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社会はどこで生まれ、どこへ行くのか?~『「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史』

著者は気鋭の社会学者である菊谷和宏氏。

社会学がデュルケームから語りだされることは多かれど、その前にトクヴィルを置き、その後にベルクソンを置くことで「社会」という概念の表出と行く末を描いてみせるという、とても挑戦的なアイディアを本書は敢行している。

「社会」とはなにか

「社会」という一つのまとまりが実際に存在しているかのように考えられるようになったのは、ごく最近のことであると、著者は言う。

もちろん、人類ははるか昔からあるまとまった集団において共同生活を営んできたわけで、それを社会と呼ぶことは可能である。ただ、集団としての人々の振る舞いに目を向け、その挙動と力学を体系的に明らかにしていくことは、不思議なほどなおざりにされてきた。古代ギリシアを源流とする政治学の系譜も、その発生から2000年に渡って、理想的な国家像の描出や法・制度の体系としての社会の分析にのみに焦点を当ててきた。そこには、1個の集団として現にある”もの”という視点が決定的に欠けている。

他方、現代のわれわれは昔の人々と異なり、社会というものをもっとずっと”手を伸ばせば触れられるような”対象として捉えているはずだ。社会情勢を日々気にかけ、社会問題の解決に取り組む人がいれば、週末に社会活動にいそしむ人たちもいる。その傍らで、『鬼滅の刃』が社会現象として茶の間を席巻している。それらからの影響を微塵も受けていないと言い切れる人は、ほとんどいないはずである。手に触れられ、分析することができる客観的対象としての「社会」は、もはや存在しないものとは考えられないほど身近である。

こうした社会の観念を、主に近代以降の歴史的な布置のもとに捉え、その発生を社会学の興隆とともに追跡するのが本書のひとまずの狙いである。

世俗の遊離/モノとしての社会

フランス貴族でありカトリックであった社会思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)にとって、各地で勢いを増していた民主主義社会は神によって基礎付けられるべきものであったようだ。

構成員同士が同じ人間として平等に扱われるという民主主義の基盤は、われわれを取り巻く現実世界の内部から保証されているのではない。ばらばらの個人が「人間」という類的存在として捉えられるには、いまだ全てを超越した神の前での平等性を必要とした。長く西洋を支配したキリスト教(カトリシズム)における神的超越性は、近代『アメリカのデモクラシー』をも支えていたビジョンであったらしい。超越的な平等性は必ずしも現世における平等とは一致しないからこそ、当時の民主主義はその内部に階級や奴隷制など一見矛盾する制度を抱えたままに進展することが可能だった、と。

こうした社会観が、紆余曲折を経て、現代のような「人間」一般の共通性や社会の実在性にたどり着く。その原動力の多くは、フランスの革命史に負うことになろうと著者は言う。

二月革命を政治の最前線で経験したトクヴィルは、社会主義運動の自然発生的な形成過程と、神授された王権から徐々に剥離していくように立ち上がる下層階級の人民たちの一体感、その奥底に伏流する習俗的な基底、人民であるがゆえに「現世において」「それ自体として」平等であることの要請をしかと捉えていた。

 かくして、遂に世俗世界、人間たちの世界は、神の超越的世界から決定的に分離される。人間の平等性・同類性は現世に委ねられ、その中で自立した。フランス革命以降の世に生きる「人間」は、世俗的な現世で行為する存在一般として完結した同類、「人類」「人間(性)」なのであり、だからこの現世において平等であらねばならないのである。
  つまり、こうして遂に「世界」の中から、「習俗」の世界が、「知的道徳的世界」が、すなわち「社会それ自体」が抽出され、分離されたのだ。
―Kindle版位置番号. 433

世俗的な世界が、習俗がまとめる類的な人間が、つまり「社会」が、その創出を準備していた。政治的信条を超えて一致団結、蜂起したパリ市民たちをほだし、駆り立てたやむにやまれぬ一体感。フローベール『感情教育』は二月革命時のパリ市街地の騒乱を生々しく描いたが、あちこちに張り巡らされたバリケードの内側で市民たちが共有していたある種の熱狂的なビジョンや市民相互の存在了解のようなものの独特の空気を思い出す。特定の党派や体制のためではなく、神ならぬ身としての自らの人間性の確保のための闘いであったと言われれば、なるほどあの異様な高揚の充満も頷ける気がしてくるのだ。


そしてトクヴィルから一世代後のエミール・デュルケーム(1858-1917)が、これを社会科学的体系化に向けて強く押し出していく。

有名な『社会学的方法の基準』において、それまでの思弁的・形而上学的な社会の考察を批判しながら、客観的で実在的な、つまり科学の対象としての社会の成立を高らかに宣言する。

第一の、そして最も基本的な規準は、 社会的事実を物( choses) のように考察することである。( ibid.:15
―Kindle版位置番号. 685
社会的事実とは…… 個人に外的な拘束を及ぼすことができ…… その個人的な表明からは独立しているあらゆる行為様式のことである。( ibid.:14=69) それは、一つの具体的形態(un corps)を、すなわち固有の可感的な形態(forme sensible)を取り、これを表示する個人的事実からは非常に明確に区別される 一種独特の(sui generis)実在を構成する。
―Kindle版位置番号. 691

ここでは、社会とは単なる個々人が足し合わされたものではなく、個々人の事実の外側にあるものであり、それゆえ個々人に対して影響を及ぼすものであることが言われている。そしてそれは、可感的なもの、すなわちわれわれの知覚において捉えることができるれっきとした”モノ”であって、科学的な観察に耐えうるものであることが保証される。

王政と共和制、帝政の目まぐるしい入れ替わりのさなかで徐々に動いていく世論や運動を丹念に読み解き関連付けていくことで、人民の統一的精神が徐々に立ち上がってきた様が浮かび上がる。

フランス近代史と精神史が緊密に結び合わされ、「個人」と「社会」とが鮮やかに誕生する現場を、本書は見事に描き切っている。

トクヴィルが見逃さなかったように、ここでも個々の人間の類的な同質性が重要な前提となる。個々の人間が社会{の中で|によって}同じ人間であり、個々の行為が同質であると見なすことではじめて、個々人が『鬼滅の刃』を読み、ハマり、周囲に薦めるという純粋に個人的な経験的事象が社会現象として量的に数えられ処理されるのである。

愛と自由の民主主義

さて、ここまで簡単に本書の前半部分の論旨を追ってきたのだが、ここからの説明がとても難しい。

「社会」としての理想的な統一を見るはずだったフランスが結局は不安定な情勢から脱することができず、人民たちも不断の対立のもとに置かれ続けたゆえ、デュルケームは軌道修正を求められた。晩年に提唱した「トーテム原理」とは、世俗のまとまりでも永遠普遍の相のもとでもない、その中間から「個人一般」の類的共通性を担保するメカニズムの謂いであるが、なぜ・どうやって働いているかイマイチわからない謎の力である。

そしてこれが本書最大の特色なのだが、著者はそこに今後の社会を論ずる上での重要な視点を見出し、その線上に批判的継承者としてアンリ・ベルクソン(1859-1941)を置く。『創造的進化』『道徳と宗教の二源泉』において展開される宇宙論的生命進化を導きの糸として、概念の<物神>として硬直化してしまった社会の再度の賦活への道が語られていく。

後期ベルクソンにおける社会概念は、力動的で創造的な生命のエネルギーの流れとともに展開していく。個々の生命体の活動や相互作用ではなく、もっと奥底にある大きな何かが物質と生命を分かち、ときに社会を進めときに停滞させながら時間の中を進んでいくものとして指し示される。それはヘーゲル歴史哲学における<精神>と密かに共鳴するようなものであるけれど、あれほど目的論的でなく、もっと根本的に自由な運動である。

(※大昔の記事。この辺りはあまり細かく触れてないですねぇ・・)

人間を人間たらしめる原理とその触媒である愛―いわゆる愛というより、他者への信念と投企としての愛―が、「ひとまとまりであるわれわれ」を担保していく。晩年のデュルケームがうまく概念化しきれず、神秘主義へと落ち込んでしまったギリギリの淵で、生のそれ自体の歴史的・具体的な発露が、現世の人間の共通性を直接的に捉えている。そして著者はここに、中空に浮いていた生硬なモノとしての社会を、跳ねて飛んで弾む”生モノ”として救済するヒントを見出し、線で結ぶことを試みている。


しかし、である。単なる文学作品とすら批判される(実際ノーベル文学賞を受賞している)ほどに甘美で流麗で、艶めかしいまでの<生命の跳躍(élan vital)>が、他方で本書のように本格的な社会理論として検討に付されるとき、議論の足元はかなりおぼつかない。

少なくとも自分は(ベルクソン大好きにも関わらず)この理路をうまく言語化して本記事の読者に平易に伝達することはできそうにない。本項まで読んでくれた読者が仮にいるとしても、おそらく直近の議論の輪郭をぜんぜん掴めないだろう理由はほとんど自分の力量不足にあるが、それだけではなくベルクソン的な思考過程を読者が正面から受け止められるか否かにも理解の程度はかなり依存するはずだ。

哲学者にすら最近までほとんど素通りされていた後期ベルクソンの議論をデュルケームに接続し、極めて観念的で抽象的な(ように傍目には見える)議論に突入していく本書後半部は、それまでの堅実で丁寧な分析とは打って変わって、論理的な理解を激しく拒むところがある。単に字面を追って抽象を抽象のまま飲み込むことはなんとかできる。むしろ、前半よりも硬質で分析的な文章は少ないため、読みやすいまであるのだが。

思うに、社会を単なる物とみなしたデュルケームから反目し、純粋に人間の経験の側に(社会的)事実を寄せるには、その前段階としての前期ベルクソン、特に『時間と自由』『物質と記憶』における濃厚な認識論的視角の方こそが議論の土台として大いに必要とされているだろう。本書の広大な射程のうちにそれをまるごと収め、前期ベルクソンの論理を追っていくには、割ける紙面が全然足りないはずであり、実際に概要整理のみに終わっている。ベルクソン自身が彼の社会思想の下敷きとするような、可感的な与件が物質と非物質とを統合し、また析出させていく原理の周辺を2,3往復ほどしてはじめて、彼の言う「実在」がいかなる権利のもとにわれわれの眼前に現れているのかが読み手にかすかに伝わろう。その上で、拒絶されなければ御の字である。それくらい、クセにクセを上塗りしたような、合う合わないが多い思想家である。本書は学術論文がベースとなっているので、社会学者の間でこの辺りが基本的前提として認識・周知されきっているのなら、差し当たり論文としては問題はないのだろうが、さて。

***

ともあれ、様々な条件のもとで形をなしてきた「社会」という概念の一つの系譜学として、本書は非常に優れた分析である。同時に、ベルクソンを援用しながら社会の連帯における愛の働きとその”将来性”を説く著者の言葉にも非常な美しさがあり、読者が希望を持って今後の社会に眼差しを向けられるようなまとまりのあるメッセージに落とし込めてもいる。学際的・越境的なチャレンジを学術のトーンを落とさずにやりきり、それでいてひとまとまりの読み物としても面白く成立させる著者の力量たるやと舌を巻く。

ベルクソンアレルギーが無い読者には、本書は「買い」だろう。本記事の後半の曖昧模糊とした文章を読んだ上でもなお興味を持てそうなら、そういう人にも本書はまた「買い」だろう。勧め方が難しい。いつにも増して、単なる俺得という感が拭えない。


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