緋牡丹お蝶

高瀬 甚太

 蝶のように華麗にとの思いを込めて父親が名付けた蝶子という名前が、今のお蝶には重苦しくのしかかる。どこでどう間違ったのか、お蝶の人生は十九の年に暗転した。
 高校を卒業した蝶子は、経理課員の父親の勧めで経理・簿記専門学校に入学した。予定では、二年間学んだ後、父親の会社に就職するつもりでいた。だが、蝶子は、入学したものの経理の授業に身が入らなかった。蝶子は経理の仕事が好きになれなかったのだ。
 これまで蝶子は、父親の言うことに逆らうことなく従ってきた。だが、経理・簿記の学校に通い出し、そこで初めて父親の言いなりになっている自分に気が付き、嫌気がさした。
 遅刻や早退を繰り返した揚句、蝶子は、六月半ばに父親に内緒で退学した。
 蝶子の父は、経理が出来れば職が得られる、食いっぱぐれがないと信じていた。蝶子が専門学校を自主退学したことを知らない父は、時折、晩酌をやりながら上機嫌で蝶子に経理の仕事について語ることがあった。その時の父親は実に饒舌だった。一通り話し終えた後、父は必ず蝶子に聞いた。
 「どないや。経理の勉強の方は?」
 わからないところがあれば教えてやるぞと、父は蝶子に言いたいのだ。
 蝶子は、父に自主退学したことを告げる機会を窺っていたが、なかなかそれを果たせずにいた。言えばがっかりするか、怒るだろうと思ったからだ。父親に経理・簿記の専門学校の様子を聞かれるたびに、
 「まあまあというところかな――」
 と、いつも曖昧に答えていた。
 母親に相談することも考えたが、父の意のままに動く母に相談をしても、蝶子の期待する返事が返って来ないことは目に見えている。蝶子は一人、悶々とした日々を送っていた。

 専門学校から蝶子の家に封書が届いたのは、蝶子が退学して三週間目のことだ。その日、帰宅した父が、その封書を見て、激昂して蝶子を呼んだ。封書には、蝶子が自主退学したことが記されていて、入学金の返済はしないこと、授業料の支払いについてなどが細かく記されていた。
 「どういうことだ、これは!」
 顔を真っ赤にして怒る父に、蝶子は言った。
 「経理なんかしたくない」
 しかし、蝶子の思いは父には届かなかった。父には、蝶子の将来を思う気持ちと、安定した蝶子の生活を願う気持ちがあった。すべて蝶子のためを考えてのことなのに、なぜ、親の気持ちがわからない――。そのジレンマが、父の怒りを増幅させた。
 これまで見たたことのない父親の激しい怒りに直面して、それを受け止めることができなかった蝶子は、着の身着のまま、逃げるようにして家を飛び出した。
 街に出て、夜の繁華街をさ迷った。勢いよく家を飛び出したものの、金もなければ頼る人もいなかった。やっぱり家へ戻ろうか――、と思い直したが、父の怒りの形相を思い出すと足が止まって動けない。
 「姉ちゃん、寂しそうな顔をしてどないしたんや」
 振り返ると二人連れの若い男が、ガムを噛みながら蝶子のそばに来た。
 「何でもありません」
 つっけんどんに言って逃げようとしたが、二人連れの若い男も同じようについて来る。どうやら蝶子を恰好の獲物と思い、狙いを定めたようだ。逃げ切れないと思った蝶子は、露地に立つ一軒のスタンドバーに飛び込んだ。
 「助けてください。変な男に追われています」
 ドアを開けて蝶子が叫ぶと、カウンターの中にいた和服姿のママが、手招きして、
 「こちらへお入り」
 と呼んだ。蝶子は、カウンターの中のママの元へ走り寄り、身を震わせて蹲った。客は三人ほどしか入っていなかった。十人も入れば満杯になる、カウンターだけのバーだった。
 バタンとドアが開き、蝶子を追いかけてきた若い男が声を上げ、店内を見渡した。
 「女が入って来たやろ。出せ!」
 ママが男たちの前につかつかと歩み寄って一喝する。
 「出て行け! ここはお前らの来る店やない」
 男たちも負けていない。しかし、
 「何を――」
 と言いかけて思わず後ずさりをした。カウンターにいた客の一人が、男たちに近付いて、鋭い眼で睨みつけたからだ。
 「威勢がいいなあ。わしのおる前で、それだけのことを言えるのは大したもんや。今すぐ出て行け、二度とこの辺りをうろつくな。もし、この街のどこかで見つけたら命はないと思え、ええな!」
 二人の男は、うなだれ、頭を下げて後退すると、顔を引きつらせて店を出て行った。
 カウンターの下で蹲り、ブルブルと震えている蝶子にママが声をかけた。
 「もう大丈夫や。二度とあの男たちは、あんたには近寄らん。安心しなさい」
 安堵の吐息を漏らした蝶子は、ゆっくり立ち上がると、ママとカウンターの男にお礼を言い、これまでの事情を話して聞かせた。
 「父の勧めで経理専門学校に通っていたのですが、経理の勉強に興味が持てなくて、親に相談せずに自主退学してしまいました。ずっと内緒にしていたのですが、学校から連絡が来て、親にばれて、叱られた反動で家を飛び出しました。街をウロウロしていたところをあの男たちに目を付けられ、追いかけられてこのお店に飛び込みました」
 話し終わると、ママがクスクスと笑った。カウンターの男たちも笑いをこらえきれない様子で、蝶子を見た。
 「悪いことは言わないから、お家へお帰り。経理の学校へ行きたくない理由をしっかり話して謝ること。電車賃がなければ貸してあげるから、すぐに帰りなさい」
 ママが千円札を蝶子の服のポケットに差し入れ、帰るよう促した。
 「駅まで送って行こう」
 先ほど助けてくれた男が立ち上がって言った。
 「龍さんが付いて行ってくれるなら安心だわ。あの男たちがまだうろついていると危ないからね」
 ママに礼を言って、蝶子は龍と呼ばれた男と共に店の外へ出た。店にいた時はわからなかったが、龍さんは、白いスーツを着た背の高い男だった。上着の下のコバルトブルーのシャツ、金ぴかのネックレス、エナメルシューズ、派手な装いの龍さんは、堅気の人には見えなかった。
 蝶子は、龍さんの後ろを、龍さんの歩調に併せて歩いた。
 「名前、なんて言うんだ」
 龍さんが振り返って蝶子に聞いた。
 「木下蝶子です」
 「蝶子、お蝶さんか。いい名前やな」
 やせぎすの肩を揺らして龍さんが笑った。その笑い声が印象深く蝶子の鼓膜に刻まれた。
 家に戻ると、父と母は血相変えて、蝶子の行方を探していた。蝶子が無事、帰宅したのを知ると、父は何も言わず、蝶子を家に迎え入れた。
 父は、蝶子が経理の仕事を拒否したことで、自分がこれまでやって来た仕事を否定された、そんな思いがしたのだろう、父の憔悴した姿を見て、蝶子は涙を流して謝った。
 蝶子は、街のケーキ店で働くことになった。最初の勤務の日、仕事を終えた蝶子は、ケーキを土産にスタンドバー『さと』に立ち寄った。
 蝶子の勤務するケーキ店とスタンドバー『さと』は同じ街の区域の中にあった。店を訪ねると、午後六時を過ぎているというのに閉まっていた。休みかな、と思って店の前で思案していると、
 「店は七時からだよ」
 と背後から声をかけられた。振り向くと、ママが立っていた。
 「この間はありがとうございました。おかげで助かりました」
 と蝶子は頭を下げて、ケーキをママに差し出した。
 「あら、この間の女の子かい。お父さんにちゃんと謝ったかい?」
 「はい。あの夜、父と母は、私のことを探し回ってくれていたようで、家に戻ると安心したのか、あれ以上、怒ったりしませんでした。おかげで一つ悩みが解決しました。本当にありがとうございます。それと、私、今日から、この近くのケーキ店で働くことになりました。また、よろしくお願いします」
 「そうかい。それはよかった。たまにはうちの店も手伝っておくれよ。あんたみたいな美人が助けてくれたら、私も大助かりだよ」
 蝶子が、一週間に二度、ママの店を手伝うようになったのはそのすぐ後のことだ。
 ケーキ店の勤務は午前十時から午後五時まで。一度、家に戻って食事を済ませ、店に入るのが午後七時、閉店前の午後十一時に蝶子は店を出る。両親には、週に二回ほど知り合いに頼まれて、別のバイトをするようになったと話したが、スタンドバーの仕事だとは告げていなかった。
 蝶子は、バーの手伝いをするようになって、自分にはこの仕事が向いているのではないか、と思うようになった。高校が女子高だったこともあって、男性と話す機会がほとんどなかった。専門学校は早々と退学したので友だちは出来ていない。ケーキ店も女性しか働いていないし、客のほとんどが女性だったから、男性と話す機会などなかった。ところが、ママの店では、カウンターに立って男性客と話すことが圧倒的に多く、蝶子はそれが楽しくて仕方がなかった。しかも来店する客の多くが蝶子と話したがるのだ。ママから、もう一日増やしてもらえないかと懇願され、蝶子は週に三日、勤務するようになった。
 ママの店の従業員は、蝶子の他に五人ほどいた。曜日ごとにローテーションが決まっていて、五人が交代で勤務する。
 十代の女性は蝶子だけで、後は二十代半ばが一人、二十代後半が一人、三十代が二人、四十代が一人勤務していた。火曜と水曜、金曜が蝶子の担当で、土曜、日曜は店の休日になっていた。
 バーに勤めて二日目の夜、龍さんがやって来た。蝶子は龍さんに近付くと、
 「先日はありがとうございました」
 と、挨拶をした。龍さんは驚いた顔で蝶子を見ると、
 「ママに誘われたのか」
 と聞いた。蝶子は、グラスと氷、ウイスキーのボトルを用意しながら、
 「それもありますけど、私が希望しました」
 と、答えた。龍さんは、タバコの煙を吐き出すと、
 「水商売なんてやめとけ」
 と蝶子に言った。その言葉にどんな意味があったのか、その時の蝶子に気付くはずがなかった。
 「少しの間だけです。これも人生経験と思っています。そのうち辞めますから」
 龍さんは、タバコの火を灰皿の上でもみ消すと、
 「その方がいい」
 とポツリと言った。

 五カ月が経った。十九歳になった蝶子はケーキ店をやめ、『さと』をメインにして働くようになった。男を知らなかった蝶子は、一カ月前、龍さんの腕の中で女になった。
 龍さんの背中には、大きな龍の刺青が彫られていた。龍さんが関西でも有名な暴力団の幹部だと知ったのはその時だ。蝶子は、刺青を見ても、暴力団だと知っても、それほど驚かなかった。その頃にはもう、蝶子の心の中は龍さんへの思いで一杯になっていたからだ。
 龍さんは、覚醒剤を腕に打たないとセックスが出来なかった。自分の腕に打つと、蝶子の腕にも同じように注射を打った。天にも昇る気持ちの中で、蝶子は、我を忘れて龍さんにしがみついた。二度、三度、それが続くと、蝶子は、もう身も心も龍さんのものになっていた。
 「おれはヤクザだ。おれと付き合うと、お前は地獄に落ちてしまうぞ」
龍さんに初めて抱かれた時、龍さんに言われた言葉を蝶子は思い出す。その時、思った。地獄でもどこでもいい、どうなっても構わない、龍さんがいればそれでいい。蝶子は龍さんにしがみついた。

 蝶子は龍さんと関係が出来た後、すぐに家を出た。髪の毛を赤く染め、口紅の色が濃くなった娘を心配する両親は、これ以上、荒んではいけないと、説得したが、その頃にはもう、蝶子は見かけだけでなく、性格まで大きく変質していた。
 両親の必死の説得も効果なく、家を飛び出した蝶子は、龍さんのマンションに転がり込んだ。
 蝶子の白い背中と太ももに刺青が施されたのはそのすぐ後だ。背中に緋牡丹の刺青、太ももには一輪の牡丹の刺青が彫られた。
 「若いし、肌が白いから、刺青が映える」
 龍さんは、蝶子の背中を撫でながら愛おしげな表情でそう言った。
 『緋牡丹お蝶』と、蝶子が通り名で呼ばれるようになったのはその頃からだ。

 龍さんが亡くなったのは、蝶子が龍さんのマンションに転がり込んで三年目の春だ。敵対する組の組員に襲われ、腹をめった刺しにされて出血多量で命を失った。享年三十八歳だった。
 蝶子は、その報せを警察署の中で聞いた。覚醒剤取締法違反の罪で逮捕され、取り調べを受けている最中に悲報が伝えられたのだが、蝶子は涙一つ見せず気丈にふるまい、取り調べ中の警察官を驚かせた。
 「ヤクザの命は短い。アッと言う間や。だから俺は今を楽しむんや」
 龍さんは、ことあるごとに、そんな言葉を蝶子に吐いた。龍さんは、自分の過去を一切、語ろうとはしなかった。親がいるのか、兄弟がいるのか、どこの出身なのか、それさえも蝶子は知らない。しかし、蝶子は、龍さんの背中の刺青を見て、深い孤独と壮絶な過去を知り得たような気がした。
 普段から死を覚悟していたのだろう。龍さんの生き方は刹那的で未来を一切感じさせないものだった。そんな龍さんを蝶子は心底愛した。
 浮気など日常茶飯事で、時には蝶子にDVを働くこともあった。独善的で人の気持ちなど、これっぽちも察しないような龍さんだったが、たまに正気の時、蝶子を抱くと、子供のような泣き声を上げて、蝶子の乳房を激しく揉みしだいた。
 龍さんの死は、蝶子の一つの人生の終わりを象徴していた。警察署に収監され、留置場でひととき過ごした蝶子は、警察署から解放されると、龍さんの部屋に置いてあった荷物を引き払い、組に断りを入れて暴力団と決別した。
 蓄えていた貯金を利用して、蝶子は店を構えることを考えた。しかし、その前に覚醒剤との決別が先決だった。龍さんはセックスのたびに覚醒剤を用い、蝶子を重度の覚醒剤中毒患者にした。覚醒剤なしではいられない、そんな状態に陥っていた蝶子は、警察から解放される時、覚醒剤との決別を厳しく約束させられていた。
 しかし、覚醒剤との決別は、蝶子にとってかなりの難関であり、拷問だった。
 一日足りとも我慢できない――。蝶子は、龍さんを思うたびに肉体が疼き、そのたびに覚醒剤を欲しがった。だが、その龍さんも今はいない。覚醒剤を手に入れる方法は知っていても、逃れる方法は知らされていなかった。蝶子は、警察に相談をして、病院への入院を希望した。
 蝶子にとって、覚醒剤中毒から逃れることは、龍さんへの思いと決別することだった。龍さんへの思いを断ち切ることができれば、覚醒剤中毒と決別できる、そう考えた蝶子は、龍さんのことを忘れるべく努力した。
 しかし、一度味わったあの快楽は、骨の髄まで染みている。簡単に取り払うことなどできるはずもなく、龍さんへの思いもまた、蝶子の中から消え去らなかった。
 入院中の蝶子の元に、両親が見舞いにやって来た日、蝶子は閉じ込められた室内で、脳内を巡るさまざまな幻想と戦っていた。叫び、わめき、泣く――、そして最後に龍さんの名前を呼び、失神する。耐えきれない煩悩と苦痛が蝶子の精神を容赦なく破壊した。
 両親は、蝶子の逮捕は知っていたものの、入院したことまでは知らなかった。連絡を受けて病院へ駆け付けたものの、面会謝絶の状態が長期間続いた。
 娘が重症の覚醒剤中毒――。そのことを知らされた時、母親は絶句して、声を枯らして泣いた。父もまた、蝶子の無事を願い、庭に植樹した木にすがって祈りつづけた。
 その後も両親は、度々、蝶子の入院する病院を訪ねたが、蝶子に面会することはかなわなかった。
 蝶子の中で龍さんの死がようやく現実のものとなり、それをしっかりと受け止め、決別した時、蝶子の中毒症状に著しい変化が現れた。両親が蝶子と面会できたのは、そんな時のことだ。
 「身体の調子はどうだ?」
 笑みを湛えながら父が聞いた。母もまた、満面の笑みを浮かべて、
 「身体の調子はどうだい?」
 と聞いた。
 蝶子は、改めてそんな二人を見て、自分が両親にいかに愛されていたかを知った。
 「お父さん、お母さん、申し訳ありませんでした」
 正気に戻った蝶子の表情を見て、初めて両親に安堵の表情が広がった。血のつながった親子だ。言葉を用いなくても理解しあえるものがたくさんあった」。

 蝶子が退院したのは、入院して三か月目のことだ。その後もなおカウンセリングは続いたが、誘惑に打ち勝つ強い意志を持てば大丈夫だと医師は言った。
 入院以来、一貫して蝶子の担当医として、蝶子を叱咤激励し、退院後もカウンセリングを行ってきた林光一医師は、激しく揺れ動く蝶子の狂気を愛情で受け止め、正常への道をしっかりと導いてきた青年医師である。蝶子が三カ月の短い期間に立ち直ることが出来たのも、林医師のおかげといっても過言ではなかった。
 いつしか、蝶子は、どんな些細なことであっても林医師に相談することが常になっていた。
 病院を退院してカウンセリングのために病院を訪れた蝶子は、林医師に逢い、今後のことについて相談をした。林医師は、しばらく熟考した後、蝶子を見て言った。
 「お店を開くのは構いませんが、暴力団やそういった類の人たちが出入りしないお店を選ぶようにした方がいいですね。木下さんが薬をやっていたことが知れると、そういった人たちは必ずやって来ます」
 当初、蝶子は、バーなどの飲酒の店を念頭に置いて考えていた。それしか思い浮かばなかったからだ。
 「木下さんが酒類を扱う店しか経験がないことは知っています。でも、今の木下さんに大切なことは、商売云々よりも自分に愛情持って包んでくれる人の存在の方が必要だと思います。孤独に陥ると、寂しさのあまり、再び薬に手を出してしまうことがあります。人間の意志なんて、本当に弱いものです。そんな自分を常に愛情深く見守ってくれる、そんな大きな心を持った人を探すことの方が何よりも大切です」
 林医師の助言に、蝶子は笑って首を振った。
 「そんな人いません。私、ヤクザの愛人をしていたのですよ。背中にも太ももにも刺青がある。そんなヤクザな女、普通の男性が相手にするはずがありません」
 カウンセリングは、通常、個室で行うことになっている。患者の秘密を知られたり、その畏れがあると思うと、それだけで患者は口を閉ざしてしまう。相手が入院以来、ずっと自分を診てくれた医師であると言うだけで、蝶子は遠慮することなく自分の気持をぶつけることができた。
 林医師は、黒縁のメガネの奥に見える、やさしい眼差しで蝶子に言った。
「過去は消せます。自分の気持ち次第です。刺青だってそうです。消すことができます。大切なことは、自分がどう生きるか、自身の未来をしっかりと見据えることです。人生は何度でもやり直しをすることができます。あきらめたり、どうしようもないと思うのは、その人の心の弱さでしかありません」
 蝶子とあまり年の変わらない、ひ弱に見える医師のどこに、これほどの力があるのか。林医師の言葉の一語一語が蝶子の胸を貫いた。
 「先生のような立派な方には、私などの悩みや苦しみはわからないと思います。言葉で語れるほど、たやすいことではないと――」
 「では、あきらめるのですか」
 林医師の言葉に、蝶子は思わず首を振った。
 「あきらめたわけではありません。ただ、一人で戦うことが苦しいだけです」
 正直な蝶子の気持ちだった。自分はそれほど強い人間ではない。誰かに見守ってもらわなければ――、そうでなければ、再び奈落の底に落ちてしまう、自信がなかったのだ。
 「二人で戦えばいいのです。人生の伴侶を見つけて」
 そんな男性、どこにもいない――。蝶子はそう言いたかった。覚醒剤中毒でヤクザの愛人、おまけに刺青持ちと来ては、ほとんどの男が逃げ出すだろう。こんな自分と共に人生を歩もうなんて、酔狂な人物など、そう簡単に見つかるはずもない――。
 「私には無理だと思います」
 蝶子は林医師に向かって自嘲気味に言った。
「 私では無理ですか?」
 「えっ!?」
 林医師が何を言っているのか、蝶子は理解できなかった。
 「あなたの人生の伴侶に、私では駄目ですかと聞いているのです」
 唖然とした表情で蝶子は、林医師を見た。――言葉が出なかった。
 蝶子はこれまで、林医師を恋愛対象としてみたことはなかった。信頼できる、あるいは尊敬できる医師として接してきた。林医師でなければ、ここまで快方に向かうことはなかっただろう。そう思うことがよくあった。やさしくて大らかで明るく、頼りになる医師だった。
 「本来、カウンセリング中の患者相手に言う言葉ではありません。しかし、私には、この場所しか、あなたに私の気持を告げる場所がない。患者と医師ではなく、一人の人間の言葉として聞いてください」
 林医師は、白衣を脱ぎ、ネクタイを締め直し、居住まいを正して蝶子を見つめた。
 「木下さん。あなたが私を医師としてしか見ていないことは充分、承知しています。ご覧の通り、私は見映えのよくない人間です。あなたの眼に映る私はもっとひどいものでしょう。でも、それでもいいのです。時間をかけてゆっくり私を愛するようになってください。いつか、きっと私と一緒になってよかった。そう思ってもらえる日が来るまで、あなたと同様に私も頑張ります。木下さん、私と結婚してください」
 この人はいったい何を言っているのだろうか、蝶子は、林の話している言葉の意味がわからず、戸惑いながら、林に言った。
 「先生、あなた、ご自分が何をおっしゃっているのか、わかっておられるのですか?」
 林は、胸を張って答えた。
 「わかっていますとも。私は今、一人の男として、あなたに結婚を申し込んでいるのです」
 結婚――。蝶子は、林が冗談を言っているのだと思い、笑った。
 「冗談ではありません。真剣です」
 林の強い言葉に、蝶子の笑いが止まった。
 「大真面目に言っています。医師ではなく、担当医でもなく、一人の男として、人生を賭けて言っています。返答は遅れても構いません。真剣に考えてください」
 蝶子の眼の前にいる林の表情が硬く引きつっている。それだけでも充分、林の真剣さが伝わって来た。
 「返事がどうであれ、たとえ、お断りになられたとしても、私があなたの担当医であることに変わりはありません。これまで同様、誠心誠意、あなたを支援していきます」
 最後に、林はそう言って蝶子に頭を下げた。

 季節が変わり、秋から冬に移り変わる頃、蝶子は、新居に移った。西宮市に新しく建てた住まいは、二階建にほんの少し庭がある、つつましやかな家だった。
 静かな住宅地にある、その家を、蝶子は一目見て、すぐに好きになった。
 「子犬が飼えるわ」
 と、つぶやくと、
「 ただし、二匹までだよ。それ以上になると、愛情が行き届かない」
 男が笑って言った。
 結婚式を挙げて、まだ、ひと月ほどしか経っていない。慌ただしく式を挙げて、慌ただしく籍を入れた。蝶子の両親の喜びようは一通りではなかった。文金高島田の花嫁衣装を着た蝶子を、父と母は何度も繰り返し撮影をして、
 「きれいだ」
 と声を上げ、蝶子の結婚を心から祝った。
 「ありがとうございます。先生のような人にもらってもらい、娘は本当に幸せです」
 両親がお礼を言うと、花婿は、照れ臭そうに顔を赤らめ、
 「いや、お願いしたのは私ですから」
 と言って顔をくしゃくしゃにした。

 林医師との結婚を、蝶子が決めたのは、林の告白があって二週間後のことだ。当初、蝶子は、林が同情心で言っているのではないかと思い、それなら断ろうと決めていた。
 だが、林の告白には同情心など皆無だった。そんなものが入る余地がないほど強い愛情を、蝶子はそこに感じていた。
 二週間、返事を遅らせたのは、林の気持が変化する可能性があると思ったからだ。時間が経てば、何ということを言ってしまったのだろうか、と後悔するかも知れないと蝶子は勝手に決めつけていた。ところが、林はそうではなかった。二週間目にカウンセリングのために病院へ行くと、カウンセリング治療を行った後、林は白衣を脱ぎ捨て、再び蝶子に言った。
 「結婚してください。お願いします」
 頭をひれ伏して、必死に懇願する林の姿を見て、断れるものなど誰もいない。蝶子の脳裏から、龍さんの思い出は、その時はもう何も残っていなかった。それよりも、眼の前で蝶子に愛を打ち明ける林のことで頭が一杯になっていた。
 「よろしくお願いします」
 蝶子は、はっきりと、そして心を込めて林に言った。

 身体から刺青が消え、龍さんのことをほとんど思い出すことがなくなった頃、蝶子は、林の子供を宿した。林によく似た、不細工だが、愛嬌のある顔をした男の子だった。
 「ほら、あなたに似てるでしょ」
 蝶子が笑って言うと、林は、その子の頬をつつきながら、
 「本当だ。この子はよくもてるぞ」
 と至極真面目な顔で言ったので蝶子は思わず吹き出した。二人の笑い声が病室に響いた。その声はいつまでも止まなかった。
<了>


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