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高層ビルからの眺め~都市という廻り舞台を越えて

先日、すこしばかりの用事があって、前職のオフィスに出向いてきた。

退職してもう1年以上経つのだけれど、なんやかんや数ヶ月おきぐらいで顔を出していたのだった。

都心駅の一等地、東京の街を遠望できる高層ビルの一角に、かつて連日連夜通い詰め、血と汗と涙を流したそのオフィスはある。


辞めるときも、その後遊びに行くときも、特別な感慨もほとんどなく出入りしていたが、今度はかなり趣が異なる。

ここを訪れるのは、今回がたぶん最後になるのだ。

コロナ絡みの諸々で、そういう次第になった。


いつもと違い、オフィスまでの道行きはこころなしか空気が重く、足取りも鈍い。目標としていた場所が近づくにつれ、踏み出す一歩一歩が不思議と意識に前景化してくる。地面は固く冷たい。あたかもうっすら漂う郷愁の念を噛みしめるかのように、靴底がフローリングの表面をグリップしていく。

最後となってみるとどんな些細なことでも惜しくなるものだ。あれほど軽やかに飛び出してきた職場であるのに、気づけばさまざまな思い出が脳裏を行き交う。安定の思い出補正機能によって、主に楽しかった事柄が昨日のことのように生々しく胸中に迫ってくる。

そんなノスタルジーを小脇に抱えながらオフィスに到着。用事を簡単に済ませ、これが最後と目に入るものを片っ端から眺め回していた。


とくに心に留まったのは、意外にも、窓の外に視野いっぱいに広がる眺望であった。

全面のガラス壁から見下ろす都会の風景は、気持ちの良いものである。隙間なく埋め尽くされたビルの群れ、否、街の群れ。在職時は、執務室からも会議室からも、よく外を眺めていたなぁ。そういえば、調子のいい日は富士山も見えた。

このような壮観を我がものとして眺めることは、今後もうありそうにない。

高所からの眺めとはなにか

そう思うと、ふと気づいた。会社勤めをやめて以来、高所から外を眺める機会がとんと無くなったな、と。それ自体はなんら惜しくはないのだけれど、わずかばかりのこの寂寥感はなんだろう、と。仕事をする=高所で暮らす、無職=地べたで暮らす、というアナロジーを我が身に引きつけて捉えているのではないかと思わなくもないが、そうした所からくる劣等感みたいなものに、単純に還元しにくい何かが残るなと思った。


自分は、この景色になにか並ならぬ価値を認めているようなのだ。最近よく、「都市」について考える。これも、都市に属する事柄であろう。


正直に告白すれば、高所からの眺めというのは一つの優越であり、愉悦ではあった。これはひとつの要因として数えられそうである。限られた人しか入れない階級的意識にも似たプレミアム感。なんとなく、世間を見下ろしているような感じ。

現に、企業がわざわざ坪単価がバカ高い都心高層階に居を構える理由として、この点は大きい。会社の「格」がアピールできる、それなりに分かりやすい指標になる。来訪してもらった取引相手へ与える心証の良さがあるし、実はそれにも増して圧倒的に、人材採用へのインパクトが大きい。いい立地のかっこいいオフィスに入っている企業には、応募が集まる。職探しに際してまさかそんな単純な判断基準もないだろうと思うかもしれない。だがこれは実際それなりに無視できないほどの差がある。立地で劣り見栄えで劣ると、競合他社との採用競争に負ける。今の時代、人が全てだ。それゆえ、今後コロナ禍でだいぶ様変わりするとはいえ、企業がそれなりの場所にオフィスを構えるべきプレッシャーが常に働いてはいる。

だからまぁ、一人の一般的人間として、自身の中にもこうした感情の動きがあるのもわかる。

ただ、直観的に、これはあまり大きくないと感じられた。少なくとも、支配的な要因では全然ない。元々そうしたことに価値を見出しにくい性格だし、あえてその特権的な場所から降りてもいるのだ。

どちらかというと、高所からの眺めを尊いものにしている原理は、都市というインターフェイスそれ自体に直接的に関わっていると自分には思われた。

都市という衣

我々が都市を行き交うとき、都市という衣を纏っていると考えている。

電車を乗り継ぎ、降りたプラットフォームを行き交う群衆。長く深いエスカレーターの手すりに手をかけ、ところ狭しと並んだ広告ポスターの中のモデルと視線が交差する。無限に入り組んだ駅構内を抜け、ショーウィンドウを横切り、林立するビルの森に入り込んでいく。

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無限に立ち上るガラスの壁。群衆、騒音、渋滞、有機ELディスプレイ、そして無味無臭さ。こうしたすべての中を通る歩行者は、五感のすべてで都市を感じている。すべてが巨視的なスケールで、すべてが輝いている。

都市の諸要素は歩行者の身体にまとわりつき、我々は「都市の歩行者」となる。ありのままの自分を離れ、都市を歩く自分として振る舞う。田舎と違い、エレベーターは片側に整然と並ぶ。近場を歩くときには着ない服を来て出歩き、近所の人とは違う距離感で人と接する。都市なりの社交を、知ってか知らずかこなしている。


ここにおいて、都市とは単にその上を歩くような一定範囲の場所として規定されるものなんかではなくて、物理的にも精神的にも我々を包囲しているものだ。視野いっぱいに迫る360度パノラマビューの都市、都市、都市。あらゆる都市的な要素が視界を取り囲み、人はあまつさえそれを内面化する。

われわれが都市を歩くとき、都市からは逃れられない。

あまりにも巨大なビルを見上げながら途方にくれたことはないだろうか。都市とは「スケールの大きさ」であり、あまりに大きすぎるスケールゆえその全景が一身を覆ってしまうようななにかなのだ

われわれが都市の衣をまとい、都市の歩行者という役を全員で精一杯演じるとき、その限りにおいて、都市は単なるキラキラしたものの集合を越えて都市となる。

その点、田舎では視界の上半分は空であり、意識は密なる表象の束縛を逃れてどこまでも高く飛翔するのだ。かつてそうした典型的な田舎から出てきた自分には、より強くこのことが感じられる。

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都市という廻り舞台

かたや、高層ビルからの眺望である。

高層ビルから外を眺めると、胸のすく想いがする。遥か遠くへと至る眺望は、なにか都会の閉塞感から自己を解放してくれる気がする。

価値の根源に関わっているのは、この解放感のように思われる。

何からの解放だろうか。都市、だろう。

高所からの眺めは、都市という衣を脱ぎ去ることであるのかもしれない。つまるところこれは、都市という表象全体を成り立たせている舞台装置そのものを、上から見渡すことで感じる愉悦だ。

映画や舞台のセットをイメージするとよい。背景の建物の多くはハリボテで、画角に収まっている部分の裏側を見ると、単なるパネルだったりする。こういうのは、上から見るとすぐわかるが、視聴者から見える部分は巧妙にお化粧がなされていてわからないようになっている。二次元的には完璧な表象の裏には、その全くの虚構を生み出すための舞台装置がすでに潜在している。

胴元的視点で、本来は隠されている都市という虚構の次元を露わにするもの。地上を照らす商業的な広告の訴求は高層へは向かず、ショーウィンドウもない。儀礼を振り向けるべき多数の歩行者は存在せず、むしろそれらの導線とつながりがありありと見渡せる。高く街を見下ろすときに感じる胸のすくような思いは、こうした特権の享受と関わっている。


都市という廻り舞台の、そのいかに回っているかを自身のオフィスからしげしげと見つめることは、都市というモードからの開放感に浸ることだ。

観光でスカイツリーに登るとき、こうはいかない。そこは自分の城ではなく、いまだ都市の社交の規範の適用範囲のうちにある。都会人らしく振る舞わなければならないプレッシャーから解放されるのは、ごく限られた条件を満たした場合である。


これは一見すると前半の高みの見物の優越感と似たような話に思えるかもしれないが、ビルからの眺めに必ずつきまとう「解放感」の説明として、こちらのほうがよりしっくりくる。

「脱・都市」の虚構

都市のモードから降りる解放感、そして降り”られる”という事実からくる快。高所からの眺めが持つ魅力は、そのあたりにありそうである。

しかし、ことはそう簡単に終えられるべくもない。

こうした放漫さがバベルの塔の建築者たちよろしく神の怒りに触れるかはわからないが、現にそれに相対的な価値があるという考えは単なる勘違いでもある。高所からの眺望で悦に入っている自分なども、また一つの別様な都市のモードに囚われているだけであって、地上の歩行者からの眺めと変わるところはない。

いやむしろ、事態はもっと悪い。なんとなれば、先にも述べたとおり、都市に充満しているキラキラは、市場競争に駆り立てられて必死に虚勢を張らざるをえない数多くの企業が素手で支えるペラッペラのパネルである。高層ビルから外を眺めて愉悦を感じる人々は、都市という虚構に体よくハマり、それがまさに自分に対して施された偽装であることを対外的に明かしてしまっているのである。その中にいるとき、自分では決してそれに気づかないとしても、である。その物語枠の内側で理想的なキャラクターを演じてしまっていることで、より一層強く縛られているとも言える。高所こそが舞台であり、都市という露悪的な見世物小屋なのだ。

こうして、解放と束縛は転倒する。

その他の仮説

束縛をかわし、純粋にこの眺望を楽しむ道はあるだろうか。

自分にとっては、都市そのものをどう承認できるかという事態とも関わるがゆえに、「高所からの眺めがいかにして価値を持つか」について引き続き模索しなければならない。

幾つか仮説はある。

例えば、西洋思想を貫く延長の重視の影響は指摘されるべきと思われる。延長とは物体の幅や奥行き、高さなど、距離で表される事物の属性である。特に近世~近代を中心に、これが事物を現に存在する物たらしめる、優れて実在的な性質とみなされてきた。古代原子説からモナドの微小表象〜現代物理学の展開を流し見ても、大きいものはそれだけより良く(!)実在的である。より大きく、より明晰判明な延長を、という価値観が、風景の認識機構のなかに忍び込んでいると見ることはできそうだ。

あるいは、E・バークやカントが捉えていた、巨大なるものの崇高さとの関わりも。自然だけに限らず、巨大なるものが権力の象徴として機能することに古代人もすでに気づいていた。自らの威信を示すためにせっせと巨大構造物を作っていた各文明の王たちは、そうしたモニュメントが単にその大きさだけをもってしても民衆に畏怖の念を生じさせるに十分であると知っていたのだ。

もしかすると、それを作るのに支払われた労働力の甚大さ、その到達不可能性が問題になるのかもしれない。そうしてみると、巨大さも高さも、都市の"すごさ"も、労働価値説を媒介として、個人が個人を越えた人間存在として感じる無力さと繋がっているとも捉えられる。個人の労働生産の小ささと対照をなす都市の構築不可能性。無限に続くかに思える大江戸線のエスカレーターを登るとき、都市が示すのは、それを自らの手では決して作ることができない乗客一人一人の矮小さなのだ。

ここでもやっぱり問題は、都市の人間に対する「スケールの大きさ」なのである。

思索は続く。

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