ドケチの鈴やん

高瀬甚太

 「いやあ、あいつが来なくなって、本当にホッとしてるよ」
 岸田隆一が立ち飲み屋「えびす亭」で、生ビールを飲み干した後、誰に言うともなくひとり言のようにつぶやいた。岸田が思わず吐露したその言葉は、期せずして客たち全員の声を代弁していた。
 鈴やんは自他ともに認めるドの付くケチで、それだけならまだよかったのだが、自分はお金を出さないくせにやたらと人にたかる悪い癖があった。それが鈴やんの印象をよけいに悪いものにしていた。
 マスターもことあるごとに鈴やんに、
 「たかるだけでなく、たまには小さなものでもいい、お返しするよう心掛けたほうがいい」と、再三に亘って注意をしていたが、鈴やんはまるで馬耳東風といった感じで聞く耳を持たなかった。もし、鈴やんが真剣にマスターの注意を受け止めていたら、後々に起こる事件を防げたかも知れない。そう思うとマスターは残念でならなかった。
 鈴やんは、えびす亭からそう遠くない町にある小さな鋳物工場で働いていた。今年で四十を超える鈴やんは子供の頃からずいぶん苦労したらしく、店でも自身のお涙ちょうだいの苦労話を披露して、人に奢ってもらうことが多かった。その話が人によってコロコロ変わるものだから、店の客の中には、「鈴やんの話は作り話が多い。苦労話をして、ビールをもらう、酒の肴をもらう、そういったところがあるから注意した方がいい」と言い出すものまで現れた。
 鈴やんはたいてい7時ごろにはえびす亭に現れる。カウンターに立つと、まずビールの小瓶を注文し、酒の肴は頼まない。ビールをグラスに注ぐと、鈴やんは両隣に立つ人にグラスを寄せて、わけもなく「乾杯!」とやる。両隣に立つ人は驚きながらも鈴やんに合わせて、乾杯をする。
 「どうでっか、儲かりまっか?」
 乾杯をした後、鈴やんは両隣、どちらか奢ってくれそうな人に狙いを定めて話しかける。
 「いやあ、いまいちですわ」
 「ところでお仕事は?」
 「ええ、アパレル関係の仕事をしているのですが、この不景気でどうしようもありません」
 「そうでっか……、それは大変でんなあ。実は私、今、鋳物工場で働いているのですが、この仕事も今、不景気でしてね。ほとんど残業もないし、給料もここ数年上がっていません」
 「お互い大変ですなあ」
 「それでも、働き場所があるだけで幸せです。私、幼い頃に父を亡くしましてね……」
 「そうなんですか……、それはそれはご苦労なさったでしょうね」
 「ええ……、子供の頃から大変でした。何しろ、大黒柱が死にましたもんで、おふくろが女手一つで……、すみません。ちょっとこのマグロの造り、一切れいただいてよろしいでしょうか?」
 「ああ、どうぞどうぞ。一切れと言わずどうぞ食べてください」
 「おおきに。遠慮なくいただきます。そんなわけで私も小学校の頃から新聞配達をしたり、土方をしたり……」
 「えっ!? 小学生の頃から土方ですか」
 「はい。――と言っても手伝いのようなものでしたが、働いて得たお金を母に渡して」
 「それは大変でしたね」
 「ええ、もっと大変だったのはその後です。母が病気になりましたから」
 「えっ、お母さんが病気になられたんですか!?」
 「そうです……、申し訳ありませんがビール、少しいただいてよろしいですか。お話ししていると喉が渇いて」
 「ああ、これはどうも、気が付かなくて。マスター、ビール一本、追加してください」
 マスターが冷えたビールをカウンターに置くと、鈴やんは待っていたように舌なめずりをして隣の客に空のグラスを差し出す。
 「どうぞどうぞ、ぐいっとやってください」
 「ありがとうございます。それでは遠慮なく」
 一気に喉に流し込んだ鈴やん、空になったグラスを隣の客に申し訳なさそうに差し出す。
 「どうぞどうぞ、ぐいっとやってください」
 注がれたビールをまたまた一気飲みした鈴やん、「手酌でいいですか」と断って三杯目を呑み、空いているもう片方の手で断りもなく皿に残っていたマグロをつまむ。
 「母が病気になりましてね。学業優秀、神童とまで言われた学年トップの私でしたが、中学を出てすぐに働くことになりまして……」
 「神童、学年トップ、すごいですよね。でも、高校へ行きたかったでしょ。そんなに勉強ができたら」
 「ええ、何とかして行こうと思っていましたので、一年経ってから府立の定時制高校を受験しました」
 「そうですか。頑張りましたね。で、入学されたんですか?」
 「ええ、合格して――、すみません。なにか当てを頼みませんか? 口が寂しくなりました。私、鶏のから揚げが大好物なんですけど」
 「これはどうも気が付かなくて、マスター、鶏カラ一丁、お願いします」
すっかり遠慮がなくなった鈴やん。当然のような顔をして、隣の客のビールを手に持ち自ら注ごうとする。ところがコップの三分の一のところでビールが空になった。それに気付いた隣の客が、慌ててマスターにビールの追加をオーダーする。
 「ところが仕事と学校の両立がうまくいかなくなりましてね、工場長に仕事を取るか、学校を取るか迫られまして――」
 「理解のない会社だったんですね」
 「そうなんです。それで私、学校を取ります、と宣言して工場をやめて――」
 そこへから揚げが届いた。鈴やんは「では遠慮なく」と一応断って、三個あったから揚げを二個、一気に食べてしまった。
 「もしよかったら後一個もどうぞ」
 「そうですか。では遠慮なくいただきます」
 残ったから揚げを口に入れた鈴やん。ひとり言のように、あっさりしたものも食べたいなあ、と呟く
 「あっさりしたものですか?」
 「あっ……、すみません。ひとり言を言ったつもりだったんですが……」
 「マスター、何かあっさりしたもの、お願いします」
 それを聞いて、鈴やん、マスターに、
 「マスター、できたらタコ酢お願いします」
 といった後、隣の客に向かって深々と頭を下げて、
 「すみませんねえ、何から何まで世話になって」と礼を言う。
 「いいえ、大丈夫ですよ。大したことありませんから」
 「工場をやめてから高校の近くの新聞配達所に住み込みましてね」
 「お家を出られたんですか?」
 「母にこれ以上、心配をかけたくなかったものですから家を出ました」
 「でも、お母さんご病気だったんでしょ。どうされたんですか?」
 「ああ……、そ、その頃は病気も快復していましたので」
 タコ酢が届いたのを見て、鈴やん、「では遠慮なく」と一応断って箸をつける。タコ酢をつまみながらもう片方の手で空のグラスを隣の客に差し出す。ビールを注ごうとした隣の客、瓶が空であることに気付いて、追加を頼もうとしたが、ふと思いとどまって、鈴やんを見る。いつの間にかタコ酢がなくなりかけている。これは大変だとでも思ったのだろう。その客、
 「マスター、お愛想」
 と声を上げ、
 「いいお話しを聞かせてもらってありがとうございました。私、ちょっと用ができたのでここで失礼させていただきます」
と 鈴やんに礼を言い、あわてて帰り支度を始める。
 「えっ、もう帰られるんでっか。話はまだこれからなんですけど」
 「またの機会にお願いします。それではこれで」
 と、いそいそと店を出ていく。
 グラスも空、タコ酢も空。思案投げ首の鈴やんは、次のターゲットを探そうと辺りを見回すが、誰も鈴やんとは目を合わさない。仕方なく、鈴やんは小瓶一本分の代金を支払って店を出た。
 毎回、そんなふうに新規の客にたかるものだから、店も迷惑するし常連客は誰も相手にしない。それで来にくくなったのか、ある日を境に突然、鈴やんの姿が消えた。
 
 三カ月ぐらい経った頃、えびす亭にやって来た一人の客が、マスターに、
 「マスター、この店へよく来ていた鈴やんて人、いたでしょ?」
と聞いた。
 「ええ、いました。いました。最近、来てまへんけど」
 「亡くなったのご存じですか?」
 「えっ!? 亡くなった? それ、ほんまですか。鈴やん、まだ、四十過ぎやったから亡くなるような年やないと思うんやけど」
 「一週間ほど前ですわ。包丁で刺されましてね。出血多量で亡くなりました」
 「包丁で刺された……? なんでまた」
 「あの人、ケチで有名やったでしょ。ケチだけやのうて、人によくたかってましたやんか。それで刺されたんですわ」
 「えっ――、鈴やんはケチでたかりやったけど、人に刺されるような人ではないと思うんやけどなあ……」
 グラスに入ったビールを一息に飲み干したその客、
 「鈴やん、この店で誰にも相手にされんようになったから違う店、ここから少し歩いたところにある商店街の立ち飲み屋に行き始めましたんや。そこでいつものように客にたかって、でも、相手が悪かった――」
 その日、鈴やんは工場の仕事を終えた後、いつものように立ち呑み屋に出かけた。えびす亭に顔を出さなくなった鈴やんは、いろんな店に顔を出して昔話をネタにいろんな客にたかっていたらしい。その日行った店はまだ二回目で、店主も客も誰も鈴やんのことを知らなかった。
 いつものように、鈴やんはビールの小瓶を頼み、隣の客と乾杯をした。ところが相手がそれに応じなかった。今まで乾杯を断られたことのなかった鈴やんは、もう一度、その客に乾杯をしようとした。だが、二度ともその客は乾杯を無視した。
 「乾杯ぐらいしましょうや」
 鈴やんが頼むと、その客は無造作に言ってのけた。
 「いらん。なんであんたと乾杯せなあかんのや」
 そこであきらめたらよかったのに、鈴やんは性懲りもなく、もう一度、その客に「乾杯!」とやってしまった。
 「おまえ、わしをなめとんのか!」
 怒ったその客に鈴やんは胸倉をつかまれた。
 「なめてまへん。わし、乾杯をしたかっただけやねん」
 鈴やんは自分の本意を理解してもらおうと必死になった。
 だが、相手が悪かった。鈴やんの気持ちを理解するような男ではなかったのだ。
 「やっぱりなめてるやないか。表へ出い」
 鈴やんはその客に店の外へ連れ出された。店主はその時、トイレへ行っていて、鈴やんが外へ連れ出されたことに気付かなかった。店の客も関わりを恐れて誰も止めに入らなかった。その客は元ヤクザで、酒癖がずいぶん悪かったらしい。店でも時折、問題を起こす札付きの人間だったので、その店の常連たちはその男を普段から敬遠していたという。そんな男に「乾杯!」などとやったものだから、笑って済ませてくれるはずがなかった。表に連れて行かれた鈴やんは、その男に食って掛かったと言う。
 「わしはあんたと乾杯して友だちになりたかっただけや」
 「なめたことぬかすな!」
 酒癖の悪い男は、鈴やんをその場で数回殴り、鈴やんを地面に転がした。 そのまま起きて来なかったら無事だったのに、鈴やん、フラフラになりながらも立ち上がってきた。
 「痛いやんか。わし、あんたをなめてませんて――」
 と言おうとした。鈴やんは、最後まで相手がなぜ怒っているのか理解できなかったようだ。それで自分の気持ちを何とか伝えたいと必死になった。
 鈴やんが立ち上がって来たものだから、相手の男は少し怖気づいたのかも知れない。懐に忍ばせていた刃渡り7センチの肉切り包丁を取り出して、近づいてくる鈴やんを刺した。
 刺された鈴やんは「痛いよーっ!」という言葉を残してそのまま地面に突っ伏した。男は鈴やんが倒れたのを見て、急に怖くなって、その場から逃げた。
 救急車が到着した時、鈴やんはもう虫の息だった。運ばれる途中、救急隊員に鈴やん、が聞いたそうだ。「この車で運んでもろたらなんぼかかるんでっか」と。
 
 「鈴やんを刺した男はすぐに捕まりました。前科七犯で、札付きの悪だったようです。しかもクスリをやっていて――。鈴やんも相手が悪かった」
客はそう言って、残ったビールを飲み干し、出て行った。
 鈴やんが亡くなったと聞いても、同情する客は少なかっただろう。マスター自身もそうだったのだから。鈴やんが店に顔を出さなくなって、せいせいした、と言っている客の声をたくさん耳にした。確かにケチでたかりの鈴やんの評判は悪かった。客にたかるケチな鈴やんを見てマスターもまたいい気はしなかった。だが、死んだとなれば話は別だ。
 そう思っていたら、新しく入ってきた客が、
 「マスター、このところ、身の上話をするあの客、ほら、色の黒い無精ひげを伸ばした、短髪のあの人、えーと名前は何やったかな……」
 と聞くので、マスターが、「鈴やんのことでっか?」と聞くと、
 「そうそう、鈴やんでですわ。あの人、最近、来てませんよね。私、あの人に会いたいんですわ」
 と言う。
 「鈴やんにですか?」
 珍しい人がいるものだと思って、マスターが尋ねた。
 「何で鈴やんに?」
 「以前、この店に来た時、えらく親切に乾杯などしていただきましてね。それだけじゃなくて、身の上話まで聞かせていただいて。話の途中で、私、その時、財布にあまりお金が入ってなかったことを思い出して、『また聞かせてもらいまっさ』と言って別れたんですよ。あの続き、今度会ったら聞かせてもらおう、そう思ってこの店に来るのに、日が悪いのか、時間が悪いのか、あれから一度も会えなくて――」
 客の話を聞きながらマスターは、じわっと噴き出てくる涙を止めることができなかった。
 「そのうち、また来ますやろ。その時、相手をしてやっておくんなはれ。鈴やん、きっと大喜びしますさかいに……」
 午後から崩れかけていた天候は、夜になって本格的な雨になった。雨の音を聞きながらマスターは、天国の鈴やんが泣いているような、そんな気がして、しばらくガラス窓から目が離せなかった。
〈了〉

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