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【世界放浪記】日本の跳ね馬、世界を旅する(カナダ→アメリカ→中米→南米)

Hobo(都内の高校地理教師)

  保育園の頃は、紙芝居屋さんになりたいと思っていた。思えばそのころから、世界を転々とする生き方に憧れていた。大学生の時に、アジアや東南アジアを回っていた。今度はワーキング・ホリデーで回ろうと思った。そのころはオーストラリアとカナダが主流だった。カナダだったら、ワーホリの後も陸伝いにいろんな国をまわれると思って、カナダにした。
  カナダのトロント空港に着いて、一週間はそこで寝泊りをした。ネット掲示板でルームメイトを探した。ワーホリでは、俺みたいに家も仕事も無く、現地についてから決める人も多かった。
  トロントにずっと住んでいるというインド人二人と、一緒に住むことになった。ムンバイの大学から来た大学生と、出稼ぎに来ている社会人だった。家の中は常に大麻の煙だらけ。俺が時差ボケで苦しんでいたら、「良く寝られるのをあげる」と言われて大麻を吸った。それから自分も吸わないと寝られないようになった。大麻は旅のお供のようになり、アメリカに30グラムくらい持って行って「密輸ごっこ」をしたりした。

 3週間くらいは仕事が見つからず、その間に年末が来てニューヨークに遊びに行ったりした。年が明けて、パブの従業員の募集を見つけた。応募したらあっという間に受かって、キッチンでフィッシュ&チップスやサラダを作った。よく皿を割って怒られた。同じ店で3~4か月働いて、トロントの冬を乗りきった。
 するとルームメイトの出稼ぎに来ていた方が、「インドに帰って結婚する」と言い出したので、彼の代わりにルームシェアできる人をネット掲示板で募集した。
 代わりに入ってくる人は見つかったが、そいつは1か月後に家賃を払わずに夜逃げした。残された2人で、夜逃げしたやつの分も家賃を払えるか相談した。その結果、払えないなということになり、俺たちも夜逃げすることにした。仕事場には辞める旨のメールを送っただけ。これが旅の始まりだ。

ニューヨークのグラフィティアート

㊙野宿テク伝授

  アメリカでは、半年間ずっとベンチで寝て野宿をした。野宿の場所を決めるときは、水辺と、充電できるコンセントを見つけておくことが大事だ。日本と違って海外は、コンセントがあれば誰でも挿していいという緩さがある。あと欲を言えばきれいなトイレだ。髪も洗える。
  持っておいたほうがいいのは、ライター。煙草に火を点けるときとか、人とコミュニケーションを取るときに一番重要だ。空のペットボトルでいいので、水をいれる容器もあると助かる。寝るときは、ある程度人が通る場所のベンチを選んだほうがいい。地面から少し離すと体温も奪われないし、病気になりにくくなる。
  話すために道行くやつに「ヘイ、ワッツアメーン」と声をかけまくった。「お前寒そうだから焚火してやるよ」と言って、その辺のごみを集めてアルコールをかけてくれて、みんなで道の真ん中で火を囲ったこともあった。

  ヒッチハイクもやった。ある時2人組の車に乗せてもらって、家まで連れて行かれた。彼らの家に着いて、タンスの引き出しを開けると注射器だらけだった。実は今日は仕入れの帰りだ、とか言って、チョコレートみたいなものを砕いて重さを量るのを手伝わされた。これはなにかと聞いたら、「麻薬の王」と呼ばれるヘロインだった。俺がやったことないと言うと、じゃあやらないとだめだね、ということで一本打たれた。ちょっと効いてないな、ということでさらにもう一本。ヘロインが効いてくると、彼らは配達に行くぞと言ってきた。グデングデンしてると、仕方がないから覚醒させなきゃいけないな、ということで覚醒剤を打たれた。ヘロインの配達はアパートと、小さな一軒家をまわった。3000円くらいの小遣いとサンドイッチをもらって別れた。

レーザー銃で狙われた

  自転車はカナダに置いて、船でボストンに戻った。ロッカーにリュックサックを入れてぶらぶらしていたら、戻ってくると荷物が無くなっていた。もうすぐあったかい季節だったし、荷物も減ったから、むしろよっしゃと思った。とりあえず、そのあとすぐパンツを調達した。そして路上の泥棒市で水着を買った。これでいつでも水辺で風呂に入れる。この二つをビニール袋に入れて旅をした。
  サンフランシスコで荷物もなく裸足で歩いていると、煙草をくわえた男が俺に火をくれと声をかけてきた。何も持っていない俺から火も取るのか…と思いながらも、ライターで火を付けてやると、「火をくれたお礼だ」といってカバンから靴を出してくれた。茶色の革靴だった。かわいそうだからあげると言うと、一方的な「施し」になるから、お礼という形で渡してくれたのだろう。

  カナダのアナキストから、どうしようもなく困ったらフライトホッピング(走っている電車に飛び乗る)をやってみろと言われていた。フライトホッピングの場所選びにはコツがある。まず、人通りが少ないこと。次に、駅から電車が発車してスピードを上げる手前の距離であること。最後に、ある程度電車と並走できるような歩けるスペースがあること。この三つだ。
  アメリカのニューオリンズから西に向かってヒッチハイクをしていたが、止まる車はなく、仕方なく歩いていた。すると田舎道で、良い感じの踏切があった。貨物列車がこっちに向かってゆっくり走ってくる。今しかないと心を決めた。午前9時だった。貨物列車には車両と車両の間にハシゴがある。いきなりハシゴを持つと、引きずられてしまうので危ない。まずは電車と自分の走るスピードを合わせて、同じになったタイミングでハシゴに手をかけ、引き寄せて乗った。成功して興奮した。
  電車には半日乗っていた。山の中で止まって、もう一回走り出した。2時間くらい走ったところで、また止まった。夕暮れ時だった。やぶだらけの中で列車が動き出すのを待っていたら、こっちに人が来る気配がした。やばいと思って逃げると、警察が追いかけて来る。「止まれ」と言って銃をかかげて、俺の身体に緑色のレーザーを当てた。それでさすがに止まった。
 電車が好きだから見ていただけだ、と言い訳するも、列車の上に監視カメラがあったようでとっくにバレていた。俺が外国人とわかると、向こうも牢屋に入れるのはめんどくさいと思ったのか、パトカーに乗せられて1時間程度走ったところでおろされた。車通りのある道で、自分で車を見つけろと言われた。

牢屋の旨いパスタ

  メキシコに着いた。やっと物価の安いところに来たと喜んでいたが、ちょっと宿の部屋を出た間に、なけなしの荷物を盗られた。宿の中を探していると、エントランスの隅に俺の荷物が放り投げられていた。そのすぐ近くで、明らかにこいつが盗んだんだろうというやつが、のんきに酒を飲んでいた。
  荷物を返せと言いに行ったら、いきなり騒ぎ出して警察を呼ばれた。相手は警察へ、俺に首を絞められたと嘘を言った。こっちはスペイン語なんて上手くしゃべられないから、警察も相手の思うままに動いて、結局俺が牢屋に入れられた。牢屋は1日で出られた。夕食に唐辛子の効いたメキシカンパスタとチーズが出て、それはおいしかった。

  その後アメリカのミルウォーキーで野宿をしていたら、起きた時に誰かにシーツをかけられていた。誰かが寝ていた俺のことを気遣ってくれたのだろう。これが結構大事で、風を防げるし、自分の服装もわからなくできるし、何人が寝てるのかわからなくなる。大事なものはポケットに入れて、シーツに包まれば盗まれない。それで目の上にタオルをかければ寝られる。
  ホンジュラスで野宿していた時に、いきなり4~5人の男たちに持ち上げられ、バスへ乗せられた。他にも5人くらい乗っていた。バスはどんどん山奥まで走っていく。途中で窓から飛び降りて逃げ出したやつがいて、自分も逃げればよかったと後悔した。
  バスは山奥の倉庫の前で止まった。彼らは、いわゆる「ホームレス狩り」だった。タコ部屋に入れられ、他の人がどんどんバリカンで頭を刈られていく。自分の番になって抵抗していたら、俺のパスポートを見て日本人だとわかって、自分だけ解放された。外国人はややこしくなると思ったのだろう。倉庫の前に放り出されて、勝手に帰れと言われた。

  アルゼンチンの第2の都市コルドバでは、警察の暴力に反対するデモを若者がやっていた。仲間を殺されたと言っている人もいた。タイヤを燃やして通行止めにしたり、進む道全ての壁やポストに抗議のビラを糊付けして回ったり、警察の人形を作って棒を配ってみんなにシバかせていた。夜中には黒い覆面に黒い服を着て、肩車して監視カメラを壊して回っていた。そんな感じで警察署前で大騒ぎした。

警官の人形

(人民新聞 3月5日号掲載)

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