聖なる少女に愛を

高瀬 甚太
 
 早朝、まだ明けやらぬうちに目が覚めた。午前四時を少し回った時間、透き通るような静寂の中に身を置いていると、それ以上、眠る気が失せてしまった。洗面所に立ち、顔を洗い、歯を磨く。洗面所の鏡が古希を過ぎた石田の顔を鮮明に映し出す。眼の下のたるみと口角のたるみ、否が応でも老いを意識させる。 
 「瑞枝――」
 いつものように妻の名前を呼ぼうとして、気が付いた。妻は昨日から実家に帰っている。三重に住む実家の母の体調が思わしくなく、三日ほど帰ってくると言って昨日の朝、家を出た。結婚して四十年余が経つ。相性がいいのか悪いのか、大きな諍いこそなかったが、小さな喧嘩はよくする。昨日も出がけに些細なことで言い争いをした。石田の妻は気が強い。その気の強さが災いして、時々、暴発する。五歳も年が違うのだから、石田の方が諫めなければいけないのに、いつも一緒になって言い争いをしてしまう。
 「帰ってくるな」
 「帰ってきません」
 売り言葉に買い言葉だ。石田の妻はそう言って昨日の朝、家を出た。
 六十五歳で定年退職して以来、これといった趣味を持たなかった石田は、ぼんやり過ごすことが多くなっていた。そんな石田と比べて妻は、家事全般の忙しさもあるが、友人との付き合いやお稽古事で家を空けることが多い。何か趣味でもあればと思うのだが、せいぜい本を読むか、音楽を聴くことぐらいしか能のなかった石田は、どうしても家で過ごすことが多くなる。
 
 携帯電話の呼び出し音が勢いよく鳴ったのは午前六時を過ぎた辺りだった。石田はまだ床の中にいた。こんなに早く電話をしてくるのは妻しかいない。そう思い着信を見ると、見慣れない番号だった。
 電話に出ると、年配の女性のあわただしい声が聞こえた。
 ――もしもし、すぐに来て! 危ないのよ、すぐよ!!
 間違い電話だと気づき、
 ――私、石田と申しますが、間違っておかけやないですか?
 名を名乗り、間違い電話だということを教えようとしたが、相手はまるで気づかない。
 ――とにかく来てって言ってるでしょ。病院、わかっているよね?
 ――いえ……、わかりませんが……。
 ――この間、来たばかりじゃないの。しっかりしてよ。大阪の○○病院、そこの新館五階の五○五号室。わかった? じゃあ、待っているからね。
 一方的に電話が切れた。間違い電話だということを報せてあげなければ、そう思って急いで掛け直したがいくら呼んでも、何度、電話をしてもつながらなかった。
 相手は間違ってかけたとは思っていないはずだ。そう思い、再び電話をした。だが、やっぱりつながらない。よほどのことが起きているのではないかと思った。
 知らせなければならない人に伝わっていない。そのことを一刻も早く教えてあげる必要がある。どうすればいいのだろうか。急に落ち着かなくなってきた。
 ――もしかしたら私の知っている人なのかも知れない。
 間違ってかかってきたのには、何か理由があるのかもしれない。だが、石田にはまるっきり見当がつかなかった。
 ――病院に行ってみようか。
 ふと、そんな気になった。
 大阪の○○病院だったら知っている。石田の住まいから一時間程度の距離で行ける。途中で特急に乗り換えればもう少し早く着くだろう。手早く食器を洗い、ゴミを片づけ、急いで服を着替えて家を出た。
 いい天気だった。快晴の空に白い雲がたなびいている。
 〇〇病院まで駅から歩いていけない距離でもなかったが、電話の「スグに来て」の声が耳から離れず、駅前の花屋で花束を買い、タクシーに乗車した。
 病院の玄関をくぐると待合室に患者が列をなしていた。この地域唯一の総合病院とあって、受診者の数は想像以上に多かった。エレベータで五階に昇り、ナースステーションで五○五号室を尋ねると、眼鏡をかけた中年の婦人看護師が、
 「五○五号室には四人の患者さんが入院されていますが、どなたをお訪ねですか?」
 と聞いた。
 「いえ、それが、名前がわからなくて――」
 看護師が不審な表情で石田を見た。石田は今朝早く、電話をもらったこと、すぐに来てくれと言われたことを話し、すぐに間違い電話だと気づいたが、相手の電話につながらず、病院へやってきたことを話して聞かせた。
 「今朝の六時に電話がかかってきたのですね」
 「そうです。間違いありません」
 「五○五号室の患者さんで、今朝の六時、一時的に危険な状態に陥ったのは、橋戸由貴さんです」
 「橋戸由貴さんという方ですか―」
 名前に心当たりはなかった。
 「ともかくご案内します。橋戸さんのご家族に間違い電話だったということを説明してあげてください」
 石田は、看護師に誘導されて五階の一番奥にある病室へ向かった。
 病室に入ると、看護師は奥の窓際へ向かい、カーテンを開けて、
 「橋戸さん」
 と名前を呼んだ。
 ベッドの傍に中年の婦人が座っていて、白いベッドに少女が横たわって眠っている。
 「こちら石田さんです。今朝、早くに電話をもらったと仰ってこちらへ駆け付けて来られました」
 付き添いの婦人が呆気にとられた表情で石田を見て、慌ててバッグから携帯電話を取り出し、番号を確かめる。
 「あらっ、いけない。私、兄にかけたつもりで間違ってかけているわ」
 婦人が恐縮した様子で石田に向かい深々と頭を下げた。
 「やっぱり間違いでしたか。いや、そうではないかと思い、何度も電話を掛け直させてもらったのですが通じなくて、気になってここまでやって来ました」
 「申し訳ありません。病院内での電話が禁じられていましたので、かけられる場所まで行き、かけ終わった後、すぐに電話を切ったものですから、まったく気が付きませんでした」
 そう言って、婦人は石田に向かって再び頭を下げた。
 「気になさらないでください。もしかして私の知っている人かもと思い、駅前で花を買って来ました。お嬢さんにこのお花をどうぞ」
 紙バッグに入った花束を石田は婦人に差し出した。
 「ありがとうございます。本当に申し訳ないですね」
 と丁寧に礼を言い、ベッドで眠っている少女に声をかけた。
 「由貴ちゃん、起きている?」
 由貴という少女は、昏々と眠っていて目を覚まさない。
 カーテンの外へ私を連れ出した婦人は、これまでの経緯を石田に説明した。
 「今朝、心肺停止になりかけまして、急いで身内の方を呼んでおいてください、と先生に言われたものですから、慌てて由貴ちゃんの父親――私の兄にあたるのですけど、に連絡を取ったつもりでいました。その時、すっかりあわてて間違ってそちらに電話をおかけしたようです」
 「もう一度、お兄さんに電話をされたらどうですか?」
 「今は先生方のおかげで何とか小康状態を保っていますので、もう少し様子をみてから連絡することにします」
 婦人はベッドで眠る少女を見つめ、カーテンを閉めると、しみじみとした口調で石田に言った。
 「由貴ちゃんは父親と二人きりの生活をしていましてね。というのも由貴ちゃんの母親は、病気で早くに亡くなりましてね。父親も仕事が忙しくて滅多に病院に顔を出せないものですから、こうやって私が由貴ちゃんの世話をしているようなわけです」
 その時、不意にカーテンの中から声がした。
 「おばさん、誰か来てるの?」
 婦人は、カーテンの中に顔を突っ込むようにしてベッドに寝ている少女に言った。
 「私が、お父さんに電話をしようと思って間違い電話をかけた方が来られているの。お花もいただいたのよ」
 カーテンを開けた婦人は石田をその中に招き入れ、由貴に説明をした。
 「こんにちは」
 ベッドに横たわったままの由貴に挨拶をした。
 「こんにちは。はじめまして」
 か細い声が聞こえた。黒い瞳と白い歯、透き通るような肌が印象的な少女だった。
 由貴はベッドから身を起こそうとしたが、石田はそれを押しとどめるようにして言った。
 「どうぞそのままでいてください。もうすぐ失礼しますから」
 「すみません。でも、本当にありがとうございます。最近、見舞いに来てくれる人が少なくなって、ちょうど退屈していたところなんです」
 つい数時間前まで心肺停止の危機状態にあったと思えないほど、由貴は明るく陽気に石田に語りかけた。
 「この子、一年近くも入院していて、その間も急に体調に異変を起こしたり、今日のように危険な状態に陥ることもしばしばで――、それなのに、明るく陽気に振る舞って、それがもう不憫で……」
 婦人がハンカチで目頭を押さえ、涙ぐむ。
 窓の外にはコバルトブルーの空が広がり、綿のような白い雲がふわふわと浮かんでいる。石田は小さな吐息を漏らして由貴を見た。
 十代半ばだろうか。人生の中で一番楽しい時期のはずなのに、病院のベッドで一進一退の日々を送っている。
 由貴が石田に言った。
 「私、いつも思っているんですよ。このまま、この病室でこのベッドで、死を迎えることになるのかなって。最初のうちはそんなことを考えるのが嫌でした。でも、最近は少し違っています。私の命は私が決めるものではない。神様が決めるものだって……。どこで生きても一生、どこで死んでも一生――。今、この時間、生きているこの時間を大切にしたい。そう思うようになりました」
 その言葉が重く、深く、石田の胸に突き刺さった。婦人があわてて由貴を諫める。
 「これ、なんてことを言っているんです。死ぬなんて縁起でもないことを言うんじゃありません」
 由貴はなおも石田に言う。
 「でも、本当なんです。自分の体のことって自分が一番よくわかるんです。あとどれぐらい生きられるか、そのことさえも――」
 「由貴ちゃん、よしなさいって言ってるでしょ」
 再び、婦人がたしなめるように言うと、由貴は石田に向かってペロリと舌を出し、おどけた表情をしてみせた。石田は、そんな由貴をみて思わず笑った。かわいい少女だ。石田には子どもがいない。だから余計に可愛く思うのかも知れない。
 「石田さんのことお聞きしていいですか?」
 由貴が甘えた声で言う。それを婦人があわてて止めようとする。石田はそれを制してやさしく由貴に話しかけた。
 「いいんですよ。由貴ちゃん、どんなことでしょうか?」
 「石田さんはお子さん、いらっしゃいます?」
 石田は言葉に詰まった。
 「悲しい質問だな。残念ながら子宝に恵まれなくてね。ずっと妻と二人きりの生活を送っているんだ」
 「すみません。失礼なことをお聞きして」
 謝ったのは婦人の方だった。石田は笑った。
 「大丈夫ですよ。由貴ちゃん、気にしなくていいからね。私のような子どものない家庭も世の中には多い。でも正直なところを言えば、やはり子どもは欲しかったね」
 ――結婚して三十五年、子どもがいたら、と何度思ったことだろう。結婚して三年目に医師に相談をし、検査をしてもらった結果、特に問題はないと言われて安堵した。だが、どういうわけか、その後も子どもに恵まれることはなかった。あきらめたのは、妻が子宮筋腫の手術をし、子宮を摘出してからのことだ。
 「石田さんは輪廻転生って信じます?」
 突然の由貴の質問に石田は驚いた。
 「どうだろうね。これまであまり考えたことがない。輪廻転生とは、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物も含めた生類として生まれ変わることだ、ということぐらいしか知らないね。信じるか、信じないかと問われたら、――」
 石田は言葉に詰まった。無信仰の石田にはすぐには答えることができなかった。
 「私、信じているんです。輪廻転生は、私の信仰するキリスト教の考えにはないけれど、私の魂は必ず生まれ変わる。そう信じています」
 婦人がやれやれといった様子で横から口を挟んだ。
 「この子ったら、最近、こんなことばかり言って困らせるのですよ。自分が死んだら次は何に生まれ変わるのだろうって。おかしな子でしょ」
 石田は婦人に小さく首を振り、由貴に問いかけた。
 「由貴ちゃんは、自分が何に生まれ変わりたいか、考えたことがあるの?」
 由貴は寝床にいて目を輝かせた。石田はそれを見て、この子は生よりも死を考えている。そう思った。
 「なんでもいいの。今度生まれ変わったら長生きできなくてもいい。ほんの少しでもいい。人の役に立てればと思っているの」
 少女はそう言って静かに目を閉じた。その様子を見て婦人が石田に説明をした。
 「この子にしては長話をしすぎたのでしょう。疲れたようです。ごめんなさいね。話の途中で眠ってしまって」
 「いえ、こちらこそ申し訳ございません。気が付かず、長話をしてしまって」
 丁寧に頭を下げ、石田はもう一度、眠っている由貴の顔を見た。まるで、おとぎ話に出てくる「眠り姫」のようだと、由貴を見て思った。「眠り姫」は、グリムの童話に出てくる有名な話で、悪魔に呪いをかけられたお姫さまが、百年眠ると予言され、百年目に姫を見つけた王子によって目を覚ますといった話だ。
 「輪廻転生などではなく、元気な姿で甦ってほしいものですね」
 病室の入り口まで見送ってくれた婦人にそう言葉を投げかけて石田は病院を出た。見送ってくれた婦人の曖昧な笑顔が印象的だった。
 
 このところずっと石田は苛々していた。何に対しての苛々なのか、自分でもよくわからないまま不安定な日々を送っていた。定年退職をして以来、ずっとそうだ。退職金と年金のおかげで生活には困っていなかったが、何をしていいのか、目標のない毎日が石田の精神を混乱させていた。このまま死を待つだけのそんな寂しい人生でいいのか。ふと自問自答することもしばしばだった。そんな石田に比べて妻の瑞枝は至って呑気だった。「いいじゃないですか。長い間、働きづめだったのですから少しはのんびりなさったら」と、笑っている。
 病院から帰宅した後、石田は食事をしていないことに気が付いた。外食をして帰ればよかったのだが、寄り道をするのが面倒になって真っすぐに帰宅した。
 「ただいま」
 声を上げ、ドアを開ける。妻がいようがいまいが、それが石田の習慣だった。間際にローンが完了した二階建て家屋は、二人で住むには広すぎた。一階だけで事足りて二階はほとんど使用していない。上着を脱ぐとすぐに台所に向かった。冷蔵庫を開けると、昼食用にと、瑞枝が作り置きしてくれたそばめしが皿に入って置いていた。神戸出身の瑞枝は、そばめしが得意で、石田も瑞枝が作るそばめしが好きだった。
 レンジで温め、それをいただくともうお腹が一杯になった。散歩に出かけようと思い立ち、軽装に着替え、サンダルを履いて家を出た。三月にしては暖かな日だった。石田の家と同様の二階建て家屋が立ち並ぶ静かな住宅街、典型的な新興住宅地だ。辺りには公園もあり、川もあった。坂道を少し歩いたところに見慣れぬ建物を見つけた。小さな真新しい教会だった。いつの間に出来たのだろうか。考えているうちにいつしか教会の前まで来ていた。
 ――由貴ちゃんのために祈ろうか。
 石田はクリスチャンではなかったが、祈ることぐらいは許してくれるだろう、そう思って教会の扉を開けた。プロテスタントの教会なのだろう。正面に講壇があるが、それ以外、特別な飾りは何もなかった。
 「聖書は信仰生活のすべてであり基準であり規範である」が、プロテスタント教会の特徴と聞いたことがある。妻と交際する以前、石田には二年ほど交際していた女性がいた。その女性は熱心なクリスチャンで、石田もその女性に誘われて何度か教会に行ったことがある。その時も簡素な講壇しかない教会だった。そこで何度か神父の説教を聞いたことがあった。残念ながら石田はその女性と破局し、以来、教会には一度も行っておらず、その時、聞いた神父の説教も今はもう耳には残っていない。
静寂に満ちた教会の中に足を踏み入れると、講壇の奥のドアが開き、タイミングよく神父が現れた。
 「すみません。断りもなく入りまして」
 石田が謝ると、神父がにこやかな笑顔を浮かべて「こんにちは」と挨拶し、「結構ですよ、どうぞ」と石田を教会内に招き入れた。
 「信徒ではありませんが、散歩途中に寄らせていただきました」
白髪の目立つ老年の神父だった。縁なしの円い眼鏡が小太りの顔によく似合っている。親しみやすいその表情に安心した石田は、講壇の前まで近づいた。
 「教会は初めてですか?」
 神父に聞かれた石田は、遠い昔の彼女を思い出した。
 「いえ、でも、協会に入るのはずいぶん久しぶりです」
 答えた後、石田はごく自然に講壇の背後にある十字架の前に立ち、祈りを捧げた。かつて彼女に教わった祈りのスタイルだ。石田が祈り終わるのを待って問いかけた。
 「ご家族のためにお祈りされたのですか」
 「いえ、実は今日、間違い電話を受けて――」
 石田は、今朝の出来事を神父に話して聞かせた。神父は頷きながら、石田に聞いた。
 「ご病気の方の回復をお祈りしたわけですね」
 そう聞かれて、不意に石田は戸惑った。自分が彼女の何を願って祈ったのか、わからなくなってしまったのだ。
 「余命がいくばくもないと少女は私に言いました。回復を望むことは難しい状態のようです」
 「それでは、安らかな死を願ってのお祈りでしょうか」
 安らかな死――。それでもないような気がした。石田は、神父に聞かれて初めて無信仰な自分が教会でお祈りすることの無知を恥じた。
 「申し訳ありません。ただ、少女のために祈らずにおれない。それだけの理由でここへきてしまいました」
 神父は笑って答えた。
 「いいのですよ。教会はそういう方のために存在します。あなたの思いをお伝えください。今を生きているその少女のために――」
 石田は、その時、初めて理解した。今を懸命に生きている由貴に、頑張れ、頑張れ,少しでも命を長らえてくれるようにと伝えたかったのだ。そのために祈っていたのだと。
 由貴の笑顔が思い浮かび、甘えた口調が思い浮かんだ。十代半ばの少女が懸命に今を生きようとしている。一分一秒でも生き延びたいと願って生きている――。
 「私も祈らせていただきます。その由貴さんという少女のために」
 神父が祈る。石田が礼を言い、教会を離れたのはそれから数分後のことだ。
 
 夕刻近くになって風が出てきた。その風は、やがて強風となり、家屋を小さく震わせた。簡単に夕食を済ませた石田は妻の瑞枝に電話をかけた。
 ――どうだ。お母さんの具合は?
 三重の実家では、瑞枝の兄の一家が義母と同居しているはずだが、電話に出たのは妻の瑞枝だった。
 ――どうにか持ち直して、少し元気になったわ。私が帰った時は、口も利けないぐらい弱っていたのに、私の顔を見るなり急に元気になってね。義妹の佳子さんがそばにいないのを確かめて愚痴をこぼすのよ。本当にどうしようもない人だわ。あれじゃ、佳子さんも大変だと思うわ。
 ――お母さんは、お前と一緒に暮らしたいと思っているんじゃないのか。だからお前を呼んで、そうやって甘えるのかもしれない。
 ――どうでしょうね。でも、そうかもしれないわね……。
 ――俺はいいんだぞ。お母さんをこちらへ呼んであげても。
 ――あら、どういう風の吹き回し? あなたがそんなこと言うの、珍しいわね。
 ――ともかく、お母さんや兄さんと相談をして決めればいい。俺は構わない。もしこちらで看るのであれば協力する。それより……。
 ――それより、どうしたの?
 ――早く帰ってきてくれ。一人でいるのは寂しい。
 電話の向こう側で、瑞枝の笑い声が聞こえてきた。その声を聞きながら石田は電話を切った。
 
 高校を卒業しただけの石田が、銀行の部長職にまで上り詰めるのには大変な努力を要した。転勤も厭わず、さまざまな部署を歴任して支店の営業課長になった時はすでに四十歳を過ぎていた。転機が訪れたのは五〇歳の時だ。このまま万年課長で終わると、誰もが思い、石田もそう思っていた。ところが本社の次長が交通事故に遭遇し急死した。その次長に代わって大方の予想を裏切る形で次長職に抜擢されたのが石田だった。
 長年積み上げてきたものが一気に花開き、石田は営業次長として数々の実績を上げ、とうとう部長職まで上り詰めた。しかし、学閥が差配するその銀行では、そこまでが限界だった。六二歳まで働いたところで、子会社へ嘱託でという話もあったが、石田は丁重にそれを断り退職した。
 転勤に次ぐ転勤で世話をかけた妻の瑞枝に償いをしたいと思う気持ちがその時の石田には少なからずあった。
 
 石田が瑞枝と出会ったのは、二五歳の年だった。銀行に勤務して七年目、会社の先輩の紹介で見合いをした。相手の年齢が二十歳だと聞き、当初、石田は尻込みをした。あまりにも若すぎると思ったからだ。
 短大を卒業した瑞枝は中小の繊維会社に就職をしたが、先輩社員と折り合いが悪く、半年足らずで転職を決意した。その時、相談に乗ったのが会社の先輩の奥さんで、その奥さんと瑞枝は年こそ離れていたが、幼い頃からの知り合いだった。瑞枝が転職の相談をすると、その奥さんが、それなら永久就職すれば、ということになり、先輩に相談して石田に白羽の矢が立ったというわけだ。
 瑞枝と初めて会った時、石田はなぜか懐かしさを覚えて瑞枝に見入ってしまった。瑞枝もまた、同様に初めて会う石田に、「初めてお会いする気がしません」と言い、初対面ながら意気投合した。一年後に二人は何の障害もなく結婚に至った。
 妻の瑞枝とは結婚当初から小さな衝突を繰り返した。それでも瑞枝は、転勤の多かった石田に追随し、何ら不平不満を言うことなく常にそばにいた。
しかし、定年退職後、衝突する回数は、小さいながらもさらに増えた。何もせずに暮らすことが石田にとって大きなストレスになっていったのだ。サラリーマン時代なら、溜まったストレスを友人たちと呑み、愚痴を語り合うことで解消できた。だが、退職して家に閉じこもるようになるとそれもなくなり、友人たちとの交際が疎遠になると共に、愚痴をこぼし合い酒を呑む機会がぐんと減った。一時は友人の縁を頼って働くことも考えたが、体調を崩したことが原因で、瑞枝の反対に遭いそれも断念した。
 
 三日の予定を一日早めて妻の瑞枝が帰ってきた。石田はそれを知らず、散歩に出かけていた。由貴のことが思い出され、じっとしておれない気分だった。一面識しかない少女のことがこうまで気にかかるのは、死と向き合い、死と懸命に戦う由貴の姿が石田を触発してやまなかったからに違いない。
 ――私の命は私が決めるものではない。神様が決めるものだって……。どこで生きても一生、どこで死んでも一生――。今、この時間、生きているこの時間を大切にしたい。そう思うようになったんです。
 由貴の言葉が呪文のように石田に降りかかった。まだ、六〇代だ。未来を閉じてしまうにはあまりにも早すぎる。ついこの間まで、のんべんだらりと過ごしていたことが嘘のように今の石田は自らを𠮟咤激励するようになっていた。
 ――このままでいいわけがない。しかし、何をどうする? 
 家に戻ると電気が点いていた。消し忘れたかなと思い、いつものように石田が「ただいま」と言ってドアを開けると、「おかえりなさい」と瑞枝の声が聞こえた。
 「早かったじゃないか」
 瑞枝は台所で洗い物をしていた。
 「早く帰って来てくれとおっしゃったの、あなたじゃないですか」
 と笑いながら瑞枝が言う。石田は頭をかきながら、
 「そうだったな。ありがとう。ところでお母さんの具合はどうだ?」
 と照れ隠しに聞いた。
 「そのことでご相談したいことがあります」
 瑞枝の表情が心なしか変わった。
 「わかった。後でいいか?」
 石田には、瑞枝の相談の内容がわかっていた。義妹の佳子が田舎で母の介護をしているが、どうやらうまくいってないということを、石田は以前から聞いていた。兄の仕事がうまく行ってなく佳子の負担が大きくなって、母の介護が負担になり行き届かない。瑞枝が実家に戻ったのは、その相談もあったのだろう。
 瑞枝の相談ごとは、母親さえ望めば、自分が看たいということなのだろうと石田は感じていた。石田は、そのことに反対はしないつもりでいた。母親さえ田舎を離れる決心がつけば、そうしてやりたい気持ちはあった。
 ――その時、突然、携帯が鳴った。
 あわてて電話に出ると、見知らぬ番号だった。
 ――石田さんでいらっしゃいますか?
 おずおずと確かめるような声で聞いたので石田は、「はい、石田です」とはっきりとした声で答えた。
 ――先日はありがとうございました。わざわざ病院までお越しいただいて。
 ――ああ、由貴ちゃんの……。
 橋戸由貴のおばさんだった。
 ――その後、由貴ちゃんの容態はいかがですか?
 電話の向こうから嗚咽が漏れ聞こえてきた。
 ――一面識しかないのに申し訳ないと思いましたが、どうしてもお知らせしたくて電話をさせていただきました……。本日午後四時、由貴は旅立ちました。
 ――えっ……。
 突然の訃報に言葉を飲み込んだ。
 ――頑張ったんですよ。本当に最後まで、由貴は頑張りました。
 由貴の笑顔を思い出し、石田はギュッと唇を嚙み締めた。
 ――通夜と葬式は身内だけでひっそりと行います。本当は石田さんにも出席していただきたいところですが、そういうわけで申し訳ありません。
再び嗚咽が漏れて、電話が切れた。
 「どうかなさったんですか?」
 憔悴した様子の石田を見て、瑞枝が聞いた。
 とめどなく流れる涙を床に垂らしながら、石田は、瑞枝に由貴の話をした。
 「一度会っただけの少女なのに、どうしてこんなに悲しいのだろう」
 石田はまた泣いた。
 石田のそばにやってきた瑞枝は、
 「その由貴という人のこと、どうか忘れないであげてくださいね。忘れないことが一番の供養だと、私、以前、聞いたことがあるの」
 と石田にやさしく話しかけた。
 
 瑞枝の母が、瑞枝の兄と佳子夫婦に連れられてやってきたのは、二か月後のことだった。
 「すみませんね。母がしばらくこちらで厄介になりますがよろしくお願いします」
 英二は、そう言って石田に深く礼をした。
 「少し認知が入っていましてね。それもあってわがままがひどくなって、もし、こちらで持て余すようなことがあれば、いつでもおっしゃってください。引き取りに来ますから」
 佳子は母親の手を握り、「わがままを言ってお姉さんを困らせたら駄目ですよ」と諭すように言う。母は、懐に入れた何かを大事そうに触りながら、「はい、はい」と答える。それを見た石田が義妹に聞いた。
 「お母さんの懐に入っているのは何ですか。何か大事そうに抱えていますが」
 石田が尋ねると、英二が、
 「こちらへ来る時、野良猫の赤ちゃんが私たちの後をついてきましてね。母がその子猫を見つけて離さないものですから困っていました。母が気づかないうちにどかへ捨ててください」という。
 ――子猫。
 瑞枝は動物を飼うのを好まなかった。多分、子猫を見つけると、どこかへ捨ててきてというに違いない。石田はそう思って、瑞枝を呼んだ。
 「瑞枝、お母さんが子猫を拾ってきたらしいぞ。どうする?」
 台所にいた瑞枝は血相変えてやってきて、
 「お母さん、うちは動物を飼いませんからね。その猫、捨てますよ」
 と母から子猫を取り上げようとする。するとその子猫はするりと瑞枝の手を逃れ、石田の手の中に飛び込んできた。生まれたての子猫が石田の手の中で小さく震えている。石田が背中を撫でてやると、目を細めて体を丸くした。
 母が愛しそうに石田の手の中の子猫を撫でる。しかし、瑞枝の憤慨は収まりそうになかった。
 石田の手の中の子猫が顔を上げ、「ニャーオ」とか細く鳴いて石田を見た。そして舌を出し、目を細めて笑った。その瞬間、石田はドキリとした。
 「瑞枝、この子猫、うちで飼うぞ」
 石田にしては珍しい強権的な物言いに、瑞枝が驚いた。
 「飼いたいんだ。頼む」
 その言葉に憤慨していた瑞枝が折れた。
 「その代わり、あなたが面倒みてくださいね」
 石田は、「由貴ちゃん……」小さく呼んで子猫を抱きしめた。
<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?