長岡、仕事に貴賤はないぞ!

高瀬 甚太

 「清水港の名物は~」、往年のディック・ミネを思わせるような、懐かしい歌声を響かせながら、縞の合羽に三度笠、着流し姿に尻の裾を羽織った男がえびす亭のガラス戸を開けた。えびす亭の客たちは、その瞬間、目を見張って男を見た。そんな好奇な視線などお構いなしに旅姿の男は、人をかき分けてカウンターに着くと、マスターに言った。
 「日本酒、熱燗でお願いしやす」
 カウンターに立ったところで、男は三度笠を取り外す。同時に縞の合羽を脱ぐ。三度笠を取り外した頭はつるつるの坊主頭だった。カウンターに熱燗が置かれると、男は、それをお猪口に注ぐ。客たちは男から目を離さない。まるで江戸時代からタイムスリップしたかのような男の存在は人目を引いた。こいつは一体何者だ。好奇心にあふれた客たちの目は、笑いをこらえているようにも見えるし、憐れみを湛えた目のようにも見えた。
 それが、弥太郎がえびす亭にやって来た最初の日のことだ。
 「お宅、いつもこんな恰好して歩いてまんのか?」
 遠慮知らずのえびす亭の客が男に聞いた。男は、ニヒルな笑みを浮かべて、
 「これも渡世の義理でござんす」
 と言う。聞いた客はポカンとした顔で「渡世の義理?」と思わず唸った。
 年齢は四十を少し超えたぐらいだろうか、若くもないし年老いてもいない。熱燗をお猪口で押し戴くようにして呑んだ男は、喉の奥から声を搾り出すようにして、
 「うんめぇー」
 と絶叫した。男は、酒の肴にめざしのひものを頼み、箸でめざしを挟むと一気にかぶりつく。一匹すべて口の中に入れ、噛み終えると、
 「うんめぇー」
 とまた、叫んだ。なんともはや、けったいな人である。男は、一合瓶を空にして、めざしのひもの三匹を食べ終えると、懐から巾着を取り出して、
 「親父、いくらでぃ」
 と聞いた。マスターは思わず「三十五文――」と言いかけて、「六二〇円」と慌てて言い直す。男は金を払うと、三度笠を被り、縞の合羽を着る。そのまま、男は帰りかけて、ガラス戸に手を置いたところで、店の客たちを見渡すと、
 「あばよ!」
 と言い捨てて店を出た。思わず拍手が巻き起こるほど、堂に入ったものだった。
 その後も男は、何度か店にやって来た。えびす亭の客たちは、いつしかその男に、「弥太郎」とあだ名を付けて、呼ぶようになった。男はそう呼ばれるのを嫌がったりする素振りをみせず、むしろ喜んでいるように見えた。
 
 「マスター、最近、よく顔を出す、弥太郎って人、何をやっている人なんですかねえ」
 店の客に聞かれても、マスターは何も答えられない。マスターも内心、興味を持っているのだが、尋ねたことがなかった。
 そんなある日、たまりかねた客の一人が弥太郎に尋ねた。
 「弥太郎さん、お宅、仕事は何をしているんでっか?」
 弥太郎は、少し困ったような顔をして、
 「広告屋でござんす」
 と言う。
 「広告屋と言いますと、広告代理店? 電通? 博報堂?」
 「まあ、それに近いものです」
 と言ってニヒルに笑った。結局、聞けたのはそれだけで、それ以上のことはわからない。
 人の詮索をしないのがえびす亭の規範だから、それ以上、誰も何も聞かない。一緒にお酒を楽しく呑めればそれで充分、それ以上、何も望まない。えびす亭の客たちの常識だった。

 えびす亭の客の一人に長岡長一郎という四十歳前後の人物がいた。中小の広告会社に勤めていて、毎日、広告取りに走り回っている。夕刊紙の新聞広告が主で、得意先も風俗関係が多く、時折は、長岡もその風俗を利用しないといけないらしく、金が要って困ると言って、よくえびす亭でぼやいていた。
 「弥太郎さん、電通に勤めているらしいで」
 同じ広告関係だと知っている客の一人からそれを聞かされた時、長岡は、あの旅姿の弥太郎が、と半信半疑でいた。ところが、もう一人の客から、
 「いや、弥太郎さんは博報堂やと言うとった」
 と聞かされて、信じざるを得なくなった。どちらにしても、大手に違いない。そう思った長岡は、この次、弥太郎に会ったら、自分を社員として推薦してもらおう、そう心に決めていた。
 長岡は、今の会社で働き始めてそろそろ十年になる。その前は中小企業の会社の経理部で働いていた。字が上手なのと、簿記三級の資格、エクセルが使えたので経理部の勤務になったのだが、長岡は内心、自分は経理には向いていないと思っていた。会社が倒産したのを機に、広告代理店への就職を画策し、各社の試験を受けたが、軒並み落ち、最後に残ったのが今の会社だった。
 広告会社と言っても名ばかりの零細で、新聞広告を集めては細々と営業している小さな会社だった。社員も三名しかおらず、待遇も最悪だ、と長岡はえびす亭で愚痴をこぼしているが、それでも辞められないのは、他に行き場所がなかったからだ。
 弥太郎とは、えびす亭でよく話をする機会があった。弥太郎自身はあまり話さないが、そういえば、旅姿はいかにもおかしいのだが、それなりにやり手の雰囲気を持っていると、長岡は思った感じたことがある。何とか弥太郎に取り入って、大手の代理店に入り込みたい。長岡は秘かにそのチャンスを狙っていた。
 弥太郎は、相変わらず縞の合羽と三度笠でやって来る。えびす亭の面々も最近はすっかり慣れて、誰も驚かなくなった。話しかければ気軽に答え、おかしければニヤリと笑う。えらぶった態度も見せなければ、卑屈でもない。酒も羽目を外すほど呑まないし、人を傷つけるような暴言も吐かない。人間的に優れた人だと、えびす亭の面々は一目も二目も置いていた。
 他の客は少し慣れてくると、自分の女房のことや子供のこと、会社のことなど、酒に任せて愚痴ったり自慢したりするのだが、弥太郎に限ってはそれがない。自身のことはあまり喋りたがらず、人に聞くこともない。静かに呑んで、「うんめぇー」、「あばよ」とやって店を後にする。
弥太郎は毎日やって来るわけではない。毎日のように来る時もあれば、数日間、来ない日もあった。時間だって決まっているわけではなく、早い時間の時もあれば、遅い時間帯の時もあった。まちまちなのだ。
 困ったのは長岡だ。弥太郎に会って、代理店への入社を直談判をしようと思っているのに、なかなか会えない。時間を替え、日にちも変えるのだが、いつもすれ違いになってしまう。特に、最近はそうだ。マスターに、弥太郎が来ていないかどうか、確かめると、
 「さっきまでいたのに――」、「しばらく来てないなあ」の返事が続いている。
 躍起になればなるほど、そうなのだ。
 長岡にしても家庭を持っている。安月給で女房がパートで働いているとはいえ、そうそう毎日、えびす亭に顔を出すわけにもいかない。おまけに長岡は、得意先である風俗関係の店に、「たまには客になりなさいよ」と言われて、いやいやSMの店の客となって、踏まれたり蹴られたりしなければならない時がある。その分の出費もまたすごかった。
一日も早く弥太郎に会わねばと、気持ちは焦るのだが、そんな時に限って、思うように会えない――。

 夏の盛りの火曜日の午後、長岡は汗をかきながら風俗店へ急いでいた。SM風俗店へ広告を出稿してもらうための営業だが、気が重かった。これまで週に三度、夕刊紙に掲載していたが、それを二度にしてほしいと先方から申し出があった。三度が二度になると、月にして売上がかなり落ち込む。何とか、週に三回の広告を継続してほしい、それを頼みに行かなければならなかった。
 『SMサド』は、関西では人気のSM店である。顧客も多く、繁盛していると評判の店だった。オーナーは別にいるようだが、実質的に経営を行っているのはママの亮子である。
 ママの亮子は、四十歳半ばの年増で円熟した魅力があり、彼女自らM希望の客を調教する。SM店といっても、客のほとんどがMで、調教役の女性たちは誰も皆若かった。顧客の中には、有名企業の関係者が多いようで、年齢は結構高い。
 長岡が店に入り、ママを訪ねると、ママはちょうど調教の最中だった。閉じられた部屋の中からおっさんのうめき声が聞こえる。聞いていて気色のいいものではない。マネージャーに広告の話をすると、ママに言ってもらわないと、と逃げられてしまう。
 しばらく待っていると、革のブラジャーとパンツ姿のママが戻って来た。早速、広告の話をしようとすると、ママが鞭を振り上げ、長岡に尻を出せ、という。長岡が躊躇していると、ママは無理やり長岡のズボンを引き下げ、むき出しの尻に鞭を放った。
 「ヒェー!」
 涙を流して悶絶する長岡の尻を後ろから思い切り革のブーツで蹴り上げる。ブーツの先が長岡の急所を突き上げると、長岡は痛みのため、失神寸前に陥る。
 「何やて? あんた、こないして欲しくて来たんと違うんか」
 長岡は、尻と急所を押え、涙を垂れ流しながら叫んだ。
 「違います! 広告の話で来たんです」
 ママは鞭を放り投げ、椅子にどっかと座ると、長岡に言った。
 「それを早う、言わんかい。仕事をしてしもうたがな。三千円でええわ」
 「えっ、金を取るんですか!」
 「当たり前や。普通は一万円はかかるねんぞ。喜べ」
 「でも、ぼく、別に頼んだわけでもないのに――」
 ママの鉄拳が長岡の顎を捕らえる。女性と思って馬鹿にしてはいけない。ママは若い頃、ボクシングをやっていた経験がある。従ってパンチ力も並みの男の比ではなかった。
 「ガタガタ抜かすな! 広告出さへんぞ」
 パンチの分が加算されて、長岡は結局、五千円をママに支払うことになった。もちろん領収証などもらえないし、会社に出しても経費として通らない。
 尻を鞭で打たれ、急所をブーツで突き上げられ、パンチを顎に受けたことが功を奏し、ママは、週に二度と言っていた広告を、従来通り、週に三回と改めてくれた。
 長岡が夢見た広告営業マンの姿は、こんなみじめなものではなかった。一日も早く、弥太郎に遭遇しなければ、その思いを強くした長岡だったが、えびす亭に行こうにも、有り金をすべてママに取られてしまったため、行くことができなかった。
 夕暮れの商店街を長岡はとぼとぼと帰っていた。鞭で打たれた尻のしびれはどうにか治まったが、急所の痛みと顎の痛みは余計にひどくなってくる。
 この商店街はいつも賑やかだ。とても活気がある。他の商店街はシャッターが下りて寂れていると聞くが、ここの商店街はそんな社会現象を微塵にも感じさせない。食の街、大阪を体現するかのように、さまざまな料理店が軒を連ねる中を、長岡はやるせない気持ちで歩いていた。
 商店街の先の方から賑やかな音が近づいてきた。太鼓、クラリネットなどの音と共に、派手な服装の集団がやって来る。
 「ちんどん屋だ――」
 懐かしい思いに駆られて、長岡はちんどん屋を見守った。
 締太鼓と当たり鉦を組み合わせたチンドン太鼓、クラリネットを吹く楽士、ゴロスと呼ばれる大太鼓を中心に、各人が背負いビラと呼ばれる店名、サービス内容を書いたポスターを背中に背負って、練り歩いていた。
 江戸時代の雰囲気を漂わせた服装、厚化粧、練り歩くちんどん屋の人たちは、誰もが皆、楽しそうに見えた。先頭に立ってチンドン太鼓を奏でる男は特に楽しそうだ。笑顔を振りまいて――、長岡はその男の顔を見て、一瞬、驚愕した。
 弥太郎ではないか――!
 厚化粧こそしているが、縞の合羽に三度笠、着流し姿は弥太郎のものだ。しかも、よく見ると、そっくりだ。思わず、長岡は、その男に向かって叫んでいた。
 「弥太郎さん!」
 チンドン太鼓の男は、長岡の声に立ち止まると、視線を長岡に向け、陽気に手を振った。
 ――やっぱり弥太郎さんだった……。
 練り歩くちんどん屋を見送りながら、長岡は裏切られた思いで一杯だった。
 弥太郎は、大手の広告代理店の人間ではなかった。広告は広告でも異質のものだった。
 大手の広告代理店への入社を弥太郎に依頼したいと考えていた長岡の望みは絶たれてしまった。
 弥太郎は嘘をついたのか? 長岡は、そのことを考えてみた。弥太郎と何度か話したことはあったが、彼の口から「大手の広告代理店に勤めている」と聞いたことはなかった。聞いたのは、えびす亭の客からだ。では、弥太郎は、えびす亭の客に嘘を言ったのか。
 長岡は、絶望感に陥りながらも、秘かに弥太郎への憤怒の情を滾らせていた。
 三日後、長岡はえびす亭に行った。その日は、午後から違うSM店に行ったが、そこでは先日のような目に遭わずに済んだ。しかも、広告の本数を増やしてくれた。
 少し気分を良くしてえびす亭に入った長岡は、弥太郎がいないかどうか、見渡した。生憎、弥太郎はいなかったが、以前、弥太郎が大手の広告代理店に勤めているようだと教えてくれた人物がいたので、その客の隣に立って確かめた。
 「弥太郎さんのこと、大手の広告代理店に勤めていたと言ってはったでしょ。あれ、弥太郎さんに聞いたのですか」
 客は、グラスに入った焼酎をグイッと喉に流し込んで言った。
 「いや、弥太郎に仕事は何や? と聞いたら、広告関係や、と言うものやから、ほな、電通でっか、博報堂でっか、と聞いたことがありまんのや。 元々、あまり自分のこと喋らへん人間やから、その時、ぼそっと『まあ、それに近いものです』と言った。それがどないかしましたか?」
 「いえ、別に、ちょっと聞いてみただけです」
 長岡は他の客にも聞いてみた。だが、どの客も同様の回答をした。
 弥太郎は嘘をついていたわけではなかった。そう思ったが、長岡の中の憤怒の感情はなかなか消えなかった。
 ――大手の広告代理店勤務だと思ったから、一目置いて、弥太郎に就職をお願いしようと思ってえびす亭に通ったのに、蓋を開けたらちんどん屋だったなんて。
 弥太郎がちんどん屋だと知ったら、えびす亭の面々はどんな顔をするだろうか。話してみたい衝動に駆られた長岡は、客の一人に聞いてみた。
 「弥太郎さんの本当の仕事、何をしているか、知りたいと思いませんか?」
 「え――?」
 問いかけた客は、キョトンとした顔で長岡を見た。
 「旅姿の弥太郎さん、知っているでしょ」
 「おう、知っているよ」
 「あの人の本当の仕事、知りたいと思いませんか」
 客は、長岡の顔をじっと眺め、呑みかけた酒をカウンターに置いて言った。
 「別に知りたいと思わへん。どんな仕事をしていたかてええやないか。弥太郎は好人物や。あんまり喋らへんし、けったいな恰好しているけど、酒を美味しそうに呑む。わしは大好きやなあ」
違う客にも聞いてみた。
 「わしも一時は、こいつ、どんな仕事をしているんやろと思って気になったことがある。でもなあ、長岡さん。この店では、大手に勤めていようが零細であろうが、そんなこと、なぁんも関係ない。誰も気にせえへん。酒の上では皆、平等や」
 誰も、長岡の話を聞こうとはしない。この上は、何としても弥太郎を捕まえて、この鬱憤を晴らさなあかん。そう思った長岡は、いつもは一時間程度で店を後にするのに、この日はしぶとく粘った。
 ガラス戸が開いて、歌が聞こえた。
 「清水港の名物は~」
 客の一人が「よっ、弥太郎!」と声を上げた。酩酊していた長岡は、その声に驚いて入口を見た。弥太郎だ。弥太郎がいる。
 「弥太郎さん、こっち、こっち」
 長岡が手招きすると、弥太郎はすぐさま傍へやって来た。
 「久しぶりですなあ、弥太郎さん」
 「久しぶりでござんす」
 「俺、あんたにお願いしたいことがあって――。でも、なかかな会えなくて」
 「何か、用がござんしたか」
 「いや、あったけど、もうよろしいわ。あんたが大手の広告代理店に勤めていると聞いたものやから――、それやったら就職をお願いできればと思っていたんですわ。期待していたけど、あんた、ちんどん屋やないですか。俺、裏切られた気分ですわ」
 弥太郎は、熱燗徳利をお猪口に注ぎながら言った。
 「長岡さん。ちんどん屋だったらおかしいですか?」
 「そりゃあ、大手の企業とちんどん屋を一緒にできませんわな」
 長岡はかなり酩酊していた。普段ならそこまでの物言いをしないはずなのに、本音がポロリと出た。
 「わしは、ちんどん屋は大手の広告代理店と遜色ないと思っています。立派な広告業です。誇りも持っていますよ。世間の見方はどうであれ、仕事に誇りを持つことが大切です。わしは、一度もこの仕事を恥ずかしいと思ったことはありません」
 弥太郎の言葉が聞こえたのか、隣の客たちが、一斉に拍手をした。
 「長岡、恥ずかしいのはお前の方や。ちんどん屋を差別するなんて、いつの時代の人間や」
 酩酊していたとはいえ、言ってはならないことがある。長岡は、えびす亭の面々から激しい攻撃を受け、身を小さくして帰り支度を始めた。
 「長岡さん。帰ったらあかん!」
 弥太郎の声に長岡は思わずビビった。振り返ると弥太郎がニッコリ笑って手招きしている。
 「長岡さん、気にするな。わしは別に怒っているわけやない。人にはそれぞれ考え方がある。価値観も違う。それだけのことや。ただ、仕事には貴賤はない。差別するのはよくないと思う。そこでや、長岡さん。大手の広告代理店に紹介して欲しいのだったらしてあげてもいい。ただし、合格するかどうかはあんたの力次第や。わしにはそこまでの力はないが、紹介ぐらいできる。どうする?」
 「紹介してくれる!?」
 長岡は素っ頓狂な声を上げて、手にした鞄を床に落とした。
 「それが希望だったら紹介ぐらいはできる。でも、その前によく考えることや。長岡さんが大手に行きたいのは何のためや? 高給が魅力やからか、名声か、それとも今の仕事が辛いからか?」
 長岡は思った。すべて当てはまっていると――。もっとお金がほしい。名声もほしい。営業に行って、尻を鞭で打たれ、急所をブーツで蹴られ、顎にパンチを受けるような仕事はしたくない――。
 「どうやら全部、あてはまっているらしいな。でも、残念なことは、仕事に対する愛が欠けている、それがわしには残念や。わしは、元々、大手の代理店に勤務していて、現在の部長たちは同期入社の友人で、今でも付き合いがある。その友だちに頼めば、もしかしたら何とかしてくれる可能性がある」
 「弥太郎さん、大手の広告代理店にいたんですか?」
 「十五年ばかり務めて辞めた。わしにはちんどん屋の方が性に合っている。そう思ったからだ」
 「でも――」
 「わしの息子は生まれた時から障害があって、十代後半だが、いまだに幼い子供のようだ。わしは、この息子がかわいくてなあ。一度、地域のリクレーションで芝居をやったことがあったんだが、その時、わしが扮した股旅姿を見て、息子が喜んでなあ、あまり感情を表に出さない子なのだが、その時だけは目を輝かせて、手を叩いて喜んだ。それを見て、わしは決心した。会社に不満はなかったが、ずっと生きがいを感じることができなかった。できれば生きがいを感じる仕事、自分が生きているんだと、実感できる仕事がしたい。そんな仕事をしたいと思っていたから、思い切って会社を辞め、次の仕事を探した。ちんどん屋を選んだのはほんの偶然だ。息子と二人で商店街を歩いていたら、向こうからちんどん屋がやって来た。それを見た息子は、興奮して声を上げた。もちろん喜びの声だがね。息子はずっとちんどん屋の後をついて歩いた。――それを見て、わしはちんどん屋をやろうと決心した。三年ほどちんどん屋で学んで、その後、独立した。股旅姿で出歩いているのは、息子が喜ぶからだよ。先日、長岡さんに商店街で会ったが、あの時も、息子はわしのそばでタンバリンを叩いていた。今は、二十四時間、息子とずっと一緒だよ。わしは幸せ者だ」
 長岡は、弥太郎の話を聞きながら何も言えず、ただ、黙っていた。
 「大手の広告代理店の部長に連絡するから、長岡さんの電話番号を教えてくれ」
 長岡は、小さく首を振って言った。
 「俺、一番大切なことを置き去りにして、目先のことばかり考えていたような気がします。もう少し、考えて、それから弥三郎さんに返事をさせてもらいます」
 長岡は、深々と礼をしてえびす亭を去った。その背中に、
 「また来いよ!」
 の言葉を受けながら――。

 長岡はしばらくえびす亭に顔を見せなかった。ようやくえびす亭に現れたのは、ちょうど一か月後のことだ。
 「長岡さん、どないしていたんや? 心配しとったんやで」
 客の一人に声をかけられた長岡は、恐縮しながら、
 「弥太郎さんは、今日、来られましたか?」
 と聞いた。
 「今日はまだ来てないけど、もうしばらくしたら来るんと違いますか」
マスターの声に、長岡は、「じゃあ、来られるまで待ちます」と言ってビールを注文した。
 「弥太郎さんも心配しとったぜ。大手の広告代理店、弥太郎さんに紹介してもらうんやろ」
 長岡は、ビールを一口、口にして、首を振った。
 「いえ、あの話は頼まないことにしました」
 「へえ、もったいない話やなあ」
 「それよりも、今日は、弥太郎さんにお願いがあって来たんです」
 「お願い? 大手の話をキャンセルして、何のお願いやねん」
 長岡は、グラスにビールを注ぎながら、笑みを湛えて言った。
 「ずっと考えていたんです。自分は何がしたいのかと。一カ月考えて、ようやく決心がつきました。俺、弥太郎さんの弟子になって、日本一のちんどん屋を目指します」
 ――その時、ガラス戸が開いて、歌声が聞こえた。
 「よっ、弥太郎!」
 声が飛ぶ。三度笠を深めに被り、縞の合羽を羽織った股旅姿の弥太郎が姿を現した。
 「よっ、日本一!」
 また、声が飛んだ。えびす亭の夜はまだまだ終わらない。
<了>


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