プロポーズ

高瀬 甚太

 雨上がりの空に虹がかかった。
午後三時の人通りが途切れた中之島、大川に架かる難波橋のたもとで、ほんのりと微笑を浮かべた薫が、虹の行方をじっと眺めている。
 大阪人と同様、せっかちな季節の訪れが、どこよりも早い初夏の訪れを告げようとしている、そんな季節のことである。
 薫は、フッと小さなため息を漏らすと、足早に難波橋を渡り切ろうとした。
 難波橋は大阪弁では「ナンニャバシ」と発音される、浪速の名橋50選の選定橋である。
 パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの橋が、子どもの頃から薫は大好きだった。
 橋の左右両側にライオン像がある。
 「天王寺動物園のライオンがモデルなんじゃよ」
 と、薫の祖父が、この橋を渡るたびに教えてくれた。
 「左側のライオン像は口を開いているやろ、あれは阿形像と呼ばれ、右側の口を閉じているのは吽形像と呼ばれているのや」
 物知りの祖父は、この橋を渡るたびに何度も同じ話を薫にした。
 初夏の風が川底から這い上がり、薫の白い頬をゆっくりと撫でて通り過ぎる。
 「大変だ、急がなくちゃ」
 薫は踵を返して北浜の方角へ向かった。この日、薫は北浜で人と会う約束をしていた。

 「桐山さん、こちらです」
 名前を呼ばれて振り返ると、メガネをかけた背の高い男が薫に向かって手を振っていた。
 「どうもすみません新井さん、遅れまして」
 薫が謝ると、新井は、とんでもないといった感じで片手を左右に振り、薫をテーブルに座らせた。
 証券会社のビルの最上階にあるレストランでの会食だった。一流ホテルのレストランを思わせる贅沢な様式と雰囲気に、たかが証券ビルのレストランと高をくくっていた薫は、思わず身を竦ませた。
 「素敵なレストランですね。驚いちゃった」
 素直な感想を新井に述べると、新井は、
 「料理を食べてください。おいしくて、もっとびっくりしますから」
 と言って、笑った。

 薫が友人に勧められて新井と見合いをしたのが一カ月前のことだ。船に乗って大川べりの桜を眺めながらの見合いだった。
 「ここは私の故郷なんですよ」
 桜を眺めながら薫がひとり言のように言うと、新井はキョトンとした顔をして薫を見た。
 「大川沿いのこの町で子どもの頃の大半を過ごしました。父の転勤で長い間、この町に帰ることが出来なかったのですが、大学を出て、就職を機に私だけ生まれ故郷のこの町に戻って来ました」
 「そうだったのですか」
 と言って、新井は納得した表情で薫を見た。
 薫の現在の実家は岡山県である。それを知っている新井が不思議に思ったのも無理はなかった。
 「話を併せるわけではありませんが、ぼくも天神橋周辺の町やこの辺りの土地が大好きなんです。大阪へ戻って来て、どこに住もうか考えていた時、たまたま大阪天満宮に行き、商店街を歩くうちに、この町に住みたいと思いました。でも、事情があって浪速区で住むことになりました。残念です」
 「残念?」
 「その頃、ぼくがこの町に住んでいたら、もしかしたら、もっと早く、あなたに出会っていたかも知れない。そう思うと残念でなりません」
 思わず薫は笑った。

 薫が新井との見合いを承諾したのは、恩のある友人のたっての頼みであったからで、そうでなければ薫は、即座に見合いを断っていただろう。と言うのも、そもそも薫には結婚願望というものがなかった。
友人の多くが結婚をして苦労していることを知っていたし、仕事に生きがいを持っていた薫には、男に頼る気持ちなど毛頭なかった。
 新井にも最初の見合いの時、はっきりとそのことを伝えてある。薫にとってはそれが断る意思を含めた言葉であったが、新井は動じなかった。性懲りもなく二度目のデートを申し込んで来たのだ。
 薫は西天満に事務所を構え、飲食店を開店する人のためのプロデュース業を営んでいた。
 平たく言えば、店舗全体を構成し、開店の期日までに店舗を作る、そういった仕事である。大阪は飲食を生業とする人が他府県に比べて多い。大阪人の食への関心の高さが飲食店=金儲けにつながり、雨後の竹の子のように飲食店を氾濫させていた。
 流行る店を作らなければ生き残れない。店構えはもちろん、店内のインテリア、店名、店員のユニフォーム、すべてにこだわりがなければ、客は集まって来ない。そこで薫たちの仕事が必要となって来るというわけだ。薫は連日、大忙しの時間を過ごしていた。
 二度目の誘いの時、薫ははっきりしておかなければと思い、電話をかけてきた新井に言った。
 ――私は結婚する意志はありません。お見合いの件は、はっきりと断ったつもりです。これ以上、お誘いになられても無駄です。
 新井は神妙に答えた。
 ――わかりました。今回のお誘いを最後にしますので――。北浜でお待ちしています。
 そう言って新井は、住所とビルの名前、そこの最上階のレストランで待っていると告げ、電話を切ろうとした。
 ――ちょっと待ってください。その日は都合が悪いので、少し遅くなりますが、三週間後の月初めの三日にしてください。時間も少し早めにしていただきたいのです。できれば四時半頃にでも。
 薫は、日時をずらし、時間を早めるよう新井に伝えた。そうすれば、新井は自分が嫌がっていると悟り、あきらめるだろうと思ったからだ。
 だが、新井は堪えなかった。
 ――わかりました。桐山さんのおっしゃる時間と日時で結構です。ありがとうございました。当日、お待ちしています。
 それがこの日だった。約束の時間ちょうどに行くのも癪にさわる。そう思った薫は、大川沿いを散歩し、難波橋を渡って北浜のこのビルに来た。少しの遅れだと思ったが、ビルを間違え、迷ったあげくにたどりついたものだから、半時間も遅れてしまった。

 興味がなかったせいもあるが、どうせ断るつもりでいたから、薫は新井についてほとんど知識を持っていなかった。新井の釣書もとうの昔に捨てていた。どんな職業なのか、どこに住んでいるのか、両親は? 学校は? 普通なら知っておくべきことを薫は何も知っていなかった。
 新井との見合いを執拗に勧めてきたのは、宮川雅子という女社長である。イタリアンレストランを幅広く経営する宮川は、飲食業界ではよく知られた人物で、さすがの薫も宮川に勧められたら存外に断れない。
 だが、なぜ、宮川が新井との見合いを勧めるのか、そのことについて薫が尋ねても、宮川は曖昧に言葉を濁すだけではっきりとは答えなかった。
 新井が招待してくれたレストランのフランス料理のコースは、舌に自信を持つ薫を驚嘆させるほどの味わいで、新井が言ったように、びっくりするほどおいしかった。
 「おいしいでしょ?」
 新井が確かめるように聞いた時、思わず薫は、
 「おいしいです」
 と素直に答えていた。
 「よかった。断られたのにしつこくお誘いして本当に申し訳ありませんでした。この店のこの料理をあなたに食べていただきたくて、あなたに嫌われるのを承知の上でお誘いしました。今日は本当にありがとうございます」
神妙に礼を言う新井を見て、思わず薫は尋ねた。
 「私に、この店のこの料理を食べてほしかったとあなたはおっしゃいましたが、それは一体どういう意味ですか?」
 「この店の店舗、インテリア、料理――。すべてぼくがプロデュースしたものです。だから、ぜひとも、あなたをお誘いしたかった」
 新井は薫と同業者だった。
 「商売敵の私を叩きのめすために、自分の力を誇示したかったのですか。そのために見合いをし、この店に私を連れて来ようと計画した。そうなのですか」
 憤る薫の剣幕に、新井は大きく首を振って答えた。
 「そんなことのために、どうしてぼくが見合いをしたりして画策しなければならないのですか。宮川さんにあなたとの見合いをセッティングしていただくようお願いしたのは、ぼくの方です。宮川さんは言っていました。あなたは結婚願望のない女だと。見合いをしても無駄だと――。でも、ぼくは、断られてもいい、あなたと見合いをしたい、チャンスを欲しいと宮川さんに頼みました。宮川さんは渋々、了解してくれ、あなたとの橋渡しをしてくれました」
 「……」
 「十二年前、ぼくは岡山で、建築会社の依頼を受けて壁を塗装する仕事をしていました。その時、あなたは岡山の大学に通う女子大生でした。ある時、大学の校舎の壁を塗り替える工事のために、あなたの通う大学へ仕事で行ったことがあります。
 校舎の壁に塗装を施していて、その日、体調が悪かったぼくは、足を踏み外して高い場所からまっさかさまに転落しました。そのまま落ちていたら、きっとぼくは命を失っていたでしょう。ところが、その時、ぼくが落下する様子を見て、落下する地点に咄嗟の判断でマットを放り投げてくれた人がいました。おかげでぼくは、腕と足を骨折しましたが、死なずにすみました。落下した私の元に駆けつけてきたその女性の顔を意識が朦朧とする中でも、しっかりと記憶しています。『大丈夫ですか?』と聞かれてもぼくは何も答えることが出来なかった。半年ほど入院して、大学へあなたを尋ねましたが、その時はもうあなたは卒業していませんでした。でも、あなたのことはすぐにわかりました。あなたは大学でも有名な体操の選手で、あの日、たまたまマットを持ち出して、外で練習を行い、練習を終えて体育の部室へマットを持ち帰ろうとしていた、その途中で、ぼくが転落する様を見た、そこまでわかりました。ぼくはあなたに会いたかった。会って、お礼を言いたかった。だからあなたの家を訪ねました。
 あなたは大阪へ出たと、ご両親は話してくださり、連絡先まで親切に教えてくれました。それを聞いたぼくは、塗装の仕事をやめ、大阪へ出ることにしました。仕事を見つけて一人前になったら、あなたに会おう、会ってしっかりとお礼を言おう。そう心に決めて、ぼくはいろんなところで身を粉にして働きました。
 大阪へやってきたぼくは、天神橋周辺では仕事が見つからず、浪速区のレストランのコック見習いが見つかって、そこの寮へ住むことになりました。以後は、本当にいろんなところで働きました。
 結果的にはそれがよかったのかも知れません。飲食店での仕事が多かったぼくは、飲食の裏側、仕入れや客への対応、店の運営に関する多くのことを肌で覚えることができましたから。
 この仕事を始めたのは偶然ではありません。あなたが飲食店を専門としたプロデュース業をしていることを知り、ぼくもあなたと同じ道に進みたいと思うようになりました。できればあなたと肩を並べるところまで行き、もし、そうなることが出来たら、ダメ元で結婚を申し込もう、そう思っていたのです。宮川さんとは、この仕事を始める前、つまり、ぼくがイタリア料理店の厨房で働いていた時からの知り合いでしたから、無理を承知で見合いをさせてもらうようお願いしました」
 薫は、新井の話を聞いて、その時のことをかすかに思い出した。薫はあの時、確かに塗装の途中に転落する男性を見た。咄嗟の判断でマットを放り投げ、マットに落下した男性に声をかけた。それだけのことだった。遠い昔のことだ。男性の顔さえ記憶していなかった。

 「もう少し話してもいいですか」
 と断って新井は、再び話し始めた。
 「ぼくはある時期まで自堕落な人間でした。アルコール中毒、ギャンブル中毒、そして女にもだらしがなかった。呑む打つ買う、三拍子揃ったダメ人間で、あの転落した日も、前日の深酒が災いして体調を崩していたことが原因でした。転落して、あなたに助けられて、その後、入院している間に、ぼくはいろんなことを考えました。そんな中でぼくを勇気づけてくれたのは、あなたの存在でした。転落して意識が朦朧としている中で見た、あなたの顔、あなたの存在がぼくには女神のように思え――、それがぼくを立ち直らせてくれました。せっかく拾った命だ。もう一度、生き直してみよう、そう思わせてくれたのです。退院してすぐにお礼を言うために、あなたの学校を訪ね、あなたの実家を訪ねました。そこで、あなたが就職して大阪へ行ったことを知り、ぼくも大阪へ行こう、そう決心しました。
 半年間入院したことで、酒やギャンブルを断ち切るチャンスを掴むことができました。それでも、同じような生活をしていると、ぼくは必ず元に戻ってしまう。その危機感もあって、大阪へ出て心機一転、やり直すことにしたのです。
 いろんな飲食店で働いているうちに、あなたのことを知りました。あなたが飲食業のプロデュー―サーとして才覚を発揮していることを知り、頑張らなければと何度も思いました。でも、その時のぼくが考えることと言えば絶望的なことのみ、自分に何が出来るだろうかという失望感や劣等感に苛まされ続けているうちに、いつしか酒が呑みたい、一口でいいから酒を呑んで癒されたい、そう思うようになったのです。
 ある夜、仕事を終えたぼくは、酒を求めて街をさ迷い歩きました。一口でも呑めば元の木阿弥だ、そう思う気持ちが働き、酒場へ入ることを躊躇しているうちに、路地へ入り、吹き溜まりのような場所に立ち並ぶ数軒の呑み屋を見つけました。そのうちの一軒の前に立った時、温かな光が店全体を照らし出している――多分、錯覚だったと思いますが――そんな気がしてガラス戸の中をしばらく眺めていました。大勢の客が酒を楽しく呑んでいる、それを見て、ぼくは思わずガラス戸を開け、店の中へ入りました。半円のカウンターを囲むようにしてたくさんの人が酒を呑んでいました。
 ビールを注文すると、よく冷えたビール瓶がカウンターの上に置かれました。それを見て、呑みたい、呑んだら終いだ、葛藤しながらグラスを手にビール瓶を見つめていると、隣に立っていた客が、何を思ったのか、ぼくの手の中にある空のグラスに、ドボドボとビールを注ぎ始めたのです。
 『兄ちゃん、アル中か』と、ビールを注いだその人――年配のおっちゃんでしたが――がぼくに言います。コクリと頷くと、『酒を断ってどのぐらいや』と聞きます。
 『十年近くになります』と答えると、おっちゃんは一言、ぼくに、『酒に負けるな』と言い、『酒に負けているからアル中になるんや。自分を信じろ、信じて酒に勝て』と檄を飛ばします。目を白黒させていると、なおもおっちゃんは、ぼくに言うのです。
 『一杯目はおいしく味わう。二杯目は喉を潤し、胃袋を癒してやる。三杯目は、感謝の気持ちで呑む。しばらくはその三杯でやめることや。そうすれば酒の呑み方が変わる』
 作業服を着て、無精ひげを生やした少し強面の体格のいいおっちゃんでした。ぼくは、その通りの呑み方をしました。おいしかった。二杯目を口にした時、少しは葛藤がありましたが、おっちゃんの言葉を思い出して、喉をゴクンと鳴らし、胃袋にビールが広がるのを確かめながら、『ありがとう』の言葉を添えて三杯目を呑み干しました。その日はそれで帰りました。
 もっと呑みたいと思ったことは確かです。でも、『自分を信じろ、信じて酒に勝て』の言葉を思い出し、ここで元に戻ってしまったら、あなたにプロポーズすらできない。そう思い直して耐えました。――でも本当はそんなに恰好のいいものではありません。ぼくは久しぶりに呑む酒の味わいに翻弄され、どうにかこうにか土俵際で踏ん張るのが精一杯でしたから。
 その立ち呑み酒場に、ぼくは二日と置かずに通うようになりました。いろんな人がいて、いろんな酒の呑み方があることをその立ち呑み店で知りました。葛藤を繰り返しながらも、以前のように酒に溺れなくなったのは、その店で出会った酒好きな人たちのおかげだと思います。おかげでぼくは、酒を呑んでも呑まれなくなったことで自信がつき、あなたを目標にしてこの仕事を始め、どうにかこうにか、まともに生活が出来るようになりました。
 あなたと見合いをしたいと宮川さんに申し出た時、宮川さんは、あなたの性格や仕事に情熱を燃やしていて結婚など考えていないことを知っていましたから、見合い話を持ち出せば即刻断るだろうと思い、ぼくが傷つくことを恐れ、躊躇したと思います。でも、ぼくの覚悟を知り、あなたに話を通してくれました。こうやってあなたと見合いをし、プロポーズすることが出来、ぼくはもう思い残すことはありません。今日は本当にありがとうございました」
 新井の長い話が終わった。薫はその間、ずっと黙って話を聞いていた。新井は、少し喋りすぎたかなと後悔したが、薫と会うのもこれが最後だと思うと、喋らずにはおれなかった。
 最上階のレストランから大阪の街が一望にできる。夕暮れの空が漆黒の闇に覆われるのは時間の問題だった。ネオンの瞬きがそろそろ目立ち始めた頃、新井は先に席を立ち、薫を見送るために出口に向かった。
 エレベータに乗ろうとした時、薫が急に立ち止まり、新井を振り返って言った。
 「その立ち呑み店、よければ今度、連れて行っていただけますか?」
 新井は一瞬、キョトンとした顔で薫を見た。薫が何を言っているのか、すぐには理解できなかったからだ。
 「喜んでお連れします。『えびす亭』という店です」
 エレベータの扉が閉まり、新井の声が薫の耳に届いたかどうか、定かではなかったが、新井の表情がみるみるうちに明るくなった。エレベータの前で新井は直立したまま、目の前の扉をじっと眺めていた。
〈了〉


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