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名古屋はニホンの”第二映画都市”? 【全力調査2021】

名古屋はニホンの”第二映画都市”?

 たまたま縁があって名古屋に出向いた時に、私はその思い付きを得ました。色々と調べてみると、

A . ミニシアター文化
B . 公共の映画支援
C . テレビ主導の良質映画
D . コロナ実証実験

 この4点が、名古屋を優れた”映画都市”たらしめているのだと私は感じました。


 名古屋の「映画文化」の魅力について、余すことなく記事にしてみたい。
 そういう思いで、この記事は出発しました。

 映画好きな方も、ミニシアターを知らない方も、全ての方にこの記事が届けばいいなと思っています。終わってみると、全体で約3万字もの文量に膨らんでしまいましたが、ぜひ最後まで読んでいただければ嬉しいです!

東京に次ぐ”映画都市”はどこだ!

 名古屋の映画文化について掘り下げる前に、他の都市との比較をしてみます。

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 日本映画製作者連盟が昨年末に公表したデータによると、スクリーン数が100を超えるのは上記の8都府県でした。以外に思われるかもしれませんが、愛知県は東京に次いで2番目にスクリーンの数が多い”映画都市”なのです。
 ただ愛知県は人口も多く面積も広い上、郊外にはシネコンが多いので、単にスクリーン数だけで比較するべきではありません。数とは別に、より優れた”映画文化”の土壌があるかどうかが、恐らくポイントとなるでしょう。

 名古屋を”第二映画都市”と銘打ってしまったので、まずは他の有力な各府県の映画文化を、簡単に紐解いてみたいと思います。

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 まず、京都(写真は映画村)。歴史を遡れば日本のメジャースタジオが”東京一極集中”に陥っているのは今も昔も変わりませんが、関東大震災(1923)の影響によって、一部映画会社の活動拠点は京都に移りました。
 京都の景観に裏打ちされた”時代劇映画”は、敗戦後一時期GHQによって「封建遺制」として禁止されましたが、以降は国策の影響もあって、戦後日本を代表する娯楽であり続けました。

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 しかし時代劇は隆盛を極めた1950年代後半を境に、テレビへと舞台を移しました。東映も時代劇ではなく任侠映画へ作り始め、70年代以降は『仁義なき戦い』をはじめとする”実録やくざ映画路線”を切り開きました。
 結果的に私のような若い人間にとって、「水戸黄門」も「ヤクザ映画」も馴染みの薄い作品群となっています。祖父母の家のお茶の間で必ず流れていた時代劇に煩悶としていた同年代の方も多いでしょう。
 今や時代劇はどうしても「お年寄りの娯楽」の感が漂っていますし、ヤクザ映画の精神性も、確かに観てみればそれなりの魅力に満ち満ちてはいますが——工藤会代表らの判決に象徴されるように——”旧世代的”だと言わざるえません。
 以上を踏まえて、私は今の時代に京都を”第二の映画都市”と高らかに名打つのは、相応しくない気がするのです。

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 (神戸映画資料館特選 戦後大阪の映画文化展

 次に大阪はどうでしょう。調べてみると、80年代ミニシアターブームの時点で大阪は「映画館の数が少なすぎた」と多くの人が口を揃えて回顧しています。
 元々アート系映画を流しても東京の20-30%の動員しか見込めないという強い地域性もあって、90年代以降の大阪は「ミニシアター大阪戦争」とも呼ばれた割拠の時代が続いていました。多くのミニシアターが東京で流れる単館系のアート映画を奪い合っては動員に苦しみ、名前を変えながら創業・廃業を繰り返したのです。
 今の大阪は緩やかに映画館の数を増やし続けていますし、ミニシアター文化の基盤は整ってきたといって良いかもしれません。ただ「シネ・ヌーヴォ」や「第七芸術劇場」「シネ・リーブル」などのミニシアターは駅や繁華街のメインストリートから離れた”場末”に立地していて、やはり”第二の映画都市”と呼ぶのは些か憚られるものがあります。


 最後に関東近郊(神奈川・千葉)に関しては、単純に人口過多によって”スクリーン過多”の現象が起きているに過ぎないように思えます。東京に近い分、基本的には映画産業の”東京一極集中”に電車一本で追随し、なぞっている形になります。そのため独自性という観点でも”第二の映画都市”を冠する謂れはありません。
 簡単になりますが以上が名古屋「以外」が”第二映画都市”になれない理由の複数です。

名古屋の映画文化

 次からは、いかに名古屋が”第二映画都市”と呼ばれるのが相応しいか、その蓋然性について私の解釈を、長きに渡って、提示してみたいと思います。
 そもそも”第二映画都市”という区分も恣意的なもので、私の個人的な想いがかなり強くなっていますし、記事の文脈を作るための分かりやすい装置のような側面もあります。

(つまり名古屋のミニシアターの魅力をお伝えしたいというのが記事全体の趣旨です。)

 改めて書くと、私は以下の4点が、名古屋を魅力的で優れた”映画都市”たらしめているのだと感じています。

A . ミニシアター文化
B . 公共の映画支援
C . テレビ主導の良質映画
D . コロナ実証実験

 各項目について詳しく見ていきましょう。(*②〜④を言及するのはかなり後です。)

A ミニシアター文化

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 まずミニシアターについて、名古屋には約十館のミニシアターが存在します。何が「ミニシアター」かという定義は曖昧のままにしておいて、試しに羅列してみると

・名古屋シネマテーク
・シネマスコーレ
・伏見ミリオン座
・センチュリーシネマ
・三越映画劇場
・名演小劇場
・大須シネマ
・シアターカフェ
・中村映劇(成人映画館)

 といった具合です。他にも「ミッドランドシネマ」などはシネコンですが、ミニシアターで上映されるような映画を数多く紹介し、近年ではイベントのサブスクサービス「ソノリゴ」とコラボするなど、”文化的な”シネコンのロールモデルになっています。「中村文化小劇場」は近年、字幕を付けた日本映画をバリアフリー上映を行っています。

 この記事では、上記のミニシアター全部を詳細に紹介することはできません。なので、ここでは特に

・名古屋シネマテーク
・シネマスコーレ

の2館だけに絞り込んで、深堀りしていきたいと思います。

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 この2館は名古屋の映画文化の精神的な軸になっていたと、とりあえずは解釈して良いと私は思います。もちろん他にも優れたミニシアターは幾つもありますし、必ずしもその2館だけを「推す」正当な理由はありません。
 ただ地元・中日新聞での扱われ方や、連載されていた記事の内容、その他私が簡単に漁ってみた文献を見ても、どうやらその2館が中心的な役割を果たしていたらしいということは、俯瞰して窺い知れました。
 その2館は80年代前半の、ほとんど同時期に開館しました。そして双方とも「80年代ミニシアターブーム」が強く意識されていて「東京でしか観られない映画を名古屋で」という強い想いを抱えていました。
 そしてまた、それぞれ別個の、独自の映画文化を築くことにも成功していました。開館当初から——大阪とは違って——決して単館系のアート映画を奪い合うこともなく、しっかりとしたプログラムの棲み分けを行うことに成功していたのです。

名古屋シネマテーク 〜どこまでも貫く自主精神〜

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 先に名古屋シネマテークについて、時代的な背景も踏まえてまとめていきます。
 あらかじめ書いておくと、シネマスコーレの資料は比較的少なかったので、簡易的にまとめる形になると思います。ただまずは名古屋シネマテークについて詳らかに解き明かすことが、名古屋のミニシアター文化を紐解くために最も効果的な手段であると、私は思っています。

 その理由は2つあります。まず1つシネマテークが「自主精神」という言葉に要約されるような一貫した上映スタンスを保ち続けたという点で、名古屋のミニシアター文化を象徴していると思えるからです。詳しくは後述しますが、シネマテークは徹頭徹尾「自主上映」「自主制作」のありようについて問い続けた、全国的に見ても稀な映画館といえるでしょう。
 2つ目の理由は、シネマテークの元支配人・平野勇治さんと代表・倉本徹さんが、多くの示唆に富む時事的な映画情報を、積極的に発信していたからです。媒体は新聞の連載や雑誌、ネットなど多岐に渡りますが、私たちは彼らの文章を遡ることで、名古屋のミニシアター文化を当事者目線で推し量ることができます。

(ちなみに東京では、ユーロスペース代表の堀越健三さんや支配人の北條誠人さん、アンスティチュ・フランセのプログラム主任・坂本安美さん、UPLINKの浅井隆さんなどがそういったポジションでしょうか。)

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小さな映画館から』は今年の1月に出された、平野さんが生前に各メディアに寄稿した文章や回顧録、個人的な映画評などがまとめられた、いわば”遺稿集”です。シネマスコーレ館内の受付で販売されていますが、一部で通信販売も受け付けているそうです。
 帯の裏側には次のような文章が載っています。

映画とは何か、ミニシアターの役割とは何か——。
平野勇治は、その魅力を語るだけでなく、映画史の中での役割、社会や時代との関わりを常に考え
ながら論じてきた。
映画の楽しみは、何ごとかを発見したり、思考が深まる喜びと一体であると考えていたから。
そしてその思いは常に、未来を向いていた。本書にも記された
「今日面白い映画を上映していないと、明日面白い映画は観られない」
という平野の言葉は、まさにそれを表している。

 私は差し当たりこの図書を第一参考書とし、他には愛知県立図書館や大学図書館で見つけた文献、名古屋に本社を持つ中日新聞さんの連載などの情報をもとに、名古屋シネマテークについてまとめていきます。今後とくに断りがなければ、『小さな映画館から』からの引用だと思ってください。

(ちなみにシネマテークは園子温監督山村浩二監督らは学生時代から常連だったらしいですし、スタッフをしていた福島拓哉監督、一尾直樹監督らは現在も活躍しているそうです。後に触れるタイミングがなかったので、ここで記載しておきました。)

① ナゴヤシネアスト時代

 改めて書くと、名古屋シネマテークは1982年の6月にオープンしたので、来年の2022年で40周年を迎えます。80年代に生まれた主要なミニシアターの中でも、開館当初から場所も上映形態もほとんど変えていない映画館はかなり少なくなっています。

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 名古屋シネマテークには「ナゴヤシネアスト」という前身組織がありました。代表・倉本さんが大学の映画研究会に呼びかけて結成した、自主上映の組織です。上映会は1971年の1月から定期的に開催され、倉本さんの就職を期に一旦は途切れましたが、1976年からは本格的に再開しています。
 「上映会」といっても、いわゆる映画館を借りた興行とは少しニュアンスが違います。駅前のホールや大須の七ツ寺共同スタジオなどの有料スペースを借りて、映写機からチケットから何まで文字通り「自主」的に上映したのです。
 このような上映形式は「ジプシー上映」などとも呼ばれ、<映画、演劇、美術、音楽>の実践を通して自己を表現する、70年代的な臭いが感じられます。自主上映である以上、多くの利益が見込まれる商業映画や、既に多くの劇場でかかっている映画を上映する意義はありません。メンバーが本当に上映したいと考えている、とりわけ世にまだ出ていないマイナー映画を、基本的には赤字前提で上映するからこそ意義があったのです。
 70年代の上映作品(特集)は、例えば以下のようなものでした。

1976年:「大島渚、その破壊と創造(全 5 作品)」「J=L・ゴダール、その復権序曲 (全3作品)」「ソ連映画特集エイゼンシュテインと新しい波(全 8 作品)」
1977年:「ボーランド映画再集(全6作品)」「ドイツ新作映画祭 (全5作品)」「フランス映画研究(全5作品)」「アラン・レネー (全 2 作品)」
1978年:「フランス映画研究3~9(全5作品)」「『三里塚・五月の空、里のかよい路』+小川プロ全作品上映会(全6作品)」
1979年:「ヨーロッパ映画 名画選1~3 (全 9 作品)」「『水俣』全作品上映 会(全8作品)」

 他にもハンガリーやポーランドの新作映画、 土本典昭や小川紳介らによるドキュメンタリー映画、日活ロマンポルノ廃業後のピンク映画なども上映しました。溝口健二、ゴダール、大島渚といった”ヌーヴェルヴァーグ”界隈の、いわゆるシネフィル(映画通)向けのコアな企画ばかり、という印象が持たれるでしょう。
 自分の好きな作品を自由に選定し、好きなタイミングで上映できるのは大きな魅力です。しかし、映写機や機材の搬入・搬出する手間や、公共ホールの使用制限の問題を考えると、大変な苦労があったかと思われます。
 倉本さんは古紙回収や塾経営の仕事で資金を賄いながら、約11年間に渡って上映活動を続けました。機関紙「レスプリ・デ・シネアスト」を発行しつつ、最終的に上映したのは全141企画、延べ634本作品でした。

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 後に支配人となる平野さんは、高校1年の頃からシネアストの上映会に足繁く通い、倉本さんと会話する仲になります。
 元から映画好きだった平野さんにとっても、シネアストで上映された『野いちご』(ベルイマン)『男性・女性』(ゴダール)『灰とダイアモンド』(ワンダ)といった作品群は、大きな衝撃でした。いつしか「観たい時に観たい映画が観られないのは辛い」という飢餓感がシネアストのジプシー精神と重なり、倉本さんからの誘いもあって、上映サイドに回るようになります。
 レンタルビデオやサブスクが一般的になった現代では、ある作品を「観たい」飢餓感に満ちた者同士がたった一つの上映会に参加する、といった状況はほとんど起きないでしょう。逆に言えばいつどこでも好きな映画を観られる環境は、映画が「消費的」に扱われてしまう危険性も孕んでいることを意味します。

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*お手洗い横にあった『バルタザールどこへ行く』(ブレッソン)

 80年代に入ると、この記事でも何度か触れている「ミニシアターブーム」の潮流が生まれます。その背景の一つにはハンガリーやスイスなど各国の大使館や文化機関が、自国の優れた文化を日本の紹介するために行っていた、非営利の上映活動があります。未知の文化圏の映画は、人々に異文化への新しい探究心を掻き立てました。
 シネアストはこうした流れを汲み、大使館・文化機関経由の作品を多く上映しました。ほとんどは”文化紹介”という名目であれば一時的に貸してくれたそうですが、字幕がないため別のスライド映写機も準備しなければならないという膨大な手間もありました。
 ミニシアターブームといっても最初は東京だけで、山形、大分、札幌、大阪、岡山といった地方に流行が生まれたのは、自主上映会の流れを組む「自主上映館」の出現を待たなければなりませんでした。倉本さん曰く、名古屋シネマテークと新潟シネウィンドが、その先鞭を付けたそうです。
 東京と比べて映画の紹介が遅れていた名古屋にとって、まだ知らぬ異国のアート映画は大きな衝撃をもって迎えられたことでしょう。「東京の映画を名古屋に」という考え方は、シネアストが活動を開始した70年代から現在に至るまで、名古屋のミニシアターに一貫して引き継がれている考え方のように思えます。

② 宣言文

 ミニシアターブームが浸透し、多くの劇場が海外の優れたアート映画を紹介するようになると、次第に低予算かつ時期不定のジプシー上映の旨味はなくなってしまうのでした。倉本さんたちは自分たちが自由に使用でき、いつでも好きな映画を上映できる場所を確保しようと模索します。

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 場所は行きつけの居酒屋・六文銭が入居していた「今池スタービル」を紹介してもらいました。写真(中日新聞より)にもある通り、炉端焼きやチャンコ鍋の店も立ち並ぶ、渋いビルです。
 映画館を新たに設営するには工事費・物件費、席や映写機、スクリーン等の備品費を含め、約1000万円近い初期費用がかかります。シネアストの上映会は赤字だった上、当時は斜陽産業だった映画館運営に融資が下りにくい趨勢もありました。
 そこで倉本さんは「知り合いからお金を集める」という単純かつ明快な方法を思い付きます。今でこそクラウドファンディングは主流となっていますが、当時はその発想に荒唐無稽な響きがあったかもしれません。倉本さんは名古屋に優れた映画が上映されない”飢餓感”を多くの人が抱いているに違いない、と信じて疑いませんでした。
 倉本さんは以下のような宣言文を、ナゴヤシネアストの来場者・関係者各位に配ります。いかにプロジェクトが清廉潔白で夢があるかという点が重視される昨今のクラウドファンディングとは全く異なる飢餓感を感じさせる、力強い文章です。

<名古屋シネマテーク>設立と発足について
ナゴヤシネアスト 倉本徹(1982・3・19)
 映画に何故魅かれるのであろうか。
 映画が好きかと問われれば、嫌いだとは答え辛いが、決して映画無しでいられない程ではない。
見るよりも酒を飲み、人との語らいの方が楽しい。このような状態で、よくも1年間、無駄とも思
える時間を映画の為に費やしてきたものだ、と我ながら感心するが、時たま無駄にするだけの価
値が、私にはあったのだと思うことがある。
 それは映画との出会いであり、映画(活動)を通じての人との巡り合いである。例えば、昨年8月
「女と男のいる舗道」を見た時、初めてゴダールに泣き、彼のナイーブさを発見した。それは私の
心情と同じものを作品の中に見たからに他ならない。「東京物語」も…(中略)
 このように、私に人生を教え、関心の切っ掛けを与えた様々な映画を、単に商業主義の名の下
で死蔵し、廃れさせることは、私には許せない。私の出来る範囲で目一杯、その潮流を食い止め
ることが、私の仕事であると今では考えている。その為に幾多の人々の善意の協力を得て、細や
かではあるが、最も適切なる専用スペースの設立を計画する。(続く)

 その後「新作について」という段で、名古屋では上映機会の少ないノン・シアトリカルな映画を非興業的に上映する旨、「旧作について」という段で、旧作を映画教育の「基礎」として重視する旨、「記録映画について」という段で、客層が減って製作費が回収できない記録映画を増やしたいとする旨をまとめています。いずれも映画産業の課題を取り上げ、シネマテークに可能な解決策を提示する、という語り口です。

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 次にまとめられていた「資料室の併設と談話室の有意性について」という段は、シネマテークの個性を如実に表している、非常に興味深い指摘でした。少々長いですが、引用してみます。

 名古屋において映画関係を充実させた図書館はない。その為、映画を文献から調べようとしても
出来ないのが現実である。しかし当会には雑誌1100冊、単行本600冊の所蔵がなされ、これを公開
することにより、少なからずその穴埋めは可能となるだろう。さらに新たなる資料提供者の出現も
予想され、一大資料センターになる可能性がある。当然、将来的にはフィルム所有も考えていくべき
であろう。
 併設予定の談話室は、映画運動を進める上において必要条件である。従来の映画館やシネアスト上
映等では為し得なかった見知らぬ暗闇での隣人との自由な談話や、夜を徹しての討論は、新たなる人
間関係の樹立にはなくてはならないものである。そこで語られる言葉が発言者の全体重をかけた自身
の生き方を問うものであればある程、人はより理解し得るものであると確信している。そのような討
論の渦中では、映画を自身のアイデンティティと対峙させる以外にはなく、その時、観客でしかすぎ
なかった私達が、主体的に作品に参加出来る時でもある。

 そもそもシネマテークの名前の由来は、パリで映画の保存・上映に取り組んでいる文化施設「シネマテーク・フランセーズ」に由来します。全国的にも稀な「映画図書館」なる施設は現在も継続して運営されていて、蔵書数は和書3000冊、和雑誌3000冊余りにまで増加しました。全て映画に関わる図書で、誰でも閲覧が自由にできます。貸出は会員なら無料、その他一部で保証金や貸出し料が必要になっています。

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 次に「談話室」ですが、確認したところ、これは現在の待合ロビーのことを指していると思われます。今でこそ「談話室」などと仰々しい呼び方をしている方もおられないでしょうが、かつては映画に関する侃侃諤諤とした議論が夜通し行われていたのでしょう。
 結果的にこの宣伝文によって、倉本さんは約1400万円の資金を集めることに成功します。一見すると晦渋にも見える宣伝文に多くの人が賛同し、支援したという事実に時代的な驚きを隠せません。
 倉本さんは『ミニシアター巡礼』の中で、以下のような発言をしています。

「名古屋大学映画研究会時代からずっと自主上映をやってましたから。映画館は自主上映の延長。だから、ここは"自主上映館、なんです、いまでも」

 開館以後もシネマテークは全国的にも珍しい常設の「自主上映館」というスタイルを固持しました。決して商業主義に陥らず、好きな映画を好きなように上映し、​​「観客でしかすぎなかった私達が、主体的に作品に参加」する。その場所で「語られる言葉が発言者の全体重をかけた自身の生き方を問うものであればある程、人はより理解し得る」討論が行われる。

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 (シネマスコーレ2021年8,9月プログラム)

 文化の嗜好が幅広くなった80年代という時代だからこそ、主体的な芸術的立場をとっていた人は多かったのかもしれません。同じ志を持つものが集まり、議論する。大学のサークルであれ、授業であれ、ゼミであれ、こういう当たり前の営みが果たされないコロナ禍の現代が、益々悔やまれます。

 平野さんは自身が受け持つ大学の講義で、以下のことを再三に渡って主張していました。

ミニシアターの映画は、見る側から映画に一歩近づいていくことで、面白さがグンと増してくるものだ。観客が、ある種の能動性を持って接すれば、俄然輝きだすのが、ミニシアターの映画だと言ってもいい。

 この主体的なアクションこそが、ミニシアターの本質といえるのではないでしょうか。
 これは同時に、待っていれば向こう側から楽しみを提供してくれる映画や、自分の関心だけをアルゴリズムで抽出する「YouTube」や「TikTok」に満たされた若者へ向けた「主体性」への啓示であるようにも思えます。

③ 自主製作映画フェスティバル

 開館後のシネマテークは、スタッフらが自分たちで企画する「独自の番組」、各都市を巡回してくる「映画祭」、そして新作を公開する「ロードショー」、という3つのパターンの企画でなりたっていました。
 オープン当初は「独自の番組」が多かったみたいですが、80年代ミニシアターブームによってマイナー映画を配給する会社や劇場が増えたことによって、新作の「ロードショー」が増えました。平野さんはブームに対して、

「公開される作品のおおさ、映画に関する情報量の多さ、また流行の変化の早さに、時に恐怖さえ抱いている」

と回顧しています。
 平野さんたちは既に東京で広まっている優れたアート映画をそのまま名古屋に横流しする、という手法を取りませんでした。プログラムメンバー同士で詳らかに作品を議論し、本当に紹介したい作品かつ上映に意義のある作品だけをセレクションするというあり様こそ、シネマテークの「自主上映」形式の本質である、という意志が感じられます。

 90年代を迎えるとシネマテークは「安定期」とも呼ぶべき時期に差し掛かります。そこそこヒットする作品が2〜3ヶ月に1本あって、それ以外の作品も安定的に売れる、という状態だったそうです。80年代のブームによって”ミニシアターの映画作家”という系譜ができた後は、彼等の名前を使って興行するというのが定石でした。
 「映画作家に着目する」という流れは、言い換えれば「作家性を評価する」という流れです。同時期にはぴあフィルムフェスティバル(=PFF)を起点とするインディペンデント映画の動きも強まり、映画学校(大学や専門学校)創立も相次ぎました。スカラシップという制度を生かしたPFFは、最大760本もの作品を集めることに成功しました。
 インディペンデント映画の台頭は、映画監督を志すものがまず先にスタジオへ入って修行し、演出や助監督などのキャリアを経て晴々監督になる、という規定ルートが古くなったことを意味していました。若い時代に自主で製作された映画こそが産業の貴重な財産である、という発想が勢い付いたのです。

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 元々80年代前半の名古屋では、自主映画の上映会が頻繁に行われていました。ただそれも80年代後半になるに従って下火となり、自主製作において最も手軽だった8mmフィルムも衰退し始めました。
 そういった現状を受けたシネマテークは「第1回自主製作映画フェスティバル」(1986年)を開催します。”次世代の映画監督の自己表現の場としたい”という想いのもと企画された、文字通り自主製作映画を中心に上映する映画祭です。
 第1回の副題は「満ち足りた虚飾の中で—愛・暴力・映画—」。何とスリリングで長いテーマでしょう。通常は映画祭と映画館の運営が切り離されているだけに「映画館が主宰する映画祭」というのは、それだけで稀有なものがあります。全体は大きく分けて2部構成となっていて、昼間は独自視点で組んだ「招待作品」プログラム、夜間は持ち込まれた公募作品(東海地方を中心に約20~30本)を無審査で上映する「何でも持って来い!」プログラムでした。
 特に近年の「何でも持ってこい!」プログラムは1日15時間近くも上映することがあるそうです。各地の映画祭に出品されたものからホームビデオに近いものまで、多種多様な作品に溢れていました。ただ無審査ということは、映画の内容がいかにキワどく、あるいは監督の醜態を晒すことになろうとも、ともかく映画館で上映されてしまうということを意味しました。
 そのため「自主製作フィルムフェスティバル」は若手監督にとって、観客に多くの質問を投げかけられ、時には批評されたりもする、一種の「通過儀礼」のような空間になりました。「自主上映会」という体裁だからこそ生み出せるこの企画は、以後も30年以上に渡って続きました。

 平野さんは「何でも持ってこい!」プログラムについて、以下のような文章を残しています。時代の空気感を有り体に伝えたいので長々と引用してみます。

 東海地方を中心に例年20~30本の作品が集まるこの上映会は、私たちにたいへんな苦痛と快楽を
与えてくれる、一年に一度のイベントである。苦痛の方は、その形態から推察してもらうとして、
快楽の方は、何よりも発見の楽しさという一語に尽きる。
 私たちスタッフは、シネマテークで上映する作品に、ある程度の予備知識はいつも持っている。
しかし、この 『何でも持って来い!』だけは、何がとび出すかだれにもわからない。その分、発見
の驚き、感動は大きいのだ。 創意と工夫をみなぎらせ、既成の映画にない自由な映画作りを見せて
くれる作品や、質感やリズムを大切にして、 フィルムならではの微妙なイメージをとらえた作品に
出合った時、連日、深夜に及ぶ上映会の疲れは吹っ飛ぶ。
 そんな映画の作り手たちを、上映、宣伝面での微力な手助けではあるが、継続して応援していきたい。
(中略)
 また、このフェスティバルには、作り手に直接、感想や文句(?)を伝えられる面白さもある。期間
中、何人かの監督は必ず劇場内にいるからだ。いきおい我々見る側にも、精いっぱいの誠実さと真剣
さが求められる。東京から来名し各回の上映に立ち会って自ら映写もする招待監督たちの、映画に対
する深い愛着を目にした時、その感はいっそう強まる。観客にも作り手にも有益で、スリリングな場
となること、それもフェスティバルの目標だ。

 「自主製作映画フェスティバル」で上映された作品には、後にメジャーとなる監督の初期作もありました。
 例えば黒沢清監督や園子温監督の作品は第1回の時から何度も上映されたらしいですし、冨永昌敬監督、沖田修一監督、古澤健監督らのインディース作品も多数紹介されたそうです。少々変わったラインナップとしては、俳優・劇作家のイメージが強い松尾スズキさんの監督作や、美術家・ヤノベケンジさんのドキュメンタリー映画もあったそうです。
 また「何でも持ってこい!」プログラムと並行して「初心者のための8ミリ映画講座」も企画されました。8ミリ映画が衰退に向かいつつ時代だからこそ、半ば回顧的にそれを普及しようと考えたのです。一時は受講希望者が定員の2倍は押し寄せるほどの盛況ぶりを見せていたそうです。

 講座に参加した当時の若者について、平野さんは以下のような印象を抱いています。

そこに見られるのは、「私も映画監督になりたい!」というかつての自主製作映画を支えていた映画への欲望ではなく、「何か自己表現をしてみたい。が、 自分には何が出来るだろうか?」という、定かに見えない自己を発見したい、そんな欲望に様変わりしていたと思う。

 一般的に80-90年代以後は「ポストモダン」とも呼ばれる時代で、70年代に芸術や政治の夢が果たされなかった現実に不全感を抱いた若者が多くいました。名古屋にも然り「何でもいいから自己表現をしてみたい」という情熱に駆られた若者の一部が「自主製作映画フェスティバル」に作品を送ったのでしょう。

 映画館であれ、演劇場であれ、美術館であれ、ありとあらゆる表現の「空間」が失われてしまったコロナ禍で、若者に何ができるのか?

 私はそういったことを考え、長らく大学生活を行っていたように思います。表現とは必ずしも対抗である必要性は無いにせよ、「空間」が失われている現状に阿諛追従することは、自ら文化を尻すぼみにさせることに繋がりかねません。
 ジョルジュ・アガンペンというフランスの美学出身の哲学者は、コロナ禍に以下のような発言をして物議を醸しました。

生存以外のいかなる価値も認めない社会というのは、一体なんだろうか?

 人類の「COVID-19」を巡る戦いは、基本的には自分たちの安全を希求する「生存」への意志の顕れです。
 しかし多くの場合、若者の生存は約束されています。同時に「空間」は、若者の人格形成へ多大な影響を与えます。
 「自主製作映画フェスティバル」に参加した若者の思想態度は、現代の若者に多くの示唆を残してくれるのではないでしょうか。

④ 今池という街と隆盛

 シネマテークが所在する”今池”という場所周辺は、かつて「映画の街」として定着していた節があります。
 駅に近い中区や中村区と比べ、アナクロな雰囲気が漂う歓楽街である今池は60年代〜70年代、アカデミー劇場、今池フジ劇場、今池スター劇場など計8館もの映画館がありました。
 60年代〜70年代前半は、いわゆるATGなどのアングラ文化が隆盛していた頃です。今池がある千種区内には大手予備校や大学が密集していて、書店、ジャズ喫茶、ライヴハウス、レコードショップ……といった具合に、ある種の対抗的な若者文化の拠点となっていました。毎年秋には、商店街とストリート文化が混在する、トライバルな「今池まつり」も開催されていました。

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(今池商店街にあった「タナカマサコ」さんのポスター)

 そうした時勢にシネアストが誕生したのにも、恐らく理由があったのでしょう。今池という土地柄からも、先ほどの「宣伝文」や上映プログラムからも、何処となく対抗文化の名残を感じさせます。

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 デジタル化の波が押し寄せた90年代以後、ミニシアターの閉館が相次ぎました。名古屋でも2006年に「今池劇場」「今池国際劇場」が立て続きに閉館し、2019年には名画座「キノシタホール」も閉館しました。シネマテークは2014年に500万円もの予算を使ってデジタル映写機を導入しましたが、何とか持ち堪えました。

(「8ミリ映画講座」に象徴される通り、シネマテークは映画の”フィルム”への拘りが強かったといえるでしょう。2015年には修復されたフィルムを集めた上映会「蘇ったフィルムたち」が企画され、日本映画史上不朽の名作といわれながらもフィルムが散逸し、観ることが叶わなかった幻の無声映画『忠次旅日記』(1927、伊藤大輔)が上映されました。)

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 現時点(2021年9月)で今池周辺で経営しているのはシネマテーク、名演小劇場、三越映画劇場の3館だけです。ミニシアターは席数も少ないうえ、コロナ禍での安定した経営が難しいものがあります。

 シネマテーク平野さんは2019年、コロナを知らずして57歳の若さで夭逝されました。自主製作映画フェスティバルも、どうやらその機にストップしているみたいです。
 2021年6月、倉本さんは一連のコロナ禍を受け「閉館も覚悟している」と発言しています。


 シネマテークと他のミニシアターの関わりについて簡単に触れておきます。
 2021年1月、東京のユーロスペースで「現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜」と題されたイベントが開催されました。上映後トークの模様は、シネマテーク含め全国各地のミニシアターに生中継されました(一部録画)。

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 また、シネマテークは「仮設の映画館」配信制度を一部活用しています。「仮設の映画館」とは配信作品を、観客がどの映画館で鑑賞するのかを選ぶことができる制度です。料金はフィジカルでの映画館興行と同様に、それぞれの劇場・配給会社・製作者に分配される仕組みになっています。

(「あいちトリエンナーレ2019」で大物議を醸した『遠近を抱えた女』(大浦信行監督)などは映画館での興行が難しかった反面、配信で得た権利料の半分を「ミニシアターエイド基金」の支援に充てました。)

 平野さんは「全国コミュニティシネマ会議(旧「ミニシアター交流会」)」へ参加し、今後のミニシアターのあり方について積極的に議論を交わしていました。2014年からは「ツール・ド・シネマ・ジャポン 日本全国ミニシアター会員相互割引」という制度を活用し、各地ミニシアターの会員向割引を適用しました。
 映画館は作品を鑑賞する以外に、場所の魅力を味わう、という側面が大きいと思います。画一的な映画館の「空間」ではなく、その地域にたった一つしかないミニシアターに出向き、その「空間」で出逢った映画が素晴らしければ、何にも代えがたい体験になります。だからこそミニシアター同士が「コミュニティ」として連携して、安定した経営を目指さなければならないのです。

シネマスコーレ 〜時代の”魁”であり続ける〜

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 次からは名古屋中村区の「シネマスコーレ」についてまとめたいと思います。
 冒頭に示した通り、シネマテークほど詳細にまとめることはできませんが、シネマスコーレはシネマテークと同じくらい「自主精神」に溢れている映画館であることは、まず言えることだと思います。

 改めて書くと、シネマスコーレは1983年に開館しました。若松孝二監督が自分含め、若い監督の映画を上映する機会を増やそうと、知人の保有する名古屋駅西口のビルを借りて運営を開始しました。
 一貫してシネマスコーレは時代の””として、先鋭的な作品をグローバルな視点で送り続けました。ヒットを飛ばした作品の多くは、社会に一石を投じ、時には物議を醸すような映画でもありました。
 シネマスコーレのプログラム内容を私なりに要約すると、以下の3つになります。

(1)若手監督の重視
(2)アジア映画に力点を置く
(3)危うさ<水準


① スコーレ(学校)のような議論の場へ

 「若手監督の重視」はシネマテークの「自主製作映画フィスティバル」と似た思想を感じます。
 シネマスコーレは隔月1日の夜を「ムービー・アドベンチャー」と題したプログラムに充て、自主映画を積極的に上映しました。新人監督の紹介、というプログラムの路線は今なお定着しています。
 新人監督の中には、もちろん学生もいました。そもそも「スコーレ」という言葉はラテン語で「学校」という意味だそうです。若松孝二監督の生前インタビューを集めた「若松孝二はかく語りき」(HP)を見ると、

かつて公園に集まって芸術論とかいろいろな文化の話をしていたことが、どんどん今でいう学校というものになっていったんです。ラテン語で学校というのがスコーレです。みんなが集まって芸術とか文化の話をしたりする場がシネマスコーレなのかな。

といった発言がありました。これもシネマテークが「談話室」として構想した空間に似たものを感じますね。映画の話だけではなく「広く芸術・文化を議論する場」という側面が強いのが、シネマスコーレだったのかもしれません。
 シネマテークとシネマスコーレの両者から見て取れる「自主精神」が名古屋のミニシアター文化を築いてきたことが、より明確になってきました。

② アジア映画の充実

 「アジア映画に力点を置く」という志向は欧米諸国の作品が多いシネマテークに比べ、シネマスコーレ独自のものといってよいでしょう。両者は「アジア/欧米」というプログラムの棲み分けに成功しているからこそ、互いの独自性を担保して運営することができるのです。
 シネマスコーレのプログラムは若松孝二監督他、多くは開館当初から支配人を勤めている木全純治さんの決定で組まれています。
 木全さんは学生時代に『赤い殺意』(今村昌平、1964)を見て、映画に携わって生きることを決心したそうです。上京後は池袋の文芸座で働き、プログラム担当として鈴木清順作品や日活アクション映画、東映のヤクザ映画、にっかつロマンポルノといった特集を多数組みました。
 結婚を期に故郷の名古屋へ帰った木全さんは、名古屋発のアジア映画市場を開拓しようとビデオ販売業を始めます。そんな中、名古屋でミニシアターの開設を構想していた若松孝二監督と出会い、いきなり支配人に抜擢されます。
 木全さんは当初「名画座にする」という認識のもと、プログラムを組んでいました。当時から隠れた名画や監督の特集を行う名画座は少なからず存在していましたが、VHSレコーダーの普及に伴って、徐々に衰退へ向かいました。そのためシネマスコーレもわずか1年で名画座としての番組を取り辞めました。
 元々アジア映画への造詣が深かった木全さんは、中国や香港、韓国をはじめとするアジア映画のプログラム編成へシフトしました。今でこそ「韓流ブーム」はありますが、それより以前のアジア映画興行は厳しいものがあったそうです。それでも根気よくアジア映画の上映を続け、やがて木全さん自らも配給を手掛けるようになりました。1999年には映画館向いのビルにアジア映画の雑貨店「アジアスーパーシネセンター」を開設し、アジア映画の普及に努めました。

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 アジア映画の路線を決定付けた映画を、1つだけ紹介します。それは張芸謀監督の『紅いコーリャン』(1988)です。
 ベルリン国際映画祭で金熊賞(グランプリ)を獲得したこの中国映画は、張藝謀の監督第一作目です。紅を基調とした色彩とコーリャン畑の景色や、日本軍による惨劇には目を見張るものがあります。
 日本軍、という政治的に懸念される内容ではありましたが、シネマスコーレはすぐに公開を決定しました。『紅いコーリャン』の大ヒットは、シネマスコーレのアジア映画路線を推し進める結果となりました。

 ちなみに『紅いコーリャン』をはじめとする中国映画の躍進は、後に香港や韓国映画の発展の前触れにもなっています。

③ 先鋭的な映画を送り続ける

危うさ<水準」という基準は、映画館として大変意気込んだものが感じられます。
 木全さん曰く、ミニシアターで大ヒットする作品の多くは、社会の動きに関係する問題提起がなされているそうです。つまり社会に深く切り込んだ映画こそ人々の関心を買い、興行に繋がるという意味です。そこには商業主義から離れて政治的に独立した、劇場独自の宣伝網が必要になってきます。
 もちろん上映作品には、同時代的にもかなり先鋭的だった若松監督の作品もありました。若松監督は中日新聞のインタビューで次のことを述べています。

「営業のためにピンク映画を使って、反権力映画を撮ってるつもりだった。
(周りに)学生運動の連中が出入りするになって。警察のガサ入れもしょっちゅう。
 僕の映画は政治的だったり、暴力的でエロティックだったり。(配給会社が)
 簡単に引き受けてくれなかった。大島渚なんかと一緒に飲んでいると、
「自由にかけられる劇場があったらなあ」。迎合しないで、自分の作品を作り続けるために。

 ここにも対抗的な文化が、見え隠れしていますね。大島渚も挙がっている通り、若松監督はつとめて先鋭的な映画を残し、「ピンク界の黒澤明」と呼ばれたこともありました。
 若松監督作品に留まらず、シネマスコーレは一貫して先鋭的な上映スタイルを続けました。何よりもまず挙げなければならない作品は、原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』(1987)でしょう。

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 この作品は「神軍平等兵」と称し、日本軍の人肉事件の真相を暴露する奥崎謙三のドキュメンタリー映画です。日本映画界がタブーとしてきた天皇制に触れたという点で、かなりセンセーショナルな意味合いがありました。
 暴力的な奥崎謙三の姿勢は、倫理的な面で上映が危ぶまれました。しかしベルリン映画祭でカリガリ賞を受賞したのを機に、全国的に評判が広がります。シネマスコーレは『ゆきゆきて、神軍』を2週間連続で上映し、累計1万人という前例のない動員を獲得することに成功しました。

 あと2本だけ紹介します。次に紹介するのは、呉子牛監督の『南京1937』です。

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 題名からもわかる通り、日本史上のタブーであるいわゆる「南京大虐殺」を扱った作品です。木全さんが1995年の上海映画祭で観たこの『南京1937』の権利は一部シネマスコーレによって買われ、全国各所に配給されました。中野武蔵野ホールや横浜ジャック&ベティでの公開も、大評判となりました。
 『南京1937』は一部の劇場で「上映妨害」が行われたという経緯でも有名な作品です。推察できる通り、右翼の街宣車が押し寄せたり、上映取りやめデモが発生したり、場内のスクリーンが切り裂かれたり、といった内容の妨害です。
 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」騒動や『宮本から君へ』補助金打ち切り騒動にも前例がある通り、先鋭的な作品の公開は大きな危険が伴います。それでいて「危うさ<水準」というスタンスを保ち続けたシネマスコーレの意志は、かなり強固なものがあります。

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 最後に紹介するのは若松孝二監督の『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』(2008)です。この作品は2007年にシネマスコーレで先行上映され、結果的に若松監督にとっても、劇場にとっても「集大成」とも言える一作となりました。
 この映画は題の通り「あさま山荘事件」を扱った作品です。資料映像をふんだんに使いながら、連合赤軍の若者たちの群像がリアリスティックに描かれています。
 若松監督自身も連合赤軍の人物と一部交流があったそうですし、先ほどの引用からも分かる通り「若松プロダクション」の映画は対抗的な学生に支持を得ていました。監督自身の経験に裏打ちされた政治的に危うい「実録」の若者造形は、現代の若者である所の私へ、多くの示唆を与えてくれました。

『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』公開の5年後、若松監督は交通事故が原因で逝去されました。映画界にとって貴重な財産を失ったと、多くの映画ファンが嘆き暮れました。

ちなみに「Save the cinema movement」に掲載されている「ミニシアターマップ」には、以下のような形でシネマスコーレの魅力がまとめられています。

アジア映画から諸外国の映画、日本映画からインディーズ映画、そしてB級映画から迷作・珍作のカルト映画まで、映画というキーワードを軸に縦横無尽なラインナップが魅力で、まさに「映画の闇鍋」がウリのミニシアターでもあります。映像作家、役者たちに本当に愛されている劇場で、毎週舞台挨拶、トークショーなど、映画を追随できる催し物がセットになっているのも魅力のひとつです。

映画の闇鍋」という言葉は言い得て妙ですね。(1)若手監督の重視
(2)アジア映画に力点を置く(3)危うさ<水準 というシネマスコーレのプログラム内容を包括してくれる、非常によい表現だと思います。

 2017年にはシネマスコーレの副支配人・坪井篤史さんの追ったドキュメンタリー映画『シネマ狂想曲 名古屋映画館革命』が公開されました。「名古屋映画革命」を目指す坪井さんの精神性に私は強く惹かれてしまいましたし、この記事全体の「名古屋はニホンの"第二映画都市"だ!」という趣旨と似た部分があります。


 最近ではシネマスコーレのオンラインゲストとして、俳優・映画監督の斎藤工さんが登場しました。斎藤さんはコロナ禍のシネマスコーレを応援するために35回分の前売り席を確保し、話題を呼びました(「空席買いますシステム」)。

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 コロナ禍で苦悩するシネマスコーレの様子は『シネマ狂想曲 名古屋映画館革命』とは別に、『シマネSOS 〜映画館でいたい、1日でも多く』というドキュメンタリーに納められています。10月10日までGYAOで無料観覧できるみたいなので、ぜひ観てみてくださいね。

B 公共の映画支援

 ここまでは映画館についてまとめてきましたが、これからは内容をガラッと変えて名古屋の「映画館以外」の映画文化に触れていきたいと思います。


 特にこの章では、いかに名古屋市(ないし愛知県)が映画支援に力を入れてきたかという点について、まとめていきたいと思います。
 今回の記事で取り上げたい公共の映画支援は、以下の2つです。

① あいち国際女性映画祭(by あいち男女共同参画財団)
② アートフィルムフェスティバル(by愛知県美術館)

① あいち国際女性映画祭

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あいち国際女性映画祭2021

あいち国際女性映画祭」は世界各国の「女性」監督による作品、「女性」に注目した作品を集めた、国内唯一の国際女性映画祭です。運営母体は実行委員会と「あいち男女共同参画財団」です。
 日本の4大映画祭とも呼ばれている東京国際、アジアフォーカス・福岡、山形国際ドキュメンタリー、夕張国際ファンタスティックと並び、地域色の強い映画祭となっています。特に「あいち国際女性映画祭」ほど「女性」というテーマを逸早く掲げ、開催している映画祭は国内にありません。

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 会場となっている「ウィルあいち」という施設も特徴的です。「ウィルあいち」は1996年に”男女平等のシンボル”を目指して設営された愛知県女性総合センターのことで、あいち国際女性映画祭はその開館記念イベントとして企画されたものでした。男女共同参画社会基本法(1999)の先鞭を付けていたと、ある意味でいえるかもしれません。

 当時、映画祭を企画した愛知県職員の大野明彦さんは新聞で「東京の業者に任せる植民地的な企画では意味がない」と発言しています。映画祭の開催地が「愛知」ならびに「名古屋」であることの地域性を意識し、参加監督・上映作品の選定に奔走している様子が伺えます。

 映画祭で積極的に紹介され、今なお映画界の最先端をゆく監督として挙げられるのは、何といっても河瀬直美監督でしょう。河瀬監督は東京五輪2020の記録映画を任されるほどの手腕を持つ、日本を代表する女性監督です。
 第1回のあいち国際女性映画祭では短編『につつまれて』『かたつもり』が上映され、2003年にも『沙羅双樹』が上映されています。

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 河瀬監督の他には、羽田澄子監督、藤原智子監督、槙坪夛鶴子監督といったベテラン監督も多数招来されています。近年では西川美和監督や横浜聡子監督、呉美保監督といった気鋭の監督も招待されましたし、注目の若手・山戸結希監督の処女作も上映されました。

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 その他、あいち国際女性映画祭は『愛を乞う人』『インディラ』『君の涙 ドナウに流れ』『花椒の味』といった注目作を送り出すことにも成功しています。どの映画も「女性」が主人公である良質な映画である点が、特筆されるべきでしょう。また桃井かおりさん監督作品や、タレントのはるな愛さん監督作品などの異色のラインナップを集めたことでも話題を集めました。

 一方であいち国際女性映画祭は、開催当初から幾度となく運営危機に陥っていた経緯があります。第1回からディレクターとして参加していたシネマスコーレの木全さんは、中日新聞にて

「税金丸抱えではなく、民間も結びついて開くのが映画祭の本来の姿。不況の影響はあるが、民間の人に理解してもらうチャンスでもある。資金は何としても集めたい」

と発言していたことがあります。映画祭は地元に一定数の知名度がありますが、未だに地元以外の知名度が低くなっています。そのうえ近年では映画祭の”初公開作品”が減少傾向にあります。
 木全さんは同じく中日新聞で、

「世界各国で女性監督は活躍してきた。でも日本ではまだまだ遅れている。女性監督の映画って、生きることや家族、夫婦を取り上げる視点がほんとに面白いんですよ。コンペで注目を呼べば、世界的な知名度を上げるチャンスかもしれません」

と映画祭の必要性と楽しさを強調しました。

 映画祭は優れた国際交流の場といえるでしょう。世界各国から観客や関係者が集まり、互いに触れ合う機会が生まれる。その結果、開催地の地域性が国際的に知れ渡り、さらに優れた映画文化が育まれる。
 ここ十数年で地方・郊外はシネコン化は進み、映画村やコミュニティシネマの運営基盤も危うくなっています。今後もあいち国際女性映画祭は、愛知ひいては名古屋独自の地域文化として、より強く、根付いてほしいと願っています。

② アートフィルムフェスティバル

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 続いて紹介するのは愛知県美術館が主宰している「アートフィルム・フェスティバル」です。会場となっている栄の「愛知芸術・文化センター」は美術館、コンサート、アートライブラリー、演劇場などを兼ね備えた複合文化施設です。
 アートフィルム・フェスティバルは美術館が運営しているということもあり、全国的に見ても際立ってアーティスティックな映画のラインナップが揃っていえるでしょう。HPには、

ドキュメンタリー、フィクション、実験映画、ビデオ・アートといった従来の映像のジャンル区分を超える、横断的な視点から作品を選定することで、映像メディアとは何か、その表現とは何かを探求する特集上映会です。

と紹介されています。必ずしも「映画」というジャンルに囚わることなく、包括的な「映像アート」として可能性を追求する、という意味合いが大きいのだと思われます。

 アートフィルム・フェスティバルの大きな功績の一つとして挙げられるのは、毎年ひとりのアーティストを選定して製作を支援する「愛知県芸術・文化センター オリジナル映像作品」でしょう。
 少々多くなってしまいましたが、1993年(第2回)から2021年(第29回)までの全作品をリストアップしてみました。

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 私はこれらの作品・監督について、あまり詳しくありません。ただ調べてみると、映画監督だけではなく、ダンサー、演劇家といった多種多様なアーティストが参加していることがわかりました。

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 個人的には園子温、ダミュエル・シュミット、三宅唄、小森はるか、小田香、といった名前が挙がっていることに驚きました。近年では『空に聞く』『セノーテ』が東京のミニシアターでかなり話題に挙がっていましたし、私自身も大好きな作品でした。

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 上記の作品(近年のものを除く)は愛知県芸術・文化センターのアートライブラリーで閲覧することができます。アート・フィルム・フェスティバルは渋谷のイメージ・フォーラムの企画・スクールと一部連動して運用されているので、東京に居ても近況がチェックできます。

C テレビ主導の良質映画

 次に名古屋の”テレビ”と映画の関わりについて、簡単に紹介していきます。
 テレビ局が製作した映画、と聞いてまず思い浮かぶのは『踊る大捜査線』『海猿』といった、テレビドラマがそのまま映画へ舞台を移し、大ヒットするパターンの映画です。
 そういう類の映画が「良質」であるかはともかく、強い広告性と商業性に紐づいている限り、どうしても「地域性」や「独自性」からは遠く離れてしまう側面は否めません。採算の見込めない非広告的なアート映画を製作するメリットは、テレビ局にはありません。
 NHKを筆頭に、テレビ局には優れたドキュメンタリーを製作する余力はありますが、それが「映画館で上映する」ことを前提に製作され、公開されるといったケースは非常に稀になってきます。

①東海テレビ

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東海テレビ

 名古屋市に本社のある東海テレビはマイナーなドキュメンタリー映画興行に一定の力を注いでいる、全国的にも稀なテレビ局です。

 中でも東海テレビが主導して製作した東海テレビドキュメンタリー劇場は、良質ドキュメンタリー映画群です。企画・立案は2009年に日本記者クラブ賞も授賞した、東海テレビの阿武野勝彦ディレクターです。

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(公式FaceBoookより)

 これまで東海テレビドキュメンタリー劇場では、計13本の映画が製作されました。こちらも私なりに調べて、リストをまとめてみました。題名や粗筋は特集『東海テレビドキュメンタリーのお歳暮』や作品公式HPからそのまま引用しています。

『平成ジレンマ』2010年/98分
「戸塚ヨットスクール事件」で時代のヒーローから一転、希代の悪役となった戸塚宏校長の今。平成ニッポンが抱えるジレンマを圧倒的な迫力で突きつける。モントリオール世界映画祭招待作品。

『青空どろぼう』2010年/94分
三重県四日市市。美しかったあの空を奪ったのは誰?公害裁判へ立ち上がった人々と、40年にわたり写真とペンで彼らを支えた記録人・澤井余志郎の魂の物語。

『死刑弁護人』2012年/97分
「オウム真理教事件」「和歌山毒カレー事件」「光市母子殺害事件」などを担当する弁護士・安田好弘の生き様。見る前と後では世界が確実に違って見える究極の一本。

『長良川ド根性』2012年/80分
清流を遮る「長良川河口堰」。建設をめぐり推進・反対が激しく対立するが国策は止まらない。公益とは?民意とは?現代日本の構造的な難問を鮮烈に描く。

『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』2012年/120分
独房から無実を訴え続ける死刑囚・奥西勝を日本映画界の至宝・仲代達矢が演じる。本作は映画とジャーナリズムが日本の司法の根底に突きつける異議申立。

『ホームレス理事長 退学球児再生計画』2013年/112分
「退学球児に再び野球と勉強の場を」と謳ったNPO。でも何かがおかしい…。賛否両論、毀誉褒貶。ドキュメンタリーの可笑しさと真の恐ろしさが凝縮された怪作。

『神宮希林』2014年/96分
式年遷宮をめぐる旅人は、女優・樹木希林。「自分の身を始末していく感覚で毎日を過ごしている」そう語る希林さんの人生初めてのお伊勢参りドキュメント。

『ヤクザと憲法』2015年/96分
実録じゃなくて本物!ヤクザの世界でキャメラが廻る。社会と反社会、権力と暴力、ヤクザと人権?強面たちの知られざる日常からニッポンの淵が見えてくる。

『ふたりの死刑囚』2015年/85分
釈放された袴田巌と獄死した奥西勝。冤罪を訴え続けたふたりの死刑囚とその家族の人生から、「法治国家」ニッポンの司法が裁いた、否、犯した罪を問い詰める。

『人生フルーツ』2016年/91分
ニュータウンの一隅。雑木林に囲まれた一軒の平屋。四季折々、キッチンガーデンを彩る70種の野菜と50種の果実。津端修一さん90歳、英子さん87歳、長年連れ添ったふたりの暮らしから、この国が、ある時代に諦めてしまった本当の豊かさへの深い思索がはじまる。

『眠る村』2018年/96分
名張毒ぶどう酒事件——戦後唯一、司法が無罪からの逆転死刑判決を下したこの事件。57年が経った今もなお、多くの謎がある。決定的な物証の不在、自白の信憑性、二転三転した村人たちの供述。平成最後の冬に放つ、渾身のミステリー。

『さよならテレビ』2019年/77
今は昔。テレビは街頭の、お茶の間の、ダントツの人気者だった。豊かな広告収入を背景に、情報や娯楽を提供する民間放送は、資本主義社会で最も成功したビジネスモデルの一つだった。しかし、その勢いはもうない—中略——今、テレビで、何が起きているのか? 

『おかえり ただいま』2020年/112分
帰宅途中の女性が、拉致、殺害、遺棄された”名古屋闇サイト殺人事件”。3人の男たちによる短絡的かつ残虐な犯行が社会に衝撃を与えた事件から13年—その深層に迫る。

 どの作品も社会問題に切り込んだ、良質なドキュメンタリー映画であるという評価を得ています。2017年には『人生フルーツ』がキネマ旬報の文化映画ベスト・ワンに選出されましたし、2018年には東海テレビドキュメンタリー劇場の取り組み全般が第67回菊池寛賞を受賞しました。

 シネマテークの平野さんは、東海テレビドキュメンタリー劇場について以下のような見解を示しています。

「『マスメディアでは取り上げられない、そこからこぼれ落ちるような世界に光りを当てた作品』という言葉は、そのまま東海テレビのドキュメンタリーにふさわしい。しかも、それを当のマスメディアの中で堂々とやり遂げてきたのだから恐れ入る。」

 東海テレビドキュメンタリー劇場の映画は、シネマスコーレなど名古屋市内の映画館で先行上映された後、東京でもポレポレ東中野等の一部映画館で劇場公開されます。

 2021年6月には阿武野ディレクターの自著『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』が発表されました。

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 この著書は、東海テレビ自身にカメラを向けたドキュメンタリー『さよならテレビ』(2020)を下敷きにした内容になっています。『さよならテレビ』はテレビでの視聴率は低迷したものの、東海テレビ自体のイメージを棄損しかねない際どい内容に、特に放送業界人からの反響は大きいものがありました。
 東海テレビは過去に『ぴーかんテレビ』で不適切なテロップを出し、矢面に立たされた経緯があります。著書では『さよならテレビ』の内容はもちろん、その他メディア全般の信用問題や内情について深く斬り込まれています。
 阿武野ディレクターはシネマテークで東海テレビドキュメンタリー劇場を上映してもらっていた関係で、平野さんとは深い親交がありました。『小さな映画館から』に、以下のような文章が寄稿されています。

当時を振り返る…。私のようなテレビ局員のドキュメンタリーは、映画界では誰も歓迎してくれなかった。シネコンはヒットが見込めないドキュメンタリーは眼中にないし、ミニシアターはテレビ生まれの映画という出自が気に入らないようで、映画作品を生み出したい私は八方塞がりだった。

 阿武野ディレクターは平野さんを「かけがいのない友」だったとし、シネマテークを「東京の旗艦となる映画館」として捉えました。テレビ局が製作したドキュメンタリー映画がそのままミニシアターでかかる、といった極めて珍しいコネクションがそこには存在したのです。

②名古屋テレビ(メ〜テレ)

 次にご紹介するのは名古屋テレビ(メ〜テレ)です。名古屋テレビも東海テレビと同様、名古屋市に本社を持つ地方局です。

 近年、名古屋テレビが製作し映画業界を騒がせた作品の一つに『本気のしるし〈劇場版〉』があります。
 第73回カンヌ国際映画祭「オフィシャルセレクション2020」に正式出品された本作は、テレビ局が製作した劇映画という点でも、漫画原作・ドラマの再編集版という点でも、極めて異例ずくしの作品でした。

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(『本気のしるし〈劇場版〉』)

 監督は『ミニシアター・エイド基金』を立ち上げたことでも有名な深田晃司監督です。
 元々『本気のしるし』は2019年10月から東海三県中心に<火曜0時54分>の枠で放送されていた連続ドラマでした。『本気のしるし』深夜放送にも関わらず、予想の付かない展開が話題を呼びました。

 映画版に再編集した『本気のしるし〈劇場版〉』は、何と232分にも及ぶ大作でした。一般的な商業映画の規準尺「90分」と比べても、明らか長尺であることがわかります。つまりテレビ局が主導した、232分の劇映画、ということです。
 様々な意味で『本気のしるし〈劇場版〉』は、日本映画史を振り返っても稀有な映画であることは疑いありません。ちなみに世界的に権威のあるカンヌ映画祭で紹介された他、キネマ旬報でも「日本映画5位」にランク・インしました。

D コロナ実証実験

 最後は、映画館におけるコロナ実証実験についてご紹介したいと思います。あまり取り立てる程のことでもないかもしれませんが、コロナ実証実験を精力的に行ったのは愛知県(特に名古屋市)の映画館、及び研究機関でした。

 去年から今年にかけて、映画館でこの映像を観た人はいるでしょうか?

 これは全国興行生活衛生同業組合連合会(全興連)が行った、映画館における換気実証実験の映像です。実施会場はミッドランドシネマ名古屋空港(352席)で、監修は愛知医科大学の三鴨廣繁教授、実験協力は愛知県立大学の清水宣明教授でした。シネマスコーレの木全さんも全興連の愛知県興行協会の副理事を務め、実証実験の普及に努めました。

 動画の通り、映画館は約20分ほどで空気が入れ替わる高い換気能力が備わっていることが実証されています。また清水教授が、

「映画館で3密になるということは基本的にはない。上映中におしゃべりをすることはあまりなく、飛沫も飛ばない。しっかり換気し、観客がマスクをして映画を観れば、罹患する確率を格段に減らすことができる」

と発言している通り、映画館には「3密になりやすい」というバイアスが存在していることが指摘されています。
「GEM partners」の調査によると、全国にいる10-19歳の63%が「映画館は3密に該当する」と回答し、年に1回以上は映画館へ行く人の54%が「映画館は換気が悪そう」と回答しているそうです。

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 もちろん、全ての映画館に同様の換気能力が備わっている訳ではありません。全興連はコロナ対策専門家会議が示した指針に基づき、映画館における感染対策ガイドラインを策定しています。各自治体はそのガイドラインに準拠した感染防止基準を、各劇場に提示する仕組みになっています。

 一つひとつの映画館がどれほどの換気能力を有し、あるいは有していないのかはわかりません。第1回目の休業要請に従った映画館の一部は、第2・3・4回目の緊急事態宣言下でも営業を再開しましたが、現時点(2021年9月)で映画館のクラスター感染は1件も報告されていません。

 終わりの見えないコロナ禍で、依然として多くの映画館が興行に苦しんでいます。名古屋ではTOHOシネマズ名古屋ベイシティが2020年11月30日をもって閉館しましたが、記事で紹介したシネマテークやシネマスコーレも、再三に渡って経営の厳しさを洩らしています。

おわりに

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 長くなってしまいましたが、以上が私が名古屋をニホンの”第二映画都市”だと提唱する理由の複数です。

 ミニシアター文化、 公共の文化活動、テレビ局、コロナの実証実験……。どの要素をとっても、名古屋の映画文化が優れている説得力のある証左となったのではないでしょうか?
 もちろん書ききれなかった内容も多いですし、一つひとつの映画館について、もっと詳細に掘り下げるべきだったかもしれません。

 近年では2019年3月、「(30年以上映画館がなかった)大須の街に映画館を復活させたい!」というキャッチフレーズで「大須シネマ」が開館しました。9月からインディース映画の配信映画プラットフォーム「DOKUSO映画館」とコラボし、ぴあフィルムフェスティバルの映画が限定公開されています。

 2019年は「配信元年」とも言われる年です。記事でも触れたとおり、ミニシアターがどう配信ビジネスと親和してゆくかという点が、映画業界全体の喫緊の課題であるようにも見えます。

 今回の記事では名古屋の映画文化について、野次馬の私なりに全力で紹介しきったつもりです。次にいつ名古屋に訪れるかはわかりませんが、記事を執筆する過程で名古屋の映画館を調べたり、街の文化に触れたりする作業は、とても充実したものとなりました。


 最後になりますが、私はここに、高らかに宣言致します。

名古屋をニホンの”第二映画都市”だ!



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