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マルクス・アウレリウス『自省録』で魂の平穏を学ぶ

マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は、後期ストア派を代表する哲学者でありながら、2世紀前半に古代ローマ帝国を皇帝として統治していた人物である。ローマ最盛期を支えた五賢帝の最後の一人として、プラトンのいう哲人政治・哲人王―とくに『国家』で示された、哲学者が国を統べるべきという思想―をまさに地で行く、歴史上たいへんに稀有な事例でもあった。

ストア派自体が道徳主義・禁欲主義で知られる学派であるように、このマルクス・アウレリウスもまた、自身の外の世界で沸き起こるいかなる欲望や不運にも惑わされず、ただ魂と理性の導きの声に従って生きるという静謐な思想を紡いだ一人である。

ただ、とても皮肉なことに、彼が皇帝の座にいた時代は、相次ぐ天災に悩まされ、また他国との戦争や内戦が絶えず起こり続けるなか、ローマ帝国の絶大な勢力が傾きつつある最中にあった。恐らくは望まずに王位を継承したこの賢人は、魂の平穏を説き、民の平和のために奔走しつづけ、しかし戦火に包まれながらその生涯を終えることになる。

そんなマルクス・アウレリウスが、自身の内省のために書き綴ったのが本書『自省録』である。形式のうえでは、体系的な哲学書ではなく「人生をラクにする○箇条!」のような読み物として読める類のものだが、著者が背負った運命を合わせ見ると、その言葉のひとつひとつは段違いに重く響く。

ストアの教えは「自然」と「心/理性」をはっきりと区別する。そして、自分ではどうにもならない自然の秩序を通してではなく、自身の心のうちにある理性や指導理性(ト・ヘーゲモニコン、肉体と精神の統御機能)を通して物事を見ることが説かれる。どんな苦痛や不運であっても、もともと自分にどうしようもない事柄なのであれば、それに悩んだり煩わされたりするのではなく、それを不幸と感じない受け取り方ができるよう、魂を導いていくことを、マルクス・アウレリウスも繰り返し書いている。

肉体に沸き起こる様々な欲情は、自然なものとして起こるものであって、自身の指導理性でなんらか評価を加えたり、そこに向かって生きていくものではない。動物ですら自然の秩序に従って生きているというのに、汝は快楽を受け身的に享受するために生まれたのか。富や権力等を自らの精神から遠ざ、それらと共生できるとは思わない方が良い。

また、誰かやなにかから損害を受けたという”感じ”も、それを冷静に見極めて取り除いていけば、自分自身に降りかかると思われた損害自体も実は取り除かれてしまう。いわく、「これは不運ではない、しかし、これを高貴に耐え忍ぶのは幸運である」。またいわく、「自身の魂の中の平穏に還れ」。

マルクス・アウレリウスが本書にしたためたこうした言葉の数々は、書店の棚にあふれる自己啓発本の山のなかには意外なほど見つからない。むしろ、外界のいろんなものに鋭く機敏に反応し続け、自身を取り巻く現実をこそ巧みにコントロールせよと、われわれは言われ続けている。判で押したように繰り返されるそんな言説にさすがに疲れ始めてきている我々にとって、本書の持つ意義は大きく、本書から感じ取れることはとても多い。

ストアの教えは、実はかなりの部分において仏教の思想と共鳴している。宇宙を大いなる自然の秩序と見るか、はたまた聖徳太子が「世間虚仮」と言ったように「無」と見るかにおいて違いはあるものの、それら外界の事象に過度に反応せず、自分の精神のうちに(自分にとっての)真理を見出すことを重視する立場は一緒である。その意味で、日本人にとってはわりとスッと入ってきやすい話にも感じたし、さらに修行や瞑想、念仏を重視する仏教の方法よりも、心構えと日常生活的な実践を通して魂を少しずつ調整していく本書の教えのほうが、もはや宗教に縁遠いわれわれ生活者にとっては身近に思えるだろう。


個人的には、上記のストア思想の核となる部分に加えて、中世初期の知識人(彼自身は皇帝だが)に共有されている基本的な世界観が知れて良かったという面もある。この頃の西洋ではアリストテレス主義はそこまで支配的で無かったと認識していたが、プラトンのそれよりもむしろ端々に、目的論的でダイナミックな生滅変化の世界像が色濃く見て取れたのは収穫であった。

単なる禁欲主義の教えでなく、著者が背負った艱難辛苦の上に打ち立てられた、2000年に渡って読み継がれる世界最大の自己啓発本(?)を、ぜひご一読あれ。

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