風太の凋落と「まめだ」

高瀬 甚太

  劇場の楽屋の席は奥の方が重鎮、入り口に近い方が新人と決まっている。最近、テレビでめきめきと売れ始めた若手落語家の笑翁亭風太は、その古いしきたりを腹立たしく思っている。
 ――売れっ子の俺が、何でこんな場所に座らなあかんのや。
 楽屋の一番奥に座っているのは、今時珍しい三味線漫談の亀松で、その隣にはマジックの凡才テラオが座っている。骨董品のような二人を重宝する劇場の感覚に納得がいかなかった風太は、何度か劇場の支配人に文句を言ったことがある。
 「この劇場にやって来る客の大半は俺を目当てにしているはずや。客席を一番沸かせているのは俺やないか。そやのに何で俺がこんな入り口に座って出番を待たなあかんのや」
 ベテランの支配人は融通の利かない鈍な男で、「まあまあ、そう言わんと」と言って風太を相手にしない。
 デビューしてすぐに、若い女性を中心に人気者になった風太は、二十代前半という若さでありながら、落語界のニュースターとして行く先々で旋風を巻き起こしていた。
 しかし、人気が出たからといってすぐにギャラに反映するわけではない。忙殺される日々を送っているのにギャラだけは変わらず薄給のままだ。デビューして二年半、風太の不満は募るばかりだった。

 風太が劇場の舞台に上がると、熱狂な女性ファンが最前列の席を陣取っていて、まるでアイドルに対するかのように黄色い声援を投げかける。一言発するたびに女性の歓声が沸き上がり、風太の声がかき消されてしまう。
 三百人以上が入る劇場だ。隅々まで女性たちの歓声が響き渡る。当然のことだが、劇場にやって来る客のすべてがそういった人たちばかりではない。じっくりと落語を聞きたいと思っている客も多い。そんな客たちにとって俄かファンは目障りでしかなかった。
 風太の落語は古典ではなく創作落語で、すべて師匠の笑翁亭文吉の創作によるものだ。
 古典落語なら先人が演じた芸風が残されていて参考に演じることも出来るが、創作落語にはそれがない。師匠の落語を手本に観客に聞かせるしか術がなかった。
 風太は、落語家には珍しいアイドルまがいのビジュアルで人気を得ている。芸で人気を得ているわけではないのだが、風太はすっかりカン違いしてしまっているようだ。人気がそのまま実力だと思っている節がある。その証拠に、風太の態度は日を追って横柄になっていた。

  笑翁亭文吉一門には風太の他に五人の弟子がいる。二歳上の三太、五歳上の牛馬、同年代の賛三、七歳上の瓢六、ベテランの真松がそうで、このうち風太と三太は文吉の元で住み込み修行中の身だが、他の四名はすでに独立して居を構えている。
 テレビ、ラジオの出演が相次ぎ、マスメディアにもてはやされている風太は、師匠の元での住み込みから一日も早く脱出したいと考えているのだが、文吉の意向で、入門時に、弟子入りして三年は独立を許さないという約束事を弟子に課している。そのため風太は、三年間は自由に出来ない。あと半年もすれば師匠の家を出ることが出来るのだが、風太はその半年さえも辛抱できない、そう思い、苛々を募らせていた。

  テレビの収録を終えて局のスタッフと共に居酒屋に入った時のことだ。風太は、その打ち上げの席で、その店に来ていた客の一人から辛辣な言葉を投げつけられた。
 「下手な落語しか出来ないくせにのぼせ上って――」
 風太を中心に輪になって卓を囲んでいた中での出来事だった。スタッフの一人がその客を押しとどめたため事なきを得たが、その言葉の主が若い女性だったことに風太は驚かされた。
 酒に酔っていた風太は、下手な落語と中傷されたことに苛立ち、立ち上がって、
 「俺の落語のどこが下手なんや。こっちへ来い」
 と叫んだ。その女性もえらく気の強い女子だった。スタッフを押しのけて風太のそばにつかつかと歩み寄って来た。
 「風太、やめとけ。相手にするな」
 スタッフの重鎮たちが忠告したが、酔っている風太には通じない。
 「放っておいてくれ。俺はこの女に馬鹿にされたんや」
 女子の長い黒髪が揺れ、黒い瞳が笑う。
 「下手やから下手と言ったんや」
 「俺の落語、一回でも聞いたことがあるのか」
 激怒する風太を見下ろすようにして、女子がまた嘲笑した。
 「あるから言ってるんや。あんたの落語は漫談に毛の生えたようなもんや」
 意外に背の高い女性だった。風太も決して低い方ではなかったが、風太よりほんのわずか背が高かった。しかもモデルにしてもいいような色白の美人だったので周囲が驚いた。
 「言うに事欠いて漫談に毛の生えたようなやなんて、なんてことを――」 怒る風太の言葉を最後まで聞かずに、女性は背中を向けたまま手を振ってさようならをした。
 師匠の域には達していなかったが、自分では瓢六や牛馬、賛三に負けない腕を持っていると自負していた。それが見知らぬ若い女から罵倒されたのだ。我慢できるわけがない。
 ――風太はその夜、悔しさのあまり眠ることが出来なかった。

  風太は合間を縫って劇場に出演し、舞台を終えるとすぐにラジオの収録に入る。ラジオ出演を終えてもその後、テレビが待っている。そしてまた、舞台だ。舞台の出演は一日二度と決まっていた。これは劇場の希望もあったが、師匠の文吉の意向が強く反映されていた。風太を一流の落語家に育てたい、その意向を強く持っていた文吉は、できるだけ風太の舞台の数を増やし、客に落語をし、笑わせることの難しさを肌で感じてほしいと願っていたのだ。
 風太の舞台は概ね好評と言えた。話すたびに笑いの渦が巻き起こったからだ。だが、それは観客席の前に陣取る若い女性たちに限られていた。風太の一挙一動に、ワッと黄色い声が飛び、乾いた笑いが飛び交う。しかし、半分以上の客は笑っていない。そのことにこの時の風太は気付いていなかった。 だが、演じる、笑う、の連鎖は、次第に風太に妙な自信をもたらし、ますますその態度を増長させる結果となった。

  風太の人気に陰りが見え始めたのは、写真週刊誌にスキャンダルを暴露されてからのことだ。ファンの女の子に手を出すのはご法度の世界だが、人気者にありがちなことで、若くて肉感的な少女につい食指を伸ばし、ある時、その一部始終が写真週刊誌に暴露された。しかもその少女が十六歳の未成年だったことで、社会問題にまで発展した。
 未成年との性交によって、風太はバッシングの嵐に遭う。当然、テレビ、ラジオの出演は中止になり、違約金の発生などが生じ、裁判沙汰になったことで風太の人気は急降下した。
 テレビやラジオには当分の間、出演することができなくなったが、舞台には出演できた。舞台で再起を図った風太だったが、袖から風太が登壇しても以前とは雰囲気がずいぶん違った。
 「スケベエ野郎、よくもぬけぬけと舞台に出れるな」
 厳しい声が飛んでも、黄色い声援は飛ばなかった。ほとんどの女性ファンが愛想をつかして劇場を去っていたのだ。

それでも風太は師匠譲りの新作落語を懸命に演じた。だが、三百人余の客は微動だにしない。誰もくすりとも笑わないのだ。
 一日二度の舞台は、風太にとって地獄の責め苦になった。それでも風太は、自分の落語が未熟だとは思っていなかった。世間のバッシングと同様にこの舞台でもバッシングを受けているだけだ、そう思っていたのだ。
 劇場の支配人から師匠の元に通達が届いたのは、それからすぐ後のことだ。
 「人気があるからと思って風太を登壇させていたが、人気が下落した今は、さすがに限度だ。下手な上にあの態度は我慢ならん。風太の代わりに三太を使いたい」
 劇場を運営する責任者である支配人の言葉は絶大で、文吉師匠がどのように頼んでも、覆すことは出来なかった。翌日から風太に代わって三太が劇場で落語を演じることになった。すると玄人好みの三太の落語が思いのほか好評で、いよいよ風太の出る幕はなくなった。
 マスメディアへの露出がなくなり、舞台で落語を演じることがなくなった風太は、少しスキャンダルが収まりかけた時期を狙って、当時、出演していた番組のプロデューサーに日参した。
 「近本プロデューサー、頑張りますからまた、よろしくお願いしますよ」  
高視聴率を上げていた深夜のお笑い番組だ。風太が降板してから早坂ボン太がレギュラーになったが、苦戦していると聞いていた。近本プロデューサーとは特に仲が良く、一緒に北新地で女をはべらかせて呑んだことがある。降板して三カ月が過ぎた。そろそろ声がかかってもおかしくない頃だ。そう思ってやって来たのだが、プロデューサーの態度はつれないものだった。
 「未成年がらみの事件だからね。示談で済んだとはいえ、世間の反応が厳しいものがあるからね。それにスポンサーがウンと言わないよね、きっと」
 それ以上、付け入る隙がなかった。体よくあしらわれた風太は、他のテレビ局にも日参した。だが、どのテレビ局も風太を使うことに難色を示し、相手にしようとしなかった。
 凋落したアイドルタレントほど惨めなものはない。この時、風太は地に落ちた自分の価値をどうすれば再び高めることが出来るか、そればかりを考えていた。
 ――悪いのは自分を陥れたマスコミだ。
 風太は、相手の女性が未成年とは知らずに性交した。こうした芸の世界ではよくあることだ。別に珍しくも何ともない。その証拠にお金ですべて解決することが出来た。ところがマスコミは、この時とばかりに風太を叩いた。まるで犯罪者のように。
 風太は、自分の犯した罪を理解していなかった。そのことが風太の立場を余計に危くしていた。
 師匠の文吉は、そんな風太を見て、
 「この機会だ。落語を基礎から学び、鍛えろ」
 と、檄を飛ばした。弟子入りしてすぐに人気の出た風太は、ろくに下積みの苦労を味わっていない。実力の世界だ。そうしたこともよくある。だが、師匠の文吉は風太の秘めた実力をまともに伸ばせないかと考えていた。それには、世間からバッシングを浴び、マスメディアから追放された今が絶好のチャンスと考えた。
 だが、やる気を失った風太の耳に、師匠の言葉は届かなかった。
 風太が師匠の家を飛び出したのはそのすぐ後のことだ。
 師匠の元を飛び出した風太は、自分を贔屓にしていた北新地のホステス、紗枝の元へ向かった。紗枝は風太にぞっこんで、風太のためにこれまでたくさんの貢物を提供してくれ、何くれとなく風太の世話をしてくれた。紗枝のそばでしばらく遊んで、その上で将来のことを見直したい。落語はもうたくさんだ。風太はその時、そう考えていた。
 紗枝のことだ、一緒に暮らそうと言えば、小躍りして喜ぶに違いない。風太はそう確信していた。紗枝を驚かせるためにわざと連絡せずに訪問することにした。
 紗枝のマンションは、ビジネス街の中心地、本町のタワーマンションの最上階にあった。何度か風太は紗枝のマンションから大阪の市街地を展望したことがある。大阪の人間すべてが自分にひれ伏しているような、そんな感覚になって心地よかったことをよく覚えている。
 マンションの入り口で紗枝の部屋の番号を押した。「はーい」と紗枝の声がした。
 ――紗枝、ぼくだ。風太だよ。
 ――……。
 紗枝の沈黙に風太は驚いた。おかしいな、と思った風太は、もう一度、「風太だよ」と甘えた声で紗枝に言った。
 ――ごめん。今、忙しいの。悪いけどもう来ないでくれる。
 紗枝の意外な反応に風太は凍りついた。信じられない思いでインターフォンを見る。おかしい、どうしたんだ、紗枝は? 冗談を言っているのだろうか、そう思って携帯にアクセスした。しかし、着信拒否になっていて、声を聞くことは出来なかった。
 ――仕方がない。ミナミのヨーコのところへ行くか。
 風太は、島之内に住まいのあるヨーコを訪ねることにした。ホステスを仕事にしているヨーコはまだ、自宅にいるはずだ。ヨーコは風太より三歳上だが、世話好きな女で、風太の持っている衣服の大部分はヨーコが買ってプレゼントしてくれたものだ。ヨーコの風太に対する愛情は風太の知っている女の中でも多分ピカイチで、一時はその愛情の深さに辟易したことがあるほどだ。だからこそ、こんな時には一番の助けになる。風太はそう思っていた。 ヨーコの部屋のインターフォンを思い切り強く押すと、「どなたですか?」とヨーコの甘ったるい言葉が返ってきた。目覚めて間もない時のヨーコの声だ。
 「ヨーコ、ぼくだ。風太だよ」
 聞き間違えたりしないように、風太は大きな声で自分の名前を呼んだ。
 すぐにドアが開いた。だが、そこにいたのはヨーコではなかった。チンピラ風の若い男だ。
 「何か用か?」
 上にパジャマを羽織ったままの姿で男が風太に聞いた。
 「ヨーコさんのおうちですよね」
 部屋を間違えたのかと思った風太が男に聞いた。男はマジマジと風太の顔を見つめ、
 「お前、売れなくなった落語家の風太やな。ヨーコに何の用や?」
 風太は男の体ごしに部屋の中を覗いた。ヨーコには風太の声が届いているはずだ。それなのに姿を現さない。
 「悪いが帰ってくれ。ヨーコはもうお前なんか相手にせん」
 それでも風太が未練がましく部屋の中を覗いていると、男が風太の腹を思い切り蹴とばした。
 「早う帰れ。どつかれたいんか」
 蹴とばされた拍子に風太は尻もちを打った。男は無様な風太をあざ笑うようにしてドアを閉めた。
 「紗枝やヨーコだけが女と違う」
 風太には他にも複数の女性がいた。その一人ひとりに連絡を取り、「しばらく世話になりたい」と打診すると、その誰もが鼻であしらったような言葉を発し、携帯を切った。
 これが今の自分の現実なのだと、その時になって初めて風太は、今の自分の立場を思い知らされた。
 ――泊まる家がない。今さら師匠の家に戻ることなど出来ない、どうしよう。
 もっとまじめに落語に取り組めと、うるさく言われたことに腹が立ち、 「困った時に自分を助けてくれないような師匠なら、ここにいる価値がない。今すぐここを出てやる」
 ――啖呵を切って飛び出したのだ。今さら戻るなどどうしてできよう。
 日本橋の交差点から長堀まで、風太は堺筋沿いに側道を歩いた。気落ちした歩みの遅い足取りで、ぼんやりとこれからのことを考えていたのだ。黄色い声援に囲まれ、テレビ番組でアイドルタレントと冗談を交わしていたあの時間は何だったのか。
 長堀に到着しようとしたその時のことだ。
 「おい、へたくそな落語家、どないしたんや。ゾンビみたいな歩き方して」
 突然、背後から声をかけられた。風太が振り向くと、そこにいたのは、居酒屋で風太に悪態をついたあの背の高い髪の長い女だった。
 「お前か……」
 「えらい元気がないやんか。どないしたんや?」
 挑発的な女の口調にも、今の風太には逆らう元気もない。
 「頼むから放っておいてくれ」
 風太は向きを変えて女の元から離れようとした。
 「泊めてくれる家がないんやろ。ざまあないなあ」
 「……」
 俯き気味に肩を丸めて歩こうとする風太の肩を、女の指がしっかり掴んだ。
 「男やったら見直してみたれや」
 風太の肩をがっしと掴んだまま、女の黒い瞳が風太をじっと見つめる。
「うちはなあ、デビューの頃からあんたを応援してたんや。デビューしたての頃のあんたは光っていたで。輝いていたよ。落語も下手は下手なりに聞かせるものがあった。だけどなあ、人気が上がるにつれて情けないぐらいに下手になって行った。師匠のコピー芸しか出来なくなって――」
 風太は肩で小さく息をした。泣きたいぐらいに情けなかったのだ。両肩が震えた。
 「言いたいこと言わせてもらうけど堪忍やで。これはうちの性分やさかいに。師匠のコピーじゃ、師匠に勝てるわけがないやんか。あんたの落語を聞くよりも師匠の落語を聞いた方がええもんな。あんたの兄弟子の三太はまだマシや。自分の落語を創ろうと悪戦苦闘してるさかいにな。他の弟子もみんなそうや。努力して自分の落語をやっている」
 風太が女の顔を見る。
 「あんた、一体何もんや。どこの誰やねん?」
 「さっき言うたやろ。デビュー前からのあんたのファンやて」
 覚えがなかった。居酒屋で会ったのが確か初めてだったはずだ。
 「うじうじせんことや。やり直すんやったら師匠のところへ頭を下げて帰ったらええがな。そのぐらいの度胸がないと、あんた、二度と浮かばれへんで」
 風太の両肩に置かれた女の指がようやく外された。
 女は風太の背中をポンと叩くと、長い髪を揺らめかせながら日本橋の方へ向かって帰って行った。

  ――一年後のことだ。その日、笑翁亭文吉一門の新作落語の会が『天満天神繁昌亭』で開かれた。三太、牛馬、賛三、瓢六、真松が顔を揃え、前座を風太が勤めた。
 会場は超の付く満員で、客の目当ては、久々に登壇した文吉の落語と、売出し中の三太の落語だった。前座の風太には誰も目を向けない。風太は完全に忘れられた存在になっていた。
 この日は開場から満員で、上方ならではの新作落語に期待する客の熱気が会場に満ち溢れていた。
 「前座が風太か。あいつまだ落語やってんのやなあ」
 口さがない客の声が風太の今をよく表していた。
 師匠の元に戻った風太は、これまでの勝手なふるまいを詫び、再び落語に真摯に取り組むことを師匠の文吉に誓った。長かった髪をばっさりと切り、坊主頭にしたのも風太の決意の現れといえた。
 ――落語は体で演じるもんや。言葉に頼ったらあかん。
 師匠文吉の教えであった。しかし、大げさな動作は落語を逸脱したものにする。言葉と動作、その調和をどう取るか、簡単なことではなかった。
 迷いながら一人、孤独に演じる風太の脳裏に、度々浮かんだのが子供の頃の風景だった。風太が育ったのは大阪府下の岸和田で、高校を卒業する年まで、風太はその町で育った。だんじり狂いの父親と気性の荒い母親、兄も弟もだんじり命のだんじり一家であった。風太だけが一家の中の異端で、さしてだんじりに興味を持たずに育った。だんじりよりも落語、風太は人を笑わせることが大好きな子供だった。
 風太は、中学時代に桂月米副のところへ弟子入り志願したことがある。だが、その時は、年齢が若かったため、体よくあしらわれた。それでも風太はあきらめきれずに関西の落語家の元に日参した。そんな中で、もっとも風太の実力を評価してくれたのが、笑翁亭文吉だった。
 「あんたの落語には華がある」
 中学時代の風太の落語を聞いて、文吉は風太を高く評し、「高校を卒業したら来なさい」と、弟子入りを許した経緯がある。
 中学、高校と、風太は人前に出るチャンスを窺っては、主に古典落語を演じてきた。その頃からすでに風太には追っかけがいて、行く先々に女の子たちが風太の落語を聞くために大挙押し寄せていた。中には風変りな追っかけがいて、風太が少しでもとちったり、手を抜いた落語をすると、大声を上げて非難するやつがいた。「動きが悪いぞ」とか、「メリハリがないぞ」と言った具合に手厳しい指摘をする。何てガラの悪い女だなと思ったことをよく覚えている――、その時、風太の脳裏に戦慄が走った。
 ――あいつだ。あの女だ。
 風太はようやく思い出した。
 居酒屋で悪態をついた女、長堀で風太を叱咤激励した女、その女の正体がようやくわかった。中学時代からずっと風太の落語を追いかけていた、あのガラの悪い女だ。
 ――デビュー前からのあんたのファンや。
 あの女はそう言っていた。
 間違いない。あの女だ。あの女に違いない。だが、風太は名前すら知らなかった。どこに住んでいるのかもわからない。
 ――あいつ、ずっと俺のことを応援してくれていたのだ。
 そう思うと、胸の奥底に切ない痛みが込み上げてきた。

  出囃子の音に乗って、風太は壇上に上がった。黄色い声援はない。見台を前にして座布団に座った風太は、鎮まり返った会場を見渡して、コホンと一つ咳をした。
 見渡しながら風太は探した。名前も知らないガラの悪いあの女を――。
 風太はこの日の演目に、文吉の創作落語ではなく、許しを得て、三田純一作の新作落語『まめだ』を選んだ。『まめだ』とは、関西の妖怪・豆狸のことである。話のあらすじはこうだ。
 ――三津寺の門前にある膏薬屋「本家びっくり膏」の息子、右三郎は、歌舞伎役者市川左團次の弟子で、トンボ返りが認められていい役がつくようになった。ある雨の夜、右三郎は帰宅途中、傘が重くなるなどの怪異に襲われ、『まめだ』の仕業だと思った右三郎は、傘を差したままトンボを切った。すると何かが地面に叩き付けられて悲鳴が聞こえ、黒い犬のようなものが逃げ出したのを見る。
 ある朝、右三郎は自宅の店で母親から「色の黒い陰気な丁稚が膏薬を買いに来るんやが、それが買いに来てからというもの、いつも後で勘定が合わん。一銭足らんで、代わりに銀杏の葉が一枚入ってんねん」と言われ、それを聞いた右三郎は「三津寺さんの前、銀杏の葉だらけや」と笑ってしまう。そのうち勘定は元通り合うようになり、丁稚も店に来なくなった。
 ある朝、三津寺の境内に体一杯貝殻を付けた『まめだ』が死んでいた。その貝殻をよくみると、「本家びっくり膏」の容器に使用しているものだった。右三郎はそれを見て、傘を持ったままトンボを切ったため、『まめだ』が強く身体を痛め、丁稚の姿に化け、銀杏の葉を金に変えて膏薬を買いに来ていたのだと知った。貝のまま体にべたべた貼っても効くはずがない。町内の者は『まめだ』にいたく同情し、三津寺に頼んで葬儀を行う。住職が読経を始めると、秋風が吹いて、銀杏の葉が『まめだ』の前身を覆った。それを見た右三郎が、「お母はん、狸の仲間からぎょうさん香典が届いたがな」――。
 といった物語だ。とても前座がやるような演目ではない。その演目を見た時、誰もが、風太には無理や、と叫んだほどだ。
 だが、文吉はそうではなかった。一門の落語会だからこそ、風太にその演目をやらせ、今の風太の実力を世に示したかったのだ。
 鬼気迫る風太の落語に観客は度肝を抜かれた。笑いや驚きの交錯する中を不思議な感動が渦巻いた。この間までアイドルタレントまがいで黄色い声援を浴びていた風太が、今、落語通を唸らせている。
 特に秀逸だったのは、風太の顔面演技とトンボ返り、そして『まめだ』の演技だ。『まめだ』の痛さが会場にまで伝わってくるような響き、体ごと演じた風太を会場の拍手が覆い尽くした。風太に会場を揺るがす盛大な拍手が送られたことは言うまでもない。
 深く礼をして舞台を去る間際、風太は改めて会場を見渡した。だが、あのガラの悪い女はどこにもいなかった。反感しか覚えなかった女のことが、今はなぜか気になって仕方がなかった。誰よりも先に、今の自分の落語をあの女に見て欲しかった、聞いて欲しいと思っていたのだ。

  風太の評判は一気に上昇した。だが、今の風太にはそんなことはどうでもいいことだった。一つ落語の壁を突き抜けた。その思いの方が強かった。
 その夜、一門の打ち上げが行われたが、風太は体調が悪いことを理由に参加をしなかった。それよりもあの女を探したかったのだ。
 ――きっとあの女は近くにいる。
 その確信が風太にはあった。天神橋筋商店街を風太はあてもなく歩いた。きっとどこかで会える。そう信じていたからだ。
 天神橋筋商店街は日本一長いと言われる商店街だ。繁昌亭のある一丁目から八丁目まで、正確には六丁目までがアーケードのある商店街だが、そのアーケードの下を風太は歩いた。
 五丁目から商店街の道幅がぐんと狭くなる。それと共に人の混みようもひどくなる。あてもなく歩いても、いるかいないかわからないあの女に出会えるはずもなかった。それなのに、なぜか、風太は歩いた。
 「おめでとうさん。あんた、光っていたよ」
 風太の背中にガラの悪い蓮っ葉な声が飛んだ。振り返ると女が立っていた。
 「聞いてくれたんか?」
 風太が聞くと、女は笑って言った。
 「あったりまえやんか。何年、ファンしてると思うてんねん」
 この商店街は大阪天満宮に続く参道だ。大阪天満宮は学問の神様だが、風太には、この時、この参道が恋の神様に続く道のように思えた。

〈了〉

 

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