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私-世界を結び目から開ける~文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』

いつ何時も力強くそびえ立っている「世界」という舞台があって、その中には無数の存在者がひしめいている。それを意識の主体としての「私」が認識する。人はふつう、このように思っている。

しかし実際には、そうした「世界」の存在をほのめかすような知覚の印象(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚)が「私」の手元にあるだけであり、感覚を超えたところにある外界の有り様やそこで起こっている事柄を指し示すものは何一つない。 

たとえどれだけ一貫性と揺るぎなさを持つように見えても、この世界は不安定でしばしば誤りもする感覚器官と脳に生じるひと幕の幻影のようなもの。あなたが絶対の確信を持って2m先にあると主張するドアは、あなたの顔の真ん中ぐらいにある眼窩に収まっている眼球内の網膜から視神経を通じて後頭葉に送られたところで生じる木目調の茶色い長方形の表象にすぎない。あなたが言うまさにその扉が現にどこにあるのかを強いて問うならば、それは実際に2m先にあるのではなく、あなたの目あるいは脳のうちに、と言うほかない。

その意味で、一見すると外界{に/で}あると固く信じられているあらゆるものごとは意識の主体たる「私」の身体にぴったりと張り付いている。身体と感覚器官、そして誰にとってもありありとリアリティを持って感じられる知覚の濁流の"存在"それ自体をもひとまず疑問に付さないことにするならば、「世界」とは「私」が感じるものである。

「世界」は「私」ではない。しかし他方において、上記のような形で世界と相即的な身体的感覚をすべて取り除いたあとに、なにか確固たる「私」のような実体が残っているわけでもなさそうだ。「私」は私が感じるさまざまな感覚とも緊密につながっている。それゆえにまた、「世界」と「私」の両者のあいだにきれいな境界線を引くことも困難なように思える。

そうであれば、ふだん何食わぬ顔で社会的生活を営んでいる我々の大部分が信じ込んでいる世界の実在感や自明性、そして整然と運行されているように見える自然法則やものごとの秩序には、実は土台がない。

それでも、無数の個人的経験と社会的/文化的な交流を通じて、言葉が普遍的な意味を持ち、意味が普遍的で確固たる感覚を、世界認識の唯一正しい方法を徐々に再編していく。ありのままの感覚を離れた社会のことばが、個人の世界の感じ取りかたを決めていく。意味が固定化されたいわば"死んだ言葉"によって、私が世界と関わる仕方はいつしか一面的なものになりゆくのである。

こうしたことにノれない人もいる。著者の文月悠光が第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』で綴ったのはこの秩序立った世界へのノれなさであり、それへの苦悩あるいはカウンターでもあるかもしれない。

感覚同士の、そして感覚とことばの間の新たな結びつきの幾多の実験の痕が、本書には生々しく刻まれている。みなが当たり前に受容している世界の整然とした嘘くささから距離を置き、余計な色メガネを手当たり次第はずしながら、自らの感覚そのものを触れてこねて練り直してみる。

そうした作業のひとつひとつを通して、私と関わる世界の別様なあり方が発見されてくる。視覚対象の像の表面で雑多な音が粒だち、刹那、私の意識全体が鮮やかな原色と一体化する。ありありと感じるままの諸印象の乱反射を捉えて仮止めし、意味の欠片を繋いでいく身体感覚とことばの置き方がとにかくすごい。身体と思考のあいだがぐにゃぐにゃにバイパスされていて、なんというか、知覚の認識とはかくも「世界」から自由であったかと。

もちろん、それらの間の無数の交通は当然すべてが頼りなくはかなげである。ある1行で辛うじて結ばれた視点は、次のとある句に突き当たってほどけてしまう。寄せては返す波のように、私も世界も、その編み目も明滅する。
なのだけど、そのぶん瑞々しく躍動的で、われわれ読者がまだ見たことのない「世界」の芽吹きがそこかしこにある。

キヨスクの本棚の前でしゃがみこむ、私は図形になる。三角形としての体勢1を模写されている。『あなたは見えない』という絵本を手にとった。開けば折りたたまれたページがそそり立つ。わたしはそのページ全体にしゃがみこんでいた。なるほど、確かに私にわたしは見えない。その核心をつき、しかけられた絵本。勢いよく絵本を閉じると、私は白いバラを赤く塗り替えたトランプの騎士を見習い、青いバケツにニスをそそぎ入れた。

同書「しかけ絵本」より一部抜粋

言葉によって私と世界に橋を架けること。架けられた新たな関係が、世界を新たなものとして開くこと。ハイデガーは晩期の講演『技術への問い』の中で、橋を架けることが初めて両岸という場所を顕現させるという例を用いて、隠されている存在の真理を「こちらへと-前へ-産み出す」ものとしての古代ギリシア的技術Technèを技術の本質と説いた。

本書はさながら、言葉という技術を巧みに用いて疑わしき「世界」の存在にさまざまな角度から光を投げかけ、ありうる世界の原点を提示する試みである。「半径1メートルを描く」のではなくて、そこで場が開け、座りのよい座標空間もメートルもはじめて思考可能なものとして現前してくるような点。適切-不適切、秩序‐無秩序といった区別自体も、ここで新たな装いで生じてこよう。


自然のうるわしきを端正な韻文で描き出したり、人びとの情念の襞にしとやかに触れていくといった方面で才気をふるう詠み手では、少なくともこの時点ではないのかもしれない。しかしここには、世界と存在の問いへとかように直截的に向かう優れて清明な思索の道ゆきがある。

自分は現代詩にはあまり馴染みがなく、どうも若くして大きな賞を取ったことで有名な著作らしいといった程度の前提知識で読み始めたが、14~17才頃の作品という事実と絡めて若書きの眩さと論じるのはあまりに無粋なように自分には思われる。


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