死神が襲う疑似死の恐怖

高瀬甚太

 ――夢を見た。霧に包まれた黒い大きな影がゆっくりとこちらに向かってくる夢だった。どのような意図があって、何がきっかけでそんな夢を見るのか、不思議でならなかった。
 同じ夢を何度も見ることで、私はある危機感を抱くようになった。
 ――これは何かの予兆ではないか、それも普通ではない何か、しかし、それが何か、この時の私にはまるで見当が付かなかった。
 
 私の日常はごく平凡だ。原稿を書き、編集する。すべて1冊の本として完成させるための作業で、淡々とその作業を続ける日が続く。ただ、職業柄、多くの人に出会い、多くの知遇を得て、本来、本業とは無関係と思われる事件に遭遇することもたまにある。好奇心が災いして、それに関わってしまう場合もあったが、あくまでもその時の私は第三者に過ぎず、傍観者として興味本位に携わったりするが、自身が当事者になることはなかった。
 夢の問題は、私自身の中の何か、それもこれから起こるだろう何かを予感させるものであった。それは単なる私の思い込みにしか過ぎないかも知れなかったが、何かしら不安な予感に襲われていた。
 その予感がやがて確信に変わる日がやって来たのは、この夏一番の猛暑と伝えられた日の午後だった。
 
 街を移動する際、私は自転車を使うことが多かった。ミニサイクルでもらい物の古びた自転車だったが妙に愛着があって、修理を重ねながら乗っていた。梅田で待っているから会いたいと、奈良の古いお寺の住職、長谷川法源から連絡をもらったのが、正午過ぎのことだった。電車で行くつもりにしていたが、少し時間に余裕があったので自転車で行くことにした。電車なら10分とかからなかったが、自転車なら25分ほどの時間を要する。待ち合わせが30分後の午後12時45分だったので、気分転換も兼ねてのものだった。
 しかし、自転車で走り始めた後、すぐに後悔した。この日はとんでもない暑さだった。走っている時はまだしも一旦停車させると、舗装路から立ち上る熱気と天から注がれる熱射で汗が噴き出た。
 脳が熱で飽和する、そんな状況の中で自転車を走らせたことがよくなかったようだ。めまいがして、ハッと気づいた時は段差にぶつかり、自転車から振り落とされるようにしてコンクリート道路の路面に叩きつけられた。
 顔面を強打し、しばらく起き上がることができなかった。歯が唇を突き破って、そこから激しく血が流れていた。だが、それ以外のことがまるでわからなかった。目の前に濃い霧があり、霧に包まれた中に不気味な黒い影が立っていた。
 夢で見た風景が目の前にあった。霧はさらに深くなり、膨張した黒い影がゆっくりとした足取りで近づいてくる。
 私は黒い影に助け起こされるようにして立ち上がった。唇から鮮血が滴り落ち、強打した右側の頬が大きく膨れ上がっていた。
 やがて私は黒い影に全身を包まれ、たちまちその黒い影に覆い尽くされてしまった。その途端に、意識が遠のいていくような感覚を覚えてその場に伏した。
 ――このまま眠り続けていたい。そう思った瞬間、何者かが私の脚を掴み、体を捕らえた。黒い影がなおも強く私を引き上げようとするが、私の脚を捕らえたその強い力にはかなわなかった。
 気が付くと、病院のベッドに横たわっていた。
 「気が付きましたか。よかった」
 ベッドに横たわった私は、医師と看護師に見守られていた。
 医師によれば私はまるまる二日間、意識を失ったまま眠り続けていたという。
 
 私は三日間、病院で過ごした後、退院した。強打した頬は膨らんだままだったが、傷みは幾分収まっていた。歯に突き破られた唇は、きれいに修復されていた。心配した脳波の検査も異常が見つからず、顔面も骨折はなく打撲と診断され、塗り薬だけで済んだ。そのため早期に退院が可能となったのだが、担当医師は私が退院するその日まで、「不思議で仕方がない」と呪文のようにつぶやいていた。
 通常、意識を失うような打撲の場合、脳に異常をきたしていることが多く、検査をすればほとんどの場合、何かしら異常が見つかるのだが、私の場合、それがなかった。生死の境をさ迷うほどの激しい事故であるにも関わらず、単なる打撲であったことが医師には不思議だったようだ。
 退院した私は、奈良の寺の住職、長谷川法源に連絡し、先日、約束していたのに会えなかったことを詫びた。
 「そうでっか、それは大変でしたなあ。それでもう大丈夫でっか?」
 法源は私の説明を聞き、事故に遭遇したことをえらく心配した。病院での検査の結果を話し、何もなかったと告げると自分のことのように喜んだ。
 その後、しばらく忙しい日が続いた。その間、心配した頭の痛みはまるでなく、一週間目にようやく仕事から解放された私は、思い立って奈良の長谷川法源の寺を訪問することにした。
 八月も後半に差し掛かかり、暑さが日増しに強くなっていく。そんな日が続いていた。午前10時に事務所を出た私は、近鉄難波駅まで出て特急で奈良に向かった。奈良駅まであとわずか、という時になって急に気分が悪くなり、奈良駅に到着するや否や、急いでトイレに駆け込んだ。消化しきれなかった食べ物を嘔吐し、気分が治まるまでホームのベンチに座ることにした。
その時、事件が起きた。私の目の前を歩いていた若い女性が急に倒れたのだ。私は急いで女性を助け起こし、駅員を呼んだ。
 駅員が駆けつけるまで女性のそばにいた。顔を見ると、その女性が、まるで天平時代を思わせるような雰囲気の神々しい表情をしていたので驚いた。青白い顔の女性は私に助け起こされながら、私に向かって何ごとかつぶやいた。しかし、ホームの雑音でその言葉がよく聞き取れなかった。
 女性は駆け付けた駅員に運ばれ、私はそれを安堵の表情で見送った。
しばらくして気分が落ち着いた私は長谷川法源に電話をした。法源は私が奈良へ来ていることを知るとことのほか喜んだ。
 「車で迎えに行こうか」
 と法源が言ったが、少し歩きたいからといって断った。しかし、歩き始めてすぐに後悔した。奈良の暑さは大阪の比ではなかった。湿気こそ少ないが照りつける日差しは激しさを極め、歩き始めてすぐにめまいを感じた。
 法源の寺は、近鉄奈良駅から徒歩で30分ほどの般若寺に近い場所にあった。寺の名前は『百足寺』と言った。途中、法源に連絡して迎えに来てもらおうかと思ったほどだが、歩けばそのうち慣れるだろう、そう思って影を選んで歩くことにした。
 しばらく歩いた時、背後から声がして呼び止められた。振り返ると、先ほどホームで倒れた女性が目の前に立っていた。白いワンピースと白い日傘、三十代後半らしい女性の顔は見れば見るほど天平時代の女性をイメージさせた。
 「先ほどはありがとうございました」
 女性は私に丁寧にお礼を述べ、「佐藤加奈子」と名乗った。
 「どこへ行かれるのですか?」と聞かれたので、「百足寺です」と答えると、
 「存じています。よかったら途中までご案内します」
 と言って私の隣に並び、私に日傘を傾けて歩き始めた。
 「百足寺へはどんなご用で行かれるのですか?」
 と聞くので、
 「友人がその寺の住職をやっていて、先日、大阪で約束をしていたのに会えなかったものですから、その時のお詫びに今日、訪ねようと思いまして」と答えた。
 すると、女性はニッコリ笑って、
 「あの寺のご住職といえば長谷川法源さんですね。私もよく存じていますわ」と言った。
 「そうですか。それは奇遇ですね」
 「実はうちも百足寺の檀家なんですよ」
 ふっくらした頬に明るい笑顔を浮かべて女性は言った。
 「そうですか。じゃあ、あなたのことを話せば長谷川もきっと喜ぶでしょうね」
 話が弾んだ。しばらくして百足寺の前に着くと、
 「ではごきげんよう。ここで失礼します」
 佐藤加奈子はにこやかな笑顔を浮かべてその場を去った。
 百足寺は鎌倉時代の創家と聞いている。門構えにも寺の造りにもそれがよく現れていた。門を入ろうとすると、「暑いのにご苦労さん」と声がかかった。いつから待っていたのか、法源が出迎えてくれた。
寺内に入った私は先日の約束を破った非を詫び、自転車で転落した時の様子と、深い霧の中で黒い影に引き込まれそうになったことを法源に話した。すると、法源は意外な言葉を口にした。
 「編集長、その黒い影はおそらく死神ですよ。下手をすれば、あなた、引き込まれて死んでしまっていたかも知れない」
 法源の言葉に驚いた私は、「死神?」と問い返すと、法源は、笑って、「別に珍しい話ではありませんよ」と言う。
 「死と生はいつも隣り合わせです。そのために宗教があるわけですから。だから編集長が事故を起こし、死神に取りつかれたと聞いても私は決して不思議とは思いません」
 と言い、なおも私に説明した。
 「生あるものは必ず死に至ります。人の生には寿命というものがあり、寿命というのは人それぞれにあらかじめ決められていて、百まで寿命がある人もおれば、十代で寿命の尽きる人もいる。死は予見できるものではなく、ある日、突然といったこともよくある。だからこそ人は安らかな死を望んで神に祈るのです」
 それが法源の持論のようだった。
 「編集長も危ないところでした。そのまま気が付かなければ、誤ってあの世に連れ去られていたかも知れない」
 法源はそう言って豪快に笑った。
 少し怖気づいた私は話題を変えるために、途中まで一緒だった佐藤加奈子という女性のことを話した。
 「百足寺の檀家だと言っていた。きみのことも知っていたぞ」
 そう言って冷やかすと、法源は、キョトンとした顔をして井森にもう一度、女性の名前を聞いた。
 「佐藤加奈子さんだ。天平時代を想起させるような顔だったので驚かされたよ」
 法源はしばらく考えていたが、大きく首を振って私に言った。
 「佐藤という檀家はいるが、あのうちには八十過ぎの老婆が一人いるだけだ。加奈子さんなんて若い女性はいなかったように思うが……」
 「たくさんの檀家があるんだ。覚えていなくても無理はないよ」
 「いや、佐藤という姓は一軒だけだよ。おかしいなあ」
 豪放磊落な法源が真剣に悩んでいる。そのうち、ハッとした顔で私を見つめると、
 「名前を佐藤加奈子と言ったんだな」
 と確認するように聞いた。
 「ああ、間違いない。佐藤加奈子と言った」
 断言すると、法源は、何かを思いついたように、いきなり私の腕を掴み、
 「編集長、大変だ。私と一緒に奥の部屋へ来てくれ」
 と奥の方へ私を引っ張って行った。
 奥に小さな小部屋があった。その小部屋の扉を開けると、法源は私にその部屋に入るよう促した。
 「どうしたんだ? 説明してくれないとわからないじゃないか」
 私が立腹して言うと、法源は、
 「ともかく私がいいと言うまでこの部屋にいてくれ」
 と言い、ろくに説明をしようともしない。部屋の中に入ると、法源は部屋のあちこちに札のようなものを貼り、私をその部屋に置き去りにすると、単身外へ出て、今度は扉に札を貼り始めた。
 三畳ほどの部屋は窓がなく暗黒の状態だった。その闇の中で私は法源がいつ扉を開けてくれるのか、祈るようにして待った。
 しばらくすると、密閉された部屋の外で法源が念仏を唱える読経の声が聞こえた。それは長い時間、止むことなく続き、やがて法源の叫び声が聞こえたかと思うと、一瞬、時が止まったかのように静かになった。
 
 「もう大丈夫だ」
 疲労困憊した様子の法源が扉を開けたのは五分ほど後のことだった。扉が開き、外へ出ると思わず目を閉じた。眩しかったのだ。
 「何があったのか?」
 私が尋ねると、法源は独特の語り口調で一部始終を説明してくれた。
 
 「編集長が自転車に乗っていて転び、路面に頬と頭をぶつけて、おまけにその後、霧に包まれて黒い影に体を引き上げられたという話を聞いた時、私はその瞬間、編集長が疑似の死を体験したのではないかと疑った。疑似死というのは、死に至ってはいないのだが、死んだような状態になっているということを言う。病院での検査では異常がみられなかったと言うが、それは編集長がその時点で疑似死していたから見つけられなかっただけで、実際は相当危険な状態であったと思う」
 「私が疑似死……?」
 「ああ、たまにあるんだよ。ただ、疑似死に気が付かないとえらい目に合ってしまう。死神に取りつかれて、寿命でもないのに命を失ってしまう。先ほど編集長が佐藤加奈子さんに遭ったという話を私にしただろう。その時、気が付いたんだよ。編集長が死神に狙われているって」
 「話がよく見えないが、どういうことなんだ?」
 「私の檀家に佐藤はいるがそんな女性はいないと話しただろ。ところが、佐藤加奈子という名前に憶えがあった。よくよく思い出してみると、佐藤さんの家の長女だとわかった。しかし、彼女は十数年前に事故で亡くなっている。近鉄電車のホームで意識を失って転び、そのまま電車に跳ねられて命を落としてしまった。編集長が出会ったのはその女性の亡霊だ。彼女はきっと今も自分が亡くなったことに気が付いていないのだろう。時折、編集長のような疑似死を体験したものを見つけてはとり憑き、その生命を奪ってしまうのだ」
 「では、私が出会ったのは亡霊だったのか?」
 「ただの亡霊ではない。彼女は死神だ。編集長をこの部屋に閉じ込めたのも、きっと死神が襲ってくると思ったからだ。案の定、佐藤加奈子の亡霊は死神に姿を変えてここに現れた。もし、そのことに気付いていなければ、編集長は魂を奪われ、命を失っていたことだろう」
 法源の話を聞いて、私は思わず安堵のため息を漏らした。
 「そうだったのですか……。でも、どうやって死神を退治することができたのですか?」
 「退治できたわけではありません。追い出しただけです。大昔から私たちが唱える念仏にはさまざまな意味があります。無病息災を目的とする健康を願う祈り、家族円満を願う祈り、大願成就を願う祈りといったものと共に、私たちを取り巻く邪悪な霊を追い払い、寿命を全うできるように願う祈りがあります。死神も邪悪な霊の一つです。それを念仏によって追い払うのですが、その時、一つだけ大切なことがあります。それは愛を持って追い払うということです。怖がりながら、嫌がりながら追い払っても、邪悪な霊は立ち去りません。大切なことは、生命の美しさ、尊さ、愛を念じて唱えることです。そうすると、たいていの場合、邪悪な霊は躊躇します。そして立ち去るのです。今回もそうしました」
 「では、私の前に邪悪な霊は二度と現れないということですか?」
 法源は私の言葉を受けて、
 「そうではありません。今は現れないということです。編集長は今日、電車に乗っている時、気分が悪くなって駅を降りたところで嘔吐したと私に言いました。疑似死であればそういうことは絶対起きません。疑似死から目覚めようという強い意識が編集長の中にあったからだと思います。多分、今日、大阪へ帰る途中、何度か、嘔吐を感じたり、頭痛がしたり、体に鈍い痛みを感じたりするはずです。それは今日一杯か明日、もしかしたら二、三日続くかも知れません。でも、それは編集長が疑似死から抜け出すための一つの大切な前兆です。頑張ってそれと闘ってください。そうすれば元に戻り、死神は二度と編集長の元に現れないでしょう」
 法源は話し終えた後、再び私のために祈った。法源の念仏を聞いているうちに、私は再び頭痛が生じ、体に鈍い痛みを感じるた。法源に言わせれば、それは本来の生命を取り戻している証ということになるのだという。
 法源の元を辞した日から二日間、私はひどい頭痛と体中を襲う痛みに襲われたが、三日目にはけろりと治った。
〈了〉

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