ブスの美佐子

高瀬甚太

 「どうせ私はブスですよ」
 山川美佐子は、怒りで顔を真っ赤にして鈴鹿真一の元から立ち去った。真一は、またかよ、とうんざりした表情で美佐子を見送った。怒った時の美佐子の口調は子供の頃からまるで変わっていない。
 真一は美佐子と共に育ってきた。家が隣同士で親が大の仲良しだったということもあるが、それだけではないものが真一と美佐子の間にはあった。幼馴染というのは、時によって兄妹のような絆を作ったり、家族のような関係を作ってしまう。新一と美佐子も同様で、真一は美佐子のことをずっと妹のように思ってきた。
 幼児の頃の真一のアルバムには決まって美佐子が一緒に写っている。写真の中の真一が笑顔でいると、隣に立つ美佐子もまた笑顔だった。美佐子が泣き顔なら真一も泣き顔をしている。両親と一緒に写っている写真は少なかったが、その数倍、美佐子とともに写した写真が真一のアルバムに飾られていた。真一にとって美佐子は、幼い頃からかけがえのない宝物だった。
 
 中学生になった頃、美佐子がいじめに遭い不登校になったことがある。
 真一と美佐子は同じ学校の同学年であったがクラスは違っていた。そのために美佐子がいじめにあっていることに気付かなかった。美佐子が不登校になって初めて、いじめに遭っていることを知った真一は、美佐子のクラスに行き、誰が美佐子をいじめたのかを調べ上げた。いじめの中心人物が歯科医の娘、吉川瑠璃子だということがわかった真一は、放課後、吉川を呼び出して、なぜ美佐子をいじめるのか、問いただした。
 吉川は悪びれた様子も見せず、真一に答えた。
 「山川は少しばかり勉強ができると思って天狗になっているのよ。ブスのくせして生意気だからみんなでつるし上げたの」
 真一と美佐子の仲を知らない吉川は、うすら笑いを浮かべて真一に説明をした。
 吉川の説明を聞き終えた真一は、
 「明日からおまえを美佐子と同じ目に合わせてやる。いいか。いじめられたらどんなにつらいか、身を以て味わうんだな」
 と吉川をにらみつけて言った。驚いたのは、吉川だ。吉川には、真一がなぜ山川美佐子をかばうのか理解できなかった。真一のような学校中の女生徒の憧れの的がどうして山川美佐子を心配するのか――、真一が悪い冗談を言っているのだとその時、吉川は思った。
 翌朝、いつものように教室に入った吉川は、教室にいた数人の仲間に「おはよう」と笑顔で挨拶をした。
だが、どうしたわけかこの日は誰も吉川に挨拶を返さなかった。首を傾げながら一番仲の良い松下晴香のところに行ったが、その松下も吉川を避け、視線さえ合わせようともしなかった。
 「どうしたの? 晴香」
 吉川が尋ねても松下は返事をしない。それはクラスの他の者も全員同じだった。
 不安になった吉川は、授業中に松下にラインを送った。だが、既読になっているにも関わらず、松下からの返答はなかった。昼食の時間、気を取り直した吉川は、松下を誘って食事に出ようとした。だが、松下はそれを無視して他の生徒と共に食事に出かけた。
 「何でなの? どうしてみんな私を無視するの?」
 吉川は悲痛な表情で教室を飛び出した。
 吉川が真一の元を訪れたのはそれから三日後のことだ。
 「鈴鹿くん、私、これ以上耐えられません。お願い。もう許して」
 吉川は涙を流して、真一に懇願した。
 そんな吉川に真一は言った。
 「美佐子の家に行って謝って来い。美佐子が納得して学校に出てきたらおまえを許してやる」
 その日、吉川は学校の帰り、美佐子の家を訪れた。
 「いらっしゃい。あら、吉川さん、どうしたの?」
 美佐子の母に明るく迎えられた吉川は、おずおずとした声で、
 「美佐子さんいらっしゃいますか?」と尋ねた。美佐子の母は、
 「吉川さんにまで心配をかけてごめんね。いるのだけれど、部屋に閉じこもっていて、出て来ないのよ」
 そう説明して、吉川を二階の美佐子の部屋に案内した。
 「美佐子、クラスの吉川さんが来てくれたわよ。開けなさい」
 閉め切ったドアの前で美佐子の母が大きな声で伝えたが、反応は一切なかった。
 「吉川さん、すみませんねえ、ずっとこんな調子なのよ」
 と美佐子の母は吉川に詫び、
 「せっかく来ていただいたのに申し訳ないですね」と謝った。
 「お母さん、私、ここで山川さんとお話しさせていただいてもいいですか? 山川さんとどうしても話をしないといけないことがあるんです」
 美佐子の母は、吉川の申し出を快く了承し、階段を下りて行った。
 吉川はドアの向こうにいる美佐子に、
 「山川さん、聞いてる? 私、吉川瑠璃子」
 とドアに顔をくっつけるようにして言った。
 「今回のこと、本当にごめんね。私、成績のいいあなたを妬んで、みんなを焚きつけていじわるをしたの。あなたが傷つくこと、わかっていながら――」
 言葉にならない声を上げて吉川は美佐子に詫びた。
 ドアの向こうからは何の反応もなかった。それでも吉川は構わず叫び続けた。
 「山川さん、お願い、許してほしいの。私、あなたと同じ目にあって初めてあなたの苦しみがわかったの、私、心を入れ替えるから、あなたに学校へ来てほしい。そして、私とお友達になってほしいのよ」
 真一に言われたからではなかった。この時、吉川は、心からそう思っていた。ドアの前に座り、すすり泣くようにして吉川は、何度もその言葉を繰り返した。だが、ドアは開かなかった。傷心した吉川は、最後に、
 「明日、学校で待っています」
 とだけ言い残してその場を離れた。
 翌朝もまた吉川は、無視され、一人教室に佇んでいた。美佐子が来るかどうか、自信がなかった。それでも、自分の気持ちを伝えた充足感が、その時の吉川にはあった。吉川は祈るようにして山川の登校を待った。
 しかし、一時限開始のベルが鳴っても美佐子は現れなかった。すっかり気落ちした吉川は、空席になっている美佐子の席をじっと見つめた。今日、もう一度、美佐子の家を訪ねよう、そう思いながら――。
 担任が教室へ入ってくるのと同時に、慌てた様子で息せききって入ってきた生徒がいた。
 みんなの視線が一斉にその生徒に集まった。入ってきたのは美佐子だった。それを見て吉川は安堵の表情を浮かべ、大きく胸を撫で下ろした。

 中学、高校と同じ学校に進んだが、高校を卒業すると同時に二人の道は分かれた。真一はエンジニアを目指して理工学専門の大学へ進み、美佐子は超難関の名門大学に入学を果たした。
 大学入学を共に喜びあった二人だったが、美佐子には一抹の不安があった。真一といつまでこういった仲のいい関係を続けることができるのか、いつまで真一の身近におれるのだろうか、そのことを考えると美佐子の胸は締め付けられるように痛かった。
 顔がよく、スポーツマンの真一はそれが当たり前のように女性にモテた。中学時代もそうだったが、高校時代も真一のファンだという女の子たちが真一を取り巻いた。だが、真一はそんなことなどお構いなしに、常に美佐子にやさしく接した。
 中学時代、いじめに遭って不登校になった時、救ってくれたのが真一だと、友人になった吉川に聞かされた時、美佐子の心に変化が生まれた。
 美佐子のさまざまな苦境を真一はいつも影ながらかばってくれていたのだ。そのことを美佐子が知るのはいつもずいぶん後になってからのことだ。真一への感謝の気持ちが、やがて愛に変わるにはそれほど時間を要しなかった。

 「真一くん、女の子に人気があるよね」
 ある時、美佐子の母が食事の支度をしながら美佐子に言った。美佐子が大学に入学して半年ほど経った時のことだ。
 「この間、用があって難波へ行ったのよ。心斎橋を歩いていたら向こうから真一くんが歩いてくるの。あっ、真一くんだ。そう思って声をかけようとしたら、真一くんの周りに女の子がわんさかいるの。真一くん、顔もスタイルも抜群だものね。もてない方が不思議なぐらい。お母さんは美佐子と一緒になってくれたらってずっと考えていたんだけれど、どうやら難しそうね」
 真一が女の子に人気があるのは幼児の頃からだ。常に真一を好きな女の子がたくさんいて、隣に住む美佐子をみんな羨ましがった。でも、誰一人として美佐子に嫉妬心を燃やすような女の子はいなかった。誰がどう見ても、真一と美佐子ではあまりにも不釣合いに思えたからだ。
 大学生になり、二人の交流は少なくなった。真一は大学の授業が終わった後、アルバイトをしていたので、帰宅時間が深夜過ぎになることが多かった。美佐子もまた家庭教師のアルバイトをしていて、家に帰る時間が一定しなかった。真一から時々、思い出したように電話がかかってきたが、それも時候の挨拶に毛が生えた程度のものだった。

 ある時、美佐子は家庭教師をしている家で思わぬ歓待を受けた。いつものように中学生の女子の勉強を教え終えた時、その家の夫人から一緒に食事をしていただけないか、と頼まれ、家族の食事に付き合うことになった。五人家族のその家には、両親と長女、長男、そして美佐子が教える末っ子の娘がいた。
 「どうぞ遠慮なく召し上がってね」
 夫人の歓待を受けて、美佐子は少し戸惑った。今日に限ってどうしてこんなによくしてくれるのだろう。そう思っているところへ帰宅したのがこの家の長女と長男と父親だった。三人は衣服を着替えることなく、そのままの姿で食事に参加した。
 「山川さん、ご紹介するわ。うちの長男の靖男と長女の里美、主人の孝雄です」
 美佐子はこの家に家庭教師に来てずいぶんになるが、三人と顔を合わせるのは初めてだった。
 「はじめまして山川美佐子と申します」
 立ち上がって挨拶をすると、三人も同じように礼をした。
 「山川さん、実はこんなことを申し上げると大変失礼なのですが、うちの息子の靖男にあなたのことを話すとえらく興味を持ってね。紹介してくれないか、というのよ。それで紹介がてら、ちょっとした食事会を設けさせていただいたというわけなのよ」
 美佐子に夫人が説明した後、靖男に言った。
 「靖男、山川さんにアピールしなさい」
 立ち上がった靖男は、美佐子に軽い会釈をすると、戸惑うことなく自身の紹介を始めた。
 「初めまして、私――」
 靖男は美佐子に向かって自己紹介を始めた。自分がどれだけ優秀な人間か、要約するとそれを話したにすぎなかったのだが――。
 ごく普通のどこにでもいるような青年、それが美佐子の靖男に対する印象だった。泰子より五歳上の靖男は、美佐子との結婚を意識しているのか、大手の金属会社に勤務していて年収はボーナスを入れると八百万円ほどだと詳しい説明をした。
 残念ながら美佐子は靖男のことをそれほど興味を持つことができなかった。曖昧な返事を繰り返していると、靖男が突然、
 「一度、山川さんのご両親にご挨拶に伺ってよろしいですか」
 と言ったので、美佐子は慌ててその申し出を断った。
 悪い人には見えなかった。だが、美佐子は靖男にピンとくるものを感じなかった。ドキンともしなかった。
 「申し訳ありませんが――」
 と丁寧に靖男の申し出を断った。
 美佐子はその帰り道、ずっと真一のことを考えていた。
 ――いつも隣にいることが当たり前のように思っていた真一にもやがて好きな人ができるのだろうか、そう考え始めると知らず知らずのうちに涙があふれ出てきた。いつか――、それも近いうちに真一は間違いなく自分の元から離れてしまうに違いない。私は真一以外の人を考えることができないけれど、真一にはたくさんの選択肢がある。その中で私が選ばれるなどほとんど奇跡に近い。それでも私は生まれた時からずっと一緒だった真一と、これから先も変わらずにずっと一緒にいたいと思っている。美佐子は奇跡に近いその思いを抱き締め、一人我が身を慰めた。

 四回生になって真一の就職がようやく内定した。真一は真っ先にそれを美佐子に伝えようと、美佐子の家にやってきた。
 しかし、美佐子はアルバイトの家庭教師宅から帰っていなかった。
 「真一くん、もうすぐ帰ってくるから待っていてあげてね」
 美佐子の母はそう言って、真一にお茶を出し、
 「いつだった かしら、家庭教師に行っている先で美佐子ったらそこの息子に交際を申し込まれてね。丁寧に断ったらしいのだけど、その息子さん、なかなかあきらめてくれなくて――。その息子さん、うちにもやってきて、私と主人に『お嬢さんとお付き合いしてください』と手をついて頼むのよ。私も主人も美佐子が望むなら私たちは構いませんよ、と言ったけど、その息子さん、かなり本気なので驚いたわ。あの子もそんな年になったのよね」
 と笑いながら話した。
 「その話、いつのことですか? おれ、美佐子から何も聞いていませんよ」
 真一があまりにも真剣な表情で言うので、美佐子の母は驚いて、
 「一年間ぐらいかしらね。でも、真一くんに話すようなことじゃないと思ったんじゃないの」
 と茶菓子を真一の前に差し出しながら言った。
 「その男は今でも美佐子を追いかけているんですか?」
 「うちに来たのが今年になってからだから、もしかしたら今でも――、あっ、真一くん、美佐子が帰ったみたいよ」
 ドアの開く音がして、「ただいま」という美佐子の声が聞こえた。
 「美佐子、真一くんが来てくれているわよ」
 美佐子の母が大きな声で玄関口に向かって言うと、「ほんと?」と言う美佐子の声が聞こえてきた。。
 美佐子と真一はいつものように美佐子の部屋へ入った。
 「どうしたの? 何かあったの?」
 美佐子が尋ねると、
 「おれ、就職決まったよ。▽▽工業の研究室。それを伝えたくてね」
 と真一が言った。
 「すごい! 大企業じゃないの。しかも研究室だなんて! 真一、よかったね」
 美佐子が我がことのように喜ぶと、真一は少し顔を曇らせて、
 「ああ、よかったよ。希望していた会社だからね。でも、千葉へ行かないといけないみたいなんだ」
 と言った。
 「いいじゃないの。そのぐらい。我慢しなさいよ。私、真一くんはきっと出世すると思う。昔から真一くん、人に好かれるものね。会社へ入ったらきっとみんなに好かれると思うよ。女性にだってよくもてるものね」
 美佐子が笑って言うと、真一はムッとした表情をみせて黙った。
 「どうしたの? 私、何かいけないこと言った?」
 それには答えず、真一は美佐子を見つめ、
 「お母さんに聞いたんだけど、美佐子、プロポーズされたんだって?」
 と聞いた。
 「お母さんたら本当におしゃべりなんだから。家庭教師に行っている先の息子さんに交際してほしいと言われて――。お断りしたんだけれど、なかなかあきらめてくれなくて。私みたいなブスを真剣に好きになってくれる人なんて初めてだから、思ってくれる気持ちはとても嬉しかったんだけど、結局、改めて今日、お断りしてきたところなの」
 「美佐子、そいつがしつこく言い寄って来て、迷惑だったらおれに言えよ。おれがそいつに言ってやるから」
 美佐子が笑いながら真一に聞いた。
 「何て言うの? ブスにかまうな、とでも言うの?」
 「いや、美佐子はおれの女だ、手を出すな! そういってやる」
 「えっ……?」
 「美佐子はおれの女だ! 誰にも手出しをさせない」
 「えっ……」
 「何度も言わせるなよ。恥ずかしいじゃないか。就職して二年経ったら、美佐子、おまえを必ず呼ぶからな。おれたち、一緒に暮らそう」
 真一の言葉がいつになく力強かった。その言葉を聞いているうちに、美佐子の顔が涙で歪んだ。
 「おい、泣くなよ。ブスが一段とブスになるじゃないか」
 真一が言うと、美佐子は、顔を両手で覆って、
 「ブスで悪かったわね!」
 一言、叫ぶと、再び顔をくしゃくしゃにして大声を上げて泣いた。
<了>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?