愛犬ゴンと家族の物語その二

高瀬 甚太

    六

 秀忠が行方をくらまして一年が過ぎた。忠は六歳、敦は四歳になり、ゴンも一年でずいぶん成長した。聡子の掌に乗るほど小さかったゴンは、聡子の腕では抱きかかえられないほど大きくなり、その分、やんちゃ度も増した。
 この頃になるとゴンは頻りに家の外へ出たがるようになった。拾ってきてからの一年間、ゴンはずっと家の中で飼われていたが、図体も大きくなり、そろそろ家の中で飼うことに限界を感じ始めていた聡子は、一歳になったのを契機に、首輪を付けてゴンを庭で飼うようにした。ゴンは庭に出ると尻尾を振って喜んだが、首輪を付けようとすると首を振り、後ずさりをして首輪を付けさせようとしなかった。それでも聡子に叱られると、ゴンは渋々首を出し、言いつけに従った。
 首輪を付け、鎖につながれたゴンは、最初のうちこそ大人しくしていたものの、聡子の姿が見えなくなると、途端に首輪を外そうとし、鎖を解こうと地べたに転がった。それでもうまく行かないとみると、ゴンは声を上げて忠を呼んだ。聡子を呼ぶ時と忠を呼ぶ時とでは明らかに呼ぶ声の調子が違っていた。聡子には甘えた声で呼ぶが、忠を呼ぶ時は、「早く来い!」とでも言わんばかりに大きな声を上げる。忠もまた、自分を呼ぶゴンの声がわかっていた。忠が近づくと、ゴンは地べたに横たわり、忠を見て、首輪と鎖を外せと命令する。
 「あかん。首輪を外して外に出たら保健所のおっちゃんに野良犬と間違えられて連れて行かれる」
 忠がいくら説明してもゴンにはわからないようで、横たわったまま、忠に向かって唸り声を上げる。
 しかし、聡子が近づくと途端にゴンの態度が変わる。パッと起き上がり、何事もなかったように従順に座り直すのだ。
 犬小屋がなかったこともあり、夜になると聡子はゴンを家の中に入れた。家の中と言っても畳の上ではない。玄関口の土間にゴンを座らせ、寝かせるのだ。この時、ゴンは首輪こそ付けているものの、鎖からは解き放たれている。
 「畳の上に上がったらだめよ」
 家の中に入れ、玄関口の土間にゴンを座らせた後、聡子が念を押すようにして言うと、ゴンは小さく首を振り、従順な表情で応える。
 家の中の者、特に聡子が寝静まったのを見ると、ゴンは急いで畳の上に駆け上がり、素早く忠の布団の中に潜り込む。拾われてきてからずっと、ゴンの寝床は忠の布団の中だった。
 早朝、仕事に出ようとした聡子は、土間にゴンがいないことに気付き、慌ててゴンを探す。戸を開けて庭を見るがそこにもいない。
 「どこへ行ったのだろう――」
 もしかしたらと思った聡子が忠の布団の傍に行き、上布団をめくり上げると、忠の体にしがみつくようにしてゴンが眠っていた。身体こそ少しは大きくなっていたが、ゴンはまだまだ子犬だ。しつけるのはもうすこし後にした方がいいかもしれない。そう思った聡子は忠の布団を元に戻し、眠っているゴンをそのままにしておいた。
 ――ゴンはもしかしたら頭のいい犬かも知れない。忠がそう思ったのは、ゴンが鎖と首を付けて一週間後のことだ。寝ころがって身体を左右に動かし、両足を使って首輪を触っているゴンを見て、敦が無駄なことをしていると笑い、忠もそう思ったが、それでもゴンはあきらめずに首輪と鎖を外す動作を繰り返している。一週間が過ぎようとしていたその日、幼稚園から帰ると、首輪と鎖を外したゴンが、忠の帰りを待ちかねて飛びついてきた。
 「首輪と鎖を外している!」
 忠の叫び声が家の中にいる敦にも聴こえたかのか、敦が飛んできた。敦は首輪のないゴンを見て、
 「どうしてー!?」
 と叫び声を上げる。
 夜になって帰宅した聡子も敦と同様に、迎えに現れた首輪のないゴンを見て驚いた。
 「誰がゴンの首輪を外したの!?」
 と忠と敦を呼んで聞いた。
 「ゴンが自分で外した」
 忠が説明をすると、聡子は、それを言い訳と取ったようだ。
 「ゴンが自分で外せるわけないでしょ」
 と怒る。
 「お母さん、本当だよ。ゴンが自分で外したんだ」
 忠をかばうように敦が言った。
 「信じられないわ……」
 首輪と鎖を外したゴンは、家族の困惑などどこ吹く風で、澄ました顔で座っている。そのゴンを見て、聡子は、ため息を洩らしながら明日にでも頑丈な首輪と鎖を買ってこなければと改めて思うのだった。

    七

 生活保護の申請を出すために、聡子は、地区の民生委員に何度か相談に出向いたが、許可は下りなかった。夫が死亡していたなら生活保護の対象になるのだが、行方不明では対象にはならない。しかもまだ一年余だ。二人の子供と母親を抱えて、聡子の稼ぎだけで食べて行くには無理があった。貯金も残り少なくなっている。もう少し稼ぎのいいところへ転職する必要があった。
 夫の秀忠は、失踪以来、何の連絡もない。時折、秀忠を見たという報せを耳にすることがあり、その場所へ駆け付けたこともあるが、そのほとんどがガセネタだった。
 広川早苗の行方も杳として知れなかった。やはり秀忠と駆け落ちしたのだろうか。早苗の夫が時々、「ご主人から何か連絡ないか?」と聞いてくるが、応えようがない。聡子は、未だに秀忠が早苗と駆け落ちしたとは信じていない。だから、早苗の夫に聞かれても曖昧な答えしか出せなかった。
 秀忠が不在である理由を、忠はうっすらと知っていたようだが、敦は、仕事で遠くへ出かけているとしか理解していなかった。そのため、時々、聡子に、
 「お父ちゃん、いつ帰って来るの?」
 と聞くことがある。そのたびに聡子は、
 「そのうち帰ってくるから、いい子にして待っておきなさいね」
 と笑ってごまかすが、その言い訳も無理の利かないところまで来ていた。一日も早く、夫を探し出さねば、そう思って焦っているのがその頃の聡子だ。
 ゴンは順調に成長していた。夜になると、忠の布団に潜り込む癖こそ直っていなかったが、日増しに体も大きくなり、悪戯度も増した。二歳を数える頃には、朝の散歩はゴンの欠かせない日課になっていて、忠と共に、朝焼けの空の下、近隣を駆け巡った。
 聡子が新しく買ってきた鎖と首輪はよほど頑丈なものだったようで、何とか外そうと苦心惨憺していたが、やがて首輪と鎖に慣れたのか、今では外す努力をしなくなった。
 父親のいない寂しさをゴンの存在が埋めていることは間違いなかった。気の強い敦は、父がいない寂しさを紛らせるためにゴンにその鬱憤をぶつけた。そのためゴンは、敦を怖がり、敦が近づくと逃げ出すことが多くなった。逆に性格の大人しい忠は、常にゴンにやさしかった。ゴンは、忠に対してだけは天衣無縫にふるまい、常に忠と一緒に居たがった。
 忠が幼稚園から帰るのを待ちかねて、ゴンはその時間になると、庭に出て声を上げて騒いだ。ゴンには、忠の姿が見えなくても、嗅覚でわかるのか、遠い場所にいてもその存在がわかるようだった。忠が家に戻ると、ゴンは身体をピョンピョン跳ねて喜び、足や腕、至るところに鼻をこすりつけて匂いを嗅いだ。

 貯金が底を尽き、いよいよ生活が苦しくなった聡子は、仲居の仕事に就くことを決めた。
 鉄道で二駅離れた場所に半島を代表する温泉街があった。国内から観光客が押し寄せる人気の温泉であったため、旅館やホテルが立ち並び隆盛を極めていた。人員募集は常に熾烈で、特に旅館やホテルは仲居の確保に必死の状況だった。仲居の仕事は多忙だが、その分、賃金は悪くなく、聡子も賃金につられて仲居の仕事を選んだ。
 仲居の仕事は激務で、早朝、四時になると家の近くまで迎えに来る送迎バスに乗り、ホテルに向かう。バスで四〇分の距離だ。バスが到着すると、すぐにお泊りの客に食事を出す準備をし、送り出した後、室内の掃除にかかる。この間、休みなしで走り回ることになる。
 掃除が終わると、少しの休憩の後、昼食の準備に奔走する。特に忙しいのが夕方から夜にかけての時間帯だ。チェックインの時間帯が三時から四時で、客を部屋に案内し、食事の支度、寝具の用意など休む暇なく仕事に追い立てられる。ようやく落ち着くのが午後十時を過ぎた時間帯だ。個人の場合ならまだしも団体客が集中する季節がある。そんな時はさらに大変で、早朝から深夜まで休みなく働かされる。ようやく解放されるのが午後十一時、送迎バスで帰宅するのが午前○時。子供たちや母親の翌日の食事の用意をし、洗濯をし、風呂に入るのが午前一時半。眠りに就くのが午前二時、四時には迎えに来るので二時間ほどしか眠れない。そんな毎日がずっと続く。休みは一カ月に一度か二度ぐらいしか取ることができない。休みは取ろうと思えば取れるのだが、少しでも稼ぎたい聡子は休んでいるわけにはいかなかった。できるだけ休みを取らず働きたいと必死になる。そのため、ずっと不安な健康状態との闘いが続いていた。
 客商売の経験などなかった聡子は、最初のうち客の応対や案内に戸惑うことも多かったが、二日、三日もすると、どうにか仕事にも慣れ、一週間ほどで順応することが出来た。ただ、体力的に厳しく、一日、二時間、三時間の睡眠に慣れるのにずいぶん時間がかかった。
 家の掃除や洗濯、食事の支度を母親の市江が代わりにやってくれることになり、聡子の負担は幾分、楽になったが、危惧したのは、子供たちと接する時間が取れないことだ。
 子供たちが起床する前に出発し、子供たちが就寝した後に家に戻る。子供たちの日常の様子は、聡子の帰りを待っていてくれる市江に聞くことができたが、会話ができないことが聡子の心を重くした。
 このままではいけない。そう思った聡子は毎朝、忠と敦に、チラシの裏紙を使って手紙を書くようにした。
 『おはよう。お母さんは今日も頑張ってくるね』
 と書いた言葉の後ろに、その日の注意点と、子供たちへの励ましの言葉を書いた。子供たちもまた、夜、眠る時、チラシの後ろに、
 『おかあさん。おやすみなさい』
 とたどたどしい文字で聡子に手紙を書くようになった。子供たちは、聡子への手紙の中で、常にゴンのことを書き、その成長ぶりを聡子に教えることが多かった。

    八

 ゴンは日を追って目覚ましく成長した。掌に乗っかるほど小さかった頃の面影はすでになく、三歳になる頃には、敦では抱きかかえられないほど成長し、二メートル級の塀なら軽々と飛び越えられるようになった。
 顔つきもこの一年でずいぶん変わり、ベビーフェイスから逞しい顔つきに変貌し、忠との散歩も、徒歩ではじれったいのか、忠に自転車に乗れと命じ、自転車の速度に合わせて走るようになっていた。
 ゴンは、聡子が帰宅すると、必ず目を覚まし、聡子を出迎えた。忠の布団に潜りこんで寝ていたゴンは、少し前から土間の上の毛布の上で眠るようになり、聡子の帰宅と同時に飛び起きると鼻をクンクン鳴らしてすり寄った。
ゴンの存在は聡子にとって貴重だった。どんなに疲れていてもゴンが傍にいるだけで気持ちが和み、心が落ち着き、短い睡眠を熟睡へと導いてくれた。

 ――そんなある日、市江が郵便ポストで一通の封書を見つけ、驚いて聡子の元に電話をかけてきた。
 「聡子かい。忙しいところごめんな。実は今日、秀忠さんから封書に入った手紙が届いたんじゃよ」
 「秀忠さんから手紙!? お母さん、悪いけど、封書を開いて何が書かれてあるのか、中を見てくれない?」
 すぐにでも家に戻りたい気持ちを抑えて市江に言った。封書を破る音が電話を通じて聞こえ、続いて、封書から何かを取りだす音が聞こえた。
 「あっ――」
 市江の驚いた声が聞こえたので、聡子は思わず叫んだ。
 「どうしたの? 何が書いてあったの? お母さん、早く教えて!」
 市江は言葉に詰まり、しばらく黙していたが、意を決して聡子に告げた。
 「便箋に、『申し訳ない。離婚証書にサインをして送り返してくれ』と書いていて、離婚証書が同封していた」
 聡子は、足の先から力が抜けたようにそのまま床にへたりこむと、ものも言わず電話を切った。
 秀忠が失踪して三年余が経ち、もうすぐ四年になろうとしていた。無事でいるかどうかさえもわからず、時間だけが無為に経過した。この間、さまざまな噂を耳にしたが、そのどれもが信憑性を疑わせるものだった。
 早苗との駆け落ちの噂も、世間は信じていたが、聡子だけは信じていなかった。秀忠の失踪には何か特別な事情があったのだ、聡子はそう信じて疑わなかった。いや、信じようとしていたのかも知れない。
 聡子は、秀忠はいつか必ず戻ってくる、また、以前のように家族団らんの日が持てる。そう信じて疑わなかった。それなのに、今になって離婚証書が送られてくるなんて――、聡子はパニック状態に陥り、仕事が手に付かなかった。秀忠から贈られてきた手紙が気になって、その日、聡子は、体調が悪いと言い訳をして早退した。
 明るい時間帯に家に帰ることなどなかった聡子の突然の帰宅に、敦も忠も手放しで喜んだ。ゴンもまた、ピョンピョン飛び跳ね、踊るようにして喜んだが、聡子の気持ちは重かった。
 いつかこういった事態が起きるのではと、予測しないでもなかったが、その思いを打ち消し、秀忠を信じることで振り払って来た。だが、とうとうその日がやって来た。
 「この手紙だよ。何という人間だよ、まったく」
 市江は吐き捨てるように言って、聡子に手紙を手渡した。白い封筒に三益聡子様と達筆で書かれていた。筆跡を見て、聡子は思わず涙を流した。あの人の文字だ――。
 裏に書かれた住所は、大阪市西成区――、と書いてあった。この場所に居るのだ。今すぐにでも会いに行きたい。聡子は胸を打ち震わせながら封書の中のものを取り出した。
 便箋と一緒に、離婚証書が同封されていた。離婚証書には、すでに秀忠の名前と印鑑が押されていて、聡子の名前を記入すればいいだけになっていた。
 苦労して、親の反対を押し切って結婚をして、ようやくこれからという時、なぜ、離婚なのか、聡子は秀忠の気持ちが理解できず頭の中が混乱していた。手に持つ証書が現実のものとは思えず、子供たちの前だというのに、取り乱して泣いた。
 その夜、聡子は、秀忠の所在地に手紙を書いた。「手紙ではわからない。一度会ってほしい」、そう書いて郵送した。

    九

 日を置かず秀忠から返事が来た。『三日後、大阪なんばの喫茶店で午後一時に会おう』とその手紙には記されていた。
 会って、何を話せばいいのか、離婚を思いとどまるように言うのか、それとも、四年近く家を捨てたことへの愚痴を言うのか、もう愛していないのか、と聞くのか――。聡子の心は千千に乱れ、混乱が続いた。
 失踪前日まで、秀忠に変化はなかった。子供たちと一緒に風呂に入り、食事をして、眠る時も一緒に寝た。いつもの秀忠だった。失踪当日の朝も何ら変わりはなかった。いつものように起きて、いつものように出勤した――。
秀忠と駆け落ちしたとされる早苗という女性を聡子はよく知っていなかった。役所で働いている姿を何度か見かけたことがあるが、地味で大人しくて目立たない女性といった印象が残っている。年齢は聡子より少し若いが、美人というわけでもない。秀忠と早苗が聡子の中で結びつかないのは、秀忠の嗜好に合った女性と思えなかったからだが、どこで接点を持ったのか、それすらも不思議に思えた。
 早苗の夫の広川卓三は土建屋の社長をやっていて、大酒呑みで知られる酒癖の悪い人物だった。酔っぱらうと暴力を働き、早苗を悩ませていたようだと、聡子は聞いたことがある。三人の子を抱え、夫の暴力に苦しんだ早苗が、思い余って家から脱出した、と言うのは考えられなくもない。だが、それにしても三人の幼い子供を捨てて、家を出ることが出来るものかどうか、母親としてそんなことが出来るものなのか――、聡子には理解しがたいことだった。
 秀忠が本当に早苗と駆け落ちしたのかどうか、大阪で会えば、すべてがわかるだろう。その日が近づくに従って、聡子の心は不安に揺れ、乱れに乱れた。
 「一人で大丈夫かい? 何だったら英夫に一緒に行ってもらうよう頼もうか?」
 市江が心配して聡子に助言をしたが、市江の兄、英夫が一緒に行くと話が出来なくなってしまう。短気で喧嘩っ早い英夫は、それでなくても秀忠に好意を持っていない。今回のことでも相当、頭に来ているはずだ。そんな人を連れて行くことなどできない。聡子は市江の申し出を断り、不安だけれど一人で行くと伝えた。
 大阪へ出発する当日、出かける支度をしていると、敦がまとわりついてきた。敦は、聡子が父親と大阪で会うことを知っている。自分も一緒に行きたいとねだっているのだ。忠よりも敦の方が父親を恋しく思っていて、聡子と一緒に大阪へ行って父親に会いたいと、昨夜から聡子に言い続けている。忠は無頓着だ。父親に会いたくないはずはないと思うが、口に出しては言わない。兄としての威厳がそうさせているのかも知れない。
聡子は丁寧に敦に説明をした。
 「お父ちゃんと大人の話をしに行くから、悪いけれど連れて行けないのよ。おうちでお父ちゃんが帰ってくるよう祈っていて。いい子だからね」
敦はそれでも聞き分けがなく、聡子が家を出るまでぐずって言うことを聞こうとしない。
 「ぼくもお父ちゃんに会いたい」
 泣き叫ぶ敦の頭を軽く撫で、抱きしめて聡子は家を後にする。背後から、聡子の耳に敦の鳴き声とゴンの鳴き声が交互に聞こえてきた。
 天王寺まで特急電車で行き、天王寺から地下鉄御堂筋線に乗り換えて難波で下車する。聡子が大阪にやって来るのは十年ぶりのことだ。激変した大阪の街並みを見て、気おくれを感じながら聡子は難波の地に立った。人の流れに押し流されそうになりながら、秀忠が指名した南海通りの喫茶店に入ると、店内は満席状態でしばらく待たないと座ることが出来なかった。
 ようやく座席を確保できたのは十五分ほど待たされた後だった。約束の時間までまだ一〇分近くあった。有線放送のBGMがピンキーとキラーズの『恋の季節』を流していた。
 ウエイトレスが注文を聞きに来たが、聡子は、「もう一人連れが来るので来てから注文してもいいですか」と断った。秀忠は昔から約束の時間には遅れたことのない男だ。今日もきっと時間ギリギリに現れるだろう、そう思っていると、約束の時間ちょうどに秀忠が姿を現した。秀忠は、聡子を見つけると、笑顔も見せずにツカツカと歩み寄って来た。
 アイロンの利いた白いカッターシャツ、きれいに筋の入ったズボン、清潔な服装が秀忠に女がいることを容易に想像させた。
 「わざわざすまなかった。離婚証書に印を押してくれたか」
 家を放り出したことへの詫びの言葉もなく、開口一番、秀忠は聡子に離婚証書の話を切り出した。いかにも事務的な口調に、聡子の怒りが爆発した。
「何も言わんと勝手に家を飛び出して、連絡も一切しないで、その言いぐさは何よ。離婚するなら離婚するで、何があったのか、説明するのが筋やないの」
 秀忠は、タバコに火を点け、しばらく黙っていたが、煙を吐き出した後、ゆっくりとした口調で語った。
 「好きな女が出来たんや。その女が一緒になりたいと言うんで家を飛び出した。お前や子供たちには迷惑をかけたが、わしには女の方が大事やった。もう元には戻れん」
 聡子は憔悴しきった表情で、秀忠の顔を見つめて言う。
 「今日、家を出る時、敦がぐずって、一緒に行く、お父ちゃんに会いたい、そう言って私を困らせたんや。子供たちはあんたが急にいなくなって混乱している。寂しいてたまらんのや。――あんたが出てから私らがどれだけ苦労したか知っているか。少しでもそのことを考えてくれたことがあるんか? 敦も忠も、あんたが帰ってくることを信じている。私かてそうや。今でもあんたのことを信じている。戻ってほしい。子供たちもそう願っている。お願いや、父ちゃん。帰って来て!」
 溢れる涙を拭おうともせず、聡子は懸命に秀忠を説得した。一張羅の服を着て、化粧して、口紅まで塗ってやってきた。きれいな顔を見てもらうはずが、涙でボロボロになっている。それでも聡子の涙は止まらなかった。四年間、溜めた涙が今、噴き出した。そんな感じだった。
 「聡子、お前には本当に申し訳ないと思っている。そやけど、もうどうにもならんのや。わしは女と生きて行くと決めた。勘弁してくれ」
 「お父ちゃん、私のこと、嫌いになったんか? 子供たちのこと、捨ててもええと思うているんか?」
 「……」
 「相手の女は広川早苗か? 役所で働いていた女なんか?」
 「……」
 「お父ちゃん、そんなにあの女がええんか?」
 「聡子、許してくれ。わし、早苗のことが好きになったんや。お前のことも子供のことも気になったけど、すべて捨てて出てきたんや。もうどうにもならん」
 秀忠は、頭を深く下げると、
 「お前とは今日限りや。離婚証書に印を押してくれ」
 と言い放った。
 聡子は、バッグから証書を取りだすと、三益聡子と記し、印を押した。秀忠はそれを受け取るとバッグの中に仕舞い込み、席を立った。
 秀忠の後姿を目で追いかけながら、聡子も静かに席を立った。得体の知れない孤独感に包まれて、聡子はよろけるようにして店を出た。
 雑踏をかき分けながら、聡子はボロボロと涙を流し、子供のように声を上げ、泣きながら歩いた。死にたい――、その時、聡子は本気でそう思った。
<つづく>

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