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これからの「マスク」の話をしよう~転売ヤーと正義の議論

先日記事にした『これからの「正義」の話をしよう』(以下、「本書」)をキッカケに、色々考えたことがあった。

今回のコロナ禍の中でかなり話題になった、マスクの転売ヤーについて、さまざまな正義論を駆使して考えると、どういった視点が得られるだろう。

特に以下で結論が出ているわけではないが、正義にまつわる主要な立場を概観し、具体例の中で位置づけられていればそれでひとまずは良しとした。

まず、転売ヤー側が自身を正当化する視点。本書では、この立場はリバタリアニズムという名前で登場する。個人の自由と市場原理をなによりも重んじ、そこに対する国家の介入を最低限に留めるべきという思想である。これが結構極端な立場で、例えば医師免許を持っていない医師がいたとして、患者がそれを認識し、自分で選ぶのであれば、その医師に治療を施されることを法律で禁じられるべきでない、とリバタリアンはいう。また例えば、バイクのヘルメット着用義務について、たとえ事故で死亡することになったとしても、それが個人の自由な選択の結果であるならば、法律で制限することは許容できないという。

立場上は一見極端ではあるのだけど、この枠組みはかなり使いやすいし、また正義についての明確な基準をわれわれに与えてくれる点で、優れている。そして今回の転売ヤーの行動は、それそのものを丹念に見ていくと、リバタリアン的な思想によって擁護されうる。転売行為においては、フリマアプリという取引の場があって、個人の権利として自由にそこに商品を出品し、市場原理のもとで需要と供給がバランスして値付けがなされていく。たんに活動自体を客観的に書き出すと、このこと自体にはなんら問題はないように思える。また、需給のギャップをうまく見極めてその機会を捉えることは、あらゆるビジネスの基本でもある。

「一般的な価格から著しく乖離した価格で出品することが悪」という言説がある。しかし、実際にこの責を転売ヤーに負わせ切れない部分はある。高額で購入する人が一定数存在することで、その価格が形成されているからだ。購買余力がある人が買い、価格を釣り上げ、全体として不公正な価格が形成されてしまう。富めるものだけが機会を得て、そこに参加することでさらに格差を拡大させてしまう構造が、そこにある。

また関連して、市場原理と言いながら、本当に生活に必要なものにも関わらず、一般消費者側の選択肢が極端に少なくなる状況が生まれ、高値で掴まざるを得ない点も、別の不公正と言える。販売者と消費者が対等な立場で「取引」出来ているか、という視点である。ただこれも、他の商品と比べてみると、実際今回のマスクだけが不公正といえる基準はあまりないように思える。特定の商品やサービスにどうしようもなく依存している人にとって、それを取り上げられれば困るし、そうでない人には痛くも痒くもない。タバコに重税が課されている(=消費者はそれしか選択できない)ことについて、正義が行われていない、と声高に叫ばれることは多くない。メンタルヘルスも健康の重要な一部と認められている現代において、タバコが思うように吸えないことと、マスクに高値が付けられて買えないことには、程度の差こそあれ判明な差はないと言える。

少なくとも、われわれの大半が承認・肯定してきた枠組みとしての、資本主義と自由主義の世界の中では、これを糾弾し、取り締まることはできない。

転売ヤーの正義の問題は、ここにきて、「道徳」「自由」の問題だけでなく、「格差」「公正」をも孕んだ重層的問題として現れる。すくなくとも、リバタリアン的立場の枠内において、この問題を紐解き、転売ヤーを非難するのは難しい。

本書には、もっとわかりやすい正義論も登場する。イギリスの学者ベンサム(1748-1832)が唱えた功利主義である。功利主義は、よく知られる原理「最大多数の最大幸福」を携え、社会・法制度の科学化を目指した立場であり、ある選択/制度が個々人の効用(価値の度合い)の総計に及ぼす影響を最大化するものが良い選択であると説く。快楽計算とも呼ばれるこの計算をすると、定量的にものごとの良し悪しが図れ、とても明快な結論が得られるという。

この立場がはっきりした形で現代政治に受け継がれていることはほとんど無いが、個々人の生活のなかでの選択や、社会制度設計上の趣旨などの裏側に、ひっそりと身を潜めていることはある。

功利主義に正しく準ずるには、快楽計算をどこまでちゃんとできるかがポイントである。転売ヤーが活動することで影響がある部分を、簡単に列挙してみると、
+店舗に近い/早く並んだ等の要因によらずに、マスクが確実に手に入る人がいる
+転売ヤー自身が儲かる
+フリマ事業者が儲かり、二次流通市場の発達が今後の経済発展に資する
-マスク製造業者も値付け次第では利幅が増え、マスクをよりたくさん作るようになるかもしれない
-マスク取得の平均コストが上昇する
-低所得者層にマスクが流通しづらくなる
-生活必需品一般の流通への信用低下により、ちょっとしたことで物資の買い占めが起こりやすくなる
etc...
といったことが挙げられそうである。短期的な効用だけでなく、中長期的影響まで勘案しないといけないのが快楽計算の難しいところで、これのそれぞれに点数をつけて合算したときに、プラスになれば、転売ヤーが完全に規制された状態よりも良い結果となる。が、実際にこれに点数をつけるのは相当難しそうだ。

今回の問題が、というよりも、そこまで単純でないだいたいの選択において、快楽計算は実質的にかなりラフな仮定を積み上げ続けないと進めていけないことが多く、ゆえにあまり実用的でない。こうして、功利主義は良い試みではあったが、すでに廃れているといってよい。

「道徳」「倫理」という観点ではどうだろう。本書の中では、カントとアリストテレスの正義論が、「良く生きる」ための規範を提供するものとして取り上げられている。正義をめぐる議論の中では、われわれが一番正義っぽいと思えるのはこの手の話なのではないだろうか。

しかし、転売ヤーの行動は、こうした徳義上の問題にササッと還元しきれるものではないように思える。先の通り、転売行動自体は、通常のビジネス原理(と我々が思っているもの)の枠をなんらはみ出しておらず、正しくないと指摘する事はできても、具体的にどの部分が倫理的に「悪」なのかを一刀両断することが難しい。「マスクの転売で困っている人がいる」という指摘もあろうが、現代の無数に張り巡らされたグローバル生産-流通網のなかで、いかなる商品においてもそれは同じである。その財・サービスが市場の中で成立しているとき、誰かが確実に見えない損を被っている。競合のない製品はないし、ピュアな原価以外なんの費用も乗っていない真の”消費者価格”などというものもない。

この悪は、美徳の観点だけでは、線引きして糾弾できない類のものである。実は、アリストテレスの目的論的にこの問題を捉える―「転売の、転売ヤーの目的はなにか」を考え、そこから正義/不正義を峻別する―のが実は考察としては一番おもしろいのだが、論旨がかなり込み入ってくるので割愛したい。

そして、サンデルが組するコミュニタリアニズム―コミュニティの規範に従う立場―はどうだろう。少なくとも本書の中で提示された枠組みのみだと、”コミュニティの規範”が何を指すのか具体的でなく、またどのコミュニティの感覚を適用すればいいのかよくわからない。まさかmercariユーザコミュニティの(内部化された)取引ルール、ではないだろう。何かが「悪っぽいな」と感じたとき、その感覚の出自を探ることはとても大事ではあるが、今回の事例に対しての切れ味はそこまで鋭くないように思える。問題/選択自体にも実は「コミュニティとの距離」という変数があり、この立場が合う合わないがある、個人的にはそう捉えている。

最後に、リベラリズムを紹介したい。といっても、邦訳”自由主義”としてかなり広い概念であって、前述の各立場との関係も実際のところ単純ではないし、部分的に対立しあっていながら、相互に含み合っている部分がありもする。

ただ、個人においては自由を、社会においては福祉を尊重するこの立場は、今回の問題については、一番有意義な視点を提供してくれるように思える。今回のマスク転売の問題がおおごとなのは、それが個人の「生存」の危機に一定程度関わるからだ。生活に欠かすことのできない、なくてはならない基本的なインフラとしてのマスク。ここに、今回の問題の特殊性がある。

リベラリズムの枠組みで議論する段になると、「それがないと基本的人権を満たす生活が送れないような財・サービスとはなにか」というところに話がスライドしてくる。もしマスクがそこに該当するのであれば、それを国としてどうサポートするか、という福祉orNotの線引きこそが問題になってくる。ここに至りはじめて、「なんか不公平だから」「困る人がいて悪い感じがするから」「ラクして儲けているから」といった”感じ”を超えて、「社会の福祉の阻害」という点”のみ”において、マスク転売にまつわる正義の像がなんとなく立ち上がってくる。

実際に、日本政府はどう動いたのだろう。

マスクの転売は、現に規制され、罰金等が課されることになった。昭和48年に施行された国民生活安定緊急措置法に基づき、転売禁止措置が導入されている。法律の概要を見ている。

(目的)第一条 
この法律は、物価の高騰その他の我が国経済の異常な事態に対処するため、国民生活との関連性が高い物資及び国民経済上重要な物資の価格及び需給の調整等に関する緊急措置を定め、もつて国民生活の安定と国民経済の円滑な運営を確保することを目的とする。
(この法律の運用方針)第二条 
政府は、この法律に規定する措置を講ずるに当たつては、国民の日常生活に不可欠な物資を優先的に確保するとともに、その価格の安定を図るよう努めなければならない。

ここにおいて、マスクが福祉の対象か否かが議論され、そうであると結論付けられたことになる。もちろん、この規制自体が「正しかった」かどうかも判断が難しい。

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結論だけを聞くと一見当たり前のようにも思えるが、「正義」とはなんとも捉え難く、明瞭にわかっているようで、意外とスパッと切りにくかったりする。なんとも面白く、悩ましいものであるが、こうしたことを、各自が書く局面で考え、議論していく中で社会に積み上がっていく規範がある、というのはとてもリーズナブルな考えに思えるので、そうした点から照らし返せばコミュニタリアニズムも悪くないのかもしれない。

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