結界を破って脅威の魔物が現れた

高瀬 甚太
 
 休日の朝を事務所で迎えた。月曜に入稿する原稿が片付かず、昨夜一晩かかって完成させたため、新庄敦彦はその夜、一睡もしていなかった。少し睡眠を取ろうかと思ったが、原稿を書き上げた後の余熱が収まらず、自転車に乗って外に出た。
 普段、通っている喫茶店『すずらん』は、日曜日のこの日、休みであった。他にも数軒の喫茶店があったが、気が進まず、さらに遠出をすることにした。
 新庄は、この町に住んで二十年を超えるが、それほどこの町のことを熟知しているわけではなかった。北の繁華街、梅田に近いこの町には、大阪を代表する神社があり、日本一長いとされる商店街があった。新庄は、その商店街を北に向かって自転車を走らせた。
 梅雨の晴れ間の一日だった。昨夜までの長雨が上がり、爽快な風が吹いていた。商店街の途中で東に折れ、昔ながらの家屋が立ち並ぶ一角に入った。
新庄の体質がそうさせるのか、時折、新庄は、異様なものを呼び寄せてしまう時がある。この時もそうであった。何となく入ってしまった町の一角で、新庄は道に迷ってしまった。迷うはずのない場所で――、途方に暮れた新庄はなおも自転車を走らせて脱出を試みたが何度走っても同じ場所に戻ってしまう。
 都心の、しかも大勢の人が居住する町の中であった。笑い話にすらならない状態に、呆然自失した新庄はしばらくその場に立ち尽くした。
 午前6時、早朝とはいえ、まるで人に遭遇しないことがおかしかった。人の往来はもちろん、車の往来もなかった。すべてが閉ざされた町の中で、完全に行き場を失った新庄は、自転車を停め、周辺を歩いてみた。町はまるで死んでいるかのように静寂に満ちていた。家屋の形こそしているが、家の中には人の気配は感じ取れない。不気味で奇妙な静けさに包まれていた。
 この界隈は初めてではなかった。何度か、往来したことのある場所である。この道をまっすぐ走れば、どこに行き着くか、知らないわけではなかったが、どのようにしてもその場所へ行き着かない。そんなもどかしさの中でようやく新庄は、自分が何者かに囚われてしまったのだと知った。
 
 ――何が起ころうとしているのか、まるで見当が付かなかった。何のために自分を、一体、誰が、何の目的で捕らえたのか、今の困難を解決できる術がその時の新庄には何もなかった。
 空の色も風も空気も、平常のものと変わらない。新庄は一つ大きなため息をついて、この状況に陥った経過を冷静に考えた。
 こうした状況に陥るには必ず何か原因があったはずだ。しかし、どのように考えても思い当るものが何もない。昨夜、昨日、一昨日、その前日――。やはり何もないように思えた。では、自分は夢を見ているのか、しかし、そうではないことは明白だ。自身の肌の感覚がそう告げていた。
 焦燥感に包まれると、人は時として突飛な行動に出る。この時、新庄はそれを自制するために一つの方法を試みた。すべての雑念を捨てること、無になることを自身に科した。
 無の境地に至ることは、たやすいことではない。しかし、この時の新庄にはそうする他、術がなかった。心の中でシャッターを下ろし、その場に座し沈黙した。
 ――ふと目を開くと慌ただしい物音が聞こえ、車の排気音が聞こえた。生活感のある空気に包まれて、舗道に突っ立っていた。――解放されたのだと新庄は思った。
 自身に起こった出来事は、決して偶然ではないと新庄は思った。何かが起ころうとしているのだ。この時、新庄はその予感に包まれ、思わず肌を凍らせ、震えた。
 
 その日の夜半、事件が起きた。消防車が十数台、列をなして国道を駆け抜け、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた――翌朝のニュースで知ったことであった。
 テレビで放映される火災のニュースを見て、新庄は驚いた。火災に遭った場所が、昨日の朝、新庄が何者かに囚われた場所であったからだ。周辺全体の家屋がきれいに焼失していた。
 これはどういうことなのだろうか。単なる偶然とは思えなかった。
多くの人家を焼き尽くした空前絶後の火災は、一時、放火の疑いも報じられたが、火元は確定できなかった。
 幸いによる死者は出なかったが、家屋を焼失し、路頭に迷った人の数は三百人を超えた。
 新庄は、今回、味わった自身の体験を新聞記者の友人に話さなければと思ったが、おそらく信じてくれないだろう、そう思い、途中でやめた。迷い込んで閉じ込められ、気が付くと出られなくなっていた。その同じ場所が、その日の夜半に火災に遭い消滅した。そんな話を誰が信じるだろうか。
 それでも、まだまだ何かが起こる――。その不安は火災のニュースを知った後も新庄の中に渦巻いていた。
 
 三日後、新庄は再び、あの忌まわしい場所に自転車を走らせた。焼け焦げた家屋を横目に見ながら走ったが、今度は迷うことなく町を通り過ぎることができた。二度ほど、同じ場所を行き交ったが、二度とも何事もなく過ぎた。
 新庄は、自身が体験したことを、その後も何度となく考えた。だが、どのように考えても何の回答も得られなかった。
 
 再び多忙な日が続き、新庄は、夜を徹して原稿を書き、編集に追われた。火災のあった日からすでに一週間が過ぎていた。
 午後10時を少し過ぎた時間、新庄はこの日も仕事に追われていた。徹夜を覚悟して、食料を仕入れにスーパーに出向いた。いつもは人で混雑するスーパーが、この日のその時間、なぜかガランとして、客が一人もいなかった。それどころか、七台あるレジカウンターもなぜか店員の姿が見えず動い稼働していなかった。かといって営業していないわけではなかった。新庄は薄気味の悪いものを感じながら、食料をかき集め、レジに向かった。――その時である。
 「もし……」
 背後で誰かが新庄を呼んだ気がした。だが、気が付かず、新庄はそのままレジに向かった。
 「すみません。新庄さん」
 肩を掴まれ、驚いて振り返った。ほっそりとした背の高い男性が立っていた。
 「……」
 新庄の知らない男性であった。
 「少しお話をしたいのですが――」
 唐突な物言いに驚いた新庄は、
 「私に何かご用でしょうか?」
 と聞いた。徹夜をしなければならないほど仕事に追われている新庄に、見知らぬ人と話している時間などなかった。
 「大切な話です」
 と男は言うが、新庄には時間がなかった。
 「申し訳ありません。急いでいますので――」
 断って立ち去ろうとすると、男の声が追いかけてきた。
 「先日の火災、ご存じですよね」
 立ち止まると、男の声が再び追いかけてきた。
 「あの火災、あなたにも責任があるのですよ」
 驚きのあまり、新庄は手にした食料を床に落とした。
 「あの日の朝、あなたは結界を破って中に入った。それがあの火災を呼んだのですよ」
 「結界の中……」
 「やはり、偶然、入ってしまったんですね。何にしてもあなたが結界を破って中へ入ってしまったことで火災が起きた。いや、これからさらに大惨事が起こる。それを予告しておこうと思いましてね――」
 わけがわからないまま、新庄は男の真意を汲み取ろうと努めた。だが、能面のような男の表情からは何も感じられない。冗談で言っているようにも見えないし、どこまで真剣なのかもわからなかった。
 「予告――? どういうことですか」
 新庄の言葉に男は小さな笑みを浮かべた。
 「あなたには、多分、何か他の人にはない力があるのでしょう。破れるはずのない結界を破って、数百年、閉じ込めていたものを解き放ってしまった。あなたが紛れ込んだあの場所には、絶対に目覚めさせてはならない魔物が封じ込められていた。幾重にも張り巡らせた結界が数百年もの間、魔物を抑え込んできていたのに、その結界がなぜ破られてしまったのか、信じられない事態が起きた。あなたがすべての原因とは言わないが、あなたには責任がある。結界を破った魔物は、眠りから覚めた時、体内からエネルギーを放った。それがあの火災につながったのです。
 肉体を持たない異界の人間は、魔物をもう一度閉じ込めようとしてもそれができない。人間の手を借りないと難しいのです。目覚めて間もない魔物は、今はまだ自身のパワーに気付いていないが、放っておくと、さまざまな場所で大惨事が勃発させることになります。地殻変動を起こし、火災を頻発し、人類を破滅に導きます。底知れないパワーと善悪の判断を持たない魔物の存在は、人間社会にとって脅威を及ぼすものです。一日も早く魔物を閉じ込め、新たな結界を張って閉じ込めなくてはなりません」
 無表情な顔でその男は言った。小説より奇なる奇想天外な話だと思った。その時、男は突然、新庄の手を握った。何と冷たい手だろう。ヒンヤリとした感触に新庄の体が震えた。
 「あなたは結界を破った。今度は、私たちに協力して結界を張り、魔物を閉じ込める手助けをしなくてはならない。いいですね」
 頭がおかしいのだろうか、それとも狂人だろうか。目の前にいる人間が何者なのか、わけがわからず途方に暮れている新庄の周りを、数人の集団が囲んだ。
 「彼らはすべて異界の人間です。魔物は人間社会だけでなく、異界をも混乱させてしまいます。しかし、私たちだけではどうしようもない。だからといって人間に協力を求めても、人間は怖がるばかりで私たちの言うことをまともに信じない。ただ、あなたには私が見えた。私の声も聴こえた。普通の人間は私たちの姿を見ることなど不可能です。しかもあなたには異界を呼び寄せる不思議な体質もある。今からすぐに私たちに協力をして、一日も早く魔物を封じ込めるために協力してほしい」
 異界の者たちの姿は一般の人には見えないのか? 表情こそ判然としないものの、新庄には彼らが見えた。
 「まことに申し訳ないが、私は何の力もとりえもありません。しかも今、私は忙しい。あなた方の遊びに付き合っていられるような場合じゃないんだ」
 新庄は、精一杯、大きな声で彼らに伝えたつもりだったが、男たちは聞こえていないのか、新庄の声を無視してその手を引っ張って店の外へ運び出した。
 スーパーを出て振り返ると、いつの間にか、店内は人であふれていた。この時間は生鮮食料品が半額になる。それを狙っての人の群れだ。しかし、先ほどまで誰もいなかったのにいつの間に――。新庄は改めて男たちを見た。男たちは皆、同じような顔をして、しかも全員、無表情だ。本当にこの男たちは異界の者なのか、なぜ、他の人には見えないのか、新庄は不安に駆られながら彼らを見続けた。
 その時、道行く人から声が上がった。
 「大阪城が燃えているぞ!」
 大阪城が? 大勢の人が大阪城の方角に向かって走って行く。炎が上がっている。大阪城が炎上していた――。
 「魔物のエネルギーが大阪城を炎上させている。新庄さん、急がないといけません。さらに目覚めればこの程度ではすみません」
異界の者が新庄を取り囲む。
 「私は何をどうすればいいのですか?」
 不安に押し潰されそうになりながら新庄が聞くと、異界の者たちが言う。
「魔界と闘って勝てるものではない。また、闘おうとするのは愚の骨頂だ。魔物を封じ込めるには、畏れない気持ちと勇気が必要とされる。そこでだ。新庄さん、あなたにお願いがある」
 異界の者たちが新庄を見た。
 
 ――異界とは人類学や民俗学の用語で、亡霊や鬼が生きる世界とされるが、実際のところはどうだろう。ただ、この世のものではないことは確かだ。人間の容姿を伴っているが、とても生命を持っている生き物のようには見えない。これまでにも何度か、霊に遭遇し、さまざまな体験をしてきた経験があったが、その時とはまた異質の感覚があった。
 「魔物は、姿形のないものだ。霊的エネルギーを隠し持った怪物と言った方が正しいかも知れない。その魔物のエネルギーは、到底、普通の物差しで測れるものではない。下手をすれば地球丸ごと、ぶっ飛ばしかねない超エネルギー、そう表現しても決して過言ではない。
 魔界は、人間の欲望や悪の情念、憎悪、怒り、妬み――、さまざまな負の観念が寄り集まって創造されたものだ。遠い昔、その魔物を人間の力を借りて、私たち異界に住む者が封じ込めた歴史がある。どうやって封じ込めたのか、それさえもわかっていないが、何等かの方法を講じれば、封じ込めることができるということはわかっている。
 あなたも感じているように、私たち異界に住む者は、天にも昇れず、人間世界にも戻れない存在として霊界を浮遊している。魔物の存在は私たちにも脅威なのだ。なぜなら魔物は霊界に浮遊する私たちを食する習慣があるからだ。今はまだ目覚めておらず、眠れるエネルギーが沈黙しているが、それでも、少し動くだけで、周辺は焼野原になってしまうほどの影響を及ぼす。
結界がなぜ、どのようにして破られたのか、そのわけは私たちにもわからない。ただ、幾多の偶然が災いして結界が破られた――。そしてなぜかあなたがそこにいた。
 あなたが魔物を駆逐する能力や力がないことは充分わかっている。また、霊的能力もさほど持っていないことも理解している。しかし、なぜか、あなたが選ばれた。きっとあなたは、私たちにもまた、他の誰にもわからない不思議な力を有しているのだと思う。今となっては、あなたに期待するしかない術がない」
 新庄は、言い訳をした。自分には無理だ。地からが及ばないと、強く訴えた。
 しかし、異界の者たちは、誰一人として新庄の言い訳に耳を貸さなかった。
 とんでもない事態に陥ってしまった。しかもわけがわからない。それが新庄の実感だった。異界の者たちは、新庄に付きまとって離れない。目覚める前に封じ込めなければならないと、彼らは言うが、その方法がわからない。過去の記録など調べても無意味なことはわかっていた。異界の者たちもまたそうだ。かれらは新庄に託すしか術がないと口を酸っぱくして言う。
 町が焼失し、大阪城が焼失――、一体この先、何が起こるのか、不安に駆られながらも、新庄は新庄にできる方法で魔物に対峙するしかない、そう思った。
 異界の者たちは言った。
 「力や技で対抗しても封じ込めません。神的な力で対応しても、魔物の力はそれを上回り、逆に魔物を覚醒させてしまう恐れがある。今、魔物は数千年の眠りから目覚め、覚醒しきれていない。いわば赤子のような存在だ。封じ込めるなら今のうちだ」
 しかし、それなら何をどうすれば封じ込めるというのか、無力な新庄に何ができると言うのだろうか。新庄は、異界の者たちに聞いた。
 「魔物の所在は確かめられますか?」
 「確かめられないことはないが、どうするつもりですか?」
 「魔物と正面から対峙してみます。魔物の所在を教えてください」
 「魔物は形のないものです。エネルギーの塊にすぎない。だから、呼べば必ず現れます」
 先日、異界の中に偶然、迷い込み、逃れられなくなってしまった。その時、新庄は自分の精神のすべてを無にして、空っぽにすることで異界から逃れ、現実社会に戻ることができた、あの記憶を思い出した。魔物を前にして必要なことは、何も考えず、何の意志も持たないことではないか。そこにヒントがあるような気がした。
「魔物は、私たちが霊的エネルギーを発すれば、すぐに現れます。しかし、そうすれば、あなたの身にも危険が及びかねない」
異界の者たちの言葉に、新庄は意を決して答えた。
「仕方がありません。本当に私の力が必要とされるなら、魔物と対峙した時、何等かの答えが出るでしょう。もし、何ともならなければ、私を選んだあなた方の思い違いということになります」
 不思議な感覚の中にいた。死を前にしてこうも冷静でおれるものなのか。
 ――若い日、事故に遭い、死の淵をさ迷いながら、「死にたくない」と念じ、生への執着を隠せなかった。病の中で幾度も死の危機に陥りながら生への執着を醜いほど露骨に現した。生への執着が人一倍強かった自分が、なぜ、こうも冷静でおれるのか――。
 すべてにおいて現実感に乏しかった。異界の者の存在も、魔物の存在も、そして自分が今、この場にいるということも。まるで夢を見ているような感覚でいた。それが新庄を特別な存在にした。
 「もうすぐ魔物がやってきます」
 異界の者が告げた。
 「現れました!」
 異界の者たちがその場を離れた。しかし、新庄の視界には何もない。だが、魔物は近くに存在した。太陽と形容してもいいほどの強烈無比のエネルギーを体感しながら、新庄は何も考えず、何も思わず、精神を肉体を、無の境地に浸して魔物の声を聴くことに努めた。
 人間のさまざまな負の情念をエネルギーの糧にする魔物である。畏れを感じ、弱気の声を上げれば一瞬のうちに飲み込まれてしまうだろう、そんな予感がした。
 大切なことは一切合財を無にして、魔物に正面から対峙することだ。恐怖を感じてしまえば一巻の終わりだ。今、ここに存在する、そのすべてを消し去ることは簡単なことではない。だが、そうしなければ新庄は消えてしまうと思った。
 今、こうしていることも、魔物と接しているこの瞬間さえも、新庄には現実感が乏しかった。そのうち、魔物の息遣いが新庄の脳に響いてきた。耳ではない。脳に響くことが不思議でならなかったが、何も考えず、無でいた新庄には、どうでもいいことであったが。
 魔物がすさまじいエネルギーで新庄を捉えていることはわかった。しかし、負の情念をエネルギーにする魔物は、新庄を捉えあぐねている様子だった。数分か、数時間か、それとも数日間か、まるで時間の観念を失っていた新庄には、自分が生きているか、死んでいるかの実感さえなかった。
 魔物を従えようというわけではない。魔物をどうこうしようという意識もなかった。このままいて、果たしてどうなるものか、それさえも考えないようにして、新庄は魔物に対峙した。
 封じ込めるということは、魔物の意欲を削ぎ、魔物の力のすべてを地下に送り込むことだ。異界の者たちが言うように、まだ赤子の魔物は、無の境地にいる新庄を捕まえ損ね、そのうち、息遣いさえ脳に響かなくなり、一瞬の間を置いて地に潜った。その瞬間を逃さず、異界の者たちが、結界を張った。
 魔物がなぜ、地に潜ったのか、その理由が新庄にはわからなかった。赤子の魔物は、目覚めたものの、覚醒するまでに至らず、負の情念どころか、すべての気を消滅している新庄に近づいて、方向を見失い、潜ったのではないか。そんなふうに思った。
 ――そこで新庄の意識が途絶えた。
 
 目覚めた時、新庄は事務所の中にいた。椅子に腰をかけ、だらしない恰好で眠っていた。異界の者も魔物もいなかった。夢を見たのかと思って目をこすった。どこからが夢でどこからがそうでないのか、まるで見当がつかなかった。それにしてもリアルな夢だと思った。
 椅子から立ち上がろうとすると、頭痛がしてめまいがした。再び椅子に座り直し、目を瞑った。この頭痛には原因があるように思えた。やはり、異界の者に会い、魔物と出会ったことは現実ではなかったか――。頭痛がそれを証明しているように思えた。
 だが、少し落ち着くと、いや、やっぱりあれは夢だったのだ、そう思えてきた。夢でなければおかしい。もし、あれが夢でなければ――、そうだ、あの迷った町も、大阪城も消失しているはずだ。
 そう思って立ち上がると、不思議と頭痛は消えていた。事務所を出た新庄は自転車を走らせた。30分ほど走った場所に先日、迷った町があるはずだった。
 しかし、辿り着くと、町は焼失していなかった。元のまま、何も変わることなく存在した。その足で今度は大阪城を目指した。この地から大阪城まではそう遠い距離ではない。南の方角へ向かって少し走れば、焼けていなければ天守閣が見えるはずだ。
 道路に立ち、南東の方角を眺めると、いつもと変わりない大阪城天守閣が確認できた。
 やはり夢だったのか。しかし、新庄はなぜ、あんな夢を見たのだろう。
腕時計を見ると午前7時、日付は、数日前の迷った朝と同じ日になっていた。やはり、あの時点、あの日の朝から新庄は夢を見ていたのだ。
 夢と現実の境目がわからなくなる時がたまにあるが、これほどのことはかつてなかった。
 夢なのに夢と思えないリアルな感触が肌に残っていた。それが不思議でならなかった。
 ようやく納得した新庄は事務所に戻った。急ぎの仕事がたまっていた。一日も早く片付けなければ、そう思って仕事に取りかかった。
 その日の夜、新庄は午後10時過ぎに仕事を終えた。意外と早く片付けることができたので、たまには早く帰って眠ろうと思い、机の上を整理していると、紙切れが出てきた。
 紙切れに書かれている文字が新庄には理解できなかった。これは何と言う文字だろう。日本語ではないし、英語でもない。他の国の文字とも思えなかった。書かれた紙も異質な紙であった。
 いたずら書きかも知れないとも思ったが、新庄が書いた覚えのない文字がそこにあることが不思議で、何とか調べてみたいと思い、友人の民族学の教授北川久明にAXでその紙を送れと言った。
 15分ほどして北川教授から電話がかかってきた。
 ――この文字だが、どこで見つけた?
 新庄は、机の上に置いてあったと説明した。しかし、それでは北川教授は納得しなかった。
 ――隠していることがあるだろう。それを説明しろ。
 笑われるのを承知で、新庄は、道に迷ったこと、異界の者にあったこと、魔物の話をした。
 北川教授は笑わなかった。笑わずにじっと黙って聞き入った。
 ――新庄、夢でも何でもないよ。きみは異界に紛れ込んだのだ。異界の中で魔物のこと、すべてを体験したのだ。しかし、よく無事に帰って来れたな。おれにはそれが不思議でならない。
 北川教授の言葉に新庄は衝撃を受けた。異界に紛れ込んだ? 信じられない北川教授の言葉だった。
 ――時折、と言ってもごく少数だが、そうした話を耳にすることがある。それでも、異界に紛れ込んだ者はまず、誰一人として帰って来ることができない。また、帰って来たという話を聞いたこともない。聞いたのはきみが初めてだ。
 北川教授はそう言って、新庄がファックスで送った文字が異界の文字であると説明した。
 ――異界の文字?
 ――そうだ。きみがFAXで送ってきた文字は異界の文字で、難解だが、旧い書物を借りてどうにか読むことができた。きみに対するお礼を述べた文字だった。
 「私に対する礼ですか?」
 ――そうだ。魔物を封じ込めた。その礼だと思う。
 やはり夢ではなかったのか。しかし、異界を体験したなど、本当のことだろうか。新庄は首を捻った。
 ――異界は現実社会と隣り合わせになっている。この現実と何も変わらない。だが、異界では場所は存在するが人は存在しない。きみもそうだっただろう?
 ――そういえば、異界の人間以外、誰にも出会わなかった。やはり自分は異界を体験したのか。
 ――しかし、偶然とはいえ、異界に紛れ込むなど、とんでもない男だ。しかも魔物まで封じ込めるなんて、きみには脱帽だ。
 北川教授はそう言って笑い電話を切った。
 ――机の上に置かれてあった、異質の紙に書かれた文字を眺めながら、新庄は小さなため息をついた。異界を体験したことなどまるで実感できなかった。あれは夢だったのだと、新庄は自身にそう思い込ませ、その紙を小さく折り畳んだ。
〈了〉

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