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平凡な人生を慈愛し、歓喜する全ての人へ~『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ

やっと読めた。名翻訳家、東江一紀の最期の仕事としても知られている、近代アメリカ文学の隠れた名作である。

主人公のストーナーの幼少期から最期の瞬間に至る人生を描いた本書は、平坦でほとんど一本道の筋に沿って進行していく。語り手の静かで柔らかい口上にはほとんど最後まで抑揚がない。

実のところ、ストーナーの生涯には際立った出来事は起こらない。ごく普通の農村で農家の息子として生まれた少年が、大学で文学と出会い、文学者としてのキャリアを歩む。ただそれだけである。誰にでもありそうな人生の岐路、仕事上の問題、家庭内不和、不倫、etcetc...。このご時世に文学者としてテニュア(常勤)な職を得られてるのはすごいやんけ・・!といった読みはここではひとまず置いておこう(ちなみに本書は1965年の初版ののち長らく忘れられていたが、21世紀初頭に”再発見”された)。こうしたリアリティが淡々と静謐に語り出されていく様は、むしろ小説としては異様ですらある。


作中ではストーナーの「手」がシンボリックに使われている。大学でたまたま出席した文学の講義で、自身の運命を決定付けることになる瞬間に際して、ストーナー青年はふと自らの両手に見入る。「その肌の茶色さに、爪が無骨な指先に収まるその精緻なありかたに、驚嘆の念を覚えた」のは、それ以前の自らの世界が一変してしまったことの証である。田舎の両親と農村は彼にとって茶色の土と未来のない灰色の世界として記憶されているが、自身も埋め込まれるはずだったその味気ない世界像の片隅に、細やかで彩りのある”文学”という宇宙を見つけたのだ。その後も彼の生きる力と連動するかのように印象的な場面では手に意識が向けられ続け、まさに最期の瞬間には、本のページを繰る指先が遠のく意識とともに紙から滑り落ちる。


淡々と消化された一本道のように思われるストーナーの人生は、彼”自身”の心の機微と、それが身体に現れる様をつぶさに見ていくなかで、大きく色合いを変えていく。その精神の道行きは実は決して単純なものでも淡白なものでもない。透徹した”無関心さ”の陰に隠されて本人すら気付いていなかった情熱の炎が、意識ではなくむしろその指先からほとばしり続けていたのかもしれない。

部内政治に負けて昇進もせず、自著も振るわなかった平々凡々な一教師は、それでも徐々に生きることの本質を見つけていく。英雄譚でもビルドゥングスロマンでも、そして目を引くような悲劇でもないこの旅路の中で、愛の真髄を発見し、「見よ、わたしは生きている!」と叫ぶ。死の床にあって、かつて発した「自分の人生とは生きるに値するものだろうか」という問いへと立ち戻り、さらに若かりし日に答えられなかった師の問いかけへと還ってゆく。師アーチャー・スローンの「氏のソネットは何を意味するのだろう」という問いである。

なんの気にしに受講した講義での文学との邂逅の場面、教師であったスローンから問われたのはシェイクスピアのソネットの1節だった。

「わたしの中にきみが見るのは、余燼の輝きが、
 灰と化した若き日の上に横たわり、
 死の床でその残り火は燃え尽きるほかなく、
 慈しみ育ててくれたものとともに消えゆくその時。
  それを見定めたきみの愛はいっそう強いものとなり、
  永の別れを告げゆく者を深く愛するだろう」(p.14)

当時は答えに窮して全く言葉を継げなかったストーナー青年は、ままならない自己実現とあらゆる俗事との数十年をくぐり抜け、憔悴して灰となりゆく自分を見つめるもう一人の自分、深く優しげな愛の眼差しで自らを承認する自分自身の存在に気づいただろう。凡庸であって、しかし他人のどんな人生とも替えがたい自分自身にオリジナルな生を、「これがわたしなのだ」と発見し、領解した最後の瞬間、あのときのソネットの読解が果たされている。

問いに答える都度に、過去の全体が新鮮でみずみずしい輝きをもって生き直される。大きな円環が、こうして閉じられていく。


平凡な男の人生が書かれた小説である。しかし、どんな人生でも、はたから見れば大抵はしごく平凡なものである。この美しい長編が教えてくれるのは、そうしたありふれた事柄の集積としてのなんの変哲もない全ての人生の内側にある、無限に脈打ち躍動する歓喜と愛の有り様である。そのリアリティに触れたとき、深い感動に打たれながら、読者は自らの手をじっと見つめるだろう。

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