佐藤祐樹の死

高瀬 甚太

 その日、「えびす亭」の近くの公園で殺人事件が発生した。「えびす亭」では、しばらくその話題で持ちきりだったが、殺害された客が「えびす亭」の常連であったかどうかについては定かではなかった。
新聞記事によると、事件の詳細はこうだ。
 ――十一月一日午後八時三〇分、塗装業を営む佐藤祐樹さん五八歳が自宅近くの公園で殺害され、死亡しているのが発見された。鋭利な刃物による腹部への殺傷で、死因は出血多量によるショック死。警察は、遺体の状況から怨恨によるものと判断、佐藤さんの身辺を中心に犯人の洗い出しに全力を注いでいる。

 事件から一週間が経過していたが、犯人の目星はついていなかった。大阪府警捜査一課の安元刑事は、同僚の岸田刑事と共に佐藤の自宅周辺の聞き込みに当たったが、今のところ、犯人逮捕に結びつく有力な手がかりは得られていない。
 事件の目撃情報がほとんどなく、佐藤の身辺情報も少なかった。近隣との付き合いが極端に少なかったことがその大きな要因で、捜査は思いのほか難航した。
 「ガイシャの周辺には、これといった怪しい人物が見当たりません。仕事一途の人間だったようで、五年前に離婚して以来、ずっと一人身で、女の影も見当たりませんね」
 安元が捜査会議の席上、捜査の責任者である宗像警部に報告をした。
 「ガイシャの離婚理由は何だ? 別れた女房による殺人の可能性は?」
 矢継ぎ早に飛び出す宗像の問いに、安元は即座に答える。
 「離婚理由は奥さんの浮気で、佐藤の方から離婚を切り出したそうです。現在、佐藤の奥さんは別の男と同居し、事件当日のアリバイも確認しています」
 「仕事関係はどうだ?」
 「仕事は順調だったようで、仕事関係の方面に聞き込みしましたが、ガイシャを恨む者や仕事でトラブルを起こしている人間は見当たりませんでした」
 「殺害状況からみて、犯人はガイシャにかなりの恨みを抱いているように思われる。とても行きずりの犯行とは考えられない。金銭的な貸し借りやその方面をもう少し調べてもらえないか。それと、当日のガイシャの動きを調べることだ」
 宗像はそれだけを伝えると、十五人の刑事が一堂に会した捜査会議を終了し、ゆっくりとした足取りで会議室を出た。
 安元は、岸田と共に再び現場へ直行した。当日の佐藤の動きがさっぱりつかめておらず、改めて事件当日の佐藤の動きを確認する必要があった。
 その日、佐藤は午後五時まで市内で塗装の仕事をしていた。仕事で使用したクルマを自宅近くの駐車場に停め、そのまま自宅に一度帰っている。その後、しばらくして家を出た。それが午後七時だ。しかし、その後の佐藤の様子が掴めない。近隣地区の防犯カメラをチェックしたが、家を出て駅に向かっている佐藤を目撃することは出来たものの、それ以後、佐藤の姿を捉えきれていない。
 殺害された公園にも防犯カメラが設置され、周辺の道路にも設置されていたが、なぜか、佐藤と思われる人物の姿は写っていなかった。
 「佐藤は、仕事から戻ってどこへ行ったのでしょうね。近所の人に話を聞くと、仕事から帰った後、いつもどこかへ出かけている、と言うのですよ。行き先は誰も知らないようですが……」
 と、岸田が安元に話す。
 現場百回、現場には必ず犯人逮捕につながる何らかの証拠が残されている。若い頃からたたき上げの先輩刑事たちに、そう教えられてきた安元は、五十を超えた今もその教えを忘れていない。
 公園で刺殺され、倒れていた佐藤の遺体の様子とその周辺の様子を、現場に立った安元は思い起こしながら、這いつくばるようにして現場を点検する。すでに鑑識によって現場は調べ尽くされているが、鑑識の目に留まらない何かがあっても不思議ではない。安元は常にそう思って現場を見直している。
 それほど大きな公園ではなかったが、木々が植えられ、砂場があり、ブランコが置かれ、ベンチもある。季節の花も植樹されており、ゲートボールに興じる程度のグラウンドもあった。佐藤が倒れていたのは木々の立つ草むらの中だった。草むらを這い、死体があった周辺をくまなく探すが、犯人逮捕につながるものは何一つ見つけることができなかった。
 「安元さん、それにしても不思議ですね。駅に向かう佐藤の姿が防犯カメラに残されているのに、それ以後、どの防犯カメラにも映っていない。どういうことですかね」
 岸田刑事がぼやくようにつぶやく。二十代後半で刑事経験の浅い岸田は、ベテラン刑事の安元に多大な信頼を寄せている。府警本部一課の中で安元はもっとも検挙率の高い刑事だった。
 「防犯カメラの佐藤が映っていた場所へ、もう一度行ってみよう」
岸田に声をかけ、安元は防犯カメラに佐藤が映っていた最後の場所へ急ぐ。
そこは駅に向かう、佐藤の自宅から五分ほど歩いた歩道だった。人通りも多く、幹線道路が歩道の脇を走り、ひっきりなしに車が流れている。
 「ここだ。この先を歩いてどこへ行く?」
 歩道に立った安元が岸田に問いかける。
 「もう少し歩いて、左へ曲がると駅ですよね。真っ直ぐ歩くと防犯カメラがありますから、必ずそこに佐藤の姿が映しだされるはずです。だが、佐藤の姿は見つかっていない」
 事件が発生して以来、安元と岸田は何度も同じことを繰り返してきた。だが、そのたびに挫折した。駅周辺で佐藤の写真を持って通行人や店に尋ね回るが、誰も佐藤を見ていなかった。
 防犯カメラに映しだされた場所から少し歩いたガード下で、佐藤はタクシーを拾い、どこかへ行ったのだろうか、しかし、どこへ行くにしてもあまりにも時間が少なすぎる。一時間半後、佐藤は公園で刺殺されているのだ。しかも、公園に至るまでの間、佐藤の姿が防犯カメラに一切、映し出されていないのは、どう考えてもおかしい。
 堂々巡りをする中で、事件はいよいよ混迷を深めて行った。
 「安元さん、もう一度、駅周辺の店を片っ端から当たってみましょうか?」
 岸田の言葉に安元が呼応する。
 「そうするしかないだろう。佐藤は、駅周辺のどこかの店に入り、そこで犯人に会っているはずだ」
 佐藤の顔写真を手に、安元と岸田は雑多に賑わう駅周辺の店、一軒一軒を訪問し始めた。
 パチンコ店が数軒、居酒屋が十数軒、寿司屋、ラーメン店、喫茶店――。どの店で尋ねても、やはり佐藤を知っている者はいなかった。
 「安元さん、やっぱり、佐藤はこの辺りには来ていないのですかね」
岸田が弱音を吐く。安元も半ばそう思いかけていた。だが、すべての店を回ったわけではない。そう思い直した安元は、岸田に言った。
 「駅から路地に入った場所にも数軒の店があるはずだ。そこを当たってみよう」
 賑やかな駅前周辺と違い、一歩路地へ入ると、まるで雰囲気が異なる。立ち呑みの居酒屋があり、路地の外れにはいかがわしいネオンの店もあった。カウンターだけの中華料理店もあり、古びた一膳飯屋の暖簾もある。その先には寺と墓が控えているようだった。
 「警察だが、お忙しいところ悪いですね。この写真の男を見たことありませんか?」
 「えびす亭」と暖簾のかかった店に入り、岸田が尋ねると、好奇心旺盛な客が多いらしく、どれどれ、と言って客たちが集まって来た。他の店ではこんなことはなかった。驚きながら、岸田はそれぞれの客に丁寧に写真を見せた。
 「あれ?!」
 一人の客が小さな声を上げた。
 「どうかしましたか?」
 岸田が尋ねると、その客が岸田の手から写真を奪い、
 「マスター、この写真の男、ゆうこに似てない?」
 と聞く。
 客から写真を受け取ったマスターは、おでんを取り出す手を止めて真剣な眼差しで写真を見つめる。
 「ほんまや。ゆうこに似ている」
 声を絞り出すようにして言う。
 それを聞いた岸田は、他の客にも、
 「あなた方も、もう一度、しっかり見てください」
 と言って再度、見せる。
 「なるほど、言われてみたら、これはゆうこに似ている。でも――」
 「ゆうこは女やで。これはどう見ても男や」
 写真を見た客たちの反応を見て、岸田は他の店を回っていた安元を呼ぶ。
 「えびす亭」に入った安元は、岸田の話を聞いてマスターに確認する。
 「この写真の男は佐藤祐樹といって、一週間ほど前、ここからそう遠くない公園で刺殺されて亡くなっています。佐藤を殺した犯人は、この周辺で佐藤と接触し、公園で佐藤を殺害している。その際、犯人はかなりの憎悪を抱いていたのではないかと我々はみています。しかし、当日の佐藤の行動が掴めず、犯人の特定ができず困っていました。もう一度、しっかり見てください。この男は、こちらの客、ゆうこに似ていますか?」
 写真を見直したマスターは、大きく頷き、「よく似ています」と確信をもって答えた。
 「ゆうこは、本当に女性でしたか? 男性が女性に化けた、いわゆる『おかま』ではありませんでしたか?」
 岸田が聞くと、マスターを含め、大勢の客たちが口を揃えて言う。
「 ゆうこは、間違いなく女性だよ。男性が化けたようなところなど、まるでなかった」
 確信を持って答える。しかし、実際にゆうこが女性であることを確かめた者はいなかった。
 「そのゆうこという女性と、特に親しかった人間はいましたか?」
 安元が確認すると、数人の客が声を上げた。
 「ゆうこと特に仲がよかったと言うか、惚れてたのは土佐やんや」
 「土佐やん?」
 「高知県出身の男で、ゆうこより少し年下だったと思う。ゆうこがこの店にやって来るのを待ちかねて、来たらすぐに隣にへばりついてゆうこを口説いていた」
 「その男は、最近、この店に来ていますか?」
 「いや、ここ一週間ばかり見てないなあ」
 「ゆうこはどうですか?」
 「そういえば、ゆうこもしばらく見ていない」
 半円のカウンターを挟んで、中に厨房があり、おでんが煮詰められ、惣菜がカウンターの上に置かれている。カウンターに鈴なりになって立っている客たちは、ほとんどが男性だったが、中には女性もいた。中年客が大勢を占めていたが、若い客も老年の客もいた。職業もまばらなようで、服装も、作業服の男性、スーツ姿の男性、カジュアルな服装といった具合に、色とりどりだ。
 「えびす亭」の客やマスターに礼を言い、外に出ると、安元は大きくため息を漏らした。
 「岸田、もう一度、防犯カメラを見直そう。俺たちは大変な勘違いをしていたかも知れない」

 佐藤祐樹殺害の容疑者が逮捕されたのは、それから三日後のことだ。
 容疑者である東田豊四十歳を逮捕したのは安元で、午後八時、「えびす亭」に東田が現れたところを確保している。東田は、さほど抵抗することなく逮捕され、府警本部でその日の夜、取り調べを受けた。
 安元が、「えびす亭」で通称「土佐やん」と呼ばれていた東田の犯行と確信を抱いたのは、事件当日、佐藤が刺殺される時間帯の寸前に、防犯カメラで東田を確認したことによる。その日、「えびす亭」を出た東田は、佐藤と共に歩道を歩き、公園に向かっていた。
 「しかし、佐藤がゲイで、女装趣味であったことは意外でした。それにしてもよく化けたものです。男性であることや五十八歳である年齢を感じさせない変装を見て、「えびす亭」の面々が、女性と信じて疑わなかったことも頷けます。防犯カメラを何度見直しても、あれでは見つけられなかったはずだし、周辺で写真を見せてもわからなかったはずです。それにしても、「えびす亭」の客たちは、佐藤の写真を見て、ゆうこだと、よく見破ったものだ」
 事件後、岸田が安元に、そんな感想を述べた。
 「俺も半信半疑だったよ。佐藤が女装しているなんて思ってもみなかったからね。死体が女装したものであれば、もっと早く探し出せただろうが、きれいに化粧を拭い、服も着替えていたからわからなかった」
 「東田は、なぜ、佐藤の衣服を着替えさせたのでしょうか?」
 「いや、服を着替えたのは佐藤自身だったと思う。佐藤を女性と信じて疑わなかった東田は、懸命に佐藤を口説いていたのだろう。ようやく、佐藤がその気になって、東田を公園に誘った。佐藤は公園の木の下で、東田に服を脱いで自分の正体を見せ、本当は、自分は男なのだと話した。それを見て東田は、相当ショックを受けたと思う。動揺する東田を見て、佐藤はガッカリしたのだろう。服を着替え、化粧を拭い、男に戻った。自分の愛した女性が男性であったことを知った東田は、騙されたと勘違いし、ショックと怒りが交錯して、佐藤の胸に刃を突き込んだ。深い刺し傷が無数にあったのは、東田が錯乱していた証拠だ」
 「それにしても、誰もが佐藤を女性と信じて疑わなかったことに驚かされました。よほど化け方がうまかったのでしょうか」
 「佐藤が妻と離婚したのは、妻の浮気もあっただろうが、その原因は佐藤にあったのではないか。佐藤は結婚後、十数年経って自分の嗜好に気付き、女性より男性に興味を持つようになったようだ。離婚した後、佐藤は女装に走るようになった。それはおそらく、佐藤にとって必然であったのだろう。佐藤は、通常のおかまと違い、清楚な服装と薄化粧を心得ていたようで、常に俯いて控えめであったようだ。東田が佐藤に夢中になった要因も、そんなところにあったのではないか。『えびす亭』の面々にしてもそうだ。誰一人として、ゆうこが男であることを疑う者などいなかった。
 仕事を終えて自宅に戻り、紙袋に女性の衣服を詰め込んで、近所の人にばれないように家を出て、途中、駅周辺のトイレで着替え、ゆうこになりきる。ゆうこになった佐藤の行き先は、決まって『えびす亭』であったようだ。なぜ、佐藤が『えびす亭』に通っていたのか、それは俺にもわからない」
 東田は、ゆうこへの永遠の愛を語ると共に、佐藤への憎悪を、饒舌に取り調べ室で語ったと言う。犯行に使われたナイフは、丁寧に血を拭き取られて東田の部屋に飾られていた。

 安元は、その夜、岸田を誘って小さな慰労会をするつもりでいた。酒の好きな岸田は喜びながらも、
 「どこへ行くのですか?」と聞いた。
 府警の刑事が多く集まる居酒屋に誘われたら断ろうと思っていたようだ。
 「えびす亭だ。悪いか」
 安元はぶっきらぼうに言って、
「先日のお礼も兼ねてな」
 と、言葉を付け加えた。
 「それなら行きます」
 と、岸田は即座に答えた。
 「立ち呑みの店で悪いな。俺もあまり小遣いがもらえなくて」
 安元が愚痴っぽく言うと、岸田は真顔になって、
 「いいんですよ。ぼくは、えびす亭のような店が好きなんです」
 と、答えた。
 「俺もだ」
 安元がつぶやくように言うと、岸田が声を上げて笑った。
 お互いに、えびす亭のどこがよくて行こうとしているのか、答えが出ない。それを知るために行くのだ、と岸田は安元と共に歩を進めながら思った。
<了>


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