野良猫娘

高瀬 甚太

 昼下がりの喫茶店、けだるい空気が店内に充満していた。ふと目を上げると、柔和な目をした中年男性が、私の前に立っていた。目立ってハンサムというほどではないが、優しげな微笑みは十分魅力的に見えた。男は、コホンと小さな咳払いを一つして、私に聞いた。
 「今回の企画を立てられた、編集部の方ですね」
「ええ、そうです。私、編集長の小山内と申します」
と、答えると、男性は安堵したかのように椅子に腰をかけ、笑顔を漏らした。
「お金は不必要だと聞きましたが本当ですか?」
と聞くので、
「お金は必要ありません。でも話をお聞きして、お断りする場合があります。それでよろしければ――」
と答えると、男性は、
「大丈夫です。よろしくお願いします」
と答え、頭を下げた。
「愛と恋」についての雑誌企画だった。募集すると、意外にもたくさんの応募者が現れた。あまりにもたくさんの応募だったので抽選にした。当たりはずれが多いのは覚悟の上だった。男性に録音することを断り、話をスタートさせた。

 ――小池隆一と申します。つい先日、三十五歳になりました。生まれは岐阜で、育ったのは奈良県の山城という町です。中学校の時に大阪へ引っ越し、以来、大阪の中学、高校を出て、大学は大阪大学へ進みました。大学を出て、大学院に入り、途中で大手製薬会社に就職しました。現在もその会社で働いており、研究開発課に勤務しています。何の変哲もない人生ですが、そんな私の人生の中で、一つだけエポックともいえる事件がありました。これからお話しするのは、主にそのことについてです。

 二十八歳の年、自宅を離れて、ワンルームマンションを借りて住むようになりました。ワンルームと言っても一部屋十二畳はある、わりと大きな部屋です。それでも、テレビや衣装棚、ベッドやソファを置くと、それほど広くは感じませんでしたが――。
 六月終わりの梅雨の日のことです。会社を終えて帰宅途中、食事をするために『カナリア』というファミリーレストランに立ち寄りました。ステーキランチが評判の店で、常に店内は満員という店でしたので、すぐに席が取れるか心配でしたが、その日は、雨で、しかもひどい降りだったこともあって、幸運にも空いていました。
 窓際に席を取り、ステーキランチを注文し、ドリンクバーで飲物を、サラダバーでサラダを取り、席に戻ると、私の席に、髪と服を濡らした若い女性が座っていました。見知らぬ女性でした。私は思わず、席を間違ったかな、と思い、見直しましたが、間違いなく私の席です。
 「失礼ですが、その席は私の席ですが」
 女性に席を立つよう促しましたが、女性は濡れた体のまま、じっと窓外の景色を眺め返事もなく、動こうともしません。四人掛けの席です。仕方なく私は女性と対面する席に移動しました。先ほどまでガランとしていた店内が、雨が小降りになるに従って、次第に混雑し始め、いつの間にか満席になりました。
 ステーキランチが届きました。ボリュームのあるステーキが熱々の鉄板に盛られ、ライスは別の皿に盛られています。ステーキにナイフを入れると肉汁が噴きだし、ジューツと香ばしい匂いが漂いました。その時、窓外を眺めていたはずの女性が、じっと私のステーキを物欲しげに眺めているのに気づきました。女性の視線が気になり、食べるに食べられません。そこで、女性に尋ねました。
 「注文しているの?」
 女性は私のステーキを注視したまま、「していない」と答え、喉をゴクリと鳴らしました。
「 ステーキランチでいいかな? ご馳走するよ」
 女性の顔が大きくほころびました。
 ウエイターを呼び、ステーキランチを注文し、
 「濡れたままでいると風邪をひきますよ」
 バッグからタオルを取り出し、女性に手渡すと、女性はお礼も言わず、タオルを手に髪の毛を拭き始め、顔や体を拭きました。俯いていた時は、三十過ぎかなと思ったのですが、髪の毛を拭き、顔を拭くと、想像よりずっと若いことに驚かされました。
 持って来たサラダを女性に手渡すと、今度はフォークを使って、そのサラダを一瞬のうちに食べてしまいました。
 「川崎あかね」
 サラダを食べながら女性がひとり言のように言いました。
 「えっ?!」
 聞き直すと、
 「私の名前は川崎あかね」
 と答えます。
 よく見ると、川崎あかねは十代のようにも見えました。瞳の大きな、まるでネコを思わせるような女性でした。
 「家は?」
 と、尋ねると、女性は大きく首を振ります。
 「家がない?」
 再び聞くと、
 「逃げて来たの」
 と答えます。ずいぶん雨に濡れて、ここまで来たのでしょう。タオルで拭いても追いつかないほどの濡れようで、あかねの唇が紫色に変色し、小刻みに震えています。
 気になってあかねの額に手を当てると、焼けつくように熱い。かなりの熱です。
 「どこへ行こうとしていたの?」
 と聞くと、
 「どこへも行くあてがない」
 とそっけなく答えます。このまま放っておくわけにもいかない。そう思った私は、
 「そう広くないところだけれど、私の家に泊まりますか?」
 と、聞きました。あかねはじっと私を見つめています。年が離れていても男と女です。きっと不安だったのでしょう。
 「大丈夫だよ。何もしないから」
 安心させるように言いました。すると、あかねは、コクリと頭を振り、ふらつきながら立ち上がりました。その華奢な肩を抱くようにして席を立ち、支払いを済ませてタクシーを呼ぶと、いつの間にか雨は上がっていました。
タクシーの車内で、彼女はフッと熱い息を吐くと、そのまま眠ってしまいました。ファミリーレストランからマンションまでは車で5分ほどの距離です。
 彼女を担ぐようにしてエレベータに乗り、七階に着くと、一番奥にある私の部屋に急ぎました。鍵を開け部屋に入ると、まず、部屋を暖かくしました。バスにお湯を入れ、湯船の中にあかねを浸け、身体を温まらせた後、大きなバスタオルであかねの髪の毛や体を拭いてやりました。あかねの白い美しい肢体はまるで童女のように幼くみえ、一体、この子はいくつなのだろうかと不思議に思ったものです。ベッドに入ると、あかねはウンウンと唸り声を上げ、深い眠りに就きました。
 あかねは着の身着のまま、バッグすら持っていませんでした。素性がわかれば連絡をして引き取ってもらおうと思ったのですが、彼女は素性がわかるものを一切、身に付けておらず、ともかく、目を覚ますまで待とうと思いました。
 あかねが目を覚ましたのは、午前二時を過ぎた頃です。熱はすっかり冷めたようで、上気した顔でベッドの中から顔を覗かせると、素裸でいることに気付き、私が何かしたのではと疑心に満ちた目で私を見ます。
 「心配しなくていいよ。長時間雨に打たれて体が冷え切っていたので、風呂に入れ、ベッドに寝かせただけだ。何もしていない。困ったのは衣服だ。濡れていて着ることが出来ない。少し大きいが、私のトランクスとパジャマで我慢してくれ」
 トランクスとパジャマを手渡すと、あかねは毛布の中でそれを着た。
 「お腹が空いてないか?」
 着替えたあかねに聞いた。あかねはウンと答えて大きく頷いた。
 「インスタントものしか出来ないが、スープとチャーハンを用意する。それでいいか?」
 あかねは、ニッコリ笑って大きく頷いた。初めてみるあかねの笑顔だった。
 「今日はもう遅いから、そのベッドで眠るといい。明日、私は八時にマンションを出る。その時、きみも一緒に出るといい。それで私たちはお別れだ」
 ソファに横たわって言うと、あかねは何も言わず毛布を被った。
 年はいくつなのか、これまでどんな生活をしてきたのか、両親は健在なのか――。尋ねたいことは山ほどあったが、結局、何も聞かずじまいにその日は眠った。
 午前六時半に起床し、コーヒーを淹れ、パンを焼いた。
 「起きろよ」
 毛布を軽く叩くと、あかねの声がした。
 「もう少しだけ、ここへ置いてほしい」
 せつない声がした。私は、
 「だめだ。一緒に出るんだ。きみは自分の住まいに戻れ」
 冷たく言い放つと、毛布の中からしのびなく声が聞こえてきた。
 「帰る家なんてないの。どこにもないの。お願いもう少しだけ、ここに置いて」
 あかねはまるで野良猫のようだと思った。無理やり追いだすわけにもいかず、仕方なく私は折れた。
 「じゃあ、今日だけだ。今日中に行先を決めなさい」
 と言い捨てて、マンションを出た。正体不明の女性を家に置いておくなど危険きわまりないと思ったが、仕方がなかった。部屋の中のものが盗まれたら、それはそれで仕方がない。そう思ったが、それでもやはり気になった。
いつもは定時を超えて二時間ほど残業をするのだが、この日は、あかねのことが気にかかって定時で仕事を終え、そのまま帰宅した。途中、晩ご飯のために弁当を買おうと思ったが、甘やかすのもよくないと思い直し、何も買わず帰宅し、ドアを開けた。
 何ともいえない甘酸っぱい匂いが充満していた。どうしたのかと思い、部屋に入ると、男物のパジャマを着たあかねがキッチンに立って料理を作っていた。
 「何を作っているんだ?」
 あかねは、フライパンを手に笑顔で答える。
 「野菜と卵の炒め物。だって冷蔵庫に何も入っていないんだもの」
部屋の中がきれいに片づけられている。ベランダには、私の衣類がきれいに洗濯されてぶら下がっていた。
 「掃除や洗濯、料理を作る暇があったら、家に戻る準備をしておけばいいのに」
 嫌味を言うと、あかねは、
 「すみません。私、洗濯や掃除、料理が好きなんです」
 と、気に解せずにこやかな顏で答える。頭のてっぺんでまとめた髪の毛、化粧っ気のない顔、瞳が大きく、顔が小さい。昨日はそうは思わなかったが、よく見ると、美人でしかも可愛い。
 「用意が出来ました。テーブルの前にお座りください」
 椅子に腰をかけると、あかねが料理を運んできた。大きな皿にキャベツを中心に、ニンジン、モヤシなど豊富な野菜の炒め物が飾られていて、別の皿には、ハムエッグが置かれている。ご飯を持った茶碗が置かれ、箸を手渡しながら、あかねが言う。
 「どうぞ、何もできませんでしたが、食べてください」
 「おれは野菜が嫌いなんだ」
 不満を漏らすが、あかねは私の言葉などまるで気にせず、じっと私が食べる様子を見つめている。
 野菜炒めに箸をつけ、口に頬張ると、胡椒が利いていて実に美味しい。味付けをどうしたのか、私の好きな味付けだった。途中、気が付くとあかねは何も食べず、私の食べる様をニコニコと笑顔を浮かべて見つめている。
 「きみはどうした。食べないのか?」
 私が聞くと、あかねは、
 「材料が足りなくて、一人前を作るのが精一杯。私は何でも食べるから大丈夫」
 笑顔を絶やさずに言う。
 私は箸を置き、あかねに言った。
 「おれ一人だけ食べても美味しくない。お前も食べろ」
 あかねは素直に茶碗にご飯を盛り、取り皿を置くと箸を手にした。
 「遠慮なく食べろ。足らなければ、おれが食べに連れて行ってやる」
 あかねは野菜炒めを口にしながら、首を振った。
 「もったいないからいいよ。私、これだけで十分」
 確かに野菜炒めの量は半端ではなかった。あかねは、私が残すだろうことを予測して、残れば自分が食べるつもりでいたのだろう。
 食事が済むと、あかねはすぐに後片付けを始め、食器類を洗い始めた。その後ろ姿を見ていると、不恰好な男物のパジャマが哀れに見えた。あかねの服はすでに乾いていたが、その衣服さえもあかねには不似合いなように思えた。
 「明日、午前中に服を買いに行こう」
 あかねが振り返って怪訝な表情で私を見た。
 「服って、誰の服?」
 「決まっているじゃないか。きみの服だよ。遠慮はいらないよ。おれからのプレゼントだ」
 てっきり喜ぶと思ったが、そうではなかった。
 「私のことならいいよ」
 ぶっきらぼうに言って、食器を洗う手を止めない。
 「明日、家に戻るんだろ。せめて服ぐらいプレゼントさせてくれ」
 「帰る家はないけど、私、明日、ここを出て行きます。お世話になって本当にありがとうございました。衣服は、気持ちだけいただいておきます」
 食器を洗い終えたあかねが、笑顔で答える。私は何とも答えることができず、そのまま黙った。
 テレビが、お笑いタレントたちのバカ騒ぎを映しだしていた。何の面白味もない。ソファに座って、テレビを何となく見ていると、同じようにソファに腰かけていたあかねが、話しかけてきた。
 「小池さんて、やさしい人ですね」
 「おれがやさしい? やさしくなんかないよ」
 「身も知らない私を二日間も泊めてくれたわ。それだけで十分、やさしい。だって私、嬉しかったんだもの。今日、一人になって考えたの。これ以上、小池さんに迷惑をかけるわけにはいかないって。明日、朝、小池さんが目を覚ますまでに私、ここを出て行きます」
 私はあかねの言葉に反応せず、反対に聞いた。
 「戻る家がないと言っていたけど、どういうことなんだ? よければ話してもらえないか」
 「……」
 「気を使わずに話してみろよ。聞きたいんだ」
 あかねは、俯いたまま、しばらく黙っていたが、顔を上げると、決心したかのように少しずつ話し始めた。
 「私の両親が交通事故で亡くなったのは私が中学二年生の年だったわ。一人っ子の私を、母の兄である伯父さん夫婦が引き取ってくれることになった。伯父さん夫婦には子供がなくて、私をずいぶん可愛がってくれた。でも、中学三年生になった時、異変が起きたの。叔母が勤め先の慰安旅行で二日間家を留守にして、伯父と二人きりになったことがあった。その夜のこと、気が付くと伯父が私の寝床に忍び込んで来て、寝ている私を襲ったの。私は恐怖と世話になっているという恩もあって抵抗することが出来なかった。次の日、伯父は当たり前のように再び私を襲い、叔母が帰ってからも、叔母の目を盗んで度々、私を襲うようになったわ。私には伯父が悪魔のように見えて怖かった。
 家を出たのはそれからすぐ後のこと。これ以上、家にいて伯父の餌食になることに耐えられなかった。家を出た私は、年齢を二十歳と偽って、男たちを相手にする水商売の仕事をするようになった。十五歳になって間もなくの私は、エロい男たちを相手にする仕事に慣れず、店のママから売春を強要されて、とうとう我慢ができず、三カ月足らずでそこをやめたわ。
 次の店は少しマシな店のように思えた。住まいも提供してくたし、働く人たちも親切だった。客に酒を呑ませ、時には売春すれすれのことをするけれど、店から売春を強要されたことは一度もなかった。その店で働いていた英二と言う十八歳の男と付き合うようになったのは自然の成り行きだったわ。私は無性に寂しかったの。普通の女の子のように高校へ行きたかったし、クラブ活動や他愛もないお喋りをしたかった。だけど、そんなことはいくら望んでも無理だとわかっていた。英二は乱暴者だったけれど、私にはやさしくしてくれた。つかの間だったけれど、その時の私は幸せだったと思う。英二が暴力団とのいざこざで刺殺され、そのことがきっかけで店が警察の手入れを受けたの。私が十七歳の時だった。店には私のように未成年の少女がたくさん働いていて、未成年を風俗で働かせた罪で店主が摘発された。私たちは警察から逃げるようにして店を飛び出したわ。
 水商売で働こうと言う気はもうなかった。何か仕事を見つけなければと思ったけれど、中学も満足に卒業しておらず、住まいも持たない私にできる仕事など、何もなかった。真剣に自殺を考えたけれど、自殺さえ満足にできなかったわ。何日も放浪して雨に打たれ、空腹もあってフラフラとレストランに入り、小池さんの席に座り込んだ。どうせすぐに追いだされる、そう思っていたのに、小池さんは私にステーキをご馳走してくれた。おまけに高熱を出した私を家に連れて帰り、寝かせてくれた。
 熱が収まれば私を襲ってくるのだろう、そう思って覚悟していた。男ってみんなそうだと思っていたから――。でも、小池さんはそうじゃなかった。私は久しぶりに居心地のいい場所にやって来た。そう思って感謝していた。何か恩返しをしたいと思ったけれど、無一文の私には何もお礼ができない。せめて掃除や洗濯をしてご飯の用意をしたい。そう考えて、小池さんの帰りを待った。私、この二日間、本当に楽しかった。小池さんにはとても感謝しているわ」
 悲惨な話であるにも関わらず、あかねの表情は明るかった。それにしても十七歳とは思わなかった。まだ、子供ではないか。
 「ここを出て、どこへ行くつもりだ?」
 あかねは、ソファの上で膝を抱え、
 「大丈夫よ。昨日は病み上がりということもあって気弱になっていたけれど、今は大丈夫。小池さんに会ったおかげで元気になったわ」
 無邪気に言うあかねを見て、私は心が痛んだ。
 相変わらずテレビは、毒にも薬にもならない番組を無駄に流し続けていた。テレビを消してあかねに言った。
「 明日、ここを出て行かなくてもいい。きみの仕事が見つかって、ちゃんとしたところに就職できるまで、ここにいたらいい。仕事探しは、私も協力する」
 「でも、それじゃ……」
「勘 違いするな。同情して言っているわけじゃない。この二日間、野良猫が舞い込んできて――、実は私も野良猫といることが楽しくなっていた。急にいなくなれば、寂しくてたまらなくなる。それだけのことだ」
 あかねは、ソファの上で、猫の動作をして「ニャーオ」と鳴く真似をした。
私 が笑うと、あかねはソファから下り、カーペットの上で「ニャーオ」と鳴いて、背を丸くして転がった。二日一緒にいただけで、いつの間にか、私はあかねという少女の虜になってしまった。
 あかねに、風呂へ入ってベッドに入って眠るように言うと、あかねは素直に従った。あかねが風呂から出て来るのを待って、それと入れ替えに私が入ると、扉の向こうからあかねの声がした。
 「小池さん、背中を流してあげるね」
 断ろうとしたが、すでにあかねはドアを開けて入り、座っている私の背中を洗い始めた。
 「いいんだよ。そんなことしなくて」
 私の言葉など聞こうともせず、背中を流し始めたあかねは、シャワーを私の髪の毛に振りまき、シャンプーで私の髪を丁寧に洗い始めた。続いてリンスで髪を整えると、今度は私に立って、自分の方を向くように言う。驚いた私は、照れもあって断ろうとしたが、あかねはそれを許さず、首筋、胸、腕、足と丁寧にスポンジで洗い、私がタオルで隠している部分を指さして、「そこだけは自分で洗ってくださいね」と言った。
 風呂から退けをバスタオルで噴き上げると、今度は私の全身を丁寧に吹き、下着をバスタオルで噴き上げると、今度は私の全身を丁寧に吹き、下着を脱がせ、ドライヤーで頭を乾かした。
 あかねをベッドに寝かせ、ソファの上に身を横たえようとすると、あかねが言った。
 「一緒に寝て。それでないと私、安心して眠れない」
 「おれはここでいい。ゆっくり眠りなさい」
 だが、あかねは納得しなかった。ベッドから起き上がると、私の手を引っ張って、ベッドへ誘う。その力に根負けした私は、仕方なくベッドの中に身を沈ませた。幸い、ベッドはダブルベッドだ。二人で寝ても十分な広さがあった。
 「電気を消すぞ」
 あかねに向かって言うと、あかねが「うん」と頷いた。
 電気の消えた暗い部屋の中で私は、あかねに背を向けて眠りに入ろうとした。しばらくして、あかねが背中から私を抱くようにして言った。
 「小池さんは私が嫌いなの?」
 「……」
 あかねの問いに答えず、私は聞こえていないふりをして毛布を被った。
 「嫌いなら言ってください。私、出て行きますから」
 仕方なく私は、あかねの方を振り返って言った。
 「嫌いなことはない。きみは可愛くてとてもいい娘だ。これまでずいぶん苦労しただろうが、そんなこと、いつまでも引っ張っていないで、新しい生き方をするべきだとおれは思う。おれはそのためにきみを応援をするつもりだ。そんなおれがきみをガッカリさせるような行為をするわけにはいかない」
 突然、あかねが私に抱きついて来た。抱きついて大声で泣き始めた。
 「どうしたんだ?」
 私が聞くと、あかねはさらに強い力で私を抱き締めた。あかねの心の奥に内在する深く哀しいものが私の心臓部を直撃した――。

 両親が離婚し、年の離れた妹と離れ離れになったのが小学生の時だった。私は父親と共に住み、転勤の多い父親に従って、岐阜から奈良、大阪と移り住んだ。母と妹の消息を知りたくて、何度か父に尋ねたが、一切を秘密にしていた父は、いくら聞いても、離婚の詳細を話さず、母の所在地さえも私に話さなかった。
 どのような理由で別れに至ったのか、未だにわからない。母の存在も妹の存在も幻のままだ。二年前の冬、父は肺炎をこじらしてこの世を去った。その時も、母親と妹に知らせたくて、親戚中、聞きに回ったが、誰も教えてくれなかった。
 三十五歳まで独身を通して来たのは、多分、幼い頃、両親が離婚したことがトラウマになっていたせいだと思う。これまで女性と交際して来なかったといえば嘘になるが、結婚を意識する女性に出会わなかったことも事実だ。

 翌朝、私は目を覚ますと、慌てて周囲を見渡した。隣で眠っていたはずのあかねがいなかった。バストイレにもおらず、キッチンにもいない。いつの間に出て行ったのだろうか、後悔の念が私を襲った。昨夜、私は、嗚咽するあかねを抱き締め、涙に濡れた頬にキスをし、唇に触れた。そして、私は、そのまま、あかねと身体を一つにした。
 何と言うことをしてしまったのか――、後悔をしてもあかねが出て行ってしまった後では遅かった。
 ベッドの上で傷心した思いでうなだれていると、カーテン越しに光が差してきた。窓を開けて朝日を眺めると、自然に涙が溢れ出てきた。
 ――その時、不意に声がした。
 「ただいま」
 あかねの声だった。慌てて玄関を見ると、コンビニの袋を抱えたあかねが立っていた。
 「どこへ行っていたんだ。心配したぞ」
 コンビニの袋をテーブルの上に置きながら、あかねが申し訳なさそうに言った。
 「朝食を用意しようと思ったんだけど、パンも卵もハムすらなくて、コンビニに買い出しに行っていたの。ちょっと待ってね。今から用意をするから」
 あかねは慌ただしく朝食の用意を始めた。

 男はそこまで話した後、深く礼をして、
 「私の話は以上です」
 と言い、立ち去ろうとした。私は驚いて彼に尋ねた。
 「あかねちゃんとはその後、どうなったのですか?」
 男は、神妙な顏をして立ち止まると私を見て言った。
 「あかねは小池あかねとなり、私の妻になりました。結婚をしたのは、出会って三カ月後、ささやかな式を挙げて、新婚旅行に台湾を旅しました。拾った野良猫がいつの間にか、家にいついた、そんな感じですかね。でも、私は今、とても幸せですが――」
 「幸せですが――とはどういうことですか?」
 男は小さな笑みを浮かべて私に言った。
「もうすぐ赤ちゃんが生まれます。赤ちゃんにあかねを奪われそうで心配で――」
 「大丈夫ですよ。新しい幸せがやって来ますよ」
 私が応えると、男は深く礼をして店を去った。
<了>


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