見出し画像

ブラック企業についての記事

こんにちは、管理人のルイです!
今回の記事は、私が高校を卒業してから8年間勤務したブラック企業での
出来事です。辛辣な表現もありますので、ご注意下さい。
それでは紹介していきます。

目次

①入社当初

②2年目・3年目

③4年目・5年目

④6年目・7年目

⑤8年目・9年目 


①入社当初

 

本社である岡山県にて1ヶ月間の研修がありました。求人票には記載がなかったため、驚きを隠せませんでした。
平成27年4月1日より岡山県倉敷市にて新人研修が開始しました。
まずは入社式ではなく、入社式の練習からでした。起立、礼、着席の練習を行いました。驚くことに全員が揃うまで入社式は始めないと担当者より注意喚起がありました。回数にして約30回行いました。私は礼をするとき、腰からではなく、首からしてしまい、何度も指摘を受けました。また、呼名の際、声を3倍出すように指導を受けました。私は最初から容赦ないなと思いました。
1時間近くの練習が終わり、入社式本番を迎えました。
注意を受けた点を意識して臨みました。式が終わり、社会人としての第一歩をようやく踏み出すことができたと実感しました。
一息つく間もなく、研修が始まりました。まずは、挨拶のプロジェクトです。講師より挨拶の種類は3種類あることを聞かされ、私は驚きました。会釈、敬礼、最敬礼の3種類でした。最敬礼を使う機会が今後増えてくるので必ず覚えてほしいと指示がありました。私は気合を入れて覚えようと思いましたが、大きなミスをしてしまい、全員の前で怒られてしまいました。入社式の練習で指摘を受けたことを再び注意されてしまい、覚える気があるのかと言われてしまいました。私は同じ失敗は必ずしないようにすると肝に銘じました。初日最後は問田常務よりミッションブランディングがありました。ここでは、我が社の使命について学び、全員で何度も復唱しました。学生服を待つ全ての子供たちのために常に試行錯誤し、粉骨砕身せよ。また、日頃より不易流行の精神を忘れず、安心と感動を届けよ。この言葉を5回は復唱し、研修終了までに暗記するように指示がありました。

研修で最も印象に残っている出来事がこの翌日に起こります。
毎日終業後に報告書を一枚の用紙に自由な形式で書くのですが、驚く事実を聞いてしまいます。毎年のことだが、新入社員の1人でも誤字脱字があった場合、連帯責任でやり直しをしてもらう。それが何時だろうと関係ない。できるまで毎日このシステムは継続します。全員が啞然としてしまいました。でも私は心のどこかでまあ大丈夫だろうと思っていました。その油断をしたことを本当に後悔したのは今でも忘れません。
研修が始まり1週間が経過した頃のことです。週末ということもあり、私は前日の夜に同期と親睦を深めるために焼肉を食べに行き、ボーリングをしました。深夜1時過ぎまで遊んでいてとても楽しかったのですが、翌日の報告書をすっかり忘れていました。
帰ってから1時間くらいで終わらせ、一安心して眠りにつきました。
翌日になり、案の定寝坊をしてしまいました。
他の同期は先に出発し、取り残された私は大急ぎで身支度をしました。
始業の3分前くらいに研修ショールームに到着し、何か忘れていることに気付きました。
なんと、本日提出予定の報告書を忘れてしまいました。講師に謝罪し急いで取りに戻りますと伝えました。私は初めて岡山県に来たので土地勘がまだあやふやでした。それを危惧した講師が他の同期に同伴を頼まなくて本当に大丈夫なのかと詰められてしまいましたが、私は勢いで大丈夫ですと返答してしまいました。その後社宅に取りに戻りましたが、ショールームまでのルートを忘れてしまいました。携帯も研修時は回収されて
いたため、直感だけを頼りに奔走しましたが、ショールームが全く見えてきません。
結局迷子になり、泣きながら奔走しているのを同期が発見し、ショールームまで案内してくれました。無事着いて、全員の前で謝罪をしました。ルール通り、報告書の提出ができなかったので、全員やり直しになってしまいました。私はこの経験が人生の教訓になりました。この瞬間より、油断は時に大災を及ぼすことを肝に銘じました。

研修の最後に田原取締役社長より挨拶を頂きました。この言葉も印象に残っています。
「若者よ、恐れず失敗せよ。失敗とは、何か挑戦した証拠で、その後の反省をすれば将来的に成功につながる。」この挨拶を聞いて私の考えが180度変わりました。
今までは失敗を恐れて小さくなっている自分でしたが、殻を破るきっかけができました。
思えば、当時私はこの言葉に心を奪われて、この会社に骨をうずめることを決心しました。これから社会人として希望を持って人生を歩んでいこうと思いました。

②   2年目・3年目



・研修から戻って配属先である群馬にて勤務がスタートしました。
正社員は4名でうち2名は母校が同じということもあり、一安心していました。
ですが、この一安心が後に起こる出来事の伏線であったことは誰も予想していませんでした。アルバイト当初から求人票と異なる点が多くありましたが、この時の私は特に疑問に思わず、言われたことを言われた通りに進めていました。
その結果、数多くの失敗エピソードを残すことになります。
まずは、繁忙期前の決起集会の前にシャッターを破損してしまい、
上司に立ち合いを依頼し、私は何事もなかったように参加することになりました。
今思えばこの出来事がきっかけで後のハラスメント騒動に繋がったのでしょう。
次に2年目の夏に新入社員のフォローアップ研修があり、再び岡山に行くことになったのですが、そこで宿泊先を予約する際に先輩から、できるだけ最寄りのホテルをとったほうがいいよとアドバイスがありました。
それを鵜吞みにした私は、岡山で有名なホテル「ラビアンローズ」を予約しました。
その2日後に上司から呼び出しがありました。
なぜ1人でラブホテルを予約した?
その言葉に私は冷や汗をかきました。
そのホテルを調べてみると、明らかにラブホテルと記載がありました。
すぐに悪意がなかったことを報告し、申し訳ありませんでしたと謝罪しました。
この出来事は岡山含めて全社員に広まってしまい、翌年の研修の注意事項として事例として取り上げられるようになってしまいました。
この出来事から半年後、地元が同じ先輩が他の部署への異動が決まりました。
その結果、翌年から上司とタイマンで1年間仕事をすることになりました。
この年からハラスメントが徐々に深刻化していきます。
具体的なエピソードをいくつかお話しします。
私が無能だったことも原因ですが、これは棚を組み立てる作業をしているときのことです。
初めての作業と私が不器用であったこともあり、
何度かドライバーを使った工具作業のしかたを教えてもらいましたが、
一向に覚えることができませんでした。そして、間違ったねじのはめ方を数か所してしまい、
上司に見つかってしまいました。その瞬間、上司は工具を近くの段ボールに思いっきり刺して言いました。
「何度同じことをすれば気か済むのだ。次同じ失敗したら分かるよな?」
その瞬間の出来事は今でも忘れません。
また、私物として自分のモバイルバッテリーを幾つか会社の道具として使うことが決まり、
費用は自腹でした。そのモバイルバッテリーが1つ故障したとき、上司はこう言いました。
「使えない人間が使えない道具を持ってきても意味がない。」
正直苛立ってしかたがありませんでした。
そして、繁忙期に複数人の上司が工場に応援に来た際、私は優先順位をつけず、先着順に対応していました。それを知った上司が、
「お前の上司は誰だ?ここまで面倒を見てきたのは誰だ?1人しかいないだろう。まず俺の頼んだことを必ず終わらせろ。終わっていなかったどうなるか分かるよな?」
この発言は衝撃的でした。これを受け、私は他の道はないのか考えるようになりました。
そして、転職先を密かに探し始め、その当初通っていたイオンモールのレイジブルーに面接に行きました。理由としては、同じアパレル関係の仕事で、接客業は初めてでしたが、棚卸や商品の品出し作業は経験があり、自分もそこで働きたいと思ったからです。そこで
面接を対応してくれたのが、顔なじみの店長でした。そのとき言われた言葉は、今の職場かレイジブルーかどちらか一つに専念して欲しい。君じゃ両方掛け持ちは絶対に
厳しいと思う。と初めて指摘を受けました。
この時点で私は、転職する勇気がなく、現職を継続することにしました。
翌年、私は、ストレスのあまり、鼻と舌の手術を受けることになりました。
病状としては、副鼻腔炎が発覚しました。日赤病院という施設で2週間ほど入院して手術をすることになりました。しかし、そこでも月末までに終わらせなければならない仕事を押し付けられ、納期に間に合うように仕事を進めろと指示を受けました。
その当時、私は、現職の流れをほぼ全て理解し、同時にこの仕事はこの先続けてはいけないと考えました。
同時に、病院の個室で、1人で「助けてくれ」とつぶやきながら、泣きながら仕事をしていたことを今でも覚えています。
私はこの時点で、この上司を絶対訴えて降格させてやると決意しました。

③    4年目・5年目(事故を起こした)年



・入社4年目になり、群馬県高崎市にあった旧倉庫の移転が決まりました。
場所は前橋市になります。通勤時間が今までは20分でしたが、移転後は
50分となり、倍以上かかります。3週間かけて引っ越し作業を行う予定でした。
応援メンバーも何名か来てくれたおかげで無事に移転作業が終わりましたが、この後から過酷な日々を送ることになります。
11月から4月までの半年間、毎日残業の日々が続きました。
例年にない残業時間であったため、毎日記憶がない状態が続きます。
最高2時過ぎまで業務をしていました。
業務内容はおもにヤマト運輸へ荷物の宅配を依頼する作業まででしたが、
深夜便も21時で終わってしまいます。ですので、
それ以降はヤマト運輸まで社用車に自ら荷物の積み込みを行い、
10分ほどで到着するセンターまで配達をします。
この作業を多いときで10往復していました。
私は配送担当でしたので、この作業を任されてしまい、
一人で過酷な深夜配達を行っていました。
夕飯も派遣社員とパートさんには支給されますが、正社員は
宅配業務をなんとしてでも当日中に終わらせないといけないため、
休憩時間なしでフル稼働していました。
朝の9時から深夜の0時ですので、15時間の就業時間を繰り返し行っていたことになります。こんな日々を送っていましたので、
 体力に自信があった私ですが、4月1日に事故を起こしてしまいます。
内容としては、深夜2時過ぎ、業務が終わり、自宅に帰る途中の中央分離帯に車ごと乗りあげてぶつけてしまい、エアバッグが作動して警察と消防を呼ぶことになります。
幸い、ハンドルに首と腕をぶつけただけの自損事故で済みましたが、1か月間の療養生活が決定しました。私は一安心しましたが、またもや想定外の出来事を聞かされます。
繁忙期が続いているため、4月の最終週からコルセットを装着して出勤できないか。
この言葉を今でも私は鮮明に覚えています。
実質3週間ほど休暇をとり、4月の最終週からコルセットをつけて出勤しました。
当面は軽作業のはずでしたが、3日後あたりからコルセットをつけて荷受けをすることになりました。
何とか治療費は出たのと、病院に行く時間は作れたのが不幸中の幸いでした。
その後、リハビリテーションセンターに通うことになります。
リハビリテーションセンターでは、電気マッサージがメインでした。
首と両腕の回復訓練を毎日行ったおかげで、1か月ほどで機能が回復しました。
ゴールデンウイークに入り、ようやくコルセットなしで出勤できるようになりました。
待遇面と有給面に少し期待をしていましたが、やはり考えが甘かったことを痛感しました。5月より通常扱いに戻り、残業も以前と同様にやってもらうとのことでした。
これを聞いたときは、発狂するほど驚きました。この時点で私の限度は超えていました。
どこか吹っ切れた私は、他のメンバーからヒヤリングを開始しました。
翌年にハラスメントで労働監督所に訴える決意をしました。
最寄りの労基を訪れて以下の件について報告しました。
①    有給休暇の権利の交渉
②    残業時間の違反の件
③    ハラスメントの件
まず、有給についてですが、2年間の権利があり、不備消化履歴が残っていれば有給権利の行使ができるとのことでした。
私は繁忙期に通常ある有給休暇を法律違反と罰金を防ぐため、上司より申請を5日しておいてくれと言われました。ですが、申請して休んでいることを装って出勤する流れでした。これは明らかに違反でしたので、後ほど人事部へ報告することになります。
次は、残業時間についてですが、今期は最大で1か月130時間残業しました。
これでも異常ですが、問題はここからです。
私の会社は0時を過ぎると申請機能がエラーを起こし、残業申請ができなくなりました。
この影響で実際の残業時間の給料はもらえていないことが発覚しました。
ちなみにこの月にもらえた金額は30万ほどでした

上記が密かに集計した残業時間の結果です。半年で400時間近く残業していたことに驚愕しました。最後にハラスメントについてですが、以前の記事に記載した内容と録音した内容を提出し、無事解決することができました。非常に満足しました。

④    6年目・7年目



入社6年目となり、ハラスメント関係に関して、会社の人事部の方に対して相談を持ち掛けました。人事部長に群馬県まで来てもらって会食場所にて対談を始めました。
まず、この事故の件において、会社から30万の慰謝料が支払われることで和解が成立してしまいました。
この件を受けて、地元企業に関して密かに内部監査を始めました。
なお、待遇面に関しては、和解の結果、以下の通りになりました。
 ・駒形ではなく自宅から近い高崎物流を稼働させ、そちらに勤務変更
 ・上司は岡山から新しく派遣
 ・残業時間も1時間単位ではなく、15分単位で申請してよいとのこと
 ・出勤時間も9時に間に合えばよい
 ・通院時の金額は労災にて処理してもらえる
この条件を聞いて一安心しました。
この条件を受け、しばらくは安定して勤務することができました。
しかし、安定していたのは1年間だけで、翌年からは岡山からきた上は
別のセンター勤務になり、再び先輩と女性社員の3人で仕事を進めていくことが決まりました。この頃から業務量が増え、モンスターエナジードリンクを摂取する毎日が続きます。
さらに、リモートワークを一時期取り入れましたが、逆に業務量が増加しました。
この時点で私は再びストレスが溜まり過ぎてきました。
以前のようにハラスメントはありませんでしたが、なぜかストレスがありました。
それを解決するために始めたことがありました。
それは、一人でSNSに叫び投稿をすることです。
最初はとてもスッキリし、快感を覚えていました。
ですが、次第に自分自身で制御ができなくなってきました。
具体的にどんな行動をとっていたか振り返ってみます。
最初は語学学習で学んだミャンマー語・英語・スペイン語をアウトプットするために、海岸に行って1人で声に出して発声練習し、SNSに投稿していました。その頃はまだ良かったのですが、次第にエスカレートしていきました。
会社で使っていたインパクトドライバーを持ち込み、自宅で頭上めがけてネジを挿入して使用しました。友人に配信を見てもらったところ、明らかにおかしいと指摘を受けました。ですが、私はまだ自分自身で制御できると信じていました。
そして繁忙期を迎え、海岸にて1人で叫びながらダンスをする習慣が始まりました。
レペゼン地球の歌をメインに、人がいるかいないか関係なく踊っていました。
また、早朝出勤の際は気合を入れるためにFacebookに向かって、
FMラジオのボンジーヤという掛け声に合わせて車内で思いっきり叫んでいました。
友人と旅行に行くときも好きなレペゼンやダイス、ネクストステージの曲を聞いた瞬間、車内で叫んでいました。
私自身もこの頃は制御できなくなり、どこまでいくのか楽しんでいる状況でもありました。友人に聞いてみると双極性障害の可能性があると言われ、そこで自身を疑いました。何が原因か考えてみると、やはりストレスが原因でした。
また、この時期から会社の健康診断の結果が悪くなってきました。
警告が上がった項目としては、難聴の疑い、顎関節症改善のための治療が必要、飛蚊症の疑い、骨盤矯正と不眠治療がありました。
また、一番厄介だったのが、この頃から朝起床した後と運動後、仕事中に嘔吐の前兆がありました。実際に嘔吐してしまったこともありました。
医者で検査して確認したところ、逆流性胃腸炎の可能性があると診断されました。
この頃の私は、仕事中はほとんど他のメンバーと会話することがなく、
ただ言われた業務を進めていただけでしたので、楽しみなど感じていませんでした。
唯一の目立つタイミングであったのが、社内プレゼン発表でした。
しかし、この発表もほぼ消去法で私に決まったのでした。
毎年4月から6月にかけて1年間の業務内容について、まとめてパワーポイントで資料を作成し、北関東予選で発表するのです。8チームほど参加し、上位2チームに入れば全国大会に出場できるのです。私はこの資料作成もチームではなく、1人で残業して作業を進めていました。休日も自宅やカフェで作業したこともありました。発表の録画も自身で行い、当日を迎えましたが、結果は最下位から2番目でした。私はこのプレゼン発表にかけていましたが、結果に絶望しました。と同時にこの会社で働くやりがいを全て失ってしまいました。この時私は、同僚であった藤木と平井にも手下のように扱われ、唯一の救いは新しい上司の佐々木と新しい派遣社員で後に風俗王と呼ばれる男性だけでした。

⑤8年目・9年目



この頃の私は、この会社で働くやりがいを全て失ってしまいました。それを翻す人物との出会いがありました。それは、新しい上司の佐々木氏と新しい派遣社員で後に風俗王と呼ばれる男性との出会いでした。
入社8年目となり、責任も重くのしかかってくる時期でした。
同期の藤木と平井は副主任や課長補佐など役職についていましたが、私は平社員のままでした。いち早く昇級を狙っていましたが、またもや失敗を幾つかしてしまいました。
まずは、私自身がシャッターとラミネートを破損してしまいました。
原因としては、日々のストレスにより、睡眠不足に陥ってしまい、その結果、認知機能が大幅に低下してしまいました。そして、苛立っていた私は、出社後思いっきりシャッターを
上げ、快感を覚えました。しかし、途中で何か違和感を覚えました。いつもはスムーズに上昇していくのですが、途中で鈍い音がして止まってしまいました。焦った私は、何度か危機異常感知ボタンを押しましたが、手遅れでした。私は隠そうと必死に方法を考えましたが、無理でした。結果、同僚の藤木と平井に見つかってしまいました。
藤木副主任からは冷たい目線を感じ、見て見ぬふりをされてしまいました。
平井課長補佐からは、高笑いをされてしまいました。
そして、柳田専務と大山課長が来られ、私と同期2名を呼んで懲罰会議が開かれました。
内容としては、私が本日破損した総額12万のシャッターと以前破損した3万のラミネートの支払い分担についてです。当時の私はまだ借金が60万ほど残っていたことと、弁護士より1か月の使用限度額が2万に制限されていたため、到底支払うことができませんでした。そのため、同期2名にも協力してもらい、支払を行うことが決まりました。
支払額の分担協議の結果、私が7万、藤木と平井が各4万ずつもってくれることになりました。本当に感謝しかありませんでした。
これにて一件落着と思いきや、数日後、私の受け持っていた派遣社員が梱包機を破損しました。これは災難でした。総額30万ほどで、しかも会社設立から使っていた機器であったため、代わりのものが見つかる確率が低かったからです。
絶望しきっていた私でしたが、このときから派遣社員として1名
男性が入社しました。その人物がM.Kさんです。後の風俗王と呼ばれる人物です。
その人物は機材関係にとても詳しく、以前の職場でも修理経験があるとのことでした。
正直このタイミングでこの人が来なければ強制退社させられていたかもしれません。
騒動が落ち着き、新しい上司が岡山から派遣されました。
その人物とは、佐々木浩一郎氏でした。この人物を一言で言うと、ユニークさを第一に考えて仕事をする人でした。以前の上司とは正反対で驚きました。ですが、すぐに打ちとける出来事がありました。
それは、キャバクラ初体験です。私が女性とのコニュニケーションが苦手でセクハラ騒動にもなったことを聞いた佐々木氏は、克服するためにキャバクラに行こうと言いました。
金額は私が出すから楽しんできなさいと言われ、一緒に行くことになりました。
最初はいつも通りあー、うー、えっとしか返答ができない私でしたが、佐々木氏からアドバイスをもらって連絡先を何人か交換することができました。
そしてここから私は楽しさを思い出し、調子に乗ることになります。
ますは、眉毛をなくし、以前の双極性障害を武器に職場でも披露しようと思いました。
しかし、自宅でも弟や両親から注意されてしまい、自分のPCをライブ配信で破損してしまいました。友人におかげで、すぐにコードが見つかったので本当に感謝しています。
また、風俗王と日々の荷受けがつまらないので、友人からアドバイスをもらったABC荷受けの話をしてみると、すぐ取り入れようと賛同してくれました。上司の佐々木氏もいいねと言ってくれて、他の従業員がいないときは披露してよいことが決まりました。
ますます調子に乗っていく私は、会社の忘年会にて、風俗王と佐々木氏がいない中でも自慢の歌唱力をカラオケで披露することにしました。藤木と平井が乗ってくれると期待していましたが、ここで私は絶望することになります。
Daiceのシトラスが大好きだったので、本気で歌いました。歌い終わった後、周りを見ましたが、苦笑いが起こっていました。藤木と平井にも聞きましたが、あと少ししたら帰ると言われ、後半はなんと1人カラオケになってしまいました。
これを機に私は風俗王と佐々木氏以外には心を許さないことを決意しました。
このことを風俗王に話し、ストレスが溜まってきたと言うと、
風俗王からある提案を受けました。
「今週埼玉に行くけど、予定空いてれば一緒にこない?」
私は暇を持て余していたので即答しました。そしたら風俗王が笑い、こう言いました。
「君はまだ童貞だったね?今週卒業させてあげるから」
私はこの時この人の本当の正体を知ったのです。この人は風俗に詳しい人で、3か月に一回は店舗に行かないと気が済まないとのことでした。
当日不安な私でしたが、風俗王の車に乗り、ある飲み物を受け取りました。
それはマカというものでした。私の事情を話したところ、これを飲めとアドバイスをくれました。
その結果、時間ぎりぎりで上手くいきました。風俗王にはとても感謝しています。
年末には東京都内のHUBに行き双極性MAXの状態の私でしたが、年明けになんとコロナに感染してしまいました。その状況を会社に伝えると、佐々木氏よりも上の立場である山田副本部長が対応してくれました。繫忙期だから治ったら必ず誠意を持って謝罪するようにと言われました。これを真に受けた私は、伸ばしていた髪を断髪し、坊主にしました。復帰当日は朝礼にて、従業員全員の前で謝罪しましたが、ひそひそ笑いが聞こえてきました。これで吹っ切れてしまった私はますます双極性の症状が悪化していきます。
高校時代に山田という人物がいましたが、なぜかその人物になりきり、ライブ配信をしていたことを覚えています。
こんな自分自身が嫌になり5月末で退職しました。ですが、未だに双極性の症状は寛解しません。どうすれば寛解するのか、メンタルケア心理士のDVDを見て模索しています。
退職してから2か月経過し、再び風俗王に助けを求める機会が
2度ありました。
1度目は、東京に旅行に行ったときの出来事です。
私は今まで節約してきた反動で旅行中はお金の心配を一切していません
でした。埼玉県川口市にある風俗店に行きました。その際、私は残額が1000円もありませんでした。ですが、ある人物に依頼し、料金を立て替えてもらいました。その人物が風俗王です。私は90分で2万円のサービスを
受けることに決めました。開始30分前くらいに風俗王へ電話しました。
「ちょっとお願いがあるんですが、至急2万円が必要になります。
後で倍にして返しますので、貸してもらえませんか?」
気になる返答は、「分かった。できるだけ早く口座に振り込んでおく。」
でした。そして開始10分前になり、コンビニで確認すると、なんと2万円の入金がありました。これで一時を救われました。私は快楽とともにサービスを受けて帰ることができました。
2度目は、長野に旅行に行ったときの出来事です。
1泊2日で旅行し、前日居酒屋を3件行ったので、残金が1000円しかありませんでした。翌日の朝、駐車場代を支払おうとしたところ、
なんと5000円でした。友人に頭を下げて借りましたが、そのとき私は一つ
の案を思い浮かびました。「以前風俗王に電話したことがあったな。
もしかしたら今回も承諾してくれるのではないか。」
すぐ風俗王に電話し、「どうしても1万円が必要になるので、可能なら
すぐ貸してもらえませんか。」と伝えました。
そしたら、風俗王から「分かった。すぐ振り込むから確認して。」
と返答がありました。
すぐに近くのコンビニに行き、確認しました。そしたらなんと
1万円の入金がありました。これで2度も窮地を救ってもらいました。
この件で風俗王とは切っても切れない繋がりとなりました。


是非、今回紹介したことを参考にしてみて下さい。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

以下の様な依頼も受け付けております。
■日常生活の生産性を高める為の「ヘルスケアコンサルティング」
■自分のライフプランを一緒に考えてほしい方向けの「ライフコーチ」
■健康のために運動を取り入れたい方向けの「パーソナルトレーニング」
■SNSマーケティング(アカウントセッティング・運用代行)など

気になる方はこちらのフォームまたは以下のSNSからお知らせください。

管理人(ススム)の各種SNS
■Business site
https://susumu-shimoda.com
■LinkedIn
https://www.linkedin.com/in/susumu-shimoda-31964722a/
■Instagram
https://www.instagram.com/susumu.j.s_yolo/
■Twitter
https://twitter.com/Susumu_Shimoda_
■Facebook
https://www.facebook.com/shimodasusumu/

管理人(ルイ)の各種SNS
■Instagram
https://www.instagram.com/runner1002/
■Twitter
https://twitter.com/SR76377909

それでは、また次回お会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?