妖精たちの葬列

高瀬 甚太
 
 梅雨明け間近の日差しが、刺すように熱い午後のことだった。送付されてきた「大谷藤吉を偲ぶ会」のハガキを手にした私は、ハガキの主が誰であったか、すぐには思い出せず、過去の作品を見直して、ようやくそれが五年前に制作した自費出版本の著者であることを思い出した。
 出版の仕事をしていると様々な人と思わぬ縁が出来る。ただ、出会うだけでなく、本を作ることによって親しい付き合いが出来、縁がより深まることもある。
 本の制作には三カ月ほどの時間を要するが、中にはその倍以上、時間を要することもあった。
 大谷藤吉氏の場合、当初の予定より半年程度完成が遅れた。
 順調に制作が進んでいたのだが、途中で大谷氏が体調を崩し、入院したせいで大幅に遅れ、回復を待たなければならなかったことが主な原因だ。
 大谷氏の半生を綴る自叙伝だったが、初めて話を聞いた時、その内容に目を見張ったことをよく覚えている。
 大谷氏は当時九二歳だったが、年齢の割には矍鑠として、体格も立派であった。とても九二歳の老人には見えない、というのが初めて会った時の私の率直な感想だ。
 理路整然として、自身を語るのにかなり細かなところまで記憶しており、その記憶力の確かさ、知識力から言って、スムーズな制作が望めるのではと期待した。
 九二歳の今も、代表取締役会長として現役を貫いていたが、実質的な経営は社長である娘婿が行っていた。
 初めて大谷氏の取材を行った時、開口一番、聞かされたのは戦争体験のことだった。
 白髪と白いあご髭が印象的な大谷氏は、仕立てのいい和装に身を固め、背筋をピンと伸ばして私に語った。
 「わしがここまで元気に生きて来れたのはフィリピンでの体験がすべてでしょうな。あの体験で不死の生命を吹き込まれたような気がします」
大谷氏の言うフィリピンでの体験というのは、戦時中、南方の最前線、激戦区に放り込まれた時のことを言う。
 「南方での戦闘は、戦うというよりは逃げまどい敗走するということの方が多く、百人近くいた隊員は、密林を逃げまどう中で、あっという間に一割にも満たない人数になってしまった。それでも、兵士たちは最期まで闘う意志を捨てていなかった。それはこれまで教育されてきた愛国心、軍国教育に依るところが大きかったと思うが、それ以上に強かったのは、生きて捕虜になりたくない、その思いからだったと思う。
 わしも敗走の中で、右足大腿骨に敵の弾が当たり、幸い貫通したものの、流れる血を止めることが出来ず、痛む足を引きずりながら必死になって密林をさ迷った。
 しかし、足の痛みは歩行する意欲を徐々に奪い、やがて隊列に置き去りにされ、木々の生い茂る密林の中で動けなくなったわしは静かに死を覚悟した。
 どれほどの時間、眠っていたのか、ふと気が付くと奇跡が起きた。足の痛みが消えていたのだ。貫通したところも癒えていた。驚いて立ち上がると足の疲れも痛みも消え失せていた。
 密林の中を見回した。すっかり夜になっていた。暗闇の中に何かしら気配がしたのでその方角をじっと見つめた。
 気配はやがて光の束となってわしのそばに近づいてきた。わしは恐怖におののきながらもその光の束が近づくのを待つしかなかった。
 驚いたことに光の正体は小さな妖精の群れだった。妖精たちは大群になり、それに包まれたわしは身動き一つ出来なくなり、その場に立ちつくしてしまった。
 その時、わしは、子どもの頃、父親に読んでもらったフィリピンの民話を思い出した。本の中に百年に一度現れる妖精の話があった。
 物語の中で、妖精たちは正義でも悪でもなく、生命あるものすべてを愛する存在であると書かれていた。
 わしは目を瞑って、足を広げて妖精たちに身を任せた。10分ほどの時間であったか、1時間であったのか、時間の感覚などその時のわしにはなかったと思う。
 しばらくして光の大群が遠ざかったような気がして目を開けると、元の暗闇に戻っていた。
 敵軍に捕まり、捕虜となったのはそのすぐ後のことだ。終戦を迎えるまで捕虜として捕らえられ、終戦を待ってわしは無事日本に戻された。その時もその後もわしは様々な災厄から逃れ、今日まで生き続けることが出来た。わしは、それはきっとフィリピンでのあの体験が大きかったのではないかと今でも信じている」
 大谷氏の語る物語の大半が、フィリピンでのその体験に費やされていたのも無理からぬ話だった。何故なら大谷氏はその後、何度も事故や病気で命を落としそうになるのだが、そのたびに不死鳥の如く死の淵から甦り、九二歳の今日に至るまで生きながらえている。大谷氏の言うフィリピンで不死の力を得たという表現もあながち嘘だと言い切れないものがあった。それはまるで不死の生命を宿された者の生き方のように思えたからだ。
 大谷氏の話を極限の中で見た幻想と決めつけることはたやすかった。だが、大谷氏の聞き取りをしているうちに私はあることに気付かされ、いつしか妖精の存在そのものを否が応でも信じなければならなくなった。
 
 私はまず大谷氏が幼い頃に父親に読んでもらったというフィリピンの民話を探す作業から開始したが、意外にもそれらしきものは府立図書館で容易く見つかった。分厚い民話本を想像していたが、A4判の大型絵本で、タイトルが『ドゥエンデ~小さな生き物』と言い、木や山、田舎の地域に住む小さな生き物が主人公の物語だった。ドゥエンデを扱う人によって善にもなり悪にもなる、そんな物語で、大谷氏の言う妖精というのは、このドゥエンデでないか、とそれを見て私は思った。絵本は田舎の小さな村を舞台にしていて、そこに住む子どもを主人公にして描かれ、ドゥエンデが子どもを虐める悪い大人たちを退治するといった話だった。読み終えてふと疑問が起こった。大谷氏は小さな光の大群と言った。ドゥエンデは一つの小さな生き物で大群にはならない。妖精といった訳し方もしていない。大谷氏の言う妖精ではなかったのかと、絵本を読んでがっかりした。
 フィリピンには、他にも「ディワータ」という妖精が棲んでいるということがわかった。もちろん想像上のものだ。森、海、山、大地、大気といった自然の創造物を守護すると信じられている妖精で、森や山に良いことをするものには恵みをもたらすが、悪いことをするものには呪いをかける。むしろこちらの方が近いではと思ったが、これもまた、大谷氏の言葉を裏付けるものではないような気がした。
 大谷氏にその二つの妖精の話をしたがピンと来なかったようだ。曖昧な返事しか返って来なかった。妖精の話をどう取り上げるか、大谷氏の自叙伝を描いていて一番躊躇する部分だった。妖精が大谷氏の幻想の産物であるとしたら、自叙伝もまたすべて作り事のようになってしまう。それだけは避けたかった。
 あともう少しで原稿が完成するというところまで来て、大谷氏が倒れ、入院した。医師の診断では、体力面で限界点に達しているということだった。私は、この本が未完成に終わることを覚悟した。
 しかし、大谷氏は一カ月入院しただけで奇跡的に回復した。医師でさえも驚くほどの回復ぶりで、この時も大谷氏は喜々とした表情で私に言った。
 「編集長、今度も妖精たちが私を助けてくれましたよ」と。
 
 結局、妖精の部分は、フィリピンで死地に陥った大谷氏が見た幻想として描き、以後、その幻想体験が大谷氏を支え続けてきたといった筋立てにした。大谷氏はその筋立てに少々不満のようだったが、最終的に了承し、ようやく完成に漕ぎつけることができた。
 その後、私は大谷氏と疎遠になり、せいぜい年賀状のやりとりだけで健在ぶりを確認するだけになった。
 大谷氏の影響で妖精に興味を持った私は、その後しばらく妖精についての研究をし、調査をした。
 妖精の記録や解説、研究書はヨーロッパに多くみられ、ヨーロッパ以外の土地では記録が少なかった。私の調べ方にも問題はあっただろうが、納得の行く答えが見つからないまま、その後、多忙を極める状況に陥ったため、中途半端の状態で妖精調査から撤退した。
 
 大谷氏が亡くなったことを私は案内ハガキをもらうまで知らなかった。
 「大谷藤吉を偲ぶ会」は七月十五日の開催となっていた。一週間後だ。場所は北区のホテルで、会費は無料となっていた。無料となれば参加しないわけにはいかない。
 七月十五日のその日、あいにくの雨で天候が悪かった。一度、事務所へ出た私は、一仕事片づけて、傘を手にホテルへ向かった。事務所からホテルまではそう遠い距離ではなかった。
 
 大谷氏の本が完成した後、身内を中心に二百冊ほどに配ったが、評判は今ひとつ芳しくなかった。特に悪評だったのが妖精のくだりだった。
 妖精などいるはずがないじゃないか。ほとんどの認識がそうであったから、それを書いた大谷藤吉は、とうとう惚けてしまったのではないかと多くの人に敬遠される結果となった。
 大谷氏の物語の中に不思議なことがいくつかあった。大谷氏は三四歳の時、大変な交通事故に遭っている。大型トラックと正面衝突する大事故だった。車は大破し、大谷の生命も危ぶまれたほどだ。しかし、大谷は重傷でこそあれ、生命に別条はなく、一カ月ほどの入院で退院した。この時も大谷は妖精たちが助けてくれたと語っている。
 それだけではない。四二歳の時、大谷は同僚たちと釣りに出て、その釣り船が沖合で転覆し、乗船が転覆するという事故に遭っている。この時、乗船していた六人のうち五人が死亡している。それほどの事故であったにも拘わらず、大谷だけが救助され、一命を取り留めている。この時もまた大谷氏は、「妖精に救われた」と述懐している。
 こうした例が大谷氏の場合、数限りなくあった。周囲は運がよかったと片付けるが、大谷氏は、運ではない、妖精のおかげだとその都度語ったという。
 大谷氏の語る妖精がどんなものかを何度か大谷氏に尋ねているが、大谷氏は明確に答えたことがない。唯一、語ったのが、「言葉では言い表せない。言えるとしたら光だけだ」。の言葉だった。
 妖精といえば誰もが小さな人形のようなかわいいイメージを持つだろう。しかし大谷氏はそれを即座にそうではないと断言した。
 「妖精は大群で現れ、光で私を包み、そして消えた」
 と言うのだ。
 一般的に妖精とは、西洋の伝説・物語などで見られる自然物の精霊と、辞書に書いてある。東洋では、妖精という言葉は「妖怪」などと同様の「魑魅魍魎」を指す一般名詞であるとされている。しかし、それ以外でも未確認生物を指して妖精と呼ぶこともあるようだ。大谷氏の見たものが本当に妖精だったかどうか、その真偽のほどは疑わしいが、そうなると再び妖精は大谷氏の妄想から生まれたものではという見方が浮上する。
 
 ホテルの会場に入ると、生前の大谷氏の人柄を偲ばせるかのようにたくさんの客が来場していた。そのほとんどは年長者であり、そうした人のほとんどは中央に飾られた大谷氏の遺影を見て、肩を落とし悲嘆した。
 遺影の側には、私が書いた大谷藤吉の自叙伝が数冊飾られていた。家族や親族は会場の中央に座し、その他のおよそ三百人にも及ぶ来場者はその交際の濃密さによって席が設けられていた。
 本を書いただけに過ぎない私などは、当然、末席で、会場を見渡しても当然ながら見知った人など一人としていなかった。
 大谷氏と取り分け親しかったとされる明快電気の会長、里山浩二郎が主賓としてスピーチを読み上げた。その後、次々と関係者が弔文を読み上げる。会は澱みなく進み、最後の挨拶に大谷氏の娘婿が立った。
 娘婿は、大谷氏の遺影に向かって弔文を読み、振り返って来場者に本日の責任者として静かにお礼の言葉を述べた。その時のことだ、突如として異変が起きた。
 会場の照明が一斉に消えたのだ。続いて漆黒の暗闇が底から湧き上がるようにしてすっぽりと会場を包み込んだ。
 暗闇に大谷藤吉の遺影が大きく光り、映しだされると、その遺影から無数の光が飛び散った。
 ああ……、妖精だ。
 私は思わずそう呟いた。だが、それはまったくの一瞬だった。すぐに照明がつき、会場は何ごともなかったかのように平静を取り戻した。
 
 大谷藤吉の人生を語る時、多くの人は、立志伝上の人物としてその功績を称える。だが、自叙伝の執筆に係わった私は、大谷氏のこれまで成してきた多くの事柄から、人々に惜しみなく愛を与え続けた人徳の人として捉えた。したがって自叙伝の中でも経済的な功績よりも人との関わりの方に重点を置いて描いたつもりだ。
 「偲ぶ会」から一週間後、私は思い立って大谷氏の墓参りをすることにした。
 大谷氏の墓は、阪急電車で箕面駅まで行った後、専用バスに乗り15分ほど乗車したところにある霊園地帯にあった。
 平日の朝とあって専用バスを降りる客は老婆と私の二人だけだった。
霊園の中央に大谷氏の墓を見つけた私は、手に持っていた花を飾り、線香を点し、ロウソクを付けて丁寧にお参りをした。合わせた手を離し、閉じていた目を開けた時のことだ。
 墓の周りに無数の光の粒、いや、正確には光る生物のようなものが、墓を覆い尽くしていた。
 これが妖精なのか……。
 私は、光の粒、いや正確には光る生物をただただ見守った。
 やがて、それは静かに私の前から消えて行った。
 信じられない光景を見て、幻想ではなかったか、それとも真実だったのか、整理出来ないまま、私は霊園を離れると、ゆっくりとバスに乗車した。
偲ぶ会と言い、墓碑と言い、不思議な光景を私は二度も目撃した。大谷氏の話は嘘や偽りではなかったとその時になって初めて受け止めることが出来た。
 それ以来、妖精らしきものの姿を見かけたことは一度もない。
〈了〉

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