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神 泰生ってどんな人? 自己紹介note!

みなさんこんにちは!

改めてではありますが、僕自身についての紹介をしていきたいと思います。
コーチングを始めてから色々な人の人生に関わる機会が増えて、それと同時に自分の人生について深く振り替えられているのか?という疑問が生まれたので、自分について振り返っていくことに決めました。大きく幼少期、小学生低学年、小学生高学年、中学生、高校生、大学2年生、大学4年生、現在といったところで振り返っていきます。特に気になる時代があったらそこに飛んで読んでみてください。このnoteをきっかけに1人でも多くの人に神 泰生という人間を知ってもらえたらと思います。よろしくお願いします!

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◎基本情報
名前:神 泰生(じん たいせい)
年齢:23歳
職業:学生
経歴:りんご幼稚園
   筒井小学校
   米里小学校
   大谷地小学校
   東白石中学校
   札幌龍谷学園高等学校
   龍谷大学経営学部
住まい:青森市→札幌市→京都市→大阪市
趣味:旅、野球観戦、キングダム、ダイヤのA、ハイキュー、
好きな食べ物:ハンバーグ
嫌いな食べ物:きゅうり

こちらが自分のモチベーションマップ

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改めて振り返ると人生の中で上げ下げ両方あり、その中でもよく生きてきたと感動しました。このモチベーションマップと照らし合わせながら読んでもらえると嬉しいです。

◎幼少期時代


青森県青森市で生まれた。
少し古びた団地が最初の家で、周りは年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんが多かった。
お姉ちゃんとはシール交換をして遊んだり、お兄ちゃんとは自転車レースをして遊んでいた記憶がある。
シール交換も自転車競争も、周りと自分を比べて、自分よりも優れている年上(今となっては当たり前だが)に対して羨ましい気持ちを持っていた。

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幼稚園は1クラスしかない小さな幼稚園。
名前は「りんご幼稚園」でTHE青森っていう感じ。
幼稚園では親友と呼べる友達といつも一緒にいた。
毎週のようにお泊まりに行っていた。
身体を動かすことが好きで良く外で遊んでいた子供だった。

小学校に入る前に引越しをして、近所の友達は同級生が多くなった。
毎日のように外で遊んでいる子供で、とても元気いっぱいな男の子だったと思う。
引越しをしてからの楽しい思い出には、常に友達が出てるほど、自分にとってはとても幸せな時間だった。


◎小学生時代(低学年)


青森の公立小学校に入学。
入学当初は幼稚園から仲良しの近所の友達と毎日登下校をする。
そして下校した後は、家の周りで毎日デュエルマスターズや鬼ごっこをしていた。
本当に毎日暗くなるまで遊んでいたので、いつもクタクタで家に帰っていたのを覚えている。
この頃は、どうやって友達にデュエルで勝てるかを常に考えていた。

幼少期からそうだが、常に楽しい輪の中に一緒にいたいという願望が強く、自分という存在を認めてもらうために、何かに優れている自分を表現しようと努力をするという人だった。

楽しい小学校生活を送っていたが、ここでまさかの人生2回目の引越しが決まった。
次は北海道札幌市に引越しだった。最初は寂しかったが、その寂しさは時間が解決し、札幌の生活を楽しみにしている自分もいた。

引越しをしたのは冬前。新生活を楽しみにしていたが、なんと札幌の大雪と住んでる立地の関係で、住んで3ヶ月でまた引越しをすることに。
今回は札幌市内での移動。個人的3回目の転校でだいぶ慣れてはいた。次も普通にそこそこ楽しい生活が待っているのだと思っていた。

そして新しい学校へ転校。
今度も自分なりに楽しいを送ろうとみんなの輪の中に入ろうとする。
しかし最初あまり馴染むことができずに、不登校になる。
親や先生には、自分の髪型が気に食わずに周りに見せたくないとか、そういうことを言っていた。
母親は教育相談センターに通っていてくれたことを後から知る。

それから友達の助けや家族の支えがあり、なんとか小学校生活に復帰できた。
振り返るとしんどく辛い時期で、周りにも心配をかけた時だったが、今となっては自分の未来に生きるものだとポジティブに捉えることができている。

小学校3年生になり、クラス替えをした。それから僕の人生は大きく明るくなっていく。
同じクラスになった友達とすごく仲良くなれて、それから中学3年生までの6年間一緒に登下校する仲間ができた。
同じクラスの人が野球をやっていたことから、野球に出会うことができた。
小学3年生から友達も、好きなことも、授業も、何もかもが楽しくなった。

集団の中で一緒に楽しむことが好きな僕は、何かと人を集めて学校の中でも、放課後でも楽しいと思えることをどんどん全力でやるようになっていた。ごく自然にクラスの中心的な存在になることができていて、その上でみんなを巻き込んで楽しむことを覚えていった。「自分はこの空間が楽しい。この空間を守りたい。」そう思うようになっていった。


◎小学生時代(高学年)


この時くらいから、どんどん目立ちたい欲求が出てくるようになる。
目立つことでクラスの中心になり、誰一人として残さずに全員自分が巻き込んで最高の仲間にしたいと思っていたからだ。
なので僕は自分のクラスとか、自分の近くにいる周りの人を特別に大切にするようにした。
「じんはみんなに平等で優しいよね」と、周りから言われるようになる。
そして自分はみんなに平等に接することで中心になれると無意識に理解した僕は、積極的に1人1人と絡むようになる。
何かで遊ぶときは、分け隔てなく全員に声をかけるようにしていたし、全員が参加できるようにできないのかと工夫をするようにもなっていた。

3年生から始めた野球は順調に上手くなり、5年生くらいからレギュラーとして出場する機会が増えていく。
ポジションはキャッチャー。太っていて俊敏な動きを苦手としていた僕に、消去法且つチームにキャッチャーがいなかったのが配置の理由だ。
最初はキャッチャーが嫌で、あまり好んでやっていなかったが、自分が試合に出るにはキャッチャーしか無理だったので、半ば嫌々やっていたと思う。実力はそれなりについてきて、中学校からは硬式のクラブチームでやることを決意できるくらいには、自信も育まれていた。

野球もクラスでも順調な僕は、かなり調子に乗っていたと思うが、そのおかげで自分が前に出ることの抵抗感や中心でみんなを引っ張っていくんだという責任感は自然と育まれたように思う。僕はその勢いのまま中学校へと進学する。


◎中学生時代


公立の中学校に入学。
地元の中学校なので元々いた小学校から殆ど同じメンバーが中学校に上り、それに加え隣の小学校からも人が同じくらい増えたような学校だった。新しいクラスも半分は知っている顔だったので、その人たちと仲を深めるようになる。中学生になった僕は、小学生の時に比べ、より一層調子に乗るようになり、学校の中でヤンチャばかりしていた。ヤンチャと言っても喧嘩とかものを壊すとか、そういうデカいことではなく、先生に注意されるくらいの可愛いチョッカイを死ぬほどかけまくる。みたいなヤンチャをする悪ガキみたいなイメージがぴったりな男子だった。何かあると反省文を書かせるみたいな文化が僕の学年にはあり、僕は毎日のように反省文を書いていた記憶がある。

中学生になったも野球は続けており、学校内の部活ではなく外部のクラブチームに所属した。

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そこで週6日の野球生活をスタートさせて、中学に入ってからは本格的な野球漬けの日々を送っていた。
平日は授業が終わった後に、自転車で1時間かけて練習場に行って21時まで練習。土日は朝から日が暮れるまで練習や試合をする生活。
その生活自体はキツかったが、野球自体は好きで、上手くなることも嬉しかったので、続けることができた。クラブチームの仲間も好きだった。
野球チームでも中心になり、『みんなを全員取り残すことなく一致団結させること』を意識して動いていたため、辞めそうになっている人に駆け寄ったり、意識して色んな人と平等にコミュニケーションをとるように動いていた。

野球ではクラブチームが所属しているリーグで、アジア大会に出場。全国大会にも毎年出場できるなど、練習の成果を発揮することができて、個人としてもキャプテンを務め、なかなか充実した野球生活を送れていたのではないかなと思っている。しかし野球への時間が増える一方で勉強が疎かになっていた時期でもあり、両親や先生からは厳しい目を向けられていた頃だった。結局勉強はあまりやらなかったのだが、自分の楽しみを奪われたくないと本心思っていたからこそ、周りのみんなとの思い出には全力を出すが、それ以外の自分で完結できる所では妥協してしまう人になっていった。


◎高校生時代


高校は野球の推薦で私立高校に入学することに。
野球推薦なので、自ずと生活も中学同様かそれ以上に野球生活になる。
高校1年生からベンチ入りをさせて頂いてたが、試合には出ることができずに、控え捕手として参戦。
高校時代はキャッチャーとしての誇りを持つようになっていたため、とことん優秀なキャッチャーになるために努力をしていた。
中学時代までは、ただピッチャーの球を受ける人という認識だったのが、高校になり変化球や組み立てが多様化したことで、自分が能動的に関われるようになったという変化が大きかった。受動的だったキャッチャーというポジションが、自分を主役として見立てることができるようになり、ピッチャーを導き、チーム全体をまとめる。そのことにやりがいを感じていた。『自分は受動的な役割ではなく、やはり中心となってみんなを団結させ、導くというような役割に誇りや楽しさを感じる人だ』ということが分かる。

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相変わらずに授業は好きになれなかったが、定期的にある学校行事は大好きだった。
理由は、クラスのみんなと楽しい時間を共有できるから。
小学校の時からそうだが、学校祭や運動会、合唱コンクールなどはクラスでも一番やる気を出すタイプ。
全員の心を一つにしなければ勝てない類のものは、普段の100倍くらい燃えていた。
結果にもこだわる性格なので、とことんストイックにみんなを巻き込んでいたのが懐かしい。
今でもそう言った側面があるので、昔からこういうところは変わってないなと思う。

甲子園には出られなかったが、野球はやり切ったと感じ高校で野球生活を終えることに。
父はもっと活躍を期待していたかもしれないので、少し期待を裏切ってしまったなという感覚は今でもある。
中学までは理想的な道を歩んでいたため、高校でのスランプや現実を突きつけられた感に、物凄くダメージを受ける。
高校最後の試合は、いつも勝てているようなチームにサヨナラ負け。
これで自分の野球生活が終わると考えると、やっと終わったかぁという感情よりも、寂しさや悔しさが大きかった。

それから、野球から離れる決断をした僕の進路は、迷いなく龍谷大学(今通っている大学)だった。
このまま社会にでたらやばいと感じていた僕は、浅はかな考えだが、自分がいける最も偏差値の高い大学に行こうと考えていた。
そこでやり直し、社会人に向けて再スタートを切ろうと思っていた。


◎大学生時代(入学〜2年生)


大学に入学したての頃は、初1人暮らしで初関西で、初大学生で、初めて尽くしのスタート。
初めての時は浮き足立つことが多いので、やはり色々調子に乗っていた気がする。
調子に乗っていた事件は山程あるが、一番はバイク事件。
大学に入る前くらいからバイクのカッコよさに気がつき、バイクにどハマり。
その勢いのまま中免を関西にきてから高速で取得し、中古の安めのバイクを購入。
しかし維持費の高さと、頻繁に壊れてしまうバイクに、お金が追いつかず、早々に諦めることに。
そのせいで多額の借金を抱える生活を送る。計画のセンスのなさと、思考より行動という性格が牙を剥き出した感じになってきている。
後先考えずに行動してしまう自分の悪い所だが、それによって多くの経験をできているのは、自分にとってもプラスである。

野球から離れた僕は、特に何も熱くなるものはなく、なんとなくの大学生活を送ることに。
激動の野球生活を送っていたことから、帰宅部への憧れも多少あり、最初は楽しかったがすぐに飽きた。
何か自分の日々生活する上で燃えるような目的を持たなければなと思いたった結果、遠距離恋愛の彼女に尽くすこと結論に至る。
バイトを3つ掛け持ちをして、北海道にいる当時の彼女に会いにいく交通費を稼ぐ。稼いだお金のほとんどを彼女に会いにいくための交通費とデート代に使うという生活を送るようになる。途中で色々あったがこの生活が1年くらい続いた。その時は、大体月一くらいは会いに行っていた。

大学2年生になり、転機が訪れる。
遠距離恋愛していた彼女にフラれた。また自分の目的を見失う結果に。
なんとなく過ごす日々に戻ったのだが、バイトの頻度は変わらずに続けていたためお金はあった。
自分のために使おうと決意し、今まで行ったことがなかった海外に旅しようと、ふと思う。
タイに行こうと決め、この誘いに乗ってくれそうな友達を誘い、2年生の夏休みに旅に出る。

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僕はこの旅に出た結果、人生が大きく変わる。
見たことない景色。初めて出会う人々。嗅いだことのない匂い。少し不気味な雰囲気も漂っている。
新しいものに出会い、新しいものに触れる度に、新しい自分に出会えた気持ちがした。
これまでの価値観や考え方がぶっ壊される感覚がした。それと同時に僕の中に衝撃が走る。
野球以外にどハマりするものを見つけてしまったのだった。
新しい好きなものに、『旅』が増えた。

それから僕は、旅界隈にどんどん入っていく。
片っ端から旅好きが集まるイベントや交流会に参加した。
そしてもちろんそこで出会う人も新しい人ばかり。
ものすごく刺激をもらえる環境に僕は感動していた。

その旅をきっかけに、ヒッチハイクをしたりフリーハグをしたりなど、新しいことに挑戦する機会が増えた。
両親からは、考えられないスピードで自分のやることが変化している。
春の長期休みにも旅に出た。インドに1ヶ月半の旅だったが、さらに自分の生き方を考える良い時間になる。
自分はもっと自由で、もっと成長できる。やりたいことがどんどん出てきて、とにかく行動したい。
日本に帰国したらやりたいことで溢れていた。

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これを機に、僕の性格や価値観、関わる人たち、目指したい将来が180度変化する。
いわゆる普通の野球少年から、普通の大学生生活を送ってきた人生とは全く違う人生を歩み始める序章となるのがこの頃。
ここから一気に人生が加速します。


◎大学生時代(3年生〜現在)


3年生になり、長期インターンと2つの学生団体に所属する。
週3日の長期インターン、週2回学生団体のミーティング、そして3つのアルバイト。
急激にスケジュールが自分のやりたいことで埋め尽くされるように。
やりたいことで埋め尽くされた毎日を送る経験は、野球部以来の経験だった。まさに熱狂する人生を送り出した。

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様々なことをやりながらも、TABIPPOの活動が自分にとって一番有意義だと感じ、TABIPPOに絞る。
とにかく経験や知識がないながらも、行動し行動し行動した。
成果を追い求め、結果を出しに行く過程が物凄く気持ちよかった。
そして組織の仲間と共に楽しんでいる自分がとても好きだった。
全てが始めたの経験だったが、プロジェクトのリーダーを務め過去最高レベルのコンテストを実現し、他にも組織内で歴代集客1位を獲得。(全国では2位)
自分の好きな領域で動くとこれまでも成果を出すことができるのかと、自分でも驚いた。

自分の好きに全力で走った結果、大学からは距離をとってしまう。
授業に参加できなくなり、単位も落としまくる。
それと同時に、大学の必要性に疑問を感じるように。
両親の信頼を失う結果となるが、自分で選んだ道に後悔はしていないし、むしろ誇りに思える経験ができたと感じている。
4年生になったタイミングで休学することを選択する。
休学をして、株式会社TABIPPOの代表インターンをすることを決意。
代表インターンとは、学生支部の代表を会社の社員として行うもの。つまりお給料を貰い責任を持って成功に導く立場になるということ。
当然、休学は親も反対し、特に母親とは口論になったりもしたが、最終的には認めてもらえた。

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インターン生活はかなり激務で、上手くいかないことが本当にたくさんある。
しかし、とことん自分と向き合い、メンバーと向き合い、数字と向き合った毎日は自分を成長させてくれる場所だった。
明らかに成功よりも失敗の方が数倍多かった1年間だったが、TABIPPOインターンの1年がこの先の未来に必ず活きてくる。今はそう確信している。

さらに就活生として深く自分と向き合い、将来と向き合う時期でもあった。
休学していたこともあり、時間もかなり短期的に就活に充てることができた。
多くの大人との出会いで、たくさんのことを学ばせてもらい、人としてかなり成長することができた。
理想だと言える会社から内定を頂き、社会でやっていける自信も持てるようになる。

合計2年間人生を注いだTABIPPOを卒業し、新たな道に進む中で僕はコーチングに出会う。
世の中でコーチングが流行だし、自分も受けてみたいなと感じ、体験セッションを何度か受けたことがきっかけ。
コーチングを通じて、明らかに自分が変わっていくのが確認できた。これは凄いとシンプルに感じだ。
それと同時に、僕自身がやりたいことと重なっているのではないかと思い、実際に学んでみることを決意する。


そして今に至ります。
今は学生プロコーチとして、クライアント様にも恵まれながら、日々邁進しているところです。
今後は日本を代表するチームビルディングのプロフェショナルとして、その手段にコーチングを取り入れながら、最強のチーム作りに携わってまいります。ベンチャー企業やスポーツチーム、学校教師など。あらゆる熱狂するチームを作り上げ、より良い未来を実現すべく高い目標に向かう志の高い人たちへの支援を行なっていきます。

僕のことについては各SNSで発信しています。
Twitter→@tabigori_jin
Instagram→@taisei_jin
Facebook→@taisei jin

これからも最速で最高な成長を遂げていくので、そんな僕を今後とも見守って頂けたら幸いです!
この自己紹介を読んで頂いた方は既に、僕にとっては仲間です。
是非何かお力になれることがあれば、気軽に仰ってください。
また、そうでなくても是非どこかでお会いしましょう!
このnoteの自己紹介からの出会いを今後に活かしたいと思っています。

長い文章になりましたが、以上になります。
これからも神 泰生をよろしくお願い致します!

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