はちきん駒子の愛しい人

高瀬 甚太

 「このスケベェ、あたいのお尻を触るなんざ、十年早いよ」
駒子が笑っていなすと、隣に立っていた定年間近のサラリーマン、柳井浩平がバツの悪そうな顔をして、すごすごと手を引っ込めた。
 「お駒さん、あんたの傍にいたら、柳井さんじゃなくても手が出てしまう。あんたは罪作りな体してるよ、ほんとに」
 お寺の坊主、新開和尚が舐めるような視線を駒子に送り、しみじみと言う。
 駒子は三十代半ば、肉感的なボディとグラマラスな姿態、とびっきりの美人というわけではないが、愛嬌のある駒子の顔は、大人の女の色気を充満させて性的な魅力に満ちあふれていた。
 「こんな店に来なくても、お駒さんならいくらでもいい店に行けるのに――」
 えびす亭は立ち呑みの店だ。酒も酒の肴も安く、店も小汚い。やって来る客も、安酒を呑みに来る客がほとんどだ。常に押し合いへし合い、オッサンたちがヘラヘラ笑って酒を呑んでいる。そんな店になぜ、駒子がやって来るのか、客たちは不思議に思っていた。
 「好きなんだよ。この店が。それだけのことだよ」
 焼酎を呷りながら駒子が言う。豪快に酒を呑む、駒子のその呑みっぷりに客たちは見とれてしまう。絵になる女だ、愛人にしたい女だ、オッサンたちの多くが駒子を見て思う。だが、誰も、駒子を口説かない。男勝りの駒子の反撃が怖いからだ。
 駒子にはきっと男がいる。誰もがそう信じていた。あんないい女、男が放っておかない。誰もがそう思っていた。だが、駒子は、えびす亭にやって来ても、何一つ、自分のことは語らない。だから、男たちにとって駒子は、ずっと謎の女のままだ。

 三月の少し肌寒い日のことだ。駒子は曇天の空を見上げ、家路を急いでいた。駒子の仕事は、朝三時に始まって、午前中に終わる。中央市場で働くようになって五年を数えるが、休んだことは一度もなかった。
 「あんたぐらいの器量だったら、こんなところで働かなくてもいくらでも稼げるところがあるでしょう」
 と市場で働く年配の女性たちがその言葉をよく口にしたが、駒子は、
 「ここが好きなんです」
 と、言って、まるで意に介さない。
 駒子が市場で働くようになったのは、三〇歳を迎えて間もない時期だった。
 駒子と所帯を持つ約束をしていた川島五郎という男がこの頃、市場で働いていた。川島はよく働く男だったが、ギャンブル好きがたまに傷で、そのため、金が溜まらず、駒子との結婚が遅れていた。
 「お金が溜まるまで待ってくれ」
 川島は、駒子の顔を見るたびにそう言ったが、駒子は、金のことなど、どうでもよかった。川島と一緒に暮らせればそれでよかったのだが、川島は、男の面子が立たない。そう言って結婚を延ばし延ばしにしていた。
 川島は鮮魚の仕事をしていて、駒子と会うたびに、市場の様子を面白おかしく話して聞かせた。それが駒子の市場に対して興味を持つ、きっかけになった。
 その頃、駒子は、普通のОLをしていて、中規模の商社の総務課で働いていた。十年近く勤めたが、駒子は総務課の仕事に興味が持てずにいた。何の面白味もない仕事をしているうちに、いつしか川島の働く市場で働きたいなあと思うようになったのだ。
 駒子は川島に、三〇歳になるまでに結婚したいと伝えていた。川島も、必ずそれまでには結婚すると駒子に約束をしていた。その川島が、ギャンブルの借金が元で、突然、飛んでしまい、行方不明になった。駒子が三〇歳になる一カ月前のことだった。
突然 、川島が行方不明になったのだ。その報せを聞いて、駒子は何度か市場に出向いた。市場へ行くたびに、駒子は、さらに市場の仕事に興味を持つようになった。市場の持つ独特の雰囲気に惹かれた駒子は、そのままそこで働くようになった。
 長年勤めた会社を辞めて、市場で働くようになったのには、そういう事情があった。
 川島は、特別ハンサムでも、スタイルがいいわけでもなく、ごく普通の男である。取り立てていいところなどないように思えたが、見かけにこだわらない性質の駒子は、高知生まれで一途な性格の川島のことが気に入っていた。何よりも、駒子の初恋の人に似た雰囲気を持っていたことが駒子の気を引いた。
 これまでも、駒子に言い寄る男は数知れずいた。その中には年上の既婚者もいたし、同世代の男もいた。何よりもフィーリングを重視する駒子は、さまざまな男たちとデートを重ねる際も常にそのことを気にしたが、駒子とフィーリングがぴったり合う男は誰一人としていなかった。
 川島と初めて会ったのは、友人に誘われて行った高地県人会のパーティ会場でのことだ。その時、駒子は、先輩に紹介されて川島と挨拶を交わした。駒子は川島に何の興味も示さなかった。タイプではないと思ったからだ。ところが、二言三言、話すうちに、川島の醸し出す雰囲気、言葉に、駒子は、なんとも言えない懐かしさを感じた。高校時代、付き合っていた男の話し方によく似ていたからだ。
 人を好きになるのに特別な理由などいらない。好きになったら一直線、それが駒子の恋愛スタイルであった。
 高知の女性は、俗に「はちきん」と呼ばれることがある。「はちきん」とは、土佐弁で、男勝りの女性を指し、快活ではっきりした物言い、行動をすることで知られている。気が良くて、おだてに弱く、一本調子、進み出したらイノシシのごとく前に進むのみ、後ろは振り返らない。
 そんな「はちきん」の駒子だから、一度、点火したら、とことん燃える。それが川島への愛につながっていた。
 川島が行方不明になった後、駒子が市場で働くようになったもう一つの理由に、市場にいたら、必ず川島は帰って来る。その思いも駒子の中に少なからずあった。
 「水商売の世界へ入れば、こんなしんどい思いをしなくても、駒子さんなら大金を稼げるのに」
 市場の人たちはそう言って、駒子に水商売に進んだ方がいいと勧めることがあったが、駒子は、見かけとは裏腹に、水商売が好きではなかった。男に媚びを売ることを駒子は大の苦手にしていた。
 一年経っても二年経っても、川島は帰って来なかった。その間、何の連絡もない。駒子は、川島のことをあきらめようと決心した。前進し始めたら止まらない代わりに、一度止まったらあきらめるのは早かった。
 そんな駒子が、えびす亭に通うようになったのは、市場で働く梅ちゃんという女性に誘われたのがきっかけだ。
 初めて行ったえびす亭で、客から名前を聞かれ、
 「前園駒子ですが、それが何か?」
 親しく話しかけてくる男を睨みつけるようにして言った。
 「いいねえ、その目が」
 男は、怖気づくどころか、駒子の厳しい視線を喜び、
 「駒子さんか、雰囲気からいっても、あんた、お駒さんといった感じや。これからお駒さんと呼ばせてもらうわ」
 男は勝手に呼び名を決めて、一人悦に入った。それを見た店の面々が、それ以来、「お駒さん」と駒子のことを呼ぶようになった。
 子供の頃から学生時代、ОL時代に至るまで、そんな呼び名で呼ばれたことがなかった駒子は面食らってしまった。でも、そう呼ばれるのも悪くはないなと後から思った。えびす亭の客たちの誰もが、親愛の情をこめて、そう呼んでくれているのだ、ということが何となくわかったからだ。

 駒子の父親は漁師で、大の酒好き、大酒呑みだった。だが、酒に呑まれたことは一度もなかった。どんなに呑んでも毅然としていて、酔っぱらって大暴れをしたり、人様に迷惑をかけることなどなかった。駒子はそんな父が子供の頃から大好きだった。
 駒子が初めて酒を口にしたのは、二歳になってまもなくの頃だ。
 「駒子、酒を注げ」
 父親に言われて、両手に徳利を抱えながら、空っぽのグラスに酒を注ぐと、
 「お前も呑め」
 と言って、父が駒子にグラスを渡した。父親が駒子のグラスに酒を注ぐ。注がれた酒を見て、二歳の駒子は戸惑いを隠せなかった。グラスを手に持ったまま、じっと見つめていると、父が言った。
 「女も酒に強くならないとだめだ。今から鍛えておけば酒に呑まれることはなくなる」
 それが父の理屈だった。その日から、駒子は父の晩酌の相手をするようになった。
 「駒子、酒を呑んで、酒に呑まれるような、だらしない男を好きになったら駄目だぞ。好きになるなら、酒の呑めない下戸か、酒に呑まれない男にしろ」
 父親の口癖だった。そんな父親が好んで通っていた立ち呑みの店が家から少し離れた場所にあった。その店は、えびす亭にとても雰囲気が似ていた。父親のお供をして駒子もその店によく出かけた。常連が多かったせいか、誰もが気軽に父に声をかける。駒子にもよく話しかけてきた。えびす亭に初めて入った時、駒子は、その店のことをふと思い出し、懐かしい思いにかられた。以来、駒子は、えびす亭に足しげく通うようになったというわけだ。
 駒子は、高校を卒業して、これまで五人の男と付き合ってきた。見かけを気にしなかった駒子は、自分の感性にビンビン響いてくるような男を好んで好きになった。だから、中にはろくでもない男もいた。いや、ろくでもない男がほとんどだったと言った方が正しいかも知れない。それほど駄目な男たちが多かった。駒子がしっかりしているから、男は駄目になってしまうのだ、そう忠告されたこともあった。
 川島だけはそうではないと信じていた。川島は酒が好きでよく呑むが、決して酔っぱらったことがない。その点は父親と一緒だった。非常に楽しく酒を呑む。駒子はそれが好きだった。仕事は真面目にやる川島だが、意志の弱いところがあった。ギャンブルに誘われ、嵌ってしまったのも、そんな川島の性格が災いした。
 だが、悪いところばかりではなかった。川島には、いいところもたくさんあった。川島が自分のことを心底愛してくれていることを駒子はよく知っている。ギャンブルで借金漬けになってからも、川島は一度たりとも、駒子に金を貸してくれと頼んだことはなかった。結果的に破綻したが、川島の結婚に対する気持ちに嘘はなかったと駒子は信じている。
 川島は、駒子との結婚を夢見て、必死になって頑張った。そんな川島が、自分に一言の挨拶もなく、消えてしまったことが、駒子には不思議でならなかった。
 一時は、川島は誰かに騙されたのでは、と思ったことがあった。そうでなければ、いくらギャンブルに嵌っていても、数千万円という借金をするはずがない。
 不思議だったことがもう一つあった。消えた川島の行方を追う連中の中の誰一人として、駒子の元を訪ねて来る者がいなかった。普通、婚約していたら、行方を知っているだろうとか、代わりに借金を返せといった追込みが、駒子の元にあっても不思議はなかった。それが誰も追込みをかけて来ない――。
 川島は、そういった連中に、駒子のことを明かしていなかったのだ。それが川島のせめてもの駒子に対する思いやりだったのだろう。川島を思う時、その思いやりの気持が、常に駒子の胸を熱くした。
 川島が駒子の目の前から消え、誘いをかけてくる男、交際を申し込んでくる者は少なからずいたが、駒子は誰とも付き合わなかった。川島に対する恋慕の情が邪魔をしているというよりも、川島を超える存在に出会えなかったことが大きかった――。

 八月の半ば、お盆休みを利用して、駒子は故郷の高知へ帰ることにした。三年ぶりの帰郷であった。
 高知県は、東西に長い四国の南部の地で、太平洋から四国山地の尾根までの範囲を指す。海の国のイメージが強い高知県だが、そのほとんどが海の近くまで山が迫る典型的な山国である。太平洋の黒潮が高知県沖を流れており、気候は温暖多雨、毎年、台風の襲来に悩まされる土地柄で、台風の上陸回数は鹿児島県に次いで二番目に多い。
 駒子は、高知市の海に近い町で生まれ、高校を卒業するまでその町で育った。三歳上の兄がいるが、名古屋で会社勤めをしており、所帯を持っているせいか、ほとんど会う機会がなく、四年ほど顔を合わせていなかった。故郷の家では、今年七十二歳を迎えた年老いた父親が一人で暮らしていた。
 時折、電話などで様子を窺う程度で、父親の顔を見るのは三年ぶりのことだった。平屋建ての昔ながらの木造の家、築五十年は経っていたが、頑丈な造りのせいか、傷みは少なかった。お蝶は、この家のガラス戸の前に立つと、妙な懐かしさを覚え、いつも胸がキュンと鳴った。ガラス戸は一度ではスーッと開かない、ガタピシ、ガタピシ、何度か音を立てて、ようやく開けることができる。
 「ただいまー!」
 二度ほど、「ただいま」を繰り返して、ようやく奥から父親が出て来た。案の定、酒を呑んでいる。酒の臭いが半端ではなかった。
 「駒子か、まあ上がれ」
 父親の後に従って駒子が家の中に上がる。駒子が幼い頃から、この家は何も変わっていなかった。タンスの位置も、仏壇の位置も、小学生の頃に描いた兄の絵がそのまま壁に飾られていて、テーブルの位置もそのままだった。
 「父さん、元気にしていた?」
 駒子が聞くと、父親は大きく首を振って、
 「もうあかん。長くない。それよりお前、結婚は?」と聞いた。
 「男はこりごりや。一人で生きて行くことにした」
 駒子の父親は、駒子の言葉を聞いて、思わずため息を漏らした。一つひとつの動作がずいぶんゆっくりとしていて、それが父親の急激な老化を駒子に感じさせた。
 「母さんとはずいぶん違うなあ」
 と言って父親が笑う。
 「母さんとは違うわよ。私は母さんみたいにはならないわ」
 駒子が怒って言う。駒子の母は、駒子が小学生の時、町へやって来たセールスマンの男と駆け落ちをして家を出て行った。それきり駒子は母親とは一度も会っていない。
 「あいつが家を出たのは、あいつだけが悪いんじゃない。わしにも責任がある」
 遠くを見る眼差しで父親が言う。何となく寂しげなその様子を見ていると、駒子は胸が締め付けら、いつも切なくなる。
 残された者はいつも寂しい。駒子の場合も同様だった。母親とは事情は違ったが、駒子もまた川島に捨てられた口だ。父親の気持が今になってみれば、よくわかった。
 「今、何をしている?」
 父親が聞いた。
 「中央市場で働いているわ」
 答えると、父親が驚いた顔で駒子を見た。
 「前の会社はどうした? やめたのか?」
 「電話で言ったでしょ。やめたって」
 漁師の父親にとって、都会での会社勤めは、よほど素晴らしいもののように思えるのだろう。首を振ってため息をついた。
 「女が市場で働くだなんて、わしには考えられん」
 と、不満を漏らした。
 「いいのよ。楽しく働いているから。それより、身体の方は大丈夫? あまりお酒を呑みすぎたらだめよ」
 テーブルに一升瓶が置かれていて、グラスの半分ほどに酒が入っていた。ほとんど酒の肴を口にしない父の呑み方は非常に危険だ。肝臓や内臓をやられる可能性があった。
 「駒子、どうだ。今晩、久しぶりに『南国屋』に行ってみないか」
 薄暗くなった外景を眺めながら、父が言った。そうだった。「南国屋」だった、と駒子は思い出す。店の構え、店内の様子は思い浮かぶのに、店名が、今の今まで思い出せなかった。
 「いいわね。行きましょう。でも、あまり呑んだらだめよ」
 駒子が答えると、父親は、これ以上ない笑顔をみせて喜んだ。
 父親と一緒に「南国屋」に行かなくなったのは小学校高学年の頃からだ。以来、一度もその店には行ったことがない。
 「駒子、行くぞ」
 駒子が作った早い夕食を食べて、風呂から上がって来た父親が、台所で洗い物をしている駒子に声をかけた。洗い物を終えた駒子が、慌てて服を着替えようとすると、
 「そのままでええ。服を気にするような場所じゃないから」
 と言って笑った。確かにそうだと、駒子も思う。店にいるのは、オッチャンかおじいちゃんばかりだ。そう思い直して、ジーパンとシャツのまま父親の後を追いかけた。
 家を出てしばらく歩くと、古びた商店街に入る。「南国屋」は、商店街の中ほどにあった。ほとんどの店がシャッターを閉めている暗い商店街の中をしばらく歩くと、赤い提灯が見えてくる。うらびれた風景だ。暖簾をくぐって中へ入ると、円形のカウンターの前で、十数人の男たちが立って酒を呑んでいる。カウンターの中の厨房で忙しく立ち働いている男が二人ほどいた。一人は店の大将らしい、熟年の男で、もう一人は後ろを向いて焼き鳥を焼いているので顔は見えなかったが、三十代半ばといったところか。
 「里やん、えらい美人つれて来て、どうした?」
 客の一人が冷やかすようにして父親に言った。
 「わしの娘じゃよ」
 怒ったような口ぶりで、冷やかした客に父が言い返す。
 客たちが、ジロジロと遠慮のない視線を駒子に浴びせた。
 「父がいつもお世話になっています」
 駒子が挨拶をしたその瞬間、カウンターの中の厨房で働いていた男が振り返って駒子を見た。
 ――その男の顔を見た駒子が、「アッ」と叫んで、思わず息を飲んだ。男も同様に、驚きの表情を浮かべ、何事か口走った。
 駒子は、あまりにも突然の出会いに、次の言葉が口をついて出て来なかった。厨房にいた男は、駒子の婚約者、川島だった。
 川島は、突然、駒子が目の前に現れたことに、戸惑いを隠せない様子だった。それでも、無理やり気持ちを落ち着け、駒子の目をまっすぐに見て、深々と頭を下げた。
 「すまなかった」
 駒子もまた混乱していた。川島が高知の出身であることは知っていたが、川島の実家はこの地域ではなかったはずだ。それなのにどうしてここにいるのか――。
 父親は、何が起こったのかわからないまでも、駒子の混乱した様子に何かを察したのだろう。呑みかけのグラスをカウンターの上に置くと、川島に向かって挨拶をした。
 「駒子の父親です」
 川島は、父親の方へ視線を向け、緊張した面持ちで、
 「川島と申します。二年前まで、お嬢さんと結婚の約束をしていた男です。わけあって、お嬢さんの元を離れました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 土下座をせんばかりの勢いで言った。
 「良太、何だったら奥の部屋で話して来い。こちらは大丈夫だから」
 二人の様子をみた店の大将が、川島の背中を押すようにして促し、駒子と父親を見て言った。
 「どうぞ、奥の方に部屋がありますから、そこでゆっくり話してください」
 店の大将が、駒子と父親に向かって言った。川島が奥の部屋へ向かうのを見て、駒子もそれに従った。しかし、父親は、ついて来なかった。
 「二人の話だ。二人で解決して来い」
 と言って、駒子の肩を叩き、残っていたグラスの酒を呑み干した。
 奥にある部屋は、大将と川島の休憩室のような、何もない畳敷きの小さな部屋だった。
 靴を脱いで、先に部屋に上がった川島が、正座をして駒子が入って来るのを待っていた。
 「急にいなくなるものやから、びっくりしたわ」
 部屋に上がった駒子は、淡々とした口調で言い、正座をして、かしこまる川島の前に座った。
 「申し訳ない。許してくれ」
 声を振り絞るようにして言う川島に、駒子はゆっくりとした口調で言った。
 「嫌いなら嫌いでかまいません。せめて私から離れたわけを聞かせてください。私、ずっとあなたのこと、心配していました。何があったのか、話してくれませんか」
 川島を責めているわけではなかった。ただ、わけが知りたい。それが駒子の純粋な気持ちだった。
 「駒子のこと、嫌いになって逃げたわけやない。ギャンブルで一攫千金を狙っていた俺に、その筋の人間が話を持ちかけてきたんや。競馬で絶対当たる方法があると――。冷静に考えたら、そんな方法なんかあるわけがない、そう思うのに、その時はそうやなかった。金を稼いで駒子と一日も早く一緒になりたい。その気持ちが先に立って、つい乗ってしまった。二十万円、投資してくれと言われた。十万円しかないと言うと、少し利子が高いが十万円、貸すと言って貸してくれた。どうせ当たったら、すぐに返せる、そう思って借りた。
 G1のメインレース、絶対当たると言われて二十万円を投資して買った馬券が外れた。たまにそんなこともあると、男は俺に説明をした。俺は、絶対当たるんやなかったんかと男に食い下がったが、あれこれと当たらなかった理由を俺に説明し、次のレースに賭けようと言って、俺をそそのかし、男は三十万円を俺に貸した。そのレース、見事に当たって、俺は大金を手にし、男に借りていた高利の金をその場で返すことができた。
 翌日、男はもっと確実に金を稼ぐ方法があると俺を誘って来た。サイコロ博奕をやっている賭場があって、そこならすぐに持ち金が五倍にも十倍にもなる、そう言われて誘いに乗った。俺の懐には競馬で勝った七〇万円があり、気が大きくなっていた。男の言う通り賭けて、すぐに持ち金が五倍に膨れ上がった。調子に乗った俺は、どんどんのめり込んで行った。結局、俺は、持ち金どころか、借金を重ねて博奕をするようになった。借りた金はいつの間にか五〇〇万円を超えていた。高利のお金だ。放っておけばどんどん増えてくる。だが、途中で気付いた。こんな馬鹿なことはもうやめよう、そう思って男に博奕はもうしないと断った。すると男は、『いいですよ、じゃあ、耳を揃えて貸した金を返してもらいましょうか』と言う。一週間で、借りたお金が倍になっていた。
 俺が抗議をすると、男は本性を見せ、追込みをかけると脅して来た。追込みをかけられると、市場のみんなに迷惑をかける、もしかしたら駒子にも迷惑がかかってしまうかも知れない。そう思った俺は、その日のうちに夜逃げをすることにした。案の定、男の仲間が見張っていたが、俺は窓から外に出て、屋根伝いに歩いて、どうにか追手の目をくらますことができた。駒子に連絡する気力もなく、俺は危険だと知りながらも、死ぬのだったら高知で死のう、そう思って故郷へ帰って来た。だが、家には戻れなかった。家に戻ると、きっと追手がやって来る。両親に迷惑はかけたくなかった。死ぬつもりでこの町へやって来て、そこで、この店の大将に拾われた――。まさか、駒子の故郷がこの町やなんて思っていなかったから……、聞き覚えのある声だと思って、振り返って本当に驚いたよ」
 話し終えた川島が、顔を上げるのと同時に、駒子の張り手が川島の顔に飛んだ。
 「嫌いになったのやったら仕方がない。でも、好きだったら、一緒になるつもりだったら、何で黙って逃げるのよ」
 駒子に殴られた頬を抑えながら川島が反論した。
 「お前に迷惑をかけたくなかった。だから、何も話さずに消えたんや」
 「目の前から好きな男が消えたんやで。あんた、私の身になって考えたことがあるのか。本当に好きだったら、包み隠さず話して、一緒に考えるのが当たり前と違うのか」
 駒子の声が涙声に変わっていた。
 「そんなことを言っても、俺は博奕で借金作って、追込みをかけられている身やで。お前までしんどい目に合わされへん」
 「借金が何や。追込みが何や。いざとなったら弁護士に相談してもいいし、場合によっては警察に駆け込んでもいい。何ぼでも方法はある。逃げたら負けや。そうと違うんか」
 川島は、駒子に反論することができなかった。確かに理不尽な借金だった。相手の罠にまんまとはまって、自分で自分の首を絞めたようなものだ。口ではあれこれ言いつくろっても、所詮はただ、追込みの手から逃げたかっただけではなかったか。
 「大阪へ戻ろう。そして、借金のこと、相談できる人に片っ端から相談しよう。ともかく、逃げてばかりいたらきりがない。そうと違うか?」
 駒子に発破をかけられた川島は、その時、ようやく大阪へ戻る決心をした。だが、その前に、恐る恐る駒子に尋ねた。
 「俺がもう一度、結婚を申し込んだら、あんた、受けてくれるか?」
 パチンと川島の頬が小気味いい音を立てて鳴った。駒子が引っぱたいたのだ。
 「そのつもりがなかったら、こんな話、するわけないやろ!」
 その日、川島は店の大将にわけを話し、駒子の父親の歓待を受け、駒子の家に宿泊すると、翌日、夜明けと共に駒子と共に大阪へ旅立った。

 ――半年が経った。駒子は相変わらず市場で働いていた。
 「あんた、お腹が少し目立って来たのと違うか? 無理したらあかんよ」
 市場で働く年配の鎌倉さんが、お蝶のお腹を見て心配げに言う。鎌倉さんは七人の子供を育てた大ベテランだ。その鎌倉さんの忠告を受けて、お蝶は答えた。
 「今月一杯で市場を退職して、家でゆっくりさせてもらいます。子供が歩けるようになったら、また雇ってもらいます。その時はまたよろしくお願いします」
 「そうか。それはよかった。あんたの父ちゃん、真面目で働き者やから大丈夫や」
 鎌倉さんの励ましを受けて、駒子は少し目立ってきたお腹をやさしくさすった。
 ――あの日、大阪へ帰ってすぐに、弁護士の元へ相談に行き、その足で、市場全体の責任者である三田村洋介の元へ相談に行った。
 弁護士に相談をすると、不当な借金だが、ちゃんとした証文のある借金であることに変わりはないから、いざとなったら自己破産するしかない、と言われた。川島はそれでも仕方がないと言ったが、駒子は、他にもっといい方法がないか、考えた揚句、三田村の元を訪ねることにした。
 三田村は、元ヤクザで、四十代前半にヤクザを廃業して、市場の仕事をし、その統率力と交渉能力、人間性を市場の人たちに認められて、三年前、市場の責任者になった男だ。
 駒子は、川島の事情をすべて包み隠さず三田村に打ち明け、どうにかならないものかと訴えた。
 「その男、どこの組のもんや?」
 と三田村は川島に聞いた。川島が組の名前を告げると、今度は、
 「あんたを嵌めた男の名前を教えてくれ」
 と言った。川島が男の名前を告げると、三田村は、
 「わかった。わしが話をつけてやる」
 と言って立ち上がり、駒子と川島の肩をポンと叩いて出て行った。
 一週間ほどして、三田村から連絡が来た。急いで川島と共に駒子が三田村の家に向かうと、川島を嵌めた男が、三田村の前に座って待っていた。
 「よう来た。二人共、ここへ座ってくれ」
 三田村に言われて、男の前に座ると、男は、どんよりと濁った眼を川島に向け、ジロリと睨んだ。
 「この男は、わしが昔、可愛がっていた後藤という男や。今回の件について、何とかしたってくれと頼むと、快く了解してくれた。そこで後藤と打ちあわせて決まった話やが、あんたに貸した元金は五〇〇万円と後藤は言っておる。これに間違いないか?」
 川島は、首を振って、「そうです」と答えた。
 「だが、よくよく話を聞くと、後藤は、あんたを騙して、お金を貸したと言っておる」
 後藤が、エッという顔をして三田村を見た。そんなことなどお構いなしに、三田村は話を進めた。
「 よくよく聞くと、発端は競馬に誘って、三〇万円を貸したところから始まっている。間違いないか?」
 三田村が川島に聞いた。川島は、自分を睨みつける後藤の視線を気にしながら、
 「間違いありません」
 と答えた。
 「そこでわしは、後藤に頼んだ。『どないや、あんたがすべて計画的に仕組んだことや。騙される方も悪いけど、騙す方はもっと悪い。ここはわしの顔を立てて、最初に貸した三〇万円で勘弁したってくれんか』と。すると、後藤のやつ、『よろしおま。それで結構です』と言いおった」
 後藤が顔を引きつらせて、三田村の腕を掴んで言う。
 「兄貴、それは殺生や。そんなことしたら、わし、小指切らなあきまへん」
 三田村が後藤の顔を睨んで言った。
 「お前、わしの言うことが聞けんのか。それやったらそれでええんやで。恐れ入りますが、と警察に届けてもええんやで」
 後藤は、口をモゴモゴさせて何かを言おうとするが、うまく言葉が出ない。
 「心配するな。お前がどうにかならんように、上の者にはわしが話をつけたる。後藤、それでええんやな!」
 まるで蛇に睨まれたカエルのように、後藤が、「へい」と言って頭を下げた。
 「以上や。駒子さん、三〇万円都合して、後藤に渡してやってくれ」
 と言った後、川島を睨みつけて言った。
 「こらっ、川島。お前、こんなきれいな嫁はんがいながら何てことするのや。今度、ギャンブルしてみい。わしが承知せんぞ」
 川島は、頭を畳みに擦り付けて、
 「わかりました。一生、ギャンブルは致しません」
 と叫ぶようにして言った。それを見た三田村は、今度は駒子に向かって、やさしい言葉を投げかけた。
 「この先、どこかで後藤が出会っても、後藤があんたらに絡むことはない。もし、何かあったらわしのところへ行って来い。これからも二人で市場のために頑張ってくれ」
「はい!」
 駒子の元気な声が部屋中に響いた。すっかり明るくなった駒子と川島を見て、三田村が「ワハハ」と大きな声で笑った。

 酒の好きな駒子と川島、二人の楽しみは、毎日の晩酌を二人でしっぽりやることと、二日に一回の割合で行く、えびす亭での立ち呑みだ。
 えびす亭に行くと、駒子の人気はすさまじい。
 「旦那に毎日、可愛がってもらっているんやろ。お駒さん、最近、色っぽさを超えてなまめかしいわ」
 独身の四十路のサラリーマン、木田が羨ましそうに言うと、
 「あんたも早う、嫁さんもらいや」
 と駒子が言葉を投げ返す。すると、途端に木田はシュンとなる。
 「たまにはお尻触らせてえな」
 定年間近の柳井が物欲しそうに言うと、
 「お父ちゃんに聞いて」
 とやり返す。
 そんなやりとりがずっと続く。客と駒子のやりとりを聞きながら、川島は思う。もしかしたら、俺は世界一の嫁さんをもろたんと違うnかいな、と。
えびす亭の明るい夜はまだまだ続く。
<了>


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