社に依頼したところ、大丈夫ですと伝えられ、伝説マンというけったいな帽子を被った男、いや、女が取材にやって来て、契約金と松コースの料金を払ったが、一年経っても、まだ制作中と言うばかりで反応がない、と立腹した調子で言った。
 伝説販売を調査させたところ、詐欺まがいの商法だということがわかり、これではいかんということになって、人づてに、極楽出版の井森編集長だったら期待に応えてくれそうだと聞いて、連絡させていただいた、と森山氏は話した。
 ここでもやはり伝説販売が暗躍していた。しかし、彼らはいずれ捕まる。今は無事でも、年月が経つと問題にされるだろう。だが、井森はあえて伝説販売について言及しなかった。
 井森は森山氏に、「伝記にこだわりますか?」と聞いた。
 「どうしてですか?」
 と、森山氏が聞くので、井森は、
 「後世に自身の存在を伝え、遺すことが目的であれば、自身の生い立ちのようなものではなく、森山氏自身の考え方、思想を軸にしたものの方がいいのではありませんか?」
 と言った。森山氏はしばらく考えた後、
 「生い立ちにはこだわらなくていいです。考え方や思想と言いましたが、それはどのようにして作るのですか?」
 「私がさまざまな事例について質問をします。それに対して、お答えいただければいいのです。思った通りのことを話していただければ、私がそれを文章化し、編集構成して、本に仕上げていきます」
 森山氏は井森の考えに同調し、「そのように本を作ってほしい」と承諾した。
 何の変哲もない森山氏の人生ではあったが、思想や考え方は、さすがに一流のものを持っていた。井森は早速、その日から取材に入り、森山氏の体調を気遣いながらインタビューを続け、口述筆記を行った。
 伝説マンから電話が入ったのは翌々日のことである。

 ――一向に電話がないが、困っているならその仕事、引き受けてもいいぞ。相手を紹介してくれれば、一割程度のお礼をする。
 そういった電話がかかってきた。井森は、明日にでも相談したいから契約書一式を持って、二人で来てくれと伝えた。
 すぐに井森は原野警部に連絡をし、明日、伝説販売の関係者が当社にやって来る旨を伝えた。原野警部は、捜査二課に連絡すると言って慌ただしく電話を切った。
 翌日、午後、やって来た、ちょび髭の男と伝説マンは捜査二課に連行され、厳しく聴取を受けた。伝説販売の事務所は中央区にあり、地下鉄本町駅からほど近い場所にあった。調査の結果、五十数人から伝説の仕事を受けていたものの、契約金とコース料金だけ受け取って何一つ取り掛かっていないことがわかった。
 ちょび髭の男と伝説マンは親子で、父と娘だった。伝説マンが、帽子を深く被って顔を見せなかったのは、ミステリアスな要素を付加するためのものであったことがわかった。

 ――原稿が完成したのは一カ月後のことだった。内容は、若い人たちに贈る、生き方、学び方、愛し方など青春の根源に根差した温かく、時には厳しい森山氏のメッセージで、井森が読んでも感動する内容が豊富に含まれていた。
 本が完成して半月後、森山氏は本を胸に抱いたまま静かに息を引き取った。井森は奥さんの了解を得て、完成した本の一部を市販した。
 森山氏の知名度もあって話題になり、三カ月間で二刷りした。その二刷り分もすでに残部数が少なくなっている。森山氏の真の伝説はこの本によってつくられるのかもしれない。井森はそんな予感をふと抱いた。
〈了〉

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