恋するヒゲオヤジ

高瀬 甚太

 人の第一印象というのはまことに危ういものがあり、人によってその印象の捉え方が異なるということが世間一般的には少なくない。
 警察で犯人の特徴を聞かれて、異なった印象をてんでに伝えて警察を困らせる場合があるかと思えば、誰に聞いても印象が一致する人物もいる。その一人がえびす亭の常連、ヒゲオヤジこと黒田義輝だ。
 黒田は船場で織物問屋を営む老舗の二代目で、身長も高く均整のとれた体をして、年齢こそ六十を超えているものの、なかなかのハンサムである。女性にもて過ぎるため、好色家のイメージが付きまとい、それを払拭するために口髭を生やし始めたのが三十代半ばの時だ。ところが、その口髭がよく似合ったのはいいのだが、さらに好色家に見えると評判になり、一時的に口髭を切ったのだが、一度生やした口髭の印象が強く、ヒゲがないと何とも頼りない顔になり、仕方なく改めて口髭を生やした経緯がある。以来、黒田は、周囲からヒゲオヤジと呼ばれるようになり、えびす亭でも当然、そう呼ばれるようになった。
 稀代の酒豪である黒田は、酒を呑む時、決して無駄口を叩かない。寡黙に酒を呑み、じっくりと酒を味わうタイプだ。ただ、人の話はよく聞く。自分からはあまり喋らないが、人の話をよく聞くことで、黒田を慕う者は多かった。この日、黒田の隣に立ったのは、渋谷章介、通称、渋やんと呼ばれるギャンブル中毒のおっちゃんだった。
 「ヒゲさん、困ったことがあるんですわ。弱りました」
 開口一番、渋やんは頭をかきながらヒゲオヤジを見た。
 「……」
 情けない声で、
 「わたし、女房に離婚されそうなんですわ」
 と言う。
 「……」
 「知っての通り、わたし、パチンコにはまってましてな、勝てればいいんですけど、負けてばっかりで、サラ金に借金作って、それが女房にばれて――。そりゃあもう、大変ですわ」
 「……」
 「息子にも怒られるし、娘にも叱られるし、とうとうこの間、パチンコと縁切る約束をさせられました。それが十日前のことですわ。パチンコ辞めると、わたしの人生なんて何もおまへんわ。暇で暇で、退屈で退屈で――。女房は将棋か囲碁を始めたらどうかと言いますけど、あんな辛気臭いもんできますかいな。やっぱり、チンチンじゃらじゃら、チンじゃらじゃですわ。とうとう我慢できんようになって昨日、パチンコ店に入ったんですわ」
 「……」
 「ヒゲさん、お酒よかったらどうぞ」
 話の途中、渋やんが黒田ににビールを注いで一息ついた。
 「ところが、パチンコ店へ入るところを運悪く、息子の嫁に見られてしもうたんですわ。息子の嫁は美人やけど、なんていうか、いじわるなところがあって、わしがパチンコ店に入って行ったと息子に言うてしもうたんです。家に帰ったら息子と息子の嫁、女房が待ち構えていて、パチンコしてきたやろ、と怒るわけですわ。してない。としらを切ったら、息子の嫁が、『お義父さん、うち見てましたんやで、お義父さんがパチンコ店に入って行くところ』と言うんです。『違うねん、トイレ借りに入っただけやねん』と説明したら、『長いトイレやね』と息子の嫁が言いましてな。息子の嫁、わしがパチンコ店から出て来るのをずっと待っていたんですわ。ほんま、性悪女やで。『うんこしとったんや』と言うたら、『うんこするのに一時間半もかかるんか』と女房が――。昨日は三人がかりで散々やられて、おまけに女房が泣き出して、『うち、もうこんな辛抱ようせんわ』と息子に言うんですわ。そしたら息子のやつ、『辛抱することないでお母ちゃん。別れたらええがな。お母ちゃんの面倒ぐらいいつでもみたるで』と言うもんやから、女房のやつ、すっかりその気になって――」
 「……」
 「もう一杯どうでっか」
 渋やんが黒田のグラスに再びビールを注いだ。
 「わし、女房に言いました。『ごめん、いきなり辞めるの難しいて、つい足が向いてしもうたんや。そやけど、もう大丈夫や。今度こそ目が覚めた。何でも言うこと聞くから別れんといて』。女房のやつ、『ほんまに言うこと聞くんやなあ』とぬかしよって、『肩揉め、足揉め、風呂桶を洗え、布団敷け――』。まるで奴隷でんがな」
 「……」
 渋やんの話し終わるのを待って、今度は、里やんが黒田の隣に立った。里やんの本名は石原浩二だが、頭の形が里芋によう似てるということで、えびす亭では里やんと呼ばれている。
 「渋やん、もうええがな。それだけ話したら充分やろ。今度はわしの番や。まあ、ヒゲさん、聞いておくれやす」
 黒田の左隣に立った渋やんが、話し足りなさそうにするのを横目で見て、右隣に立った里やんが話し始めた。
 「わしの弟のことですけどな。わしより二歳下の五六歳なんやけど、こいつが昔からケチでケチで、ほんまにどうしようもないドケチなんですわ。この間、わしの車が故障したんで、親戚の家に行くのに車を貸してくれと言ったら、『一万円でええわ』と言うんです。どない思います。兄弟を代表して、わしが親戚のところへ行くわけです。本来やったら、『兄ちゃん、どうぞ、使ってください。ガソリン入れときましたから』、そない言うのが普通やと思うのに、あいつと来たら『一万円でええわ』、自分の弟でありながらほとほとあきれました」
 「……」
 「昨日もそうです。わしが弟の家を訪ねて、母親の初盆の相談をしに行ったんですわ。弟のやつ、わしの顔を見るなり、『金ならないで』、のっけからこれですわ。わしも頭にきて、『わしらのおかんの初盆やないか、協力しようかという気にならへんのか』と一喝しました。すると、弟のやつ、『金ならないて言うてるやろ』とこうですわ。ほんまに我が弟ながら情けのうて――」
 「……」
 「すんまへん、気が付かんと。どうぞどうぞ」
 里やんが空っぽの黒田のグラスにビールを注ぐ。
 「そやけど、まあ、悪いところばっかりやないんです。ケチやけど、ええとこもおますんや。わしの三番目の娘がこの間、結婚しましたんやけど、――ええ、ようやく片付いてくれました。一安心ですわ。――お祝いや言うて、弟が娘に現金を包んで持ってきてくれました。娘もわしも、ケチの弟のことやから、どうせ大した金額やないやろ、そない思うて、弟が帰った後、袋を開けてびっくりしました。何と十万円入っていたんですわ。そういえば、弟のやつ、娘が子供の頃からよう可愛がってくれてましたなあ……」
 里やんが調子に乗って、まだまだ話そうとするのを押しとどめて、いままで黙って聞いていた黒田が、携帯のバイブレーションに気付いて携帯を取り出した。
 「……、里やん、ごめん。わし、ちょっと用事があって、今日はこれで失礼するわ」
 黒田はそれだけ言うと、勘定を払って出て行った。
 「珍しいなあ、ヒゲさんがこの時間に帰るやなんて」
 里やんが腕時計を見て首を傾げ、不満げに言う。
 「ほんまや。いっつも後、四〇分はおるのに」
 渋やんも店の掛け時計を見て、同様に首を傾げた。黒田はいつも午後七時に店へやって来て、午後九時に帰る。それがこの日は八時二〇分になるかならないかで店を後にした。めったにないことだった。

 黒田は、駅の切符売り場で券を買うと、急ぎ足で改札を通った。環状線で鶴橋まで行き、中央出口に出ると、周囲をキョロキョロと見回した。
 「社長……」
 声のした方向を振り返ると、和服に身を包んだ伊東綾子が立っていた。
 「おお……」
 懐かしいものにでも出会ったかのように黒田が目を瞬かせた。
 「お久しぶりです。お元気でしたか?」
 「まあまあやな、ぼちぼちや」
 「急にすみません。お電話なんかして……」
 「いや、ええねん。どっか喫茶店にでも入ろうか」
 黒田は千日前筋の道路に添って東に歩き、賑やかな通りにある喫茶店に入った。
 「それにしても珍しいなぁ……。あんたから連絡が来るやなんて」
 奥まった席に座った黒田が、アイスコーヒーを二つ頼んた後、綾子に言った。
 「すんまへん。社長さんの顔をふと思い出して、失礼とは思いながらお電話をさせていただきました」
 伏し目がちな目で黒田の顔を覗き見るようにして綾子が言った。相変わらず美しい。黒田は改めて綾子を見てそう思った――。

 五年も前のことになる。黒田はその頃、社長仲間と毎夜のように大阪ミナミ界隈を飲み歩いていた。五十歳を超えて間もなくのことである。社長仲間は五人、黒田と年齢の変わらない者たちが多かった。
 黒田の妻は裕子と言い、黒田が三十歳の年、父の親戚の勧めで見合いをして結婚した。裕子との仲はごく普通で、波風のないまま、子供を三人授かり、平穏無事に時が過ぎた。水商売の女と何度か浮気をしたことがあったが、一度もばれたことはなかった。その安心感が黒田にあったと思う。毎夜、社長仲間と飲み遊ぶうちに、黒田は、その頃、クラブ『カンナ』でホステスをしていた綾子と知り合った。綾子は着物が似合う、落ち着きと気品のある女だった。社長仲間の間でも、時折、綾子のことが話題に上った。ライバルのいることが、黒田の競争心に火を点けた形となり、黒田は綾子に傾倒して行った。
 綾子は常に控えめで、静かな女だった。自分から進んで無心をするようなタイプではなかったが、すっかり綾子に入れ込んでいた黒田は、ことあるたびに綾子を連れ出し、デパートで服を買ってやり、ホテルのレストランでコースをご馳走し、時には小遣いを握らせた。しかし、黒田がどのように攻勢をかけても、綾子は落ちなかった。社長仲間の間でもそれが話題になったことが何度かあった。
 「綾子は身持ちが固すぎる。おれはもう降りる」
 綾子を狙っていたライバルたちが次々と白旗を上げる中、黒田だけはしぶとく綾子にこだわった。
 ある日、綾子が神妙な顔をして黒田の前に現れた。
 「相談があります……」
 言葉少なに言って、綾子は「お金を借りたい」と黒田に言った。
 お金と聞いて、さすがの黒田もうろたえた。ホステスが金の話をし始めたらろくなことがない。今まで、何度も経験したことだ。
 「いくらいるんや?」
 黒田が聞くと、綾子はしばらく押し黙った後、
 「三百万円です」
 と言った。大金だ。
 「何に使うか、理由を聞いてもいいか?」
 「弟が入院していて、その費用のために……」
 嘘だと思った。弟の話も、入院の話も咄嗟に思い付いたものだ。
 「それでいついるんや?」
 「できたら早くがいいと思っています」
 「貸したとして、いつ返せるんや?」
 「……」
 押し黙った綾子を見て、返す気などないことを黒田は悟った。
 「三百万円でなかったらあかんのか?」
 「……」
 「二百万円やったらあかんか?」
 「それでも充分助かります。お願いします」
 「わかった……」
 と言った後、黒田はコーヒーを口にし、普段、禁煙を心掛けているタバコを口にした。
 「わしがあんたに惚れとることは知っているやろ?」
 「……」
 綾子が肩を震わせ、身を固くした。
 「お金は何とかするから、わしの思いを遂げさせてくれへんか?」
 「……」
 綾子は三十一歳、実際はもう少し年が上に見えないこともなかったが、立派に大人の女だ。しかも水商売を経験している。これまでに多分、多くの男と経験しているはずや。自分の女にしようとまでは思わなかったが、返って来ないのを知って大金を貸すほど、自分はお人よしやない。それなら一度か二度、自分と――。
 綾子にはこれまでずいぶん金をつぎ込んでいる。その金だけでも膨大なものだ。店に通い詰めた金も入れると相当な金額になる。元を少しでも取り返さないと、黒田はそんなせこい考えを持って、綾子に迫った。
 綾子はしばらく無言で下を向き、顔を上げようとしなかった。なで肩が小さく震えて、アップにした栗色の細い髪がクーラーの風に小さくなびく。黒田は、タバコに火を点け、せわしげにスパスパと吸った。
 「わかりました」
 綾子がきっぱりとした声で言った。黒田は、綾子の白い肌、細い指を見て、興奮を抑えきれずにいた。だが、それを表に出さないように心がけながら、綾子に言った。
 「金は明日、用意する。悪いけど引き換えでええか」
 綾子は「はい」と言って頭を振った。
 翌日、黒田は、自分の隠し預金の中から二百万円を引き出して、封筒に入れた。経理も女房も知らない金だ。
 難波駅の構内近くにあるホテルのロビーで綾子と待ち合わせの約束をしていた。すでに部屋の予約を済ませ、フロントで鍵も預かってある。黒田は落ち着かない気分でロビーを歩き回った。しかし、約束の時間になっても綾子は現れなかった。
 ロビーで黒田はタバコを五本吸った。一〇分経っても、三〇分経っても、一時間経っても綾子は現れなかった。携帯の番号を鳴らし、メールを送るが一切、返事は返って来なかった。
 女房には、友だちの家で宴会があって泊まって来ると言ってある。今さら家には帰れない。だが、もしかしたら何か、ことが起こって遅くなっているのかも知れない。そう考えて、黒田は辛抱強くロビーで待った。
 結局、その夜、黒田は、一人分をキャンセルして一人で広々としたツインルームに泊まった。
 翌日の夜、綾子の働くクラブ『カンナ』に行き、昨日のことを尋ねようと思ったが、綾子は店にいなかった。チーママが一人とホステスが二人、三、四組の客を相手に忙しく立ち働いていた。黒田は、ママが来るのを待って、綾子のことを尋ねようと思い、一時間ばかり酒を呑んだ。
 「あら、珍しい、今日はお一人ですか?」
 入って来るなり、ママは黒田をみて言った。黒田がこの店にやって来る時、常に社長仲間の誰かがいたからだ。
 「ええ、近くまで来ましたので寄りました」
 黒田が如才なく答えると、ママは、顔をほころばせて「嬉しいわ」と言った。
 「今日は綾子ちゃんはいないのですね」
 さりげなく黒田が聞くと、ママは顔をしかめて、
 「急に辞めちゃったのよ」
 と言って、昨日の夜遅く、綾子から連絡があったことを話した。
 「急なんですね……」
 「ほんと、急にやめられると困るのよね。特にあの子の場合、人気があったから」
 と言って、ママは黒田を見た。
 「ここだけの話なんだけど、あの子、いろいろあってね……」
 そう言ってママは、黒田に綾子のことを話して聞かせた。
 「あの子、結婚こそしていないけど、同棲している男がいてね。小説家を目指しているとかで、ほとんど働かずに部屋に閉じこもって小説を書いているような男だったわ。そんな男、捨てて、もっといい男を探しなさいよ、と何度か言ったことがあるけど、よほど、その男が好きなんでしょうね。何を言っても堪えなかった。ところが三か月前に男が入院して、最初は養生すれば治るようなことを言っていたけれど、本当はかなり重症のようでね。手術をしなければならなくなって、私のところに前借を頼みに来たけど、少しぐらいなら融通できるけど、高額になると、ちょっとねえ……。物入りな時だったから断ってしまったのよ。結局、昨日、その男、入院先の病院で亡くなって……。綾子からしっかりした声で、亡くなったと連絡があって、今日で辞めたい、というのよ。お金を融通してあげられなかった負い目もあって、仕方がないわね、としか答えられなかったわ」
 黒田は愕然とした。弟でこそなかったものの、入院は本当だったのだ。それなのに自分は肉体関係と引き換えに金を提供しようとしていた。何という料簡の狭い男だ、おれは……。
 翌日、午後になって、黒田の携帯に綾子から電話があった。驚いて電話に出ると、
 「先日は連絡もせず、約束を破って申し訳ありません」
 いつもと変わらない綾子の声だった。
 「ママに聞いたよ。大変だったね」
 綾子の声が少し詰まって、聞こえにくくなった。
 「――そういう事情ですので、お約束したお金のことは不要になりましたので、どうかお忘れください。ご無理を申し上げてすみませんでした」
 「また、会えるかな」
 綾子の声がまた詰まって聞こえた。
 「いろいろとありがとうございました。クラブ『カンナ』を退職させていただきましたので、しばらく一人で考えたいと思っております。本当にお世話になりました。社長様もどうかお元気で――」
 「もしもし!」
 黒田が叫んだが電話は不通になっていた。それが綾子と話した最後だった。その綾子が五年経って再び黒田の前に現れた――。

 「元気そうでよかった。今、どうしている?」
 黒田が聞くと、綾子は小さな笑みを浮かべて言った。
 「奈良の橿原で小さな小料理屋をやっています。今日、用事があって鶴橋へ来ましたので、社長様に連絡を取らせていただきました」
 綾子の話を聞きながら、黒田は疑心暗鬼でいた。もしかしたら、また、金を貸してくれというのではないか……、五年前と違い、今の黒田には隠し預金がない。三年前、女房にばれて、根こそぎ取り上げられた。
 「仕事の方はどないや? 流行っているか」
 「流行っているというほどではありませんが、何とかやって行けています。早いものです。店を開いてもう四年になります」
 「四年? じゃあ、店をやめて一年後に開業したんだ」
「店を辞めてから、しばらく会社勤めをしたり、飲食店に勤めたりしましたが、ホステスはピッタリ辞めました」
 「一緒に住んでいた彼が病気で亡くなったんだろ。ママに聞いたよ。すまなかったな。役に立てなくて」
 「いいんですよ。彼と言っても実の弟なんですよ。姓が違うからママはそうは思っていなかったようだけど、中学の時に両親の離婚で離れ離れになった弟なんです。体の弱い子で、大学も途中で退学しなければならないほど病気が悪化して、私がずっと面倒を見ていました」
 「弟? 彼じゃなかったのか」
 「顔もあまり似ていませんでしたから、誤解していた人が多かったようですが、弟です。元々、体の弱い方でしたから、働くことができず、小説家になって私を楽にしてやる、そう言って毎日、小説ばかり書いていました。でも、難しい道ですから簡単にはいきません。でも、ようやく、出版社から返事が来て、デビューするチャンスが来たのですが、その前に倒れてしまって、手術をすれば何とかなると言われていて、それで黒田社長にもご無理なお願いをしたようなわけで……。その節は本当に申し訳ありませんでした」
綾子は黒田の前で深く頭を下げた。
 「いや、こちらこそ申し訳なかった。ところで今日は何か用があったんじゃないのか?」
 黒田が尋ねると、綾子は急に思い出したように、
 「実は……」
 と言った。
 黒田はそれを聞いて、そら来た、と思い、断る口実を考えた。今頃になって会いに来るのだ。借金の申し込みに決まっている。きっと店の状況もよくないのだろう、そう思った。
 「社長にプレゼントしたいものがありまして、それをお渡ししたくて持って来ました」
 「プレゼント?」
 借金の申し込みじゃなかったのか――。意外な展開に黒田は一瞬、呆気に取られ、綾子の手にある袋に入ったものを凝視した。
 「弟の高志の遺作集です。自費出版をしようと思っていたのですが、出版社にお送りして見ていただいたら評価がよくて、今回、こうして出版されることになりました。弟の夢がかなって私も嬉しくて……。それで散々お世話になった社長のことを思い出して、お持ちした次第です。お読みいただければ弟もきっと喜ぶと思います」
 黒田の前に置かれた『姉さがし』というタイトルの本を前にして、黒田は複雑な思いでいた。一度ならず二度までも、自分は綾子を疑ってかかった。何という料簡の狭さだ……。
 「この本は、幼い時に生き別れした姉を探して、心を病んだ弟が旅する物語です。出版社の編集の方のお話では、現代人の絆のあり方を問う、問題作だと言うことです。発売は来週からということになっていますが、一足はやく社長様にお持ちしました。ぜひお読みください」
 綾子は、それだけ言うと、伝票を持って、そそくさとレジに向かった。黒田はあわてて綾子を追いかけた。
 「コーヒー代は私が払うから」
 そう言ったが、綾子はすでに勘定を済ませていた。
 駅で別れる間際、綾子は名刺をお渡しするのを忘れていた、と言ってバッグから名刺入れを取り出し、そのうちの一枚を抜いて黒田に手渡した。
 「よかったら一度、食べに来てくださいね」
 そう言うと、綾子は大急ぎで改札をくぐり、ホームに向かって小走りに走って行った。
 『料亭はるき』
 名刺にはそう書かれていた。多分、『はるき』というのは、亡くなった弟の名前ではないか、黒田はそう推測した。『料亭はるき』と言えばテレビでもよく取り上げられる有名な高級料理店だ。綾子はその店の経営者だった。

 午後七時、えびす亭に黒田が入ると、待ち構えていたように数人が、ヒゲさん、と言って寄って来た。黒田がビールを注文し、酒の肴に「たこわさ」を頼むと、近藤康文、通称、近ちゃんが黒田のグラスに乾杯して、
 「まあ、聞いてくださいよ――」
 と話し始めた。
 黒田は、近ちゃんの話を聞きながら、綾子のことを思っていた。綾子が今でも一人なのか、誰かと結婚しているのか……。しかし、考えても仕方のないことだ。綾子はもう、とうの昔に自分とは縁遠い人間になってしまっている――。
<了>

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