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自然に還った哲学者~ルソー『孤独な散歩者の夢想』

苦しい。こんなに苦しいエッセーを読んだのは初めてだ。


個人の自由を、そして啓蒙と革命の時代を啓いた偉大な哲学者ルソーは、しかし晩年に精神錯乱におちいり、重度の被害妄想とともに没することになる。その最晩年に自らの手で綴った回想録、随想録が本書『孤独な散歩者の夢想』である。

読んでいて思い出すのは、ドストエフスキー『地下室の手記』で自意識にまみれた精神の牢獄の中から吐き出す小役人の言葉の数々だ。

自分を取り巻くあらゆる状況が陰謀によって動いており、すべての善意は罠で、友人とみえたものすら敵である。目に見えるものすべてを疑い、全世界と対立したルソーは、自ら我が身を追い込み、破滅の恐怖と孤独の哀しみを抱えながら日々を生きることになる。不安と憎しみが頭に充満していた日々についての独白が、本書冒頭から繰り返し繰り返し語られる。


しかし、本書が書かれるルソー最晩年には、その心境に大きな変化が起こっている。

悩み苦しみ、もがき続けた末にルソーが至ったのは、自身の感情をただ自然的な肉体の反応としてだけ受け取り、それに煩わされない気の持ちようであり、日々欠かさず行っていた散歩の道中で精神をただただ中空に漂わせる「夢想」の方法であった。

もはや肉体は私にとって、厄介なもの、邪魔なものでしかなく、私は今のうちからできる限り、この肉体から離れておきたいと思っている。
ときおり、揺れる湖面を見ていると、この世のものの儚さについて、わずかながら思いがよぎることもある。だが、ふとした物思いもやがて、止まることを知らない単調な動きに吸い込まれていく。

冒頭の重く苦しい心境の記述はもはや息を潜め、徐々に穏やかな文章が流れるようになる。自分にとってどうにもならない外界の出来事からくる刺激に対しては、純粋に受け身の存在として立ち、それに煩わされない境地。

啓蒙思想の先駆として徹底的に合理的な思索を積み重ねてきた若き日のルソーとは異なる、悟りにも似た、まどろむような内面的平穏から言葉が紡がれるようになる。客観的真理の探求に別れを告げたルソーは、夢想のなかで自己を新たに発見し、人生において自身との対話を重視するようになり、そして自然へと還ってゆく。

もともと、人間の自然的本性を訴え、合理的/理性的な人間社会を悪しきものとして批判した思想家である。その思想は、”自然に帰れ”というフレーズに集約される。

苦境にまみれ、絶望の最中で、この考えが極限まで推し進められていく。

ただ現在だけがあり、その持続性も継続性も感じさせず、欠落も充足も、喜びも苦しみも、欲望も不安も感じず、ただ感じるのは自分の存在だけ、しかも、その存在感だけで自分が満たされる状態。もし、そんな状態が続くならば、それを幸福と呼んでもいいだろう。

読者が本書を幸福論として読み、自然との合一の境地に達することを目指すかはさておき、自身や世界と深く立体的に対話するための一つの手段としての夢想の有用性は、傾聴に値する。自然のなかでの散策とまどろみに親しんだものであれば、ルソーならずとも、そうしたときの感覚の多様さと自由さ、湧き出る直感の豊かさはたしかに知っているはずだ。

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夢想のただなかでロゴスを離れ、知的直観のみで本性的な自己を捉えること、そうした自己との純粋な対話に愉しみを見出すこと、それが究極の孤独にさらされたルソーが編み出した方法だった。

そうして見いだされる自己は、目を向けるとどこにでもその存在が感じられるような、万象の中に息づくものとしてある。宇宙の原理たる自然(フィシス)でなく、母なる大地の上に緑が生い茂る”自然(ネイチャー)”が、ルソーにあっては強く意識されている。

夢想によって浮き上がってくる自己は、自然と一体化する大いなる存在として客体化される。

のちにフィヒテらは、自己意識が自我を見出し定立する働きを推し進め、その自我が世界のすべてに展開していく絶対我の哲学を唱えた。倫理的観念論と言われるこの思想は、ルソーのこの自然的客観的自己に根を張っているのではないかと感じたけれど、それはフィヒテ以降においてのように近代的”自我”として定立されるのでなく、ほとんど仏教的といっていい”無我”の方向へ、ただ一人孤独な歩みを進めているように見える。この点はとても興味深い。

独創的な天才が人生の最後に突き止めた、この精神の内的宇宙論は、読んでおいて損はない。


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