ストーカーを探せ!

高瀬 甚太
 
 梅雨の日の朝のことである。数日間、雨が降り続き、この日も早朝から雨が歩道を濡らしていた。
 一昨日から泊まりこみが続いていた葛西俊太は、昼前にコンビニへ弁当を買いに出かけ、そのついでに文房具屋に立ち寄った。傘をさしても追いつかないほどの激しい雨が肩を濡らし、ズボンの裾を濡らした。買い物を済ませた葛西は、急ぎ足で事務所に向かった。急ぐあまり、足元に注意を払わずにいたせいで、道路にできた窪みに足を取られ、転びそうになった。幸い、転倒は避けられたが、窪みに溜まった水たまりに靴が浸かり、歩くのにも苦労するありさまだった。
 事務所のドアの前に女性が立っていた。三十代半ばを思わせるスタイルのいい女性であった。
 「葛西先生でいらっしゃいますか?」
 ドアの前に近づいた私を見て、女性が言った。
 「そうですが……」
 恐る恐る答えると、女性は笑顔を浮かべ、
 「お待ちしておりました。電話もせずにすみません」
 と挨拶をした。よく見ると、スタイルどころか、整った顔をした美人である。黒髪が肩まで伸びて、涼しい目元と、まっすぐな鼻筋が葛西に印象深く映った。
 「狭いところですが、どうぞお入りください」
 女性を先に部屋に入らせた葛西は、入口でびしょ濡れの靴を脱ぎ、タオルで足を拭った。
 1DKの部屋である。何の飾りもない部屋の中にデスクが二つ、それぞれにパソコンが置かれていて、壁面を本が飾っている。
 女性を椅子に座らせ、冷蔵庫からペットボトルに入った冷たいお茶を取り出し、ガラスコップに入れて、女性の前に差し出し、聞いた。
 「どんなご用でしょうか?」
 雨の日の美女――、悪い予感がした。
「 実は葛西先生にお願いがありまして」
 女性は麻生香織と名乗り、用件を静かに切り出した。美しい声だった。
 「私の姪がストーカーにしつこく付きまとわれて困っています。警察に何度も相談に行きましたが、近頃、そういった相談が多いらしくて、よほど事件性がないと真剣に対処してくれません。ストーカーが始まったのは今年の三月です。以来、六月の今日まで、執拗なストーカーが続いていて、このままでは姪の身に危険が及ぶのではと心配しております。
 いろんな対策を練ったのですが、姿を見せず、誰がストーカーをやっているのか見当も付きません。メールや電話、脅迫文、あらゆるメディアを使って姪を脅すのですが、その内容がここへ来て、さらに過激になり、『殺す』といった文字が出るようになり、このままではいけない。そう思って再び、警察に相談に行ったのですが、相手が特定できていれば通告もできるのですが、特定できない相手には警察もどうする手立てもない、と言われて――。困っている時にお聴きしたのが先生のお名前です。葛西先生なら親身になってご相談に乗ってくれ、解決してくれるのではないかと聞きまして――」
 葛西は、手を左右に振って否定した。
 「とんでもありません。私は、推理小説こそ書いていますが、警察の人間でもなければ探偵でもありません。そんな力などまったくありません」
 強く否定したが、彼女は葛西の言葉など全く意に介さない。
 「姪に――、姪の名前は小藤美優と申しますが、姪の美優に、ストーカーに心当たりがないかどうか尋ねると、一向に心当たりがないと言いますし、それだけに余計に不安がって、しかも、その内容が日を増すごとに過激になり、とうとう姪は会社に出勤することができず、夜もほとんど眠れない状態が続いています。葛西先生が警察の人でも探偵でもないことはよく存じ上げています。それを承知でお願いしているのです。知人に相談したら、その知人が、このような事件は、推理作家の葛西先生にお願いするといい、あの人なら即座に事件を解決してくれる、とお聞きし、本日、お伺いした次第です」
 なんと無責任な知人だろう。葛西は作家の仕事で手が一杯で、依頼された原稿を月内に片づけてしまわないと、たちまち生活が困窮する。葛西は彼女にそのことを伝え、無理だと調してたのだが、彼女にはまったく通じない。
「知人の方にお聴きしています。先生は、寡作な作家で、生活が楽ではないと、大したことはできませんが、お礼の方は充分させていただきます。取り急ぎ一本、前金としてお渡ししておきますが、いかがでしょうか?」
 葛西は、麻生の言葉に驚き、聞き返した。
 「一本?」
 「十万円ではありません。百万円です。事件が解決すれば、残金として編集長に二百五十万円お支払します」
「 計三百五十万円ということですか?」
 思わず声が上ずった。――葛西は金に飢えていた。
 「もし、ご要望があればおっしゃってください。構いませんので」
 「いえ、お金の方はそれで充分ですが……」
 前金百万円は魅力だった。
 「ではお引き受けくださいますね。ありがとうございました」
 なしくずしに、了解させられた葛西は、稼業の作家活動とは無関係のこの仕事を引き受けることになった。
 
 その日のうちに、ストーカー被害を受けている木下美優という女性に会うことになった。麻生と共に美優の住むマンションを訪れた葛西は、そこで美優からストーカー被害の状況を詳しく聞くことになった。
 麻生も美人だが、それに輪をかけたように美優も美しい女性だった。ストーカー被害を受けるのも頷ける、それほどの美貌の持ち主だった。
 麻生が言っていたように、美優は、ストーカーにまったく心当たりがないと断言した。ストーカーは、主に電話とメールで美優を脅迫していた。
 「三月の中旬頃だったと思います。会社で飲み会があって、遅い時間に帰宅すると、それを待っていたかのように電話が鳴って、電話に出ると、声を細工したような声で、『男どもと酒なんか呑みやがって、次から誘われても絶対、男と酒を呑むな!』と、大声で怒鳴って切れました。私はわけがわからず、これといった心当たりもなかったことから、何かの間違いだろうと思い、その日はそのまま眠りました。すると、翌日の早朝です。早い電話がかかってきました。こんなに早く誰だろうと思って電話に出ると、『おはよう、ぼくの美優。昨日は怒ってすまなかった――』、そんな声がして、気味が悪くなって途中で電話を切りました。すると、今度は、会社に向かっている途中のことです。携帯に電話がかかってきました。非通知でしたので電話に出るのをやめ、そのままにしておくと、しつこく何度もかかってくるのです。マナーモードにして放っておき、昼に携帯の着信を見ると、なんと三十数本の非通知の着信が入っていました。
 家に帰ると、待っていたかのように家に電話がかかってきます。電話に出ると、『携帯に電話をしたのに、なぜ出ない!』と怒り、開口一番、なじります。すぐに電話を切って、電話線を外すと、今度はどこで調べたのか、携帯にメールが入ります。その数がおびただしいので気持ちが悪くなり、叔母に相談してすぐに警察に届けました。
 でも、警察は、相手が特定できていなければ対処できない、の一点張りで、まともに取り扱ってくれません。何とかしなければと思い、メールアドレスを変えたり、電話番号を変えたりしたのですが、しばらくすると、どこで調べたのか、再び電話とメールがラッシュで届いて――」
 美優が相手にしなかったことから、ストーカーはますます過激になり、最近では、『殺す!』と物騒な言葉を口にするようになり、メールにそれが頻繁に書かれているという。
 相手がまるでわからないというのが厄介で、どうすればストーカーを突き止められるか、それが第一の思案だった。
 美優の状況を逐一、把握していることから考えて、相手は、美優の近隣にいる人物であることは間違いないと思われた。また、ストーカーのメールには、会社での美優の様子を事細かく書き連ねられていることから、会社の同僚である疑いも強かった。
 他には、美優の以前のボーイフレンド、学生時代の同僚、マンションの住人などが考えられた。
 「美優さんには、以前、交際していた彼がいましたよね」
 葛西の問いに彼女は、
 「はい、いました」
 と答えた。
 「いましたということは、今は付き合っていないということですか?」
 「大学に入ってすぐに交際した人がいましたが、その彼は大学を卒業する前にアメリカへ語学留学をすることになって、その時、別れました」
 「その彼は今、どうしていますか?」
 「今もアメリカにいるはずです。向こうで就職して結婚したと聞いていますから」
 「その彼以外に仲のいいボーイフレンドはいますか?」
 「ええ、やっぱり大学時代の友人で、彼の友だちだった人、大学のサークルで知り合った人、二人ぐらいですかね」
 「その二人の彼とは、どんな付き合いですか?」
 「まったくのお友達です。ご飯を食べたり、お茶を飲んだりする程度で、このところ、忙しくて疎遠になっていますけど」
 「その二人の彼の名前と連絡先を教えていただけませんか?」
 「いいですけど、本当に普通のお友達なんですよ」
 二人のボーイフレンドの名前と連絡先を確認した葛西は、それを手帳にメモし、続いて社内での状況を尋ねた。
 美優の会社は外資系の商社で、従業員は四〇名とそれほど多くなかった。そのうち男性は二十五名、独身男性となると一〇名に絞られた。美優の職場は総務部で、男性は、課長と係長、それに年下の男性が一人いるだけで、後は美優を入れて女性が四人。課長と係長は既婚者で、怪しいと思われる人物はいないと、美優は答えた。
 周辺住民やマンションの住人となると、ほとんど付き合いがなく、怪しい人物にはまるで心当たりがない。美優はそう語った。
 メールや電話など、ストーカーの行為は明らかに美優の日常を把握していた。美優の近くに存在することは確かなように思われた。
 しかし、美優の周辺人物に特に怪しい人物は見当たらない。だが、葛西は確信を持っていた。ストーカーは必ず美優の近くにいて、普段は牙を隠している男だと――。
 美優から一応の説明を聞いた葛西は、麻生と共に美優の家を出た。乗車する電車の駅で別れるまで、麻生は美優のことを心配し、葛西に向かって、一日も早く解決してくれるようにと幾度も口にした。
 その日の夜、葛西は美優から聞いた話を反芻し、彼女の周囲にいる人物の特定を急いだ。
 手元には、ストーカーから美優に届いたメールのいくつかをメモした文章があった。犯人を特定するものは、このメールの中にしかなかった。葛西は、美優から聞いた話とメールの内容を比較して推理した。
 〈可愛い美優、おれはいつでもお前のそばにいる。だが、お前は少しも気付いてくれない。でも、お前はいつかおれに気付く。おれの愛に気付く〉
 〈お前は誰にでも愛想が良すぎる。笑顔はおれのためにだけ取っておけ。他の男には絶対に笑いかけるな〉
 〈今日、お前を抱いている夢をみた。おれに抱かれて恍惚の表情を浮かべているお前をみて、おれは久しぶりに勃起した〉
 ――その文章が特に葛西の興味をそそった。久しぶりに勃起した――。これは若い男性の感覚ではない。そう思って、これまでのメールを読み直すと、中年以降の人間のような気がしてきた。しかし、そうなると限られてくる。美優の周囲に中年男性がいるのは会社の中だけだ。だが、美優の上司である係長と課長は妻帯者のはずで、もしかしたら社内の別の職場の人間である可能性もあった。
 翌日、葛西は、会社を欠勤して休んでいる美優の元に出かけ、会社の中の人物について聞いた。特に聞きたかったことは、中年以上で独身男性がいるかどうかということだ。
 美優は、営業部の係長が四二歳で独身だと話し、営業部員の二人も四十歳前後で独身のはずだと話した。その三人と美優は顔なじみではあるが、ほとんど口を利いたことがないと言い、そのうちの一人はゲイではないかと評判になっている人物だと話した。
 その後も、美優の周辺にいる中年以上の男性を話題にしたが、その時、突然、美優があることを思い出した。
「 独身ではありませんけど、総務部の伊東係長がこの町に住んでいます。住所は知りませんが、駅でよく出会い、一緒に電車に乗ることがあります。すごくやさしくて気のいい方です」
 「伊東係長は何歳ぐらいの方ですか?」
 「五十は過ぎているはずです。入社したのが五年前なので出世は遅い方ですけど」
 「美優さんの会社に入社する以前はどこかお勤めだったのですか?」
 「聞いた話なんですけど、奥さんのお父さんが経営している会社で働いていたそうです。伊東係長は養子なので結婚してから伊東姓を名乗ったとお聞きしています」
 「その会社はどうされたのですかね」
 「倒産したと聞きました。それでうちの会社に入って来られたのです」
葛西はストーカーの存在を中年以降の男性であると決めつけていた。美優に送られてきたストーカーからのメールの一文が葛西の頭から離れなかった。
しかし、美優の周りにいる中年となると限られてくる。独身となるとさらに限られてくる。――しかし、独身にこだわる必要があるのだろうか、そう考え始めると、既婚者がストーカーであっても何の不思議もないように思えてきた。
 「美優さんの会社の中年以上の男性は何人ぐらいいらっしゃいますか?」
 「社長と専務を入れて九人程度です」
 「では、その九人に、作家の取材と偽って近日中にお会いすることはできませんか?」
 葛西に相談をする前後から、美優の元に届くストーカーによるメールや電話の数は圧倒的に減っていた。しかし、それでストーカーが美優をあきらめたと思うのは早計だった。先方に何かの事情が生じたのだろう。きっと再び、美優を攻撃し始めるはずだ。葛西はそう確信していた。
 この数日、ストーカーからの攻撃が途絶えていたこともあり、その安心感もあって、美優は、残り少なくなった有給休暇を有効に活用するためにも、久しぶりに出勤すると言い、その際、葛西のことを上司に紹介し、取材に協力してくれるよう頼んでみると言った。
 葛西は、美優と駅で待ち合わせをし、美優と共に会社に行きたいと申し出ると、美優はそれを快く了承し、駅で待ち合わせをする時間と場所を葛西に指定した。
 翌朝、京阪電車のM駅で8時15分に待ち合わせをした葛西は、少し早めに家を出て、M駅に約束の時間の10分前に着いた。駅構内は出勤途中のサラリーマンで混雑していた。約束の時間ちょうどに美優が現れ、淀屋橋行きの電車に乗った。混雑する社内で、身動きするのも大変な状況だったが、そんな中、一人の中年男性が美優に近づき、声をかけた。
 「今日から出社かね。体調はもう大丈夫か?」
 「申し訳ありませんでした、伊東係長」
 白髪の目立つ長身の男性は、観ようによっては五十代後半にも見えた。
 「私も身内に不幸があって、三日ほどお休みをいただいていたんだよ」
 「どなたか亡くなられたのですか?」
 「義父が亡くなってね。八七歳だから大往生といえば大往生だったが」
 「じゃあ、奥さんはずいぶん年がいかれてからの子供だったのですね」
 「……そうだね」
 伊東係長が同じ電車に乗ることは予測できたので、もし伊東係長に車内で会っても、自分を紹介しないようにと、美優に約束させていた。インタビューをする前に妙な先入観を持たれても困るからとわざとらしい理由を告げたが、実際は、客観的に伊東係長を観察したいかったからだ。
 会社に到着した美優は、総務課長の柳井に葛西を紹介し、中年サラリーマンをテーマにした作品を書いているので、協力してあげてほしいと依頼した。課長は、葛西に、どのぐらいの時間が必要か確認して、短時間で済むとわかると、向田専務に相談してくると言って総務課の部屋を出た。
10分程度で戻って来た柳井課長は、
 「今回だけ特別にということで取材に応じると専務がおっしゃっている。別室に10分ごとに中年以上のサラリーマンを集めるから取材にかかってくれたまえ」
 と少し興奮した口調で葛西に言った。どうやら取材を受けるのは初めてのようだ。
 八人の中年以上のサラリーマンの取材だったが、目的が二つあった。一つは美優をストーカーする相手を見つけ出すこと。もう一つは、見つけ出せない場合でも燻りだす。そのことを念頭において、葛西はインタビューにかかった。
 応接室の一室を利用して、まず社長の田原からインタビューを開始した。中高年が働くという意義、中高年サラリーマンの未来など、無難なテーマを投げかけて、最後に中高年の恋愛についてというテーマで聞いた。
 先の二つのテーマは、さすがに慎重に言葉を選んで生真面目に答えたが、恋愛というテーマにおける反応は様々だった。
 田原社長は、内緒だが、と言って愛人がいることを私に話し、自分がいかにエネルギッシュに女性を喜ばせているか、タフさ加減を自慢した。続く向田専務も同様に、恋愛というテーマになると相好を崩し、もうだめだと頻りに年を強調した。営業部の島田部長は恋愛にはあまり関心がなさそうで、話に乗って来なかったが、柴田課長は昔、よくもてたと、数々の武勇伝を披露して葛西を閉口させた。営業部の島之内係長は独身であったが、バツイチで、結婚こそしていなかったものの同棲している女性がいると葛西に話した。独身の営業部の社員の一人は、女性にまったく興味がないと語り、一人は結婚したいがチャンスがないと嘆いてみせた。
 総務の柳井課長は、女房にまったく頭が上がらないようで、恋愛の話は煙に巻いて話を濁した。係長の伊東は、どのテーマにもあまり関心を示さなかった。恋愛についても興味がなさそうで、白けた顔で葛西の質問に答えた。
九人のインタビューを終えた葛西は、世話をしてくれた総務部の課長に丁寧に礼をし、美優に目配せをして会社を離れた。
 九人の中高年を取材して果たしたことで、ある程度、葛西はストーカーの特定ができたと思った。
 葛西は、取材の途中、九人の男性に、短文でいいからと断り、用意したテーマに基づいて即興で文章を書いてもらった。協力してもらえるかどうか、最初は不安だったが、九人とも渋々ながらも協力してくれた。それが葛西の確信をさらに深める結果を生んだ。
 その日、帰宅する美優に同行して美優のマンションに向かった。今日から再び、悪質なストーカーが再開されるはずだ。そう思った葛西は、ストーカーから電話がかかったら、対応する措置を美優に話して聞かせた。
 美優が部屋に戻ると、待ち構えていたかのように電話が鳴った。
 ――もしもし……。
 美優が電話に出ると、しばらく無言が続いた。
 ――もしもし……。
 再び、美優が言い、電話を切ろうとすると、突然、声がした。
 ――おれがあきらめると思ったら大間違いだぞ。
 ――柳井課長、お願いですからこんなことはもうやめてください!
 美優のその言葉を聞いて、すぐに電話が切れた。
 葛西り返って美優が聞いた。
 「葛西先生、どうして柳井課長がストーカーだとわかったのですか? 私は伊東係長が犯人だとばかり思っていました」
 「私も最初は伊東係長が犯人だと思っていました。条件にぴったり合っていましたからね。でも、インタビューをして考え方が変わりました」
 
 ――柳井課長にインタビューした時のことだ。中年の恋愛観について聞くと、柳井課長は、女房に頭が上がらないと言って、しきりに女房の悪口を言い始めた。結局、恋愛観については一言も語らずじまいで、女房の話、それも悪口に終始した。他の八人は、自慢する者、話題を避ける者、いろいろいたが、自分の女房の悪口をインタビューで言いふらす人は柳井課長だけだった。こうした人は、日頃から女房に頭を押さえつけられているせいもあって、少なからず女性に対して鬱積したものを感じている人が多い。その鬱積したものを美優さんにぶっつけたのでは――、葛西はそう思ったのだ。
 確信を持ったのは、九人、それぞれに書いてもらった短文だ。短文だから内容はどれも大したものではなかった。でも、文というのは日頃の癖が如実に現れるもので、他の人が数文字しか書いていないのに、柳井課長だけは短い時間に数行、書いた。しかもその文章が、美優さんに送られてきたメールの文章と酷似していたのだ。普段から書きなれていないとなかなかこうは書けない。
 電話がかかってきたら柳井課長の名前を言うように美優さんに申し伝えたが、案の定、美優さんに名前を呼ばれた相手は電話をすぐに切った――
 
 「先生、どうもありがとうございます。これは残りのお金です」
 と言生が残金二百五十万円を持って現れたのは、翌日、梅雨晴れの日であった。
 「同じ会社の、しかも課長さんだったなんて、本当に信じられませんでしたわ」
 「その後、美優さんはどうしていますか?」
 葛西が聞くと、麻生はしばらく黙ったまま、答えなかった。
 「まさか、また、ストーカーに――、というのではないでしょうね」
 「そのまさかなんですよ。いえ、ストーカーじゃないんですけどね」
 持って回った言い方をする麻生の言葉が気になって、葛西は、
 「どういうことですか? 教えてくださいよ」
 と尋ねた。すると、麻生はようやく重たい口を開き、
 「同じ会社の人と付き合うようになったんです」
 立腹した口調で言った。
 「でも、それっていいことじゃないですか。で、誰と付き合うようになったんですか?」
 麻生、葛西の目を見つめて小声で言った。
 「伊東とかいう係長なんです」
 「伊東? じゃあ、不倫じゃないですか!」
 「いえ、それがね。伊東係長は、つい先日、義父がなくなったことがきっかけで、奥さんと離婚したようなんです。以前から離婚話が再三起きていたようなんですけどね。財産の問題が起きて、奥さんが義父の遺産を旦那の名義にしたくないとか言い出して――。伊東という係長はその前に奥さんに離婚証書を手渡していて、身一つで家を出たらしいんです」
 「そうなんですか。じゃあ、伊東係長に同情したのですかね」
 「それはわかりません。でも、相手は三十近くも年上の男なんですよ。おかしいと思いませんか」
 麻生は再び立腹して、声を上げた。
 もしかしたら自分にもチャンスがあったかも知れない。そう思うと、葛西は、伊東を羨ましく思った。彼がどのような手練手管で美優を口説いたのか、それとも美優が伊東の胸に飛び込んだのか、麻生の怒りはなかなか収まらず、しばらく葛西は身動きできずにいた。
〈了〉

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