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精神科は安易に選んじゃダメだ/双極性障害の私


鬱のはじまり

自分がおかしくなったと感じたのは、大学二年、19の夏の終わりから秋にかけてのことだ。東京の大学に進学して、家の近くのエスニック料理店でバイトをしていた。
からだは動く。受け答えもできる。日常生活に支障はない。
だが、激しい憂鬱が私を襲うようになった。
朝昼に学校、夕方から10時頃までバイトをしていたその頃、夕食はいつも賄いが出ていたのでそれを食べていた。
だが、帰りしな、必ずコンビニに行ってジャンクフードをたくさん買うようになった。パンの詰め合わせ、スナック菓子、チキンの唐揚げなど、カロリーが高く、栄養価の低いものを袋いっぱいに買い、それを近所にいくつかあったコンビニでくりかえし、それをその日のうちに食べる。
ひとつのコンビニで買った分だけでお腹がふくれてしょうがないほどの量なのに、それをいくつかのコンビニで買った。なぜいくつかのコンビニをハシゴしたかというと、あまりにたくさん買い込んでいるとおかしく思われるかなと思ったからだ。そこらへん変な理性が働いていた。
これを、毎日やった。
正直お腹は空いていないどころか、ぱんぱんである。もう食欲などない。だがどうしても食べてしまう。泣きながら私はパンを頬張り、スナック菓子を水で流し入れ、胸焼けする唐揚げを食べた。それが3つか4つある袋を、ものすごい勢いで食べる。食べ終わるとやっと疲れて眠りにつく。
それを毎日繰り返した。
当然太る。そしてお金が足りなくなる。親に仕送りを増やしてもらえないか頼んだが、それは無理だったのでバイトで稼いでいた貯金がどんどん減っていった。
今のように映像でコンタクトをとることができなかったので、両親は私の異変に気づくのが遅れた。私は2ヶ月ほどで25キロ増え、もともと太っていたのに、巨大なデブになっていた。
大学の同級生やバイト先の同僚も気づいてはいたのだろうが、あまりの急な増量に、気を遣ったのか、引いたのか、太った?とも言ってくれなかった。
おかしい、変だ、と思ったのは、体重計が25キロ増えたときだった。
私は泣きながら家族に電話し、最近のことを白状した。

どこにいけばいいかがわからない

どこに行けばいいのだろうか。
私はまず大学にあったカウンセリング室に駆け込んだ。しかし大学のカウンセリングは大学でのことを相談する場所であり、私と大して年の変わらない心理学科らしき学生は「とりあえず、お医者さんにいってみてはどうかな?」と言った。
土地勘もなければ、知り合いもいない私は、どうしたらいいかわからず、電話帳に載っていたとあるカウンセリングルームに予約を入れた。恵比寿のとあるマンションの一室にある、カウンセリングルームだった。
そこは医師と心理師の夫婦二人でやっているカウンセリングルームで、私はただひたすら自分の状況を訴え、終わりになると数錠の薬をもらう…という流れだった。薬の名前は覚えていない。
しかし一向によくならない。通学にも支障を来し始めた頃、私は家族に休学できないかということを言った。
「何? 遊びたいの?」
まだ私の状況がわかっていなかった母の一言に私は絶望しかけた。
泣きわめいた私の様子を見て、母が新幹線でやってきた。
しばらくそのカウンセリングルームに通い、大学を休学することにした。友人たちには外国に留学するのだと嘘をついて、部屋を解約し、実家に帰った。
休学の書類を受け付けてくれた人が「まあ、よくあることだから」と慰めてくれた。

再びの鬱

しばらくは家で、たたひたすら寝て過ごした。
地元ではカウンセリングルームのようなものがなかったので、薬は飲まず、ただ部屋で過ごしていた。
初夏になってある日、世界がきらきらと輝いて見えた日があった。陽の光に反射してあらゆるものが美しく見えた。
私は少しずつ回復し、夏頃には通常の生活が送れるようになっていた。

残りの休学期間の不利を埋めるために、嘘の通りに海外に語学留学することにした。8ヶ月ほどをメキシコで過ごして、私は帰国した。
3年次の科目登録のところにいた職員の人が休学書類を受け付けてくれた人で、「よかったね、帰れたね」と言ってくれたのを覚えている。
その後大学に戻った二年間は比較的元気に過ごせた。

焦燥と劣等感と9.11

大学を卒業して、生活費軽減のため、私は友人二人と同居することになった。当時流行の兆しを見せていたシェアハウスといえば聞こえがいいか。
しかし私は頭の良い二人の学友に挟まれ、劣等感をつのらせていくようになった。氷河期で、私はバイトしながら終わらない就活をしていた。心は磨耗し、自己肯定感は激しく下がった。
また眠れなくなっていっていた。
今度は近くにあった精神科に行くことにした。広告の大きなところだから安心だろうと行くことにしたが、それでも薬は効かなかった。

その年の秋、世界を叫喚させる出来事が起きた。
9.11.。ニューヨークのツインビルに飛行機が突っ込んだ、いわゆるアメリカ同時多発テロだ。
多くの人がそうであったように、私もテレビでそれを目撃した。突っ込んだ飛行機、くずれゆくビル、落ちていくたくさんの人たち。
激しいショックを受けた私はその日からCNNやBBCなど外国のニュースを見、情報収集をした。なんでこんなことが起こったのか。知りたかったし、知らないといけないと強く感じた。寝る時間を削って、テレビを見た。睡眠時間は一日に1,2時間。一週間で10時間も眠っていなかった。
そして同時にいろいろな出版社に顔を出し、ライターの仕事の営業を始めた。就職できないならフリーランスでいいじゃないか、との行動だったが、幸い複数のところから良い返事をもらえたので、書き始めた。

そしてその日がやってきた。

時間感覚や平衡感覚が狂い、言動が狂った。
恐怖のあまり他害をしそうになり(記憶が曖昧でところどころ喪失しているが、確かに私は包丁を持って二人に対峙した)、自分の部屋の窓から飛び降りようともした。
友人二人が家族に電話してくれなかったら、警察沙汰になっていたかもしれない。妄想を伴った多幸感と焦燥感にあふれる発作を起こし、私は迎えに来た家族に車で連れ戻された。東京から実家まで、意味の通らぬ言葉を繰り返す私はさぞかし奇異に映っただろう。
実家に帰るまえに、通っていた精神科クリニックIにも行って診察してもらったが、あまりにも異様な状態だった私を見て、医師I氏は「うちが出した薬のせいではない」「あまり来てくれていないからわからない」と繰り返したという。

実家に帰った私の靴は隠され、家の鍵と携帯を取り上げられた。友人たちに謝っても、もう同居は解消だとしか言われず、すべてが終わったのを感じた。
それから回復したのは春になった頃だった。

FクリニックのF医師

私は家から自転車で行ける精神科クリニックFを見つけた。
いくつかのクリニックをまわったが、ほかは予約でいっぱいで、開業間際のそのクリニックしか新患を受け付けてくれなかったからだ。
それにF氏は女医で、言いにくいことも言えるかなと思った。はっきり話す、明晰な人だと思った。お歳暮に渡した商品券を突っ返す潔癖さを見て、いい先生だと思ったりもした。
発作を起こしたときの妄想の話を聞いて、F医師は私を「統合失調症」と診断し、いろいろな薬を試すようになった。しかし、薬はまったく効かず、重い薬に動くこともしんどくなった。
それから浮沈を繰り返し、結局8年クリニックに通ったが、体調はよくならなかった。憂鬱と焦燥感がいつも私を苛んでいた。
F氏は長年通っていた私に「障害者年金取りませんか」と言ってきた。なのに「二週間に一度の通院を四週間に一度にしませんか」とも言ってきた。通い始めた頃はガラガラだったクリニックは繁昌してきていて、人でいっぱいだった。私の調子は少しも良くならないのに、お払い箱にしようとしているのがまるわかりだった。
ある日、重い薬に耐えられなくなった私は、少し大きな総合病院(かかりつけではあったが、精神科はなかった)の内科の医師に泣きながらすべてをぶちまけた。
やさしい内科医は、セカンドオピニオンを勧めてくれた。
F氏はうっとうしそうな顔をしながら、診断書を書くことを承諾し、とある精神科病院とクリニックを勧めてきたが、もう疲れていた私は入院施設のある精神科病院を選んだ。

U氏との出会い

そこで出会ったのが今の主治医であるU氏だ。
そこは地元で有名な精神科病院で、少し遠方だったため、はじめは躊躇ったが通うことにした。精神科単科病院ということで、外聞を気にする家族の反対も少しだけあった。
U氏は近くの大きな医療センターの専門医で、土曜日だけ出向で来ていた医師だった。
F氏の書いた申し送りと、一時間のカウンセリングを経てU氏はすぐに言った。
「ぼくは、きみは統合失調症ではないと思うんだよね。もしそうだとしたら、そこまで明瞭に話せないからさ」

F氏の書いた診断書には「未熟で幼稚、世界の把握が単純」と書かれていた。
しばらく両方に通っていたが、F氏はU氏の言葉を強く否定し続け、そして私を見捨てた。
数年後駅ですれ違ったことがあったが、F氏は私の方をしっかりと見たあと、冷たい一瞥を寄越して去った。
彼女にとっては私はいい客ではなかったのだろう。

それから、薬は無しで、隔週40分程度のカウンセリングが始まった。
まず、血液検査をした。
何故かというと、甲状腺機能低下症や更年期など、鬱のような状態になる病気はいくつかある。それらは血液検査ですぐにわかるため、まともな医師なら、まず血液検査を行い、そちらの疑いを消してからかかるのだという。
Fクリニックでは血液検査など一度もしたことがなかった。

重い精神薬を飲まなくなったので、副作用のだるさはなくなり、からだも気分も軽くなり、仕事もできるようになった。そこでは最近の調子や過去について話すカウンセリングが主だったが、それが一年半ほど続いた頃、秋に突然うつ状態が始まった。
そしてそこに抗うつ剤を飲むようなると躁転したので、再び生育歴と精神状態の上下について詳しく調べることになった。人生を年表にしてみると、何回かの鬱が起こっていたが、そのまえに必ず躁もしくは軽躁状態があったことがわかった。
19のころの過食と不眠から既に兆候が出ていたのではないかと言われ、薬は抗うつ剤や向精神薬から精神安定剤になった。
しばらくして私は落ちつき、診断は「双極性障害」と改められた。
薬の効き具合からして、多分Ⅱ型ということになった。
9.11の際の躁状態に関しては、直接診察したわけではないから、判断は保留された。
精神安定剤を飲むようになって私は落ち着くようになり、特定の季節以外は薬を飲んでさえいればどうにかなるようになった。焦燥感が激しい混合状態や、鬱状態のときに、数回短期ではあるが精神科病棟に入院したこともあるが、クリニックより入院施設のある病院と関わりのある医師にかかる方が安全だと思った。
U氏は私が苦しくて入院したいというと、いつも聞いてくれた。
受け止めてくれる人がいるということもあって、私の精神は安定した。
それから10年近くU氏の診察を受けていると、ある程度精神安定剤で安定できること、季節的にどうしても無理になる時期があることがわかった。それ以外の日々は仕事もできるし、意欲も戻り、趣味の活動などもできるようになった。
U氏は県立医療センターの精神科科長となり、コロナのせいで出向はなくなり、医療センターの診察だけになったが、普通なら予約があふれるのに、快く転院を受け入れてくれた。
入院していたときは、U氏は朝早く診察のまえに病棟を見回り、長時間の診察を終えたあと、病棟のすべての患者を診てまわっていた。お偉いさんだというのに、私だけではなく、いつも時間を十分にとって、丁寧に診察してくれる。新患も常連も等しく扱い、あらゆる患者に真摯だった。

精神科は安易に選んじゃだめなんだ

精神科は最初の見立てで治療方針が大きく変わる。薬も変わる。
よく鬱は心の風邪とか言われて、つらいことがあった人の病気、みたいな言われ方をするが、鬱も躁鬱も脳の分泌異常で、要するに内臓の病気だ。薬で変わるし、薬で治る。
東京にいた頃に通っていたクリニック・大学病院の精神科、いろいろ診断は出たが、その人たちの見立てはすべて間違っていた。

長くなってしまったが、精神科を選ぶなら気を付けた方がいいと思うポイント。
・経験のある人を選べ(経験浅いまま開業した個人クリニックの医師より、精神科専門の病院で勤務していた人の方が重症者を見た人数が違う)
・おしゃれなクリニックはファッション精神科(見渡してみて重症な人がいなければ、そこは軽度の人しかいない)
・すぐに自立支援法を申請させようとしてくる医師は患者を逃したくないだけ(自立支援を申請すると、医師と薬局を申請しなくてはならず、それ以外のところにいくと支援が受けられないため、申請したクリニックに継続していかなくてはいけない→別のクリニックに移りにくくさせるための囲い込み)
・専門病院には多くの医師が居るため、ひとり相性が合わなくても変わってもらえる(個人クリニックでは一人か二人の医師しかおらず、治療よりも経営を考えていることがほとんど)
・入院施設のある病院の方がいい(どうしても焦燥感や不眠が続いて家にいるのが不安になったときに安心できる)
・しんどいからといって予約すぐ取れるところで安心してはいけない(予約すぐ取れる→空いている飲食店と同じである)
・近所で通いやすいからといって、近くのクリニックにしないこと(自分の選択が悪かったのだが、本当にF氏は地雷であった)。
・自分の診断に固執する医師はヤブ(ここまで読んでくださったらわかってくれると思う)
・あと、女医だからやさしいとかないから!(ほんとにない)

ホンッッッッットーに、安易に決めてはいけない。
とくに双極性障害は鬱様の状態が長いため、(単極性の)鬱病と診断されて長い時間をドブに捨てる患者が少なくない。鬱病と双極性障害では、効く薬が違う(まだ双極性障害は統合失調症の薬の方が親和性がある)。抗うつ剤を飲むと余計アンバランスになるため、危険。
そして、薬の量によって統合失調症の薬が双極性障害にも効くときがあるので、間違いがちだが、妄想が一度だけで統合失調症であるというのは早計過ぎる。
効く量が違うので、同じ薬を飲んでも薬効が違う。
あ、あと、薬をコロコロ変えたり、薬価の高い新薬ばかり飲ませる医師も地雷だよ!!!!

私は幸運にもU氏に出会い、安定した状態を送れるようになった。
疑問に思わず、いまだにFクリニックやその他のクリニックに通い続けていたらと思うとゾッとする。なので、セカンドオピニオンについての助言をくれた内科医師には本当に感謝している。
精神病で苦しむのはツラい。
だが、ツラいからといって溺れているときに目の前の藁をつかんだところで、藁は所詮藁で何の役にも立たない。それならば、せめてつかまって浮かべる大きな流木を探そう。
流木は安全なところまで私を運んでくれた。
もちろん寛解とまではまだ、言えないのだけれど。
理解のあるきちんとした医師を探すのは、本当に大変だって話でした。
冗長なので省略したけど、行ったクリニックの数は片手の指ではすみません。

ここまで、長文を読んでいただき、誠にありがとうございました。
皆さまが理想のお医者様に出会い、安定なされますように。

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