芦屋事件 移動する死体の謎

高瀬 甚太
 
 「井森、『芦屋事件』を知っているか?」
 大阪市北区の茶屋町のスターバックスでコーヒーを飲んでいた時のことだ。突然、林昭彦が思い出したように言った。
 『芦屋事件』といえば、最近起きた事件の中でも特異な事件として話題になり、新聞紙面を大いに賑わした。知らないはずはなかった。
 「知ってるよ。それがどうかしたか?」
 「あの事件だがな。実はまだ解決していない」
 林の言葉に井森が驚いた。
 「犯人が捕まったじゃないか。あれは犯人じゃなかったのか?」
 「いや、あいつが犯人だ。だが、それで事件が解決したわけではなかったんだ」
 確信ありげに語る林を見て、井森は奇異な思いに駆られた。林は、兵庫県警特殊捜査班の班長で、井森の学生時代からの友人だ。通常の犯罪とは異なる人智を超えた犯罪を担当する部署で、そこには他の捜査班とは毛色の違う異色の人材が集められていた。
 林は、立ち上がると井森の腕を掴み、「付き合ってくれ」と言って店の外に出た。
 林には、常人にはない超能力のようなものがある。例えば、学生時代、仲間五人で海水浴に行った時のことだ。高速道路の途中で突然、彼が「減速しろ!」と運転している者に大声で命じたことがあった。わけがわからないまま減速し、脇に寄せて走っていると、少し行った先の見通しの悪い急なカーブを回ったところで数十代の玉突き事故が発生していた。多数の死傷者を出す大事故だったが、あの時、そのままのスピードで走っていたら大事故に巻き込まれ、危うく死傷者を出していたところだ。
 また、ある時には、全員でグラウンドをランニングしている途中、突然、大雨が降り、急いでグラウンドの大木の下に駆け込んだことがあった。その時、彼が「ここはやばい」と全員を木の下から移動させ、濡れながら校舎に向かわせたことがある。その後、大木に落雷が落ち、九死に一生を得たことは、今でも井森の脳裏に色濃く残っている。
 信じられないことだが、彼にはそうした予知能力のようなものが備わっていて、その能力を買われて、兵庫県警特殊捜査斑所属となったと聞いている。今は班長として七人の精鋭を引き連れているという。
 林から電話を受けた時、またぞろやっかいな事件に巻き込まれるのではと、井森は危惧した。林は、喫茶店では話がしづらかったのか、店の外へ誘った。井森は自分の予感が的中したことをその時、悟った。
 人に聴かれたくない話だったのか、林は、大阪駅前の陸橋まで行き、わざわざそこで話を始めた。この場所なら人は通り過ぎるだけだ、誰も二人の話に耳を傾けることはない。
 「おまえも知っている通り、芦屋事件は、凄惨きわまりない殺人事件だった。兵庫県警の面子にかけても早急に犯人を逮捕しなければならなかった。その結果、ようやく二人の容疑者をあぶり出し、二人は犯行を自供した。事件はそれで終わりのはずだった。ところが、そうではなかったんだ……」
 林の言う「芦屋事件」というのは、今年の春に起きた、大富豪一家四人が全員惨殺された凄惨な事件で、一時期、大きく新聞やテレビのワイドショーなどで騒がれ、話題になった、あの事件である。
 殺害現場の凄惨な様子から怨恨によるものと判断した捜査本部は、被害者の周辺の人間関係を徹底的に洗い出し、そこから容疑者を割り出し、ようやく逮捕に至ったのが事件から半年後の十月初旬だった。
 犯人は、被害者である隅田清志が経営する昭和大不動産の元従業員、伊藤宏と斎藤賢一だった。
 勤務していた当時、経理を担当していた二人は共謀して会社のお金を盗み、株やギャンブル、遊興に当てていたが、金の流れに不審な点があることに気付いた担当税理士が調査を実施したことから、億単位の金の流出が発見された。
 二人の犯行であることは明白だったが、その金は会社の隠し資金だったことから、表沙汰にはならず、二人は懲戒解雇という形で追放された。
 しかし、二人の悪行に怒りを禁じ得なかった会長の隅田は、関係会社ならびに資本系列の会社に二人の名を記した書状を送り、雇用を禁じる旨の通達を出した。
 解雇された二人は、結局、どこにも雇ってもらえず、雇用を禁じる書状が出ていたことを知って逆上し、また、金銭目的もあって、芦屋の隅田家を襲った。
 それまでに何度か隅田家を訪問したことのあった二人は、かねてから邸内の様子を熟知しており、難なく侵入を果たすと、隅田清志と妻のみどり、娘の弘江、祖母の安代を殺害し、金を奪った。
 二人の犯行と判明したのは、完璧に近いと思われた二人のアリバイが崩れたことによる。
 伊藤は、当日のその時間、一人で映画を観ていたと供述し、相棒の斎藤もその時間、天満でパチンコをしていたと供述している。そのアリバイを実証する者はいなかったが、二人は、当日の映画の様子、パチンコ店の様子をつぶさに覚えており、その話に嘘がなかったことからシロと断定され、一時は容疑者から外された。
 だが、事件当日、阪神高速道路の芦屋出口料金所の監視カメラに二人が乗った車と二人の顔が記録されていたことから事件は大きく進展した。
 最初は犯行を否定していた二人だったが、料金所の写真を見せられた斎藤がまず陥落、それを知った伊藤も自白に至った。
 二人が起こした犯罪であることは疑うべくもなかったのが、一点だけ問題が生じた。二人の告白と食い違う部分が出て来たのだ。公にはされていなかったが、警察内部の問題として浮かび上がり、林の斑に捜査依頼が届いた。
 その問題点とはこうだ。
 伊藤と斎藤の自白によれば、邸宅に忍び込んだ二人は、まず、祖母の安代の部屋に侵入、首を絞めて殺害した後、隅田清の寝室に向かうところで、娘の弘江に遭遇し、弘江の心臓をナイフでひと突きして殺害。隅田清志の寝室に侵入した二人は、二人を起こし、金品を要求。金と宝石類を手にした二人は、その時、覆面をしていたにも拘わらず、勘のいい清志に伊藤と斎藤であることを見破られた。
 伊藤と斎藤はナイフで二人を滅多突きにして殺害に至らしめ、侵入した裏門から外へ出て、逃走した――といったことになっている。
 現場検証でもそれは実証され、二人が使用したナイフも近くの公園の屑かごから発見された。
 問題は一家の遺体であった。二人の供述によれば、隅田清志とその妻みどりはベッドの上で殺害し、遺体はベッドの上にあるはずだった。ところが、警察が駆けつけた時、清志は応接間に、みどりの遺体は玄関にあった。滅多突きにした遺体が動くことなど考えられない。二人の供述にも嘘は感じられなかったし、また、嘘をつく必要もなかった。
 それだけではない。二階廊下で殺され、本来、廊下で発見されるべき弘江の遺体もまた弘江の部屋のベッドの上に置かれていた。祖母の安代もそうだ。二人の供述とは違う押入の中で発見された。
 犯人は逮捕され、事件は一件落着したが、遺体の移動という問題だけが謎として残された。林の所属する特殊捜査班の面々の力を持ってしてもその謎を解明することが出来ず、井森にお鉢が回ってきたというわけだ。
 特殊能力を持つ林が井森に相談した理由は、学生時代から井森がさまざまな摩訶不思議な現象に数多く遭遇し、それを解決してきた事例があることと、社会へ出てからも多くの不思議に遭遇し、関わってきたということに起因する。
 だが、井森の考えは違った。これまで解き明かしてきた事件の多くは、すべて偶然の産物で、自身の能力だとは思っていなかった。したがって、林の申し出にも消極的にならざるを得なかった。だが、林は、それでもあきらめなかった。現場を一緒に見に行ってくれと言い、無理やり井森を引っ張り出した。
 井森は現場を見るだけだったら、という約束で林と共に芦屋の大豪邸、隅田家を訪問することになった。
 隅田家の門をくぐった時、井森は肌に刺さるような独特の感触にドキッとした。それは霊的なものとは違う、まったく未体験の感触だった。だが、玄関を通り、室内に入るとそれは収まった。
 まず、隅田清志と妻のみどりが殺害されたという寝室に林は井森を案内した。遺体は今も警察署に安置されていたが、血糊りとシーツの歪みはそのままの形で遺されていた。周りに散らばる血痕もそのままだった。
 ベッドの様子を見る限り、二人はこの場所で絶命したことは間違いないと思われた。別の場所で遺体が発見されたとすれば、誰か別の人間が二人の遺体を運んだとしか考えられない。
 娘と祖母の遺体もそうだ。殺害された場所に散らかる血痕は尋常ではなかった。そこで絶命したことは疑うべくもなかった。
 「どうだ? おかしいと思うだろ」
 林が言った。確かにそうだ。だが、おかしい。何かがおかしかった。二階と一階、応接間と玄関、押入と部屋の中――。井森の中で信号が発せられた。
 「林、隅田家の家族はこの四人だけなのか?」
 林に聞いた。林は、「ああ、四人だ」と答えた後、
 「正確には四人と一匹だ」と慌てて訂正した。 
 「その一匹というのは何だ?」
 井森が聞くと、林は、
 「犬だ。シェパードで、ずいぶん年を食っている」
 と答えた。
 「その犬は今、どこにいる?」
 井森が再び尋ねると、林は、
 「亡くなった」と答え、「事件の前か後、ともかくおれたちが捜査のためにこの家に入った時にはすでに亡くなっていた」と言う。
 井森は、それぞれの遺体の発見現場に戻ると、ゆっくりと辺りを見直した。その様子を見た林が、
 「井森、何を探しているんだ?」と聞いた。
 「犬の毛だよ。正確にはシェパードの毛」 
 「おまえ、シェパードが遺体を移動させたと思っているのか?」
 林の問いかけを聞き流しながら井森は、床を這い蹲るようにして犬の毛を探した。だが、犬の毛などどこにも見つからなかった。
 「もし、シェパードが移動させたとしてもだ、何のためにそれをしたんだ。説明が付かない」
 林の言うことはもっともだった。シェパードなら伊藤や斎藤が侵入してきた時点で、彼等の侵入を防げたはずだ。普通に考えると、伊藤や斎藤は、シェパードを殺害してから侵入したことになる。
 「林、伊藤と斎藤に隅田家の愛犬をどうしたか、聞いてくれないか?」
 林は携帯を手に持つと、兵庫県警の電話番号をプッシュした。
 「……そうか。わかった」
 しばらく話していた林が、
 「井森、犬は侵入する前に殺害したようだ」
 と井森に向かって言った。
 愛犬の仕業でないことが判明した。だとしたら何だ。人智を超えた力が働いて、それが死体を動かしたとでもいうのか、さすがにそれはないと井森は思ったが、この時点では死体を動かす理由がまったく掴めなかった。
 
 隅田家は歴史のある旧い家屋である。三百年以上年代を経ていたが、その時々でリフォームを重ねてきたのだろう。外見も内見も近代的な造りに生まれ変わっていた。
 家屋全体を包む霊的なものなどほとんど感じなかった。しかし、家屋の周囲を取り囲む塀に近づいた時、井森は異様な感覚を覚えた。これは何だろう。隣にいた林に尋ねたが、林は「別に何も感じないぞ」という。
 その異様な感覚は、霊的な感覚とは違う、まったく異色のものだった。井森は再度、塀に近づき、内側と外側を歩いてみた。
 外にいては何も感じなかったが塀の内にいると違和感を覚えた。それも塀の側だけだった。しばらく塀の内側に佇んでいると、不思議な物音を耳にした。
 「林、何か物音が聞こえないか?」
 林に尋ねたが何も聞こえないという。井森はさらに塀の内に耳をそばだて、慎重にその物音を聞いた。
 わらべ歌のような小さな歌声が塀の中から聞こえてきた。その歌声を聞いて、井森は林に言った。
 「わかったよ……」と。
 林はキョトンとした表情で井森を見つめた。
 
 林はその日、本庁に戻ると、今回の事件についての報告書を書いた。むろん、それは井森の推理を元にした報告であった。警察上部が信じるか信じないかは別にして、井森の話を聞いた林には確信があった。
 ――今回の殺害後の遺体移動についてご報告します。
 隅田家は三百年を超える旧い邸宅です。私の友人に調査をしてもらったところ、こうした家には座敷わらしが住み着いていることが稀にあると言い、家屋の近代化と共に、その座敷わらしが追いやられ、唯一昔のまま残されている塀に移動したのではと、その者は申しております。
 ご存じのように、座敷童伝説は岩手県に多く残されており、関西では非常に珍しいものですが、まったくみることが出来ないかというと、そうでもないようです。
 家人が気付いたかどうかは別にして、この座敷わらしは今までも時折、家人に悪戯を重ねていたと思われます。座敷わらしというのは、本来そういうものですから。
 今回の遺体の移動も、私の友人はその座敷わらしのしわざだと断言しています。
 実際、私の友人は家屋を取り囲む塀の中で座敷わらしの歌を聞いています。座敷わらしは遺体を見つけて、その遺体に悪戯をしようとして移動させたものと思われます。
 こういう報告をすると、全く科学的根拠のない話としてお叱りを受けるかも知れませんが、そう考える以外、今回の遺体の移動についての解答が出ません」
 
 上部がどう判断したかどうかについて、井森は林に何も聞いていない。ただ、林からはその後、新たな事件についての相談は受けていない。
〈了〉

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