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読書感想的随想録:『倫理資料集』(清水書院)

思えば、高校生の時分から、哲学は自分にとって特別な存在だった。

学校の勉強にはトコトン興味がなく、授業はといえば、寝てるか弁当を食べてるか、教科書にマンガをはさんで読んでいるか、はたまた近所の友だちの家でゲームをしているか、という体たらくぶりであった。案の定、学年の中でもかなり底の方の成績をウロウロしていて、とても勉強熱心な生徒とは言えなかったろう。

ただ、「倫理」の授業だけは違った。たしか高2の年次のときだったはず。社会科の課程の1つとしてそれはあり、これまでの人生で全くもって触れたことのない何かと、正面からぶつかった。

そこには、世界に向けて発せられた、滔々と満ち溢れる好奇心の泉があり、世界の始原への尽きせぬ問いがあり、革新的なのか曖昧なのかいわく言いがたい、壮大な解答の数々があった。

先生が特別良かったわけでもない。もともとそういう類の思索を悶々と巡らせていたわけでもない。それだのに、小説やノンフィクションばかり読み散らかしていた自分がこれまでまったく読んだことがないほど大事なことが、そこらには書かれていると、即座に確信した。

1年を通して一度も寝ずに授業を聞いた科目は、他にない。定期試験もほぼ100点に近い点数だったと思う。ほかの科目は大体が赤点スレスレだったので、これはものすごい異常値だった。

惜しむらくは、それを更に追いかけて独学で掘り進めるような、「何かを学校外でちゃんと学ぶ」という概念も、その気概も、そして自身の興味のベクトルを嗅ぎ分ける叡智も、当時の自分は持っていなかった。いや、馬鹿すぎて、どうあっても持ち得なかったと言ってよい。

その後、何を間違ったか工学部に進み(それはそれでかなり明確な理由が当時はあったのだけども)、大学のかなり初期の段階でよき学友に恵まれ、小説以外を読んで学ぶ習慣と興味を体得したことはとても大きかった。ただ不運なことに、その時点で他のさまざまな面白い事柄をも同時に発見してしまっていたので、哲学を体系的に突き詰めるという一番最初のピュアな欲求は、霧の中に隠れてしまっていた。いやまぁ、科学は科学で語りきれないほど面白く、ビジネスもビジネスで理論/実践ともにめちゃくちゃに面白いからしょうがないんだけど。

そんなこんなで、哲学を”第一の学”として他のあらゆる学の上位に位置づけたのは古代ギリシアのアリストテレスだが、自分にとっての哲学も、一番最初に、一番強烈にこの世界との知的なアクセスが確保された”第一の学”であった。そして、あの当時むさぼるように読み耽っていた倫理資料集、教科書の副読本であり、教科書より面白くわかりやすいこの清水書院の倫理資料集を、再び手に取るときが訪れたのである。


という、長めの自分語りを急にしちゃったものの、実際の中身はといえば、自分が高校生の頃読んだ記憶に比べて、内容に強い違和感を感じる。買った版は最新のもので、自分が使ってたものからは数回は改訂が加えられていると思う。相変わらず図も多く平易に噛み砕かれた文章(なにせ高校生向けである)である。基本的な哲学史をさらっていけるのは、とてもありがたいのだが、なんか順番がおかしいのだ。

西洋を中世辺りまで行ったあと、本書の中盤1/3程度を大胆にぶち抜いて、アジア・日本の思想史を現代までやる。仏教〜和辻哲郎まで一気通貫で見ていく。して、その後何事もなかったかのように西洋の近代科学史/哲学史に戻る。あれ、日本パート、こんなに多かったっけ?あと全体としての流れは悪いし、西洋は紙面もだいぶ少ないので、理解が進む訳もなく。

この、日本思想賞揚的な異様な構成はなんなんだろうと思い、倫理のここ10数年ほどの学習指導要領の改定を少しだけ追ってみると、「国際社会の中における日本人」みたいなトピックが重要視され始めており、自分の存在と文化の源流を捉える枠組みとしての日本人特有の宗教観、倫理観、思想の摂取が大いに盛り込まれている。こまいところだと、心理学や啓蒙思想の厚みも増しているのが興味深いけれど、とにかく、本書の構成がかくも大幅に変わったのには、高校課程倫理の位置づけと目的が少し変わっている事によるだろう。

それにしても、読み手としての自分が変わった部分もあろうが、当時は大好きな読み物だっただけに、結果的にとても残念ではある。現行の哲学ベスト入門書『哲学用語図鑑』が、終始余裕の試合運びで首位の座を守ったのであった。


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