目標を打ち捨て、人間本性の暗がりへ~『小さな習慣』
本noteで自己啓発本のたぐいを紹介することはとても珍しい。ごく稀に取り上げるときでも、肯定的に書いたことは一度もないはずである。
だけど今回、おそらくは最初にして最後となるであろう最大級の賛辞をもって、一冊の本を紹介したいと思う。
一般に自己啓発本に求められているのは、読者自身がしっかりと啓発されて、読後の人生がなにがしかポジティブな方向へと変わっていくという点に尽きる。実効性という、この至って単純な要求は、しかし何よりも高い要求でもある。
実際にはほとんどの場合、そのようなことは起こらない。人の人生は簡単には変わらない。
悠久の昔より定められた自然の秩序と人の業が、簡単に抜け出ることを許さない堅牢な檻として我々を支配するし、幼少期から時間をかけて徐々に踏み固められていった個々人の精神の構えは、よっぽどのことがない限り大きく掘り崩すことは叶わない。世の中の99.9%以上の自己啓発本が、自らが高らかに謳う魔法のような効果を、実際にはまったく発揮していないと断言できる。
それではなぜ、これから紹介しようとする本書は、その慎ましいタイトルとごくごくありきたりな佇まいに反して、読者の生きるすべを決定的に変革してしまう力を持っているのか。何が本書を、巷にあふれる凡百の駄本から区別し、魔術的な力を振るわせるに至っているのか。
大いなる目標~背後世界の罠
「まずは目標を定義せよ」「やりたいことを手帳に書きなさい」「なりたい自分を頭の中で思い描き、毎日口に出すようにしてください」。
いにしえからの自己啓発の常套句が、未だに新たな装いをまとって毎週ごとに書棚を飾り、新たな読者を獲得し、今日もどこかで誰かの意識のなかで舞っている。
似たような本が氾濫し続ける理由は、端的に、そうしたアプローチには期待されているほどの効果も再現性もないからである。そうでなければ、一冊の古典を皆が読み、事態は収拾するはずである。新刊が読まれる必要性はどこにもない。つまり、今もって、優れた古典は存在しないのである。
人々の「目標」への心酔の歴史は古い。
古代文明を生きた人々は、自分たちではどうにもならない自然の未知と脅威に取り囲まれて暮らしていた。共同体のうちには主として運命論が根付いており、自分たちを翻弄する天変地異や凶事などの偶然を、どう納得できる形に解釈して物語るかに力が注がれていた。口頭伝承される神話が、暮らしも倫理も、生き死にについての捉え方をも規定していた時代。人々の人生の浮き沈みの一切は、せいぜいが天上の神々たちのいっときの気分で決められるのみであり、個人が積極的に自らの生の展望を形作っていくことはできないとされていた。
事情が変わってきたのは、紀元前5世紀ごろからである。広大なエーゲ海を望む群島地域に突如現れた天才たちの煌めくような思想の爆発が、揺るぎなく厳しい現実の彼方に、巨大な背後世界を構築してみせた。
すべてを司る善のイデアが、むしろ現実の世界を生み出している。我々に見えているこの世界、ギリシアの豊かな山々と雄大な海、動植物の数限りない躍動も、数多くのイデアを模倣して作られたハリボテである。
視界を曇らす雑多な現実の暗闇のなかから立ち出て、眩しい眼をこすりながら大いなる理念の光に浴する必要がある。徳と愛知の実践によりこれに近づくことで、幸福な世界が個々人の前に立ち現れる。
現世での徳の必要を説いた師ソクラテスをはるかに超えて、理念に向かう自己実現の運動として発明されたプラトンの太陽は、以降2,000年の世界を煌々と照らし続けることになる。イデアは、背後世界は、超越論的な存在論として実在するものの一切の基盤を提供しただけでなく、うだつの上がらない現実世界の自分を超克し、理想的な人生へと向かっていく意志の始動因としても働いたのである。
唯一神による創造神話と優れて親和的だったイデア論は、キリスト教に即座に接ぎ木され、ヨーロッパ全域に広がっていく。覇権主義を通したその後の世界宗教の普及の道のりは周知の通りである。そして今日、イデア=理念=目標の崇拝が、世界中を覆い尽くしている。
しかし他方で、そうした崇高なる理念への熱狂には、そこに向かう生身の人間たちによる努力の不徹底がつねにつきまとってもきた。目標の歴史は、まったき同時に怠惰の歴史でもある。
キリスト教は中世に堕落し、救済に至る善行は、教会が販売する免罪符を買うことにより、さながら楽天ポイントのように貯めていけるものとされた。どれほど立派な理念が掲げられても、ラクな方に流れる人間本性に、教会それ自体も乗ったのだ。修道士のような清廉でストイックな生活は、ほとんどの人の望むところではなかった。
東洋でも事情は変わらない。古代仏教の緻密な理論的体系を厳しい修行の実践へと昇華させた小乗仏教ではなく、誰しもを救う大きな乗り物としての大乗仏教が爆発的に普及した。ただ決まった念仏を唱え、ただ踊り、果ては何もせずとも他力によって、一切の大衆が悟りに至る。目標に向かう努力は、ここでも敗北の憂き目を見ることになる。
大きな目標に向かう大きな実践、険しく慎ましく地味〜な鍛錬の日々に、多くの人は耐えられない。神の御前ですらそうなのだ、人間は。
現代の心理学やモチベーションの科学なんかを持ち出すまでもなく、我々一般市民には「長期的な自己変革プロジェクト」なんぞ遂行できない。そんなことは、全世界の全歴史がたっぷりと時間をかけて実証してきたことだった。
世の自己啓発本の大半は、「なりたい自分」を定義して鏡の前で繰り返しそれを唱えさせ、優柔不断で誘惑に負けやすい自分自身を不断に鼓舞し続ける方法を飽きもせず勧め続けている。だが、そういう方法で成功を収められるのは、ほんの一握りの幸運な人たちである。なにかの道で成功を収めた著者やそのフォロワーは、もともと自己管理能力が普通の人よりも高かったり、自己肯定感が高かったりするからこそ、凡庸な方法を優れた実践のうちに続けることができるのである。生存者バイアスが生む崇高さ、現実との果てなき落差が生む自己嫌悪。野望に燃える人心が挫かれてきた裏には、いつの世でもそうした悲惨な構図が隠れていた。
自己啓発本を買う。「自分が変わる」という希望と高揚感を抱いてページをめくり、(ごく稀に)首尾よくすべて読み終わる。それでも、記憶はそこで必ず途切れている。数カ月後になんとか思い返してみても、あとに残ったのは大量の付箋と、2ページ目で途切れている振り返りノート、それにいつかのやる気の痕跡めいた表紙の上のホコリだけ。
自己啓発とは、こうしてつねに必ず、途絶への道を運命づけられたプロジェクトなのである。
「小さい目標」は有効か
「継続力」にまつわる自己啓発本/能力開発本はすでに百花繚乱で、ある程度まで定番メソッドや開発すべきノウハウの構造化は済んでいるジャンルと言ってよい。続々出てくる新刊が意気揚々と掲げる革新的なメソッドも、注意深く見ていけば使い古された方法の焼き直しが多い。
本書が唱える原則も、広く流通した用語法に従えば「スモールステップ」という手法に分類されるもので、継続力のテーマではかなり頻出するものではある。まえに本noteでも紹介した『独学大全』―独学者による独学者のための傑出した独学ツール事典―のなかでも、スモールステップは自ら自律的に学習を進めていく人々に欠かせない道具として一章分を割いて取り上げられている。
しかし、ここにもまだ落とし穴がある。
少しでも何かを続けようとした経験のある読者のほぼ全員に激しく頷いてもらえると思うのだが、小さい目標だろうとなんだろうと、目標を毎日達成し続けるのは難しい。
ある人が、ランニングの習慣を身に着けたいとする。ものの本では、たとえば以下のような目標を順々に達成していくことを推奨される。
1日100m走る→1日1km走る→1日5km走る
しかし難しいのは、いくらハードルを下げたところで、その目標に向き合うのが絶対的に不可能だと思えるときがいくらでもある、ということだ。人は、1mだって歩きたくないときはある。仕事でくたくたに疲れきっているとき。気持ちが参ってしまっているとき。目標をいくら小さなものに細分化したところで、その低い低い閾値すら超えられない、絶望的にやる気が湧かない時間というのがある。なんなら、日に10時間ずつぐらいあると言ってもいい。
本当に厄介なのは、実際にこのやり方に効果があると分かっていても、やりたくなれない場合があることだ。自分があれほど強く志ざし、望んだはずの輝く明日を、大抵の状況のもとでは、人はそこまで真剣に徹底したいとは思っていない。
やる気なんてものは脳のメカニズム的には事後的なもので、やり始めることではじめて湧いてくるのだといった受動意識仮説なんてのも知っている。が、その知識があることで逆に「これ着手しちゃったらモチベーション湧いてやんなきゃいけなくなるじゃん、クソめんどくせぇ」といった鮮やかな目的の転倒すら、一瞬のうちに成し遂げられてしまう始末。人間って、すごい。これはたぶん、生死に関わる重大時のために体力を是が非でも温存しておく必要があったサバンナ時代の遠い祖先よりの遺産だろう。
既存の方法論のほとんどが、このあたりの心理を書かない。「さすがにある程度はやる気ある人じゃないと無理ですね」と言わんばかりに、大半の人がいかに小さな目標を前にして困難に陥っているかに関して、無視を決め込んでしまう。
どれだけ小さくなったとしても、「目標」―行動科学分野では「ターゲット行動」と呼ばれる―として自らの前に立ちはだかった時点で、それはどこまでいってもひとつの壁なのかもしれない。
目標とは、現状ならざるものである。
ターゲット行動とは、「今お前がやってるそれ」ではないものである。
定義からしてそうなのだ。ここには非常に重要な示唆が含まれている。目標は、どうしたって、自分に対する壁として現れる他ないものなのである。
いかに小さな壁であっても、その壁はつねに、自己を鋭く反省することを求める。自らの立ち位置をはっきりさせ、自らの至らなさを自覚し、そこから重い腰を上げることを要請する。目標とは、絶対的な自己否定の力であるのだ。
ベッドに寝そべりYoutubeを垂れ流している人にとって、かような絶対的な自己否定の力は重きに過ぎるだろう。やるべきことはスマホonベッドじゃないと自身わかっていればいるほどに、その否定し難い力の重みからは目を背けざるをえない。自堕落で恥ずかしい自分自身を直視する必要のない深みまで、マットレスをなんとか沈み込ませることしかできない。
気づけば目標は、自らが自由な意志と目的に基づいて設定したなにかではなく、カントの言葉を借りれば、絶対的に無条件的な定言命法として自らへ降りかかる命令へと転じる。いまの自分と鋭く対立する最高善としての道徳的自己が、彼岸の敵として、私に対して無根拠にその執行を迫る。
「汝、1日1kmランニング為すべし」
自然に身を委ねる
自然主義という立場がある。超自然的・普遍的なものや理念的なものから距離をおき、人間の惰性や自然の事実を踏まえたありのままの世界を重視する立場である。
近世イギリスで理性と道徳の原理を突き詰めた哲学者ヒュームは、著書『人間知性研究』で、人間には決して掴むことができない深遠な理念を遠ざけることを説いている。
人間のうちにあらかじめ備わる本性として、理性には制御できない情念の働きと自然な行為を重視したヒューム。ストア派の思想に傾倒し、徹底した鍛錬による自己変革を目指すもあえなく挫折した青年期の記憶は、彼によって紡がれた自然主義的な経験論と無関係なことではない。
同時代のデカルトやライプニッツのような、人間の理性と自由な意志が世界をどこまでも捉えていけるという大陸の野放図な思想と真正面から対決し続けたヒュームの目には、背後世界を蠢く理念や目標の素朴な想定は、人心を惑わす唾棄すべき世迷言と映ったに違いない。
のちにカントが乗ったこの自然主義は、近代以降、それ以前の西洋の伝統的な思考法と宗教に大きな反省を迫ることになる。
これを、自己啓発のあり方へと敷衍することができるとすればどうだろう。
そもそも、「なりたい自分」とはなにか。なぜそうなりたいのか、なぜそうなるべきなのか、本当にそれを目指すべきなのか。そうなっている状態の自分が実際にどんなものなのか。これらの問いへの回答を明瞭に思い描くことはおろか、実際には各々の問いが意味するところを正確に掴むことすら難しい、雲を掴むような観念の戯れなのではないだろうか。まずもって、自分とはなにか、さっぱり分からないのである。
「目標」なぞという曖昧でなんの根も持たない概念をこねくり回すのでなく、人間本性の中に自然にあらわれてくる行動をしかと捉える。本能により近いところで自らの行動をハックする。理念への運動ではなく、人間の行動を支配する必然の自然のはからいに目を向け、その流れに身を任せてみる。
人類はそろそろ、「なりたい自分」を定義し意志することの限界を認め、それによって「自己実現」「自己啓発」の永遠の呪いから解放される必要がある。
「ばかばかしいほど小さい目標」の境地
ようやく、本書の主題までたどり着いた。
『小さな習慣』は、目標志向の自己変革というハシゴを潔く降りて、自然主義的な習慣形成を訴える数少ない本である。
目標を達成するために努力することをやめ、自分が今持っている力と、自然な性向だけを頼るという方針が、はじめから終わりまで徹底されている。
具体的な話を増やしていこう。
前述のランニングの例でいくならば、普通の継続力の本が
1日5km走る→1日1km走る→1日100m走る
と細分化するならば、本書は
1日5km走る→1日1km走る→1日100m走る→外に出る→玄関で靴を履く→ウェアを着る→服を脱ぐ→ベッドから身体を起こす→肩を浮かす
というレベルまで細分化をやり切る。そして本当に肩を浮かすことができればその日の目標は達成とみなして良いとする。30日連続で肩を浮かし続けても、ここでは成功者とみなされる。
このレベルまで到達している本は無い。
当然である。だってこんなに小さすぎることが達成できたとしても、それは普通達成とは言わない。肝心のターゲット行動の習慣化には失敗しているようにしかみえない。そしてそれを是とするばかりか自分で称賛せよとまでいう習慣化メソッドは、はたから見れば気が触れているようにしか思えない。
しかし、である。みずから念じて自分の鼻にさわることに失敗する人はほとんどいない。それは、全身全霊をかけて崇高なる意志の力を駆動させる類のものとは程遠い。動物としての本能的行動の流れにギリギリ接地した、生物としての自然な振る舞いなのである。
実際にやろうとしてみるとわかる。このレベルの細分化は、目標の量的な変化を飛び越えて、いつしかその質的な変化へと至るしきい値を決定的な仕方でまたぐ。ある段階以降では、それはもはや目標と呼ばれるものではなくなり、単なる本能的な振る舞いへと昇華されている。
既存の「スモールステップ」論に比して本書が偉大であるのは、目標を限りなく小さく分割していったその先に、意志とは切り離された自然な本性に即した振る舞いの領域を発見している点なのである。
著者が強調する「バカバカしいほど小さな目標」とは、実のところ目指すべき単一の目標として認知するまでにも至らない行動の切れっぱしと言ってよい。自分自身を源とし、自分自身が今すでに持っているリソースのみを用いて、普段の行動からのみ出てくる、完全に我が事としての習慣なのである。その点に、そしてその点にのみ、本書の理論が他を圧倒して寄せ付けない理由がある。
小さな小さな行動が、われわれの想像の遥か上を行く巨大な影響を、じわじわと、しかし確実に及ぼしていく。
筆者の体験談~習慣化ループの変転
本記事の筆者は、この原則に従いはじめてから、これまでの人生で1ミリたりとも続くことの無かった運動/トレーニング習慣をつけることに成功した。かれこれ2年ほど、ペースを崩すことなく毎日運動を継続できている。
高校の部活引退以来、幾度となく挑戦しては秒で挫けていた念願の運動習慣。もちろん健康への効用や疲れの軽減など運動自体の直接的な効果はとてもうれしいのだが、それよりなにより、日々よい習慣に注意を払い、それをこなしていけていることが心地よい。運動以外にもタスク管理とか生活のルールとかの習慣形成に成功している。
実体験として、この方法で一番大きいのは、自己否定や自己嫌悪に陥ることなくなんとか「やれている状態」に乗り続けられる点である。序盤のうちは全然手を抜きまくるし、客観的に見たら全然やれたうちに入らない内容で済ませてしまっていたりと散々な状況ではある。それでも、本書の基準に従えば継続の成功体験として積み上がり続けるのだ。そういう時間をしばらく過ごしていると、徐々にその習慣が自然な生活の1パートになってきて、心理的ハードルもどんどん下がってくる。あまりに簡単に続けられるので、3日坊主とも無縁である。
何かを習慣化する際、一度レールから外れてしまうと、その事実が「今日はできなかった」という負の感情を刺激して、それが次なる行動への意欲を阻害して、さらに負の感情が、、、といった負の価値が増幅していくフィードバックループが働きやすい構造になっている。
加えて、続けたい習慣というのは大概において、ちょっとした偶運に左右されてレールから押し出されやすい。「小雨が降ってる」「なんか膝が痛い」「用事が立て込んでいた」、そんな本当に些細なワンミスで、簡単に道をそれてしまう。
これら小さなつまづきを失敗と捉えない、なんなら失敗しうるような実的な目標そのものすら行為者の手に掴ませない。事実としての失敗から、失敗の感情をぶった切る。これが、負のフィードバックループを正のフィードバックループへと「本人のやる気」や「思考」を介すことなく転じさせる唯一の方法である。本書の凄まじさはこの部分の実践に集約される。
目標ー現状という二項対立が、ここでは見事に脱構築されている。人間に与えられた、自由に各々の目標を意志して飛んでいける翼を脱ぎ捨て、地上の動物として、あるいは、自らが単なる自動機械であるかのように。
本書がキワのキワまで行き切ってしまっているからこそ、自分が自然の原理に身を任せてなるがままになっていることが実体験として手に取るように感じられる。自分(≒自己意識)ならざる原理が自分の行動を制御している事実に接し、心中は水を打ったように穏やかでもある。
「続ける」のではない、「続く」のだ、と看取する。
なぜ万人が本書を読むべきなのか
ここで注記しておきたい。
なにも自分は、この成功体験をもってして本書を激賞しているのではない。そうでなく、海千山千のノウハウ本を読み漁ってきた経験と、うず高く積み上がってきた失敗体験の方こそが、本書をここまで強くプッシュさせる。
字面だけを追えば、本書の内容もまた、もはや読まなくてもいいと思えるほどに単純で深みがなく、世間でこすり倒されている方法のうちの一つに分類することは可能である。実のところ、本書の内容を凝集するとこの一文だけで終わりである。
「バカバカしいほど小さな目標を設定せよ」
ピエール・バイヤールの有名な『読んでいない本について堂々と語る方法』に従えば、読まずに中身を語り切ることがもっとも容易な一冊と言っていい。しかし、それでもなお、本書を要約サイトのみで済ませてしまってはいけない。
その理由のうち大きなものは、著者のメッセージ発信のしつこさに起因する。この分野で、本書ほどシンプルな原則一本槍で戦おうとする本は他になかなか無い。
丁寧に言葉を重ね、様々な角度から、上記のたった一つの原則を伝え続ける。その至極単純なメッセージが、そこそこのページ数を割きながら手を変え品を変え反復され続ける。どれほど小さくていいのか、バカバカしいとはどの程度までのものなのか、では実例は、云々。
そこが良いのだ。
これまで悠に100以上の挫折経験を持つ筋金入りの読者たち(じゃないかな?少なくとも自分はそうだと信じてる)。少し新しい方法論が出てきたってそう簡単に信じられるわけはない。それが本書のように別段新しいとも思えない方法であれば輪をかけてそうである。
そこで著者は、「いやーでも無理っしょ」「ほんとにできる??」と次から次へと湧いてくる読者の猜疑心をなんどもなんども振り払いながら、とりあえずほんの少しだけ、小さい小さい一歩目を踏み出す分だけの好奇心を生み出すことのみに腐心している。
到底信じられないという心境を徐々に動かし、ちょっとだけやってみようかなと思わせる。ちょっとダメでも、もう少しだけと思わせる。
単なる要約では、この効果はぜんぜん望めない。そのばかばかしさを、そのあまりの矮小さを、200ページにも渡って本気でプレゼンされ続けた読者のみが、呪術的な惑いのなかで、これまで信じていた背後世界のまばゆい光に背を向けて、プラトンが忌避したあの薄暗い洞窟の中へとふたたび入っていくことができる。
ここに至ってはじめて、人間はみずからの意志力への盲目的な信憑を捨て去り、おおいなる自然 φύσιςフュシス、原-秩序たるロゴスλόγοςが糸引く必然性の系列へと身を委ねる事ができるのである。
終わりに
実は、こんなに長大で大層な紹介記事を書く必要など全然なかった。
本書は、すでにAmazon上で大量のレビューと非常な高評価をもって喝采を浴びているのだ。
ふつう、「★5 良かったのでこれからやってみようと思います」とか「★2 読んだけど続きませんでした」といったレビューが入り乱れるこのジャンルにおいて、平均評価が高止まりすることはほとんどない。
そんな中で、600件のレビューと★4.5 という評価は異例の事態と言ってよい。本書が持つすさまじい力は、なかば世間に見つかってしまっている。
それでも、本書のエッセンスが、自己啓発本の常であるようななにかのコピー&ペーストではなく、たまたま運の良い著者が偶然発見した私秘的で魔術的な再現性の低い方法でもなく、あるいは経験科学の実験結果をつらつら並べただけのものでもない点は、筆を尽くして繰り返しておいて損はない。
「続けること」についての人間本性のセントラルドグマが、ここで鋭く撃ち抜かれていることの価値は高い。これに思想史的な視点での解釈も交えて様々な角度から光を当てることも無駄ではないはずである。
なにかを学ぶことを志し、もがき続けるあらゆる人にとって、本書が確固たる手すりとなることを確信している。
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